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第十七話・相沢の両親

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 今まで通りの生活をしていても、どうしても頭によぎるのが両親のこと。四半世紀近く傍にいた人達のことを、そう簡単に忘れられる訳がない。無理矢理に実家を叩き出された時のことを思い出すと、胃がキリキリと痛み出す。既に記入が終わった養子縁組届を見せられ、「もう相沢の姓を名乗るな」と父からは罵倒された。
 それまではずっと、平穏な親子関係を築けているものだと、信じていたのに……。

 唯一頼れるかもと訪れた母方の祖父母宅では、「面倒なことは勘弁して欲しいのよねぇ」と玄関先で祖母から嘆かれ、苗字は貸すけど後は勝手にしてという態度を取られ、それ以上を求めることができなかった。孫としてそれなりに可愛がって貰っていたはずなのに、救いを求めた手は容赦無く振り払われた。

 貯金を切り崩しながらネットカフェやビジネスホテルを転々としている内に、何とか支援団体へと辿り着けたのは運が良かったのだと思う。もしあの時、誰からも手を貸して貰えなかったら、日増しに大きくなっていくお腹を抱えて、あの後の自分はどうしていただろうか。空気の淀んだネットカフェで、すぐ隣に他人の息遣いを感じながら寝泊まりしていたことは、今でも時折、悪夢として現れる。

 自分を追い出した両親とまた顔を合わせなければならないかと思うと、瑞希の顔が自然と強張る。伸也から相沢の家と面会の約束を取り付けたという連絡が来てから、ずっとこうだった。

 当日の朝も気乗りしないまま何とか支度を終える。迎えに来た車に大喜びで駆け寄っていく拓也の後ろを憂鬱な顔のまま乗り込んだ。ご機嫌で窓からの景色を見ている息子とは対照的に、口を結んで眉を寄せている瑞希のことを、伸也は心配そうに見守っていた。

「瑞希は無理に話さなくていいから」

 膝の上で無意識に握りしめていた手に伸也が自分の手を重ねてくる。大きな温かいぬくもりに包まれて、少しだけ緊張がほぐれた気がする。誰かに守られている安心感なんて、いつぶりの感覚だろうか。

 それでも窓の外に見える、ぶ厚い雲に覆われた暗い空のように、瑞希は重い気分を引き摺っていた。雨が降りそうで降らない、はっきりしない嫌な天気。いっそ土砂降りになってしまえば、開き直ることができるかもしれないとさえ思える。どん底まで落ちるより、中途半端な低浮上が永遠に続いていく方が辛い。

 実親との面会に用意されていたのは、誰もが知ってる老舗ホテルの一室だった。実家を訪れるのかと思っていた瑞希は、少し拍子抜けしたが、内心はホッとした。亭主関白な父が和室の上座で偉ぶる姿を覚悟していたけれど、慣れない場所なら少しは大人しくしてくれるかもしれない。

「先に入室されているようですね」
「なら、大丈夫そうだ」

 フロントで確認した秘書が、穏やかに微笑みながら報告してくる。伸也も予想通りと余裕の笑みを漏らした。警戒して先に来ているようなら、こちらのペースで話を進められる可能性が高いだろう、と。
 瑞希の顔の強張りは解れないままだったが、伸也の言ってくれた通りに、とにかく何も話そうとせず拓也の相手だけに集中していようと決める。念の為に、隣の部屋も抑えてくれているらしいので、いざという時はそちらに逃げ込むつもりでいた。

 ホテルスタッフの案内で連れられた部屋のドアを、秘書の鴨井が先立ってノックする。しばらく間を空けてから母によって開かれたドア。かなり広い室内のソファースペースには、仕事用のスーツを着た父の姿があった。2年ぶりに見た両親は、見た目こそ変わらないが、揃ってとても緊張した顔をしていた。

