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この恋は突然に
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自分の不運続きは嫌になる。
テストを受ければ終了5分前に解答がズレてることに気づいたり、傘を忘れた時に限って大雨が降ったり、鳩の糞は何回頭上に落ちてきたか数えるのを辞めてしまったぐらいだ。
他にもタイミングが悪かったり、ついうっかりをやらかしてしまったりと忘れてしまいたいことなど山のようにあった。
そういえばあの時も不運だった。
が、それが後にこんな事になるなんて思いもしなかった。
友達の春香(はるか)とパリに来ていた瑠璃(るり)はセーヌ川のクルージングを楽しんでいた。
キラキラと光る海と街並みに心を奪われていた。
「本当に綺麗ねー」
春香がデッキから乗り出しがちになりながら言う。
春香の茶色い長い髪が海風に揺られていた。
「そうだねー。来てよかったー」
瑠璃はカクテルグラスを片手に、のんびりと答える。
思い返せばパリに来てから、特に不幸な出来事が起きてなかった。
このまま最後の予定だったクルージングも無事に終わりそう。
そんなことを考えていると、遠くから怒鳴り声が聞こえてきた。
「え?なんだろう…?」
「さぁ…?」
瑠璃と春香は顔を見合せた。
どうやら、スーツ姿の男性がフランス語で怒鳴り散らしていた。
それを宥めるように周りの人達が必死に声をかけていた。
「喧嘩とか?」
「多分…」
そんな話をしていると、怒鳴り散らしいた男性がこちらへ向かってきた。
瑠璃とドンとぶつかり、持っていたシャンパングラスの中のシャンパンがストールにかかってしまった。
「ああ…」
(もう最悪…)
ここに来てから初めて、不幸なことがおきてしまった。
「瑠璃!大丈夫?」
「う、うん…」
瑠璃はストールを肩からかけるのをやめて、手で持った。
「すみません、大丈夫でしたか?」
と、凛とした声で日本語を話す聞こえた。
振り返ると芸能人ばりの美形の男性がスーツを着て、ハンカチをこちらに差し出していた。
(うわ、かっこいい人…)
180センチ近くある身長に、切れ長の目。
整った目鼻立ち、形のいい輪郭、綺麗にカットされた眉。
「あ、はい…大丈夫です」
と答えると、男性はハンカチと小さなメモを渡してきた。
「これ、俺の連絡先です。」
「え!はい」
瑠璃はそっと受け取る。
「何かあったらこちらまで、それでは」
と、足早に去っていった。
「ちょっと~、なにさっきのイケメンは…って連絡先教えてもらったの?」
「う、うん…」
瑠璃は困ったような顔をして、春香をみた。
「日本帰ったら連絡しちゃいなよー。あんなイケメンとお近ずきになれるかも」
「あはは、そうだね…」
こうして2人はパリを後にした。
「あーやっと帰ってきたー」
日本に帰国し、瑠璃が借りているアパートへ着いた。
「明日からまた仕事かー。よし、頑張るぞ」
なんて言いながらスーツケースを開け、荷物の整頓をしていた。
「これは洗濯して、こっちは明日職場で配るクッキーだから置いておいて…」
などと仕分けているうちに
「あ」
男性の連絡先がかかれた、メモとハンカチが出てきた。
よくハンカチを見てみると、真っ白な布地に有名高級ブランドのロゴが刺繍してあった。
「このハンカチってPINKYCAT(ピンキーキャット)のじゃん。かなりの値段するんじゃ…」
このまま貰っておくのは良くない気がするし、かといってハンカチひとつのためにわざわざ連絡するのもどうかと思った。
「うーん、どうしよう…」
そもそも彼はまだパリにいるかもしれないし、元々パリの人なのかもしれない。
「でも流暢に日本語話してたしなー」
どうしようかと考えているうちに、もう時刻は23時を過ぎようとしていた。
「いけない、明日から仕事なのに」
瑠璃はメモとハンカチをテーブルの上に置き、慌てて他の荷物も片付ける。
浴室へ向かいお風呂の栓を閉めると、お風呂を沸かすスイッチを押した。
そして次の日。
「おはようございまーす」
と、瑠璃は職場の人達に挨拶をした。
瑠璃が務めているのは総員5人ほどの個人病院だ。
そこで医療事務の仕事をしている。
「おはよう、浅田(あさだ)。今日は鳩の糞が落ちてこなかったか?」
真っ先に挨拶をしてくれたのはここの医院長である、渡辺智也(わたなべともや)からだった。
元々彼の父親が医院長をしていた。
3年程前に彼が病院を引き継ぐこととなった。
まだ30代半ばだが、腕がよく、評判の名医となっていた。
そしてなによりモデル顔負けの容姿をしているため、そういう意味でも人気だった。
「そんな毎日落ちてきませんよ…」
瑠璃は呆れ気味に答える。
確かに以前は何回か、出勤中に鳩の糞が落ちてきたことはあった。
その時は職場へ着いたと同時に家に帰らせてもらったものだ。
「はは。そうだ、パリ旅行楽しかったか?」
「はい!あ、これお土産です」
と、クッキーが入った箱を渡す。
「悪いな。皆で食べるとするよ」
「ぜひぜひ~」
瑠璃は制服に着替えるために更衣室へ向かった。
ほかの社員は40代後半の女性ばかりで、患者も内科なのもあってかお年寄りや子供が多く、出会いなんてなかった。
帰り道。
時刻は18時半を過ぎていた。
季節はもう時期11月。
日が落ちるのが早くなっていた。
(帰ったら何しようかなー)
なんて呑気に考えていると、目の前を歩いていた男性が突然倒れた。
「あの、大丈夫ですか?」
瑠璃はしゃがんで男性の体を擦る。
年齢は70代ぐらいだろうか。
色までは分からないが、上等そうな着物を着ていた。
「うっ…ゲホゲホ…」
咳をしているし、鼓動も荒い。
「私の職場、内科医なんです。すぐにそちらにお連れしますね」
おぶって行こうと思ったが、さすがに無理があったのでタクシーで職場まで向かった。
職場へ着いた瑠璃は医院長に事情を話し、ベッドへ老人を寝かせた。
老人はしばらく眠っていたが、数十分後目を覚ました。
「あ、お目覚めですか」
老人のそばに居た瑠璃は声をかける。
「君は…?ここは一体…」
老人は瑠璃の顔を見て、周りをキョロキョロと見回す。
「歩いていたら突然目の前で倒れたので、職場の病院にお連れしました」
「いやー、助かったよ。ワシは少々器官が弱くてのー。急に発作が起きることがあるんじゃが、君は命の恩人だ」
老人はぺこりと頭を下げる。
「そんな大袈裟です…でも大事に至らなくてよかったです」
「今度お礼をしたい」
老人は真っ直ぐに瑠璃を見つめる。
「いえいえ、お気になさらず…」
「いやいや、そういわずに…」
