心の棲処

葵生りん

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 十一月の、第一火曜日の夕方だった。
 その日は寒くて、自動販売機であたたかいココアでも買おうとロビーに向かった。
 そしたらいつもは来ない日なのに、彼が待合室の椅子に座っていたから驚いた。診療時間は終わっているから他に人はいなくて、テレビも消されていて、彼だけが取り残されたみたいにぽつんと座っていた。
 慌てて髪に手櫛を通し、パジャマの上に羽織るカーディガンの襟元を整える。

(あぁもう、なんで今日新しいピンクのを着なかったんだろう!)

 今朝洗濯したけど曇空で乾ききらなかったから今は院内のコインランドリーの乾燥機の中でくるくる回っているであろうパジャマに想いを馳せる。
 パジャマと同じくらい熱風に晒されてぐるぐるしていそうな心を宥めて、できるだけ何気なく自動販売機まで歩いてちゃりちゃりと小銭を投入する。
 横目でこっそりと彼を観察してしまう。
 顔色は悪く、床の一点をじぃっと見つめて何か考えているみたいだった。
 学制服の襟の校章バッジが緑だから、2年生だということがわかる。

(容態、悪いのかな……)

 ぼんやりとボタンを押し、ガコンと缶が落ちた音で我に返り、取り出し口を探る。
 取り出し口にひっかかっている缶を取り出し――しまった、と思った。
 間違えて隣のコーヒーのボタンを押してしまったらしい。
 しかもブラック。
 お父さんが見舞いにきたときにあげるしかない。
 渋々、もう一度ちゃりんちゃりんと小銭を投入し、今度こそココアのボタンを押した。

「アキフミくん、待たせてごめんなさいね」

 事務所から出てきた看護師長が彼に声をかけた。

(名前、アキフミくんっていうんだ……)

 心臓が、躍るようにとくんと波打った。

「いえあの、マフユは、どうなんですか?」

 遠慮がちに、でも不安をめいっぱいに詰め込んだ声を聞いた途端に心臓がびくんと一際大袈裟に飛び跳ねてしまって、取り出しかけていたココアの缶を落とした。

(マフユ――女の子の名前だ)
(妹?)
(それとも……彼女……だったり、する?)

 ばくばくと心臓が暴れて、顔が火照る。

(彼女の着替えを持ってくるってないよね、妹だよね)

 そう自分に言い聞かせるけれど、指先は冷えていく。息が苦しくて、涙が滲みそう。

「あら花音ちゃん、気分悪いの?」

 一呼吸動けないでいたら、廊下を歩いてきた看護師さんに心配されてしまった。
 慌てて首を振ってココアを拾い上げ、笑顔で大丈夫ですと告げ、看護師さんが行ってしまうのを見送った。
 その間も耳は彼の掠れたような声を拾おうとしていた。

「傷はたいしたことないのよ。でも今は寝てるみたいだから、今日は面会できないかもしれないわ。明日また来たらいいわよ」

 気遣わしげな師長の言葉に、彼は首を振った。

「もう少し……待ちます」
「そうねぇ、マフユちゃんもあなたの顔を見た方が落ち着くかもしれないし、先生に確認してみるわね」

 ぽん、と彼の黒髪を撫でた看護師長は外科に続く廊下の奥に消えていく。
 残された彼は再び床をじっと見つめ始めた。
 しばらく迷ってから、彼の座っている長椅子の端っこに座ってココアの缶を開ける。
 間に二人くらい座れそうだけど今までで一番近い距離に、脈は発作を起こす寸前みたいに上がっている。
 缶コーヒーは膝に乗せて、冷えた指先がじんじんするほど熱い缶をハンカチで包んだ上から両手で包み込んでココアを啜りながら、こっそりと深呼吸。
 気づかれないようにそっと彼を盗み見る。
 彼は時々思い出したようにゆっくりと瞬きするほかは、凍えて固まってしまったみたいに身動きひとつしなかった。
 顔色は青白くて、まるで後ろに死神でも立っていそうな雰囲気を漂わせている。
 耳たぶが薄いなと、なぜかそんなことを思った。
 膝に乗せて組んだ指は荒れていて、ごつごつしていて、青白くて、とても寒そう。

「あ……あの、」

 なんともいえない気持ちにせっつかれて、私は声をかけていた。
 彼を見ることはできなかったし、あたりが静かじゃなかったら聞こえないようなすごく小さな声だったけれど。
 しん、とロビーは静まり返った。
 もし聞こえてなかったら、もう次の言葉をかけるのは諦めよう。
 というか、二度も声をかける勇気なんか絞り出せない。

(ていうか、いっそ聞こえてくれないほうがいいかも――!!)

 軽くパニックを起こしかけていたら、彼はゆっくりと顔を上げてぱちりと目を瞬かせた。
 他に人が全然いないから、彼は不思議そうに私を見た。

(うわ、どうして声かけちゃったんだろ)

 そんな後悔が去来した。
 だって、何を話そうかとか、そんなことは考えていなかったから。
 けれども目が合ってしまった。
 少し明るい茶色の虹彩が、迷子の子犬みたいに見えた。

「ええと……あ、コーヒー、飲みます? ボタン、押し間違っちゃって」

 さまよった視界に缶コーヒーが飛び込んで急いで言った。
 少し迷うように彼の視線が床に落ち、さらに慌ててしまう。

「あ、飲まなくても、あったかいから。よかったら。なんだか、寒そうに見えたから」

 返事をもらってないのに、勝手にコーヒーの缶をおもいっきり差し出してしまった。
 するとほんの少し、彼の顔に笑顔が浮かんだ。

「……ありがとう」

 そういって、彼はコーヒーを受け取った。
 わずかに触れた彼の指先はものすごく冷たかった。
 受け取ったコーヒー缶を、彼は両手で包み込んだ。
 飲む気配はなかったけれど、わずかに顔色に赤みが差したような気がする。
 気がするだけかも、希望的観測かもしれないけど。

