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第二話・保育園のお迎え

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 店を出て、夜道を自転車を飛ばして到着した保育園は、しんと静まり返っていた。朝は賑やかな子供の声が響く園舎だが、この時間帯のお迎えのある園児は限定されている。
 玄関と廊下、そして一部の保育室以外は完全に消灯されている。入ってすぐ手前にある職員室ですら、非常灯と何かの機械のボタンくらいしか光を発していない。唯一まだ明るい教室を覗いてみると、先生と二人きりで積み木遊びをしている拓也の姿があった。向かい合って座っている二人の周りにはたくさんの玩具が散らばっているから、自由に思い切り遊ばせて貰っていたのがよく分かる。

「遅くなりました。ありがとうございます」
「あ、おかえりなさーい。拓也くん、ママが帰って来たよー」

 先生の台詞が終わるより早く、よちよちと歩き寄って来た拓也を瑞希はしゃがんでぎゅっと抱きしめた。朝、瑞希が着せたのとは別のTシャツを着て、また新しい寝ぐせを増やしていた息子は、園で使っているハンドソープの香りがする。

「ただいま。拓也」
「おかりー」

 この瞬間、全ての疲れが吹き飛んでいく。理不尽なクレーム対応へのストレスとか、働かない上司へのイライラとか、そういった負の感情が一瞬でどうでも良いことに思えてくる。
 これからまた自転車を漕いで家に帰り、夕食を作って子供に食べさせてお風呂に入れて、また明日の通園準備をしてというハードな試練がてんこ盛りで待ち受けていようが、子供の温もりに一旦はリセットされてしまうのが不思議だ。

 今日一日の園生活の話を先生から聞きつつ、持ち帰る荷物を手際良くまとめていく。行きと違って布団の持ち帰りが無い分、随分と楽だ。

 荷物を自転車の後ろに積んで、息子にヘルメットを装着させていると、瑞希は保育園の駐車場に停まっている1台の白色の車に気付いた。国産のセダンっぽいが、手入れが行き届いているのか車体は駐車場の外灯に照らされてピカピカに光っていた。

 ――うわ、何か高そうな車。

 車種はさっぱり分からないが、保育園の駐車場にはあまり似つかわしくはない。隅に停めてある保育士の軽自動車がかなり小さく見えてしまう。園長先生の知り合いか何かかと、それ以上は気にも留めず、瑞希が拓也を自転車に乗せようと抱っこした時、その白い車の後部座席のドアが開いた。

 思わず興味本位で振り返って、外灯で逆光になって現れたそのシルエットに、瑞希は息を飲んだ。

「……どうして」

 駐輪場に向かってゆっくりと歩を進めてくるその人は、間違いなく瑞希達に向かって近付いてくる。はっきりと表情が分かるくらい距離が無くなった瞬間、腕を伸ばして抱きしめられた。

「やっと会えた。瑞希」

 聞き覚えのある穏やかな声。短く整えられた髪やスリーピーススーツを着た姿は知らないが、その腕の温もりのことはよく知っている。子供ごと抱きしめられる体勢のまま、瑞希はもう一度先程と同じ言葉を発した。

「どうして?」

 どうして黙って消えたのか。どうして急に連絡が取れなくなったのか。どうして瑞希の居る場所を見つけたのか。どうして……。

 次々と湧き上がってくる「どうして」に続く言葉。説明して欲しいことはたくさんある。
 けれど、言葉の代わりに出たのは頬を伝う涙だけ。

「マーマ?」

 見知らぬ男に急に抱きしめられ、母親も泣いている。この理解できない状況に、まだ1才の拓也まで釣られたように泣き始めた。男は慌てて、瑞希と拓也から腕を離した。

「あ、ごめんっ。えっと……拓也?」

 瑞希にしがみついている拓也は、母の胸に顔を埋めてしゃくり上げていた。母親の制服のブラウスを小さな手で必死に握りしめる息子の姿に、冷静さを取り戻す。その幼い背を優しくトントンと叩きながら、瑞希は男を見上げた。
 2年前に急に瑞希の前から居なくなった元彼、安達伸也。彼と連絡が付かなくなってから気付いた妊娠は、その後の瑞希の人生を大きく変えた。

「一から説明してくれるかな?」
「……はい」

 再会で盛り上がったテンションを地面に叩きつけられたとばかりに、一気にシュンとした男は、瑞希達に車へ乗るように勧める。言われて大人しく乗るつもりで駐車場の方を向き掛けたが、はたと気付く。

「あ、自転車」
「そっか、じゃあ、車は先に帰ってもらうよ」

 家まで歩きながら話そうと提案してから、伸也は白のセダンの元に赴き、運転席の誰かと話しているようだった。
 その後、黒のビジネスバッグを片手に、すぐに駐輪場に戻って来た伸也は、チャイルドシートに子供を乗せた自転車を押す瑞希と並んで歩き始める。その横を通り過ぎて行く際、白い車の運転手がこちらへ向けて丁寧に頭を下げているのが見えた。

「良かったの?」
「ああ、あれは社用車だから。先に帰って貰うことにしたし、大丈夫」

 ――社用車?

 きょとんと首を傾げる瑞希の様子に、伸也は「何から話したらいいんだろ」と鼻の頭を人差し指で掻いている。
 いつもとは違うゆっくりペースの自転車の揺れが心地良かったのか、チャイルドシートに収まっていた拓也は完全に眠ってしまっていた。ベルトで身体が固定されているとは言え、自転車の振動に合わせてガクガクと揺れる頭が危なっかしい。

「へー、寝ちゃってるね」

 伸也は興味津々でシートを覗き込んでいる。そう言えば、なぜ彼が息子の名前や通っている保育園を知っていたのだろう。子供を産んで以降、共通の知り合いに会った覚えはない。

「何で、この子の名前を知ってるの?」
「調べたからね。帰国してすぐ、瑞希を探していろいろと」

 近い内に渡米するかも、そう宣言した後、気が付いた時には伸也は居なくなっていた。彼が借りていた部屋が引き払われていることを知って、慌てて携帯に電話した瑞希が聞かされたのは「お使いの電話は、お客様のご都合により……」という素っ気ない音声ガイダンスだった。

「ごめん。向こうの空港に着いてすぐ、鞄ごとスられちゃって、携帯は緊急停止するしか無かったんだよ」

 拓也を妊娠する前も今と同じキャリアショップに勤務していたから、伸也の携帯が解約された訳でないことは分かっていた。訳あって一時的に使えなくなっただけだと、すぐに復活して連絡が来るかもとアドレスから消さずに待っていた番号は、今も変わらず瑞希のスマホに記憶されている。
 何度も消そうと思ったこもとあったけれど、結局は出来なかった。裏切られたという気持ちが大きくなってからも、やっぱりどこかで信じていたのかもしれない。

「帰って来て速攻で新しいのを買い直したけど、瑞希の電話が繋がらなくてさ」
「うん、番号変えたから。ちょっといろいろあってね」
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