と瑠璃は連絡先が書かれた紙を貰った。
それから二言三言、医院長と話すと
「また連絡してくれたまえ」
老人はタクシーに乗って帰って行った。
(私もアパートへ帰るか)
瑠璃は再び帰路へ向かった。
「はぁー疲れたー」
と瑠璃はベッドへダイブした。
今日は5日ぶりの出勤だったり、老人を病院へ連れて行ったりと色々あった。
「それにしても…」
瑠璃は先程貰ったメモを見た。
「また連絡先貰っちゃったよ…どうしよう…」
今回の件は連絡した方がいいのかもしれない。
そんなことを考えているうちに2週間の時が流れた。
「浅田さん。藤堂さんって方からお電話なんだけども」
「え?」
いつものように医療事務の仕事をしていると、職場の先輩である相川真由子(あいかわまゆこ)に声をかけられた。
「いえ…そんな方、知り合いじゃないです…」
「あらそうなの?でも藤堂さんったら、ここで働いている20代半ばぐらいの女性と電話がしたいって言ってきて。それって浅田さんしかいないじゃない?」
「ああ、確かに…とりあえず電話代わります」
(誰だろう…)
瑠璃は受話器を受け取る。
「はい、浅田ですが…」
「おお、あの時の声だ。いやー、先日は助けて貰ってありがとう」
声を聞いてこちらもピンときた。
「あ、もしかして以前私がここへ連れてきた…」
「ああ、そういえば名乗っておらんかったの。藤堂総一郎(とうどうそういちろう)と申します。お嬢さんの名前は?」
「浅田瑠璃です」
「浅田さん、早速だが先日のお礼がしたい。空いている日付を教えてもらえないだろうか」
「そんな、お礼だなんて…私はたまたま目の前を歩いてた方が倒れたので、病院へお連れしたまでですから」
「いやいや、それほどのことをして貰ったのだからぜひお礼をさせて頂きたい。全員が全員できることではないことをあなたはしてくれたのだから」
そう言われると悪い気がしなかった。
「で、では来週の日曜日の12時頃に」
「待ち合わせはそちらの病院の前でいいかね?」
「はい、ありがとうございます」
「それではまた」
と、電話が切られた。
そして約束の日。
瑠璃は仕事は休みだが、待ち合わせ場所の職場へ来ていた。
どんな格好をしていったらいいのか分からなかったので無難に白いカーディガンに、黒のワンピースにパンプスを履いて待っていた。
時刻は11時55分。
そろそろ待ち合わせの時間になる。
と、目の前を1台の高級車が止まった。
運転席の窓が開く。
「浅田瑠璃さんでお間違えないでしょうか?」
凛とした声を聞いて瑠璃は固まってしまった。
(あの時パリで出会った人だ…)
パリで連絡先を教えてくれた人だった。
「え、あ、はい…」
「あれ?あなたはあの時の…」
向こうもこちらを覚えているようだ。
「はい、お、お久しぶりです…」
瑠璃は深々と頭を下げる。
「なんだ、孝太郎(こうたろう)、知り合いだったのか」
後部座席から総一郎の声が聞こえる。
「ああ、父さん。パリで出会ったんだよ」
(父さん…!まさか親子だったなんて)
「そいつはすごい偶然だ。まあまあ浅田さん、とりあえず車に乗って乗って」
瑠璃は遠慮がちに助手席へと座り、シートベルトをつけた。
「それでは出発しますね」
孝太郎は優しげな声で言うとアクセルを踏んだ。
「えっ、孝太郎さんって外交官なんですか?」
「ええ、まあ」
藤堂呼びだと紛らわしいからと、総一郎の提案で下の名前で呼ぶことになったが、男性を下の名前で呼ぶことなんて滅多になく少し緊張してしまう。
孝太郎の運転で着いた場所は、高級フランス料理の店だった。
困惑してる瑠璃を他所に、2人は慣れた様子で店員に話しかけてるのを見た時は「この2人は別世界の人なんだ」と確信した。
「じゃあ、あの時はお仕事でパリに来てたんですか?」
「はい」
孝太郎は上品な手つきでナイフとフォークを使って食事している。
「そうだったんですね」
「浅田さんも仕事で来ていたんですか?」
「いえ、私は単に友人と旅行で」
「なるほど」
などと話をしていると
「ところで、浅田さん。孝太郎のことどう思うかね」
と総一郎が声をかけてきた。
「え?えっと…」
(いきなりどうって言われても…)
「父さん、ここではその話はやめてください」
孝太郎が鋭い視線を総一郎に向けている。
「いいではないか、孝太郎。そろそろ身を固めたらどうだね」
「え、孝太郎さんって独身なんですか?」
こんなイケメン外交官が売れ残ってるなんて信じられなかった。
「はい。父は俺に結婚の話ばかりもってきて、うんざりしてるんです」
と肩を竦めた。
「なるほど…それは大変そうですね…」
「ワシは浅田さんと孝太郎、お似合いだと思うんだがなー。なによりワシの命の恩人でもあるし、しかも1度パリで出会ってるなんて運命的ではないかね」
「あはは…」
瑠璃は愛想笑いをする。
「父さん、浅田さんを困らせないでください。もうこの話はなしにしましょう」
「うーむ、だがな孝太郎…」
「父さん!」
孝太郎は机を両手で叩いた。
物凄い騒音がレストランに響いた。
「…」
「…」
「…」
周りの視線が一斉に孝太郎に集まる。
「まあまあ、今日はこのあたりで…」
瑠璃が宥めるように言う。
「ところで孝太郎さん…」
総一郎はそれから一言も話すことはなく、孝太郎と瑠璃は当たり障りない会話をしていた。
「わざわざ家まで送っていただいてありがとうございました」
瑠璃の借りているアパートの前に車が着いた。
「いや、こちらこそありがとう。お礼になったかね」
「はい、寧ろこちらがお礼しなきゃならないくらいです」
十分すぎるもてなしをされた。
「それならよかった。孝太郎のこともよろしく頼むよ」
「えっと…それは…」
「父さん、いい加減にしてください」
と、孝太郎は仏頂面で反抗する。
「いやいや、さっきから話してるのを見てると本当にお似合いの2人だと思うんだがなー」
「ゴホン、その話はもう終わりしましょ。それでは浅田さん、おやすみなさい」
「おやすみなさい…」
そう言うと孝太郎たちを乗せた車が動き出した。
「はぁ…」
瑠璃はため息混じりに玄関の電気をつける。
「結婚だなんて…」
いきなり話が急すぎた。
確かにパリで会った男性と再開したり、具合いが悪い人を助けたと思ったらそれがその人の父親だったなんて。
「よく出来すぎている…?」
靴を脱ぎながらそんなことを考える。
「まあ、外交官と私が結婚なんてありえないか」
脱いだ靴を揃えると、部屋の電気をつけて、玄関の電気を消した。
「あ、そういえば」
机の上に置きっぱなしになっていた、孝太郎から貰ったメモとハンカチのことをすっかり忘れていた。
「どうしよう…」
次会う機会なんてあるだろうか?
それともこのまま貰ってしまおうか。
「うーん…そうだ春香に相談してみよう」
瑠璃はスマホを片手に春香宛に「来週暇?」と連絡を入れた。
そして、来週。
瑠璃は春香とカフェでお茶をしていた。
「あーあー、いい出会いないかなー」
春香はストレートティーが入ったカップを片手にそんなことをぼんやり言う。
「出会いねー。私もないやー」
家と職場の往復だけの毎日で、そんな出会いなんて全くなかった。
「もうマッチングアプリとか使うしかないかも」
「あはは、確かにー」
もうお互い今年で27になる。
そろそろ結婚云々を本格的に考える時期だ。
「って、瑠璃はあの時のイケメンはどうなったの?」
「あーそれがさぁ。この前偶然助けたおじいちゃんがその人の父親でさー」
「ええー!なにそれー」
「すごい偶然でしょ」
瑠璃は得意げに言う。
「お近ずきになれた?」
「いやいや、全然。しかもその人、外交官みたいなの」
「イケメン外交官とか最高じゃん」
「そんな人と私が釣り合うわけないじゃん」
「まあ確かに、外交官ならもっといい出会いとか沢山ありそうだしね」
「そうそう」
瑠璃はコーヒーを1口飲んだ。
「でもだからって諦めるのは良くないんじゃない?」
「別にそんなに狙ってるわけじゃ…」
「もう、そんなこと言ってたらこのままずっと彼氏できないよ。いいのそれで?」
「よく、ないです…」
瑠璃は春香の圧に押され気味になった。
「そういえばハンカチは返したの?」
「ま、まだ…」
瑠璃は首を振った。
「ハンカチ返したいので~みたいな感じで連絡してみたら?」
「うーん。そうだね、してみるよ」
まだ少し躊躇いがあるが、春香に背中を押された瑠璃は今夜連絡してみることにした。
そして、夜。
夜やるルーティンを早めに終えた瑠璃は、テーブルにスマホと連絡先が書かれた紙を置いて、正座をしていた。
「よし…」
時刻は20時を少し過ぎた頃。
瑠璃は意を決して、連絡先が書かれた紙の番号をスマホに打った。
「はい」
孝太郎はワンコールで電話に出てくれた。
「あ、あの先日お会いした浅田瑠璃です」
心臓がドクドクいっている。
思わずスマホを持つ手に力が入る
「ああ、浅田さん。どうかされましたか?」
孝太郎はそんな瑠璃とは対照的にとても冷静だった。
「パリでお借りしたハンカチをお返ししたくって」
「そんなのわざわざ返さなくて結構ですよ。貰ってください」
「で、でもこんな高級ブランドのハンカチ、貰えないです…」
「いえ、お気になさらず」
「そういうわけには…」
「わかりました。では今度の日曜日に以前父と行った店に12時に。また病院まで迎えに行きます」
「は、はい。ありがとうございます…」
「それでは。また」
「はい。また」
少ししつこくし過ぎてしまっただろうか。
いや、これぐらいしつこいぐらいじゃないと外交官とはお近ずきになれないはずだ。
「うんうん、そうに違いない」
瑠璃は自分にそう言い聞かせると、ベッドへもぐった。
こうして今度の日曜日になった。
はりきりすぎて約束の時間30分前に着いてしまった。
瑠璃は以前よりもずっとオシャレをして、渉が来るのを待っていた。
(ヘアメイクもいつもよりも時間かけたし、大丈夫なはず…)
腕時計をチラチラ、スマホをチラチラしているうちに目の前に高級車が止まった。
運転席の窓が開き、孝太郎が声をかけてきた。
「浅田さん、お待たせしました」
「いえ、私も着いたところなので」
と、言うと助手席に座り、シートベルトをする。
「それでは向かいますか」
「はい」
「これ以前にお借りしたハンカチです。本当にあの時はありがとうございました」
レストランに着いた瑠璃は、借りていたハンカチを机に置いた。
「こちらこそ、ハンカチひとつの為にわざわざありがとうございます」
孝太郎は机の上に置かれたハンカチを受け取る。
「いえいえそんな、私の方こそ…」
瑠璃は椅子に座ったまま、頭を下げる。
なんて頭を下げていたら料理が運ばれてきた。
「うわー、今回の料理も美味しそう…」
瑠璃はスマホを片手に子供のようにはしゃぐ。
以前は総一郎がいて中々こういうことが出来なかったため、今回はだいぶ肩の荷をおろして食事が楽しめそうだった。
そんな姿を孝太郎はじっと見つめていたことに、瑠璃は気が付かなかった。
「それではいただきましょうか」
「はい、いただきます」
瑠璃は丁寧に手を合わせてから、ナイフとフォークを持つ。
「以前も思ったのですが、浅田さんはマナーがしっかりしてる方ですね」
「え?」
「手を合わせて、いただきますをする人って珍しいと思いますよ。しかも、わざわざハンカチを返したいだなんて言ってくる人も」
「そ、そうでしょうか…」
「はい、いいですね。そういうの」
瑠璃は一気に恥ずかしくなってきた。
(子供っぽいって思われたかな…)
どうしよう…
瑠璃はなにか話題がないかと頭をフル回転させる。
「そ、そういえば、あの時パリで怒鳴っていた男性は一体なにに怒っていたんですか?」
なんて突拍子もない話題しか出てこなかった。
「ああ、あれですか…」
孝太郎は少し怪訝そうな顔をした。
(聞いちゃまずかったかな)
自分のデリカシーのなさに反省する。
「実は自分の娘を嫁にどうかね。なんて言われたんです。それを断ったら激怒されてしまって…」
「ええ…そんなことが…」
日本にいたら父から言われ、海外へ行っても周りから言われるなんて。
「もううんざりしますよ。周りの結婚しろ攻撃には」
「あはは…孝太郎さんは結婚願望はないんですか?」
少し踏み入った話をしてしまったかもしれない。
が、孝太郎は特に気にすることも無く
「ないですかね。女性にこう言うのも失礼ですが、心から信じることが出来なくって…」
孝太郎は苦虫を噛み潰したような顔をする。
「ああ、なるほど…」
きっと外交官にでもなれば、お金目当てだったりで今までろくでもない女性からアタックされまくりなんだろう。
(そういう私も人のこと言えないか…っていやいや別に私はハンカチを返しに来ただけで、そんなお近ずきになろうなんて考えは…)
全くないとは言いきれなかった。
こうして、食事会も終わり瑠璃はまたアパートへ送って貰うことになった。
「毎回送っていただいてすみません…」
「これくらいのことはさせてください」
孝太郎はにこやかに答える。
(今回はやっとハンカチも渡せたし、これで会うのは最後だろうな…)
そんなことを考えていると
「あれ?サイレンの音?」
瑠璃にはウーと小さく聞こえた。
「ホントだ、北西の方から聞こえますね」
どうやら孝太郎にも聞こえたようだ。
「北西…」
ここから北西というと、瑠璃が借りてるアパートのあたりだ。
嫌な予感がした。
「…さん、浅田さん?」
「は、はい!」
「どうかしましたか、様子が変ですよ」
孝太郎はこちらを心配げに見つめる。
「い、いえ大丈夫です」
「ならいいですが…あ、煙臭くなってきましたね」
と孝太郎は換気のために少し開けていた窓を閉めた。
次の曲がり角を曲がったら、瑠璃の借りているアパートだ。
どうか杞憂に終わってくれ。
そう願って車は曲がり角を曲がると
「え?…」
瑠璃の借りてるアパートが燃えていた。
「う、そでしょ…」
「家事の場所って瑠璃さんの借りてるアパートなんですか?」
「は、はい…」
瑠璃は弱々しく答える。
「今日からネカフェとかで泊まらないといけないのかな…はは…」
思考が追いつかない。
アパートに引っ越してから約5年。
初任給で買った思い出の品や、母から送られてきたもの、今回のパリ旅行で買ったもの-
全てが燃えてしまっている。
ここまでくると1周回って面白くなってきた。
「もしよかったらなんですけど、俺の家に泊まりますか?」
「えっ!」
瑠璃は思ってもなかった提案に戸惑う。
「部屋余ってるし、客室もあるのでお気になさらず」
「でも…」
瑠璃は孝太郎の端正な顔と、燃えている自宅を見比べた。
確かに今夜から不自由なネットカフェ生活をおくるよりは、民家で身の回りのものを揃えながら次のアパートを見つければいい。
「じゃあ、お言葉に甘えて…」
「構いませんよ。では向かいますか」
「よろしくお願いします」
こうして孝太郎の住んでいる家?に来た瑠璃だったが
(な、なにこの豪邸は…)
最初に案内された時は、どこかの旅館にでも連れていかれたかと思ったほどだ。
2メートルはある塀に囲まれた、上から見るとコの字型をした建物。
(お坊ちゃまで、外交官ってこの人どんだけすごいの)
「す、すごい豪邸ですね…」
瑠璃は遠慮がちにいう。
「そうですか?普通ですよ」
(いや、普通って…)
孝太郎は何食わぬ顔をして、車を車庫に入れる。
車庫には別の高級車が並んでいた。
「あ、あの私、日用雑貨を買いに行きたいんですけど、近くにお店ってありますか?」
「ああ、心配ありませんよ。全て部屋にあるものを自由に使ってください」
「え?」
孝太郎はそう言うと車から降りる。
瑠璃も続けて車から降りた。
ガチャと車の鍵がしまった音がしたと同時に
「おかえりなさいませ」
と50代ほどの女性が声をかけてきた。
「ああ、高橋(たかはし)さん、この方を今日から暫く家に置いて貰えないだろうか」
お手伝いさんか何かだろうか。
まとめられた黒髪が艶やかな小柄な女性だった。
「まあ!かしこまりました。ではこちらに」
とどこか嬉しそうに言う。
瑠璃は女性の側へ駆け寄る。
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
高橋は優しげな声で聞いてきた。
「浅田瑠璃と言います。あの、よろしくお願いします」
瑠璃は頭を下げる。
「浅田様でございますね。かしこまりました。それではお部屋へ案内します」
歩き出した高橋に瑠璃は着いて行った。
「こちらがお部屋になります」
と、高橋に案内された部屋はとんでもなかった。
10畳ほどの広さがある部屋には綺麗な畳が、事前に敷かれてあった布団は見るからにふかふかそうだし、寝巻まで置いてある。
鏡台や箪笥など生活するには困らない程度の家具も置かれていた。
「こんな綺麗な部屋に泊まってもいいんですか?」
瑠璃は困惑を隠せないまま、高橋に聞く。
「お好きにお使いくださいませ。なにかありましたら、私の方まで。ところで…」
高橋は瑠璃との距離を詰める。
「な、な、なんでしょうか…?」
瑠璃は詰められた距離の分、後ろへと下がる。
「浅田様は孝太郎様の恋人でしょうか?」
目をキラキラさせて聞いてきた。
「え、そんな違います」
瑠璃は慌てて訂正する。
「まあ、そうですか…孝太郎様が女性をお連れしたのは今回が初めてですので、遂に恋人をお連れしたのかとばかり…」
高橋はがっくりと肩を落とす。
「すみません、そういうわけじゃなくって…」
なにやらこちらまで申し訳なくなってきて、瑠璃も肩を落とす。
「いえいえ、構いませんよ。それではまた」
と高橋は襖を閉めて出ていった。
(今まで1度も女性を連れてきたことがないのか…)
ここまで来ると相当な女性嫌い、女性に対してのトラウマが強いように感じた。
(せっかくお近ずきになれたのにな…)
と、コンコンコンと襖をノックする音がした。
「は、はい」
瑠璃は姿勢を正す。
「失礼します」
襖を開けてその場で正座をしたのは孝太郎だった。
「浅田さん、部屋はどうですか?」
「とても素敵です…こんな素敵な部屋に泊まってもいいのでしょうか?」
瑠璃は高橋に言ったことを、もう一度孝太郎に言う。
「素敵だなんてとんでもないです。ただの客室ですので、くつろいでください。必要なものがありましたら高橋に言ってください」
「わかりました」
「そうだ、以前俺に連絡をくれた番号は浅田さんの携帯番号で間違えないでしょうか?」
「はい、私の携帯番号です」
「了解しました。それではまた、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
襖が閉められた。
「ふぅ…」
瑠璃は1度大きく深呼吸をした。
今日は本当に色々あった。
ハンカチを返せて、自宅が燃えて、もう会うことも無いだろうと思ってた人の家に置いてもらうことになって…
「もういいや今日は休もう」
瑠璃はさらに部屋を見回した。
まだ開けてない扉がいくつかあり、順番に開けると、浴室とトイレだった。
更に洗面台にはよくあるホテルのアメニティのようなものや化粧水、乳液なども置いてあった。
「すごい…こんなに揃っていたら本当に買い出しに行かなくても済む…」
尚更このままお世話になるのが申し訳なくなった。
「そうだ」
明日から家事などの雑用をできる限り手伝おう。
「明日も仕事だし、早く起きないとな」
瑠璃はシャワーを浴び、置いてあった寝巻に着替え、アメニティを袋から出し、一通り普段のケアを終えると布団に入って眠りについた。
そして次の日。
起きた時刻は7時40分。
あんなに早く起きないとなと意気込んでいたいのに、盛大に寝坊してしまった。
が、「うわーどうしよう」
瑠璃は何よりもメイク道具一式や着替えがないことに気がついた。
箪笥を開けてみると、見るからに上質な着物と足袋が山ほどはいっているだけで洋服は1つもなかった。
「スッピンは流石にまずいし…かといってメイクしようにも道具なんて何にもないし」
寝癖をドライヤーで直しながら、あれやこれやと考えているうちに
「おはようございます、浅田様」
正座をして上品に頭を下げる、高橋の姿が鏡越しに見えた。
瑠璃はドライヤーをかけるのをやめると、こちらもその場で正座して
「お、おはようございます」
顔を見られないように素早く頭を下げた。
「お化粧品がおいてなかったと思われたので、持って参りました」
「ホントですか?!助かります」
「あとはお着替えと靴も」
「え!嘘…ありがとうございます」
と、ここでようやく顔を上げると高橋と目が合った。
「…!浅田様、スッピンの方がお綺麗ですよ」
「いやいや、それはさすがに…」
瑠璃は自分がメイクが苦手なのを自覚していた。
かといって、毎回数万円分を顔に塗っているのに何も塗ってない方が綺麗と言われるのは中々ショックだった。
「本当ですよ。さあ、身なりを整え下さいませ。孝太郎様がお待ちですよ」
「孝太郎さんが?」
瑠璃が聞き返すと
「職場まで送ってくださるそうですよ」
「ええ?!」
それはいくらなんでも申し訳ない。
「いえ、私1人で行けます」
「そう仰らずに。沢山甘えてくださいませ」