「――入院中なの?」

 すっかり色落ちして白っぽくすらある水色のパジャマをちらりと見られ、やっぱりピンクのを着とけばよかったと思いながら小さく頷く。

「俺の妹もね、入院中なんだ」

 ぽつり、と彼は精神科に続く廊下を見つめて呟いた。
 それはなんだかひとりごとみたいに聞こえて、返事をしていいのか迷ってしまった。

「心をね、病んでる」

 すごく、くたびれている声だった。
 深夜まで仕事をして帰ってくるお父さんを思い出した。
 お父さんを履きつぶした靴下みたいだと思ったけれど、彼はそれよりももっと疲れきっているように思えた。

「うん、し……あの、私、心筋症っていう心臓の病気なの」

 知ってると言いかけてしまい、慌てて自分のことで誤魔化した。

「……取り替えなくちゃ、ちゃんと治らないんだって」

(あ、なんだか勢いで余計なことまで言っちゃた)

 そんなことを思っていたら、彼は鉛みたいに重い溜息をついた。

「……心って、どこにあるのかな……」

 びくりと跳ねた心臓がそのまま止まるかと思った。
 それは、私が時々考えているのと同じ疑問だったから。
 ついまじまじと彼を見てしまう。
 彼は相変わらず廊下の奥を見つめ続けている。

「だってそれがわかれば、例えば心臓だったら、それを取り替えるとかしてあんな病気、簡単に治せるんじゃないのかな、とか……さ」

 彼は頭痛を堪えるように頭を抱えて呻き、私の胸の中は木枯らしが吹いたみたいに思えた。
 雑巾絞りされたみたいにきゅうっと胸が痛んで涙がこぼれそうになるのを、奥歯を噛みしめて堪える。

「あのさ。心を取り替えちゃったら、妹さんじゃなくなっちゃうんじゃないの?」

 彼は、なにかに弾かれたみたいに突然私を見た。
 今、いることに気づいたみたいにも見えた。

「取り替えるって、今のは用済みって捨てるってことだよ。妹さんの心はさ、欠陥があるからって捨ててもいいの?それなら……それなら欠陥の心臓と一緒に、私の心も捨てられちゃうのかな?」

 くるりと瞠った目が潤んだように思った瞬間には、再び俯いて片手で目を覆った。

「あぁ、うん。ごめん。俺……何、言ってるんだろう。そんなつもりじゃなかったんだけど……」

 憔悴しきって掠れた声が濡れているのが痛々しかった。
 私も胸が痛かったけど、それでもその姿はきついことを言ってしまったと後悔するほど痛々しかった。
 あの背中をさすってあげたいと、思った。
 でもそんなことできなくて、ただ無言で持っていたハンカチを差し出した。

「……ごめん、ありがとう」

 それに気づいた彼は、顔を上げないままハンカチを受け取って、何かを堪えるように強く握りしめた。
 右手にハンカチを握りしめ、左手は目元に手を添える。
 息を止めようとしているように見えた。
 押し殺した息がつっかえながら吐き出され、背中が揺れる。
 ぽたり、と涙がハンカチの上に落ちて吸い込まれていく。

(えぇと……)

 男子が泣いてるところに居合わせたことないし、どうしたらいいのかわからない。
 いたらいけない気がするけど、立ち去るのもどうなのか。
 かといってなんて声かけたらいいのか――

「……おにいちゃん……」

 途方に暮れていたら、ふっと弱々しい声が聞こえて、アキフミ君は顔を上げる。
 思わず私も外科に続く廊下のほうを見た。
 看護師長に伴われているのは、色白の小柄な女の子だった。
 マフユってきっと真冬と書くんだろうな、と思った。
 すごく似合う名前だと思う。
 肌が雪みたいで、白いワンピース型のネグリジェにアキフミ君と同じ黒髪がとてもよく映える。
 文化祭とかで白雪姫の劇をするなら、この子以上の適役なんかいないと満場一致で決まるに違いない。

「よかった。アキフミ君、まだ残っていてくれたのね。先生が外科の処置はもうないから、病棟に戻りなさいって。もしまだ待っててくれたら会えるかもって言ったら、すぐに行くって聞かなくてね」
「マフユ!」

 師長が説明する間にも、彼は駆け寄って少女を抱きしめた。

「……おにいちゃん、ごめんなさい……」

 泣き濡れて掠れた声で、少女はそれに答えた。
 アキフミ君の背中に回された少女の腕には、広範囲にわたって包帯が巻かれていた。

「マフユ……もう、こんなことしないって約束したじゃないか」
「ごめんなさい……ごめんなさい……自分でもどうしたらいいのか、わかんなくなっちゃったんだ……」

 抱き合って泣く兄妹の姿は、私の足下が流氷でできていて、少しずつ溶けていくみたいにじりじりと居場所がなくなっていく気分にさせられる。

「花音ちゃん? ここは冷えるから早く部屋に帰らなきゃダメじゃないの」

 師長が兄妹をちらりと見ながら咎めた。

「はーい」

 それはむしろ助け船だったから、そそくさと椅子を立ち、ココアの空き缶を自動販売機横のゴミ箱に放り込んで歩きだした。


 廊下の角を曲がるとき、最後にちらりと振り返ってみた。
 兄妹は師長に促されて既にいなくなっていて、長椅子の上に缶コーヒーだけがぽつんと残っていた。

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