「お飲み物は皆様、コーヒーで宜しいでしょうか?」

 ルームサービスを頼もうと確認した鴨井に、両親は黙ったまま頷き返している。拓也の分のリンゴジュースを氷抜きで子供用カップでと注文してくれたところは、やっぱりさすがだ。

 拓也を抱いたまま伸也と並んでソファーに腰掛け、2年ぶりに両親と向き合う形となる。怖くて目を合わせられず、瑞希はバッグから車の玩具を取り出して拓也をあやすフリをする。正面切って父の顔を見てしまうと、あの時の罵声を思い出して萎縮してしまいそうだから。

 すぐに運ばれてきた飲み物をそれぞれの前に置き終えると、鴨井が膝を付いて父に向かって名刺を差し出して丁寧に名乗り始める。

「先代の社長に引き続き、こちらの安達社長の就任以降も秘書をさせていただいております」
「はぁ、ご丁寧にどうも……」

 受け取った名刺をぎこちない手付きで胸ポケットにしまった父は、こちらの出方を待っているようだった。完全に鴨井に主導権を握られているようにしか見えない。否、慣れないホテルの一室で気後れして、落ち着かないだけかもしれない。流れるように話し始める秘書のことを黙って見ているだけだった。

「本日、お二人をお呼び立ていたしましたのは、当社の社長である安達からの、拓也君の認知が完了したご報告と――」
「え?」
「瑞希の子供が、KAJIの社長の?」

 ご存じでなかったのですか? と鴨井に確認され、二人揃って首を横に振る。瑞希が何度否定しても、行方知れずの行きずりの男との子だと完全に決めつけていた。まともに交際していた相手なら、妊娠後に行方をくらますようなことはあるはずがない、と。

 今日だってKAJIコーポレーションの社長秘書から、瑞希のことで話をしたいと連絡を受けただけで、その内容は検討もつかなかった。素行の悪い娘が何をしでかしたのかと、万が一不利になる話なら絶縁した事実を突きつけるつもりでいた。

 何か言いたげな両親からの視線を感じはしたが、瑞希は頑なに横を向いて拓也の相手をし続ける。今更何を言われても、もう元の親子関係には戻ることはない。

「ゆくゆくは安達との婚姻をという話になるところなのですが、ご実家から離縁された状態では――」
「祖父母との養子縁組を解消して、籍を元に戻せということでしょうか?」
「そうです。CEOという立場から、社内外的なことを踏まえて、瑞希さんには渡米前からの婚約者という体を取っていただきたいのですが、妊娠を機に実家から離籍されたとなれば印象がかなり違ってしまいます」

 私生児の母となって家を追い出した娘が、これ以上ない玉の輿に乗りかけている。驚きのあまり、母は口元に両手を添えたまま動かない。思いがけず降って現れた大きな縁への喜びか、それとも自分達の浅はかな行いへの反省か、瑞希にはその真意を探る気は湧かなかった。

「すでに祖父母様からは離縁届にご署名は頂いております。ご両親には、こちらを提出する許可と証人欄のご署名をお願いしたいと考えております」
「はぁ……」

 差し出されたボールペンを受け取った父が、養子離縁届に躊躇いながらも自分の名を記していた。ベテラン秘書による流れるような説明も、まだ頭が追いついていかない、そんな風だったが抗う様子はまるでない。父が書き終わった後、母も少し震えた手でボールペンを取る。二人の名が証人欄に並んだ書類を確認すると、鴨井はそれを伸也へと手渡した。

「確かに。では、我々はこれで」

 書類にさっと目を通した伸也は、それを鴨井に戻してから立ち上がる。瑞希も慌てて拓也の玩具をバッグに片付けて立つと、伸也の後を追った。

「えっ、あの……」

 深々とお辞儀をしてから二人の背を追う鴨井にも、呆気に取られた父の声は聞こえていたが、誰一人として振り返ることはなかった。一度切られた縁は、そう易々とは戻らない。
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