ふふふと、高崎はどこか嬉しそうに答える。
「それでは」
と襖を閉めて出ていってしまった。
「と、とりあえず早く準備しないとな」
瑠璃は持ってきてもらった化粧品一式を確認すると、どれもこれもデパートで売ってるものだった。
「もしかして昨日大至急買ってきてくれたのかな?」
とアイシャドウパレットをみると。
「うわー、普段私が絶対使わない色だ…」
いつもはイエローやオレンジなどはっきりとした色のアイシャドウを使っていたが、パレットに入ってた色はラベンダーやブルー、グレーなど淡い色だった。
こればかりは仕方がない。
自分を納得させてアイシャドウを目元にのせると
「あれ?」
なんだか普段よりも肌馴染みがいい気がした。
「流石はデパコス」
と関心しながらメイクをしていくと
「出来た…」
そこにはいつもよりも格段に垢抜けた自分が映ってた。
ふわふわの眉毛に、普段の倍はくるんとした睫毛が彩るのはいつもよりも大きな瞳。
ハイライトの艶も素晴らしく、肌が数段階綺麗に見えた。
「すごいすごい~。これがデパコスの力か~」
感動して鏡をみる。
「って、見惚れてる場合じゃなかった」
今度は渡された洋服の方を見てみると
「わ~」
全て借りたハンカチと同じブランド、PINKYCATのものだった。
「これって、スカートだけで2、3万はするんじゃ…」
確か以前デパートで立ち寄った際、値札にはどれもこれも数万円と書いてあった。
「まさかここの服を着る機会がくるとは…」
瑠璃は袖を通す度に心の中で(ありがとうございます。ありがとうございます…)と感謝していた。
そして、着替えが完了した。
「うっわ~、本当に私なの?」
鏡に映った自分はいつもよりも洗練された、どこか近寄り難い印象すら与える女性へなっていた。
全て自分で行ったのに、まるでプロのスタイリストにおまかせしたかのような仕上がりだった。
いつまでも鏡を見ていたいが、そうしてもいられない。
瑠璃は用意されたパンプスを持って、襖を開け、早歩きで玄関へと向かった。
「お待たせしました」
瑠璃は軽く頭を下げながら、孝太郎の車へ乗り込む。
「気にしないでください。ああ、やっぱり浅田さんにはそういう色のアイシャドウがよく似合いますね」
「そうですか?ありがとうございます…高橋さんのチョイスのお陰です」
最初はどうなるかと思いきやこんなに綺麗にまとまるなんて。
「浅田さんはイエローベースではなくブルーベースですからね。是非これからもその色のアイシャドウを使ってください」
「へ?」
自分でも呆れてしまうぐらいマヌケな声が出てしまった。
「あれ?パーソナルカラーってご存知ないですか?」
名前ぐらいは聞いたことがあった。
「知ってはいますけどでもどうして…」
何故そんなに詳しいのだろうか。
「初めてお会いした時から思ってたのですが、パーソナルカラーと合ってない色のアイシャドウを使っていて勿体ないなーと」
「勿体ない?」
一体何がだろうか?
「せっかくお綺麗なのに」
「お、お綺麗だなんて…」
信号が丁度赤信号になり、車が止まった。
「本心ですよ」
孝太郎は真剣な顔をして、瑠璃を見つめる。
「そんな…」
瑠璃は咄嗟にそっぽを向いてしまった。
向いた先に丁度、サイドミラーが見えた。
(何回見ても別人のよう)
「洋服も良くお似合いで、それにして正解でした」
信号が青になり、車が動き出す。
「もしかして孝太郎さんが選んでくれたんですか?」
「はい、コスメも俺が選びました」
瑠璃は目を丸くする。
「そ、そうだったんですね。てっきり高橋さんが選んだとばかり思ってました…」
まさか全部孝太郎のチョイスだったとは思ってもなかった。
「あの後、買いに行かれたんですか?」
「ええ、閉店時間ギリギリだったので、間に合ってよかったです」
しかも時間が無い中で選んでこのセンスの良さ。
「孝太郎さんって…なんでも出来るんですね…」
(本当に雲の上の存在だな)
「何言ってるんですか、そんなことはありませんよ」
「あ、そういえばこの洋服やコスメの代金って…」
一体トータルで幾らかかっているのか。
考えるだけで恐ろしくなった。
が、こうして使わせてもらった以上は支払わなければならない。
「ああ、そんなの貰ってください」
孝太郎はサラリと答える。
「いや、それはさすがに…」
特別な日ならいいが、こんな高価なものたちは薄給で万年金欠な自分には分不相応だ。
「いつも仕事を頑張っているんですから、ね?」
「頑張ってるだなんて…毎日淡々とほぼ同じことをしているだけですので…」
電話対応、診察料の計算、院内の清掃などどれもこれももはや習慣になってしまった。
「毎日淡々とほぼ同じことをするって、とても凄いことですよ」
なんだか少し泣きそうになってしまった。
こうして仕事のことを褒められるのはいつぶりだろうか。
だが泣く訳にはいかない。
「外交官の孝太郎さんに比べたら大したことないですって…」
「そういうのは比べるものじゃないですよ」
「そうでしょうか?」
きっと自分なんかは比べ物にならないくらい、強烈なプレッシャーの中、毎日仕事をしているんだろう。
「さてと、到着しましたよ。終わった頃に連絡してください。迎えに行くので」
「なにからなにまですみません…」
瑠璃はシートベルトを外した。
「そんな暗い顔しないでください。今日も仕事頑張ってくださいね」
「…ありがとうございます」
瑠璃は車のドアを閉めた。
と同時に車が発進した。
孝太郎は運転しながら軽く会釈をして、この場を去っていった。
「おはようございます…」
瑠璃は少し自信無さげに挨拶をした。
「おはようございますって、浅田さんどうしたのその格好!それにメイクも!」
「や、やり過ぎでしょうか?」
職場へ行くだけにしては、少しやり過ぎたかもしれないという心配があった。
今日の服装はそれこそ以前、孝太郎と行ったレストランにでもいくようなものだった。
「ううん。とってもよく似合ってるわ。制服に着替えるのが勿体ないくらい」
「ええ、本当に。女優さんみたいよ」
今日は口々に褒められて、頭の中で混乱してしまう。
「おお、浅田。そんなにオシャレして今日はデートか?」
渡辺がニヤニヤしながら聞いてきた。
「ち、違いますよ。ちょっと…イメチェンです」
孝太郎と会った後だと、渡辺のイケメンぷりに驚かなくなる。
それくらい今日の孝太郎はかっこよく見えた。
「にしては、気合入ってるなー」
「本当にただのイメチェンですから!」
瑠璃はそう言うと更衣室へ向かった。
お昼休み。
いつもの様に春香とメールでやり取りしてると、誰からメールが来た。
「え、誰だろう」
確認すると孝太郎からだった。
孝太郎からの初めてのメールにドキドキしながら、本文を読んだ。
「お疲れ様です。本日の夕食はなにがいいですか?」
「夕食はなにがいいって聞いてくるってことはもしかして作ってくれるってこと?」
どれだけハイスペックなのだろうか。
瑠璃はコンビニで買ってきたパンの袋を、じっと見つめた。
普段自炊なんて殆どすることなく、適当にコンビニやスーパーで済ませてしまってる自分が情けなく思えて仕方がなかった。
「なにがいいって言われてもなー」
こういう場合なんて答えるのが無難なんだろうか?
「カレーとか?いやでもそれじゃあ女子力に欠けるか」
うーんと悩んでいるうちに時計は時刻12時55分を指していた。
昼休みまであと5分しかない。
「えっと…」
女子力高そうな食べ物、女子力高そうな食べ物と頭をフル回転させた結果。
「カルボナーラが食べたいです」と返信した。
そして、就業後。
孝太郎に「お疲れ様です。仕事終わりました」の連絡をしてから10分後、病院の前に高級車が停った。
瑠璃はそっと車のドアを開け乗り込む。
「すみません、遅くなりました」
孝太郎が申し訳なさそうに言う。
申し訳ないのはこちらのセリフだ。
「いえ、そんな、お忙しい中ありがとうございます」
「今は暇な時期なので、気にしないでください」
緩やかに車が動き出す。
「浅田さんは今日は何されてたんですか?」
「え?いつも通りです」
今日は待ち時間が長いだとかクレームを言ってくるお客がいなくて助かったぐらいだ。
もっともそんなクレームも滅多に来ないし、本当にいつも通り、変わり映えしない日だった。
「いつも通りっていいですね」
「そうですか?嫌になりますよ」
なんの生産性もない、自分って必要なのかすら思えてくる日々にうんざりしていた。
「いつも通りってことは、無事に今日を終えることができたってことじゃないですか」
そうか、この人は目まぐるしく変化している日常の中で、トラブルの対応などをこなしているんだ。
そう考えるといつも通りって素晴らしいことなのかもしれない。
「確かにそれって素敵なことですね」
瑠璃は微笑みながら言う。
「そうですよ。今日も1日お疲れ様でした」
「孝太郎さんこそお疲れ様です」
「はは。ありがとうございます」
「そうだ、そういえば今日の私の格好をみた職場の先輩たちにびっくりされちゃいました」
いつも通りじゃないことがあったことを思い出す。
「実は俺もびっくりしたんですよ。こんなに変わるんだって」
「えー、そうだったんですか」
「はい、本当に良くお似合いですよ」
「こ、孝太郎さんのチョイスのお陰ですよ…」
今日は本当に褒められっぱなしだな。
こうして和やかな雰囲気で雑談しているうちに、孝太郎の家へと着いた。
「お帰りなさいませ」
車を停めて、降りたと同時に高橋がお辞儀をする。
「ああ、高橋さんただいま」
「ただいま帰りました」
瑠璃も頭を下げる。
「浅田様もお帰りなさいませ。今日の夕飯カルボナーラですよ」
「高橋さんが作られるんですか?」
「はい、私が作らせて頂きます」
(な、なーんだ)
瑠璃は胸を撫で下ろす。
「もう準備は出来ておりますので、どうぞこちらへ」
2人は食堂へ案内された。
案内された食堂は広さは20畳ほどだろうか。
その中心に置かれた8人は座れそうな縦長なテーブルは、大きいはずだがこの部屋の広さでは小さく感じてしまった。
更にテーブルに置いてあるカルボナーラが畳との相性が悪く、見えていて笑いそうになってしまった。
「すみません、私ったらこんな和室に洋食をリクエストするなんて」
こんな純和風な屋敷で、洋食を食べたいだなんてなんて馬鹿げていただろうか。
瑠璃は今更になって反省した。
「気にしないでください。パスタなんて久しぶりに食べるのでわくわくしますよ」
「そうですよ。私も洋食の1品ものなんて何年も作ってないので、腕が鳴りました」
「それならよかったのですが…」
「ささ、冷めないうちに召し上がってくださいませ」
長机の対面上に置かれた座布団に2人は座り、カルボナーラを食べた。
夜。
雨がしとしとと降り出した頃、自室へと戻った瑠璃はシャワーを浴びるための準備をしていた。
「コンタクトも外したし、タオルも持ったし、寝巻きも用意してあるし、よし」
必要なものを準備し終えると、浴室へ向かいシャワーを浴び始めた。
本当はお湯に浸かりたいが、他人の家だ。微々たるものかもしれないが節約したい。
「ああ、さぶっ…」
瑠璃はシャワーを止めシャンプーを泡立てる。
雨が次第に強くなってきた。
「雪じゃないだけまだ寒くないってことか」
瑠璃は再びシャワーを浴び始めた。
「ふう、さっぱりした」
寝巻きに着替え、ハンドタオルで頭を軽く拭く。
と、ポタポタと音がする。
「なんだろう…ってえ!」
部屋が雨漏りしていた。
特に布団を敷いてある辺りがびしょ濡れになっていた。
綿毛布が濡れてるのはもちろん、敷パットまで浸透していた。
「どうしよう…」
さすがにこんな布団で寝る訳にはいかない。
瑠璃は高橋に伝えようと思ったが、夕食を作り終えると帰ってしまうと聞いていたためできない。
「あと他に伝えるとしたら…」
孝太郎しかいなかった。
瑠璃はすっぴんを少しでも誤魔化すためにメガネをかけ、孝太郎にメールをした。
屋敷が広いため、下手に探すよりもメールの方が効率が良かった。
そしてすぐに「わかりました。浅田さんの部屋へ向かいます」との返信が来た。
「よかった、すぐに返信きてくれて」
しばらく待っていると、雨音に消されそうな小さく襖をノックする音が聞こえた。
「はい」
と返事をすると同時に襖が開く。
「大丈夫ですか。浅田さん」
孝太郎は紺の寝巻きに羽織ものを着ていた。
スーツ以外の姿を初めて見た。
(こういうのも似合うんだな)
ぼんやりと孝太郎を見つめる。
「すみません、まさか雨漏りするなんて」
「いえいえ、私もあんな所に布団敷いておいたのが悪いんですし」
枕の位置を移動させたくて、本来敷いてあった場所とは違うところに敷いていた。
「浅田さんはなんにも悪くないですよ。他の部屋に布団がないか探してきます。浅田さんは隣の客室へ移ってください」
というと孝太郎は部屋から出ていき、瑠璃も隣室へ移動するための準備を始めた。
隣室へ向かうと雨漏りはしておらず、部屋の造りはほぼ同じだったが、
「布団がない…」
「あ、浅田さん、こっちの部屋は雨漏りしてなくてよかったです。高橋に連絡をしてみたのですが、布団があるのは浅田さんがいた客室と俺の部屋にしかないみたいで」
「そうなんですね…」
(仕方がない、今日はエアコンの温度を高めにして椅子にでも寝よう)
「俺の布団一式持ってくるので、それを使ってください。俺は椅子で寝るので」
「いえ、私なんかよりも孝太郎さんが…」
多忙な外交官を椅子で寝かせるなんてことはできない。
「女性を椅子に寝かせるようなことはできないです」
「私のことはお気になさらず休んでください」
「そういうわけにはいきません」
「でも…」
お互い1歩も引かない。
「じゃあ、一緒の布団に寝ますか?」
「え?」
孝太郎の思ってもなかった提案に戸惑う。
「それともやっぱり俺の布団で浅田さん1人で寝ますか?」
瑠璃は首を強く振る。
「なら決まりですね」
こうして2人で一緒の布団に寝ることになった。
「こちらです」
と案内された孝太郎の部屋は、黒で統一された落ち着きのある雰囲気だった。
(本当に来ちゃったよ…)
瑠璃は未だに混乱していた。
確かにお互い1歩も譲らない空気ではあったが、だからといって一緒に寝るという選択肢になるとは思ってもなかった。
「俺はまだ仕事が残っているので、先に休んでください」
と言うと、椅子に座り机の上に置いてあった書類に目を通し始めた。
「え!先に、ですか…」
「はい、お気になさらずに」
瑠璃はしばらく孝太郎の姿をぼんやりの眺めていたが、意を決して布団に入ることにした。
布団に入ると、孝太郎が使っているシャンプーかボディーソープのいい匂いがした。
(はぁ…入っちゃった…)
瑠璃は孝太郎に背を向けて、壁をじっと見つめる。
(こんなの寝れるわけない…)
パソコンを立ち上げた音が聞こえた。
カタカタと規則的に打たれるキーの音を聞いていると不思議と心地いい。
瑠璃は少しづつ落ち着いてきた。
そしていつの間にか寝てしまった。
「ん…」
布団がめくられた気がして瑠璃は目を覚ます。
「すみません、起こしてしまいましたか?」
孝太郎が布団に入ってきた。
一気に目が覚める。
(どうしよう…どうしよう…)
心臓の音が孝太郎に聞こえていたらと不安になる。
「浅田さん、まだ起きてますか?」
暗闇で聞く孝太郎の声は、いつもよりもずっと艶っぽい。
「は、は、はい…」
「どうしてこっちを向いてくれないんですか?」
そんなの恥ずかしいからに決まっている。
「わ、私は異性とこうして寝たことがあまりなくって…」
「俺もですよ」
そんなはずはない。
「だったらどうしてそんなに落ち着いているんですか?」
「落ち着いている?そんなことはありませんよ」
「ほら」と瑠璃の手を掴み、自分の心臓辺りに持っていく。
ドクン、ドクンとものすごい速さで動いているのがわかる。
「孝太郎さんも緊張されてるんですね…」
瑠璃はほっとしたように答える。
「そりゃあ浅田さんと寝るんですから、緊張しますよ。自分で誘っておいて言うのもなんですが」
「たかが私と寝るくらい…」
大したことないだろう。
特別美人でも、なんの取り柄もない自分なのだから。
「そんなこと言わないでください」
まだ握られたままだった手に、ぐっと力が入る。
「綺麗な手ですね」
手を掴んだまま、人差し指で瑠璃の手をなぞる。
「っ…」
瑠璃も繋がれた手に力が入ってしまった。
「ふふ。ですからこっちを向いてください」
孝太郎は握っていた手を離した。
瑠璃は観念して、孝太郎の方を向いた。
「うん、よくできました」
と頬にキスをされた。
「…孝太郎さん、もしかして酔ってますか?」
「酔ってなんかいませんよ。ずっとこうしたかった…」
というと優しく瑠璃を抱きしめる。
(暖かい…けど…)
「これじゃ寝れません…」
「大丈夫ですよ」
今度は瑠璃の頭を撫でる。
「子供扱いしないでください…」
「してませんよ」
「絶対してますって」
「瑠璃さん、敬語で話すの辞めませんか?」
「え?」
突然の孝太郎の提案に瑠璃は固まる。
呼び方も苗字から名前へと変わっていた。
「嫌?」
甘く問われた。
「そんなことは…」
「なら敬語はなしってことで」
「わかりました…じゃないや、わかった…」
「うん」
孝太郎は満足そうに言う。
「…」
「…」
暫く沈黙が続いた。
「あの…」
瑠璃の声は孝太郎の唇に塞がれてしまった。
それは今までしたキスの中で1番心地いいものだった。
ふわりとケーキのスポンジのように柔らかく、吸い付いた唇の感覚が忘れられない。
「もう1回してもいい?」
瑠璃はこくりと頷く。
今度は孝太郎の舌が入ってきた。
「あっ…」
咄嗟に声が漏れる。
「瑠璃の声、聞かせて」
更に孝太郎の舌が絡まってくる。
「ん…」
孝太郎はそのままブラのホックを外し、寝巻の紐をほどく。
「や…」
あられもない姿になった瑠璃は咄嗟に胸を隠す。
「恥ずかしがらないで、全部見せて…」
孝太郎は胸を隠していた手をどかし、そっとキスする。
「恥ずかしい…」
弱々しい声で孝太郎に訴える。
「大丈夫。綺麗だよ」
孝太郎も寝巻きを脱ぎ出した。
「もっと見せて」
月明かりに照らされた2人は官能的な夜を堪能した。
翌日。
瑠璃はコンコンコンと襖をノックする音で目が覚めた。
「う、ううん…」
ふと目を開けると孝太郎の整った顔が目の前にあった。
と同時に昨晩あったことを一気に思い出して真っ赤になる。
コンコンコン。
もう1度襖をノックする音がした。
この状況を見られるのはまずい。
「孝太郎さん、孝太郎さん起きてください」
「…」
瑠璃は孝太郎の筋肉質な身体を揺すりながら声をかけるが返事はない。
「孝太郎様~?」
襖越しに高橋の声がする。
「起きて~」
瑠璃はさらに激しく孝太郎を揺する。
それでも孝太郎は起きない。
この状態を見られたらどうしようと瑠璃は焦る。
「失礼致します」
高橋が襖を開ける。
と同時に布団を巻き付けただけの瑠璃と目が合った。
「あ、浅田様!これは大変失礼致しました」
慌てて襖を閉める音が響いた。
(み、見られてしまった…。完全に勘違いされた)
昨晩のはただの勢いでなった出来事だ。
もう忘れよう。
それなのに隣で眠る孝太郎の姿を見ると、ドキドキしておかしくなりそうだった。
「とりあえずなにか着ないとな…」
瑠璃は布団から出ようとすると、
「きゃあ!」
孝太郎に腕を掴まれ、抱きしめられた。
「おはよう、瑠璃」
「お、おはようございます…」
「敬語に戻ってるよ」
「あー、うん…あはは…。そ、そろそろ準備しないと…」
「すっぴんも可愛いね」
おでこにキスをされた。
「か、からかわないで…」
「本心なのにな」
孝太郎は残念と肩を竦める。
「私、準備したいんだけど…」
瑠璃が困ったように言うと、孝太郎の抱きしめていた腕が緩む。
瑠璃は今度こそ布団から出て、散らばった下着をいそいそと付け始める。
「今日も送っていくよ」
孝太郎は瑠璃を後ろから抱きしめる。
「え、ああ、ありがとう…」
「こっち向いて」
「…っ」
耳元で囁かれる。
孝太郎の甘い声を聞くと、それに従わないといけない気がしてしまう。
瑠璃は孝太郎の方を向く。
「うん、いい子だね」
孝太郎は瑠璃の唇を奪う。
孝太郎と一緒だと心臓によくない。
瑠璃は大慌てで散らばった自分の衣服を着て、孝太郎の部屋を後にした。
孝太郎の部屋を後にした瑠璃は化粧品や着替えなどは置きっぱなしになっていたため、昨日使う予定だった客室へ向かった。
すぐにメイクして着替えなければと急ぎ足で廊下を歩いていると
「浅田様、先程は失礼致しました」
後ろから声をかけられ、振り返ると高橋がいた。
「高橋さん!あれはその…」
「孝太郎様も遂に恋人をお連れになってくださったと思うと嬉しくて、嬉しくて」
あたふたしてる瑠璃を他所に、高橋は目に薄ら涙を浮かべている。
(完全に勘違いされたままだ…)
だが、あまりにも嬉しそうな高橋の表情を見ると「あれは誤解です」とは言い難い。
「お2人はいつからお付き合いされてるんですか?」
「えっと…その…」
「パリで出会ったんだよ」
凛とした声が響いた。
孝太郎は瑠璃の肩に手を置き「これは俺の女です」と言わんばかりの自信に満ちていた。
身支度はもう整えたそうで、いつも通りスーツ姿だった。
「まあまあ、そうだったんですね。孝太郎様ったらなんにもお話してくださらないんですから」
「ああ、悪かったな。これから父さんにも伝える予定だよ」
「えっ?伝えるって何を」
「俺たちの結婚のこと」
孝太郎はサラリと答える。
「「結婚!?」」
瑠璃と高橋は声を荒らげる。
「そんな…結婚だなんて…」
「おめでとうございます!浅田様、いや、瑠璃様、孝太郎様!」
「ありがとう。それじゃあ行こうか瑠璃」
孝太郎は瑠璃の腰に手を回し、客室へ向かって歩き出す。
「あの…結婚って?」
なにの冗談でしょ?とでも言いたげな瑠璃の口調だったが孝太郎は真剣な口調で
「本気ですよ」
瑠璃を真っ直ぐ見つめる。
「そんないきなり言われても…」
「答えは待ちます。ただ絶対惚れさせてみせます」
孝太郎は瑠璃の手を握ると、手の甲にキスをする。
「…っ」
「さぁ、客室に着いたよ。準備済ませておいで」
「…わかった」
瑠璃は客室の襖を開け、準備を済まし、孝太郎の車に乗った。
孝太郎の車が瑠璃の職場へ着いた。
「着いたよ」
「ありがとう…」
「元気ないね。どうかしたの?」
孝太郎は瑠璃の頬に触れようとしたが、バシッとその手を叩く。
「…なんでもない」
瑠璃は浮かない顔をして、車を降りた。
車の窓が開く。
「終わったら連絡して。また迎えに行くから」
「うん…」
(こんなに優しくしてもらってるのにな…)
せっかく両思いになれたのに、瑠璃の表情は曇っていた。
素敵な王子様だった彼が両思いになった途端、蛙のように醜く見えてしまう-
瑠璃は蛙化現象に陥っていた。
「おはようございます…」
魂が抜けたような声でドアを開ける。
「おはよう、浅田さんどうかしたの?ってあら今日も素敵な格好ね」
「いや、特には…」
イケメン外交官にプロポーズされて、戸惑ってるなんて言えるわけなかった。
瑠璃は更衣室へ向かい制服に着替えると、いつものように仕事を始めた。
昼休み。
近くのコンビニで買ってきたパンを食べながらぼんやりと考える。
(私が孝太郎さんと結婚…)
まずは孝太郎のことが本当に好きなのを自分に問いてみた。
客観的に見て孝太郎は魅力的だった。
容姿端麗なのはもちろん優しいし、頼りにもなる外交官。
こんな人物探せといったって中々見つからない。
そんな人物だ。
そんな人がなんの取り柄もない自分と釣り合うわけが無い…
そもそも孝太郎はこんな自分のどこを好きになったのだろうか?
いやそもそも-
考えれば考えるほど混乱していくばかりだった。
「はぁ…どうしたらいいんだろう…」
と、スマホが鳴った。
「孝太郎さんからかな…」
また今晩のメニューについてかと思っていたら、春香からだった。
「今晩暇?」
また春香に相談してみるのもいいかもしれない。
瑠璃は「暇だよ」と返信をした。
そして孝太郎には「お疲れ様です。今日は友達と会ってくるので自力で帰ります」とメールをした。
「ええ、イケメン外交官にプロポーズされた!?」
「ちょ、春香、声が大きい」
「ごめんごめん」
あれから瑠璃と春香はいきつけのカフェに来ていた。
いつものようにドリアとドリンクバーを頼むと、瑠璃は早速近状を話した。
「しかもイケメン外交官の家にお世話になってるってどういうことよ。いくら自宅が家事になったからって」
「そうだよね…甘えすぎだよね」
瑠璃は申し訳なさそうに言う。
「その洋服もコスメもみんなイケメン外交官に買ってもらったんでしょ」
瑠璃はこくりと頷く。
おそらく本当に全身デパート御用達コーデの人間が、こんな庶民的なカフェだなんてこないだろうが。
「あーいいなー、そんな人とお近付きになりたかったぁー」
「あはは…」
「瑠璃!」
「な、何?!」
春香は瑠璃の手をがっちりと握ると、真っ直ぐに見つめて
「ぜっっったいその人逃しちゃ駄目だからね!」
「う、うん…」
瑠璃は曖昧に返事をする。
「あー、またどうせ両思いになった途端、彼の好意を喜べなくなってるんでしょ?」
「うん…」
春香にはなんでもお見通しだった。
「なんで両思いになったのに素直に喜べないんかなー」
「私もよくわからなくって…しかもいきなり結婚だなんて…」
「いきなり結婚に驚くのはわかるよ。でもそれと好意に喜べなくなるのは別じゃん?」
「そうだね…」
自分に好意を向けられる度、私は貴方が思ってるような素敵な人じゃないと避けてしまう。
学生時代も何度もこういう事があった。
「私だったら好きな人からの好意なんて嬉しくて嬉しくて仕方ないけどなー」
「嬉しいには嬉しいんだけど…」
どこか心の中で引っかかってしまう。
自分は好かれたくていい子の振りをしているだけで、本当はもっと醜くくてどうしようもないやつなのに-
と、スマホが鳴った。
確認してみると孝太郎からだった。
「お疲れ様、どこの店?終わり次第連絡してくれ。迎えに行くから」
孝太郎はどこまでも優しかった。
その優しさが瑠璃を傷つける。
「結構です。自力で帰りますので」
と返信した。
「瑠璃、彼からメール?」
「うん、迎えに来るって」
「えー送り迎えまでしてもらってるの?いいなー。こっちは毎日満員電車だっていうのにさー」
「でも断ったから」
「断ったぁ?!なんでよ」
春香が信じられないという顔をしている。
「も、申し訳ないから…」
それに孝太郎と顔を合わせるのも気まずかった。
「相手からの好意なんだから、素直に甘えればいいのに」
「それが出来たら苦労しないよ…」
瑠璃はオレンジジュースを1口飲む。
「それじゃあいつまで経っても学生の頃のまんまだよ。それでいいの?」
高校生からの付き合いがある春香はよく知っていた。
「よく、ない、です…」
「ならとことん好意に甘えるべきでしょ」
「うん…」
瑠璃も今回は成就させたかった。
他の誰でもない孝太郎と。
「ほら、ウダウダ考えてないでやっぱり迎えに来てくださいってメール送る」
瑠璃は言われた通りにメールを送った。
こうして今日はお開きになった。
お店の前で待ってること数分、目の前に馴染みのある高級車が止まった。
瑠璃は助手席のドアを恐る恐る開けた。
「お疲れ様」
孝太郎は爽やかな笑顔を向ける。
「お疲れ様…今日も迎えに来てくれてありがとう」
「いいよ、そんなの気にしないで」
車が発進する。
「今日はどうだった?」
「あー、仕事の方はいつも通りだよ。あとは友達とご飯食べてきたぐらいかな」
「友達って女性?それとも…」
「じょ、女性だって!男性で一緒にご飯食べる仲の人なんていないから!」
「はは。そんなに否定しなくったていいのに」
「…っ、それもそうだね…」
「もしも男性と食べてきたなんて言ったら、嫉妬するなー」
「嫉妬って…そんな大袈裟な…」
「瑠璃は俺が他の女性と食事してたら嫉妬しない?」
「それは…」
するに決まっている。
「するの?しないの?」
孝太郎は心底嬉しそうに聞いてくる。
「し、し、します…」
「うん。そうだよね」
と頭を撫でられる。
「今日も仕事が残ってるから先に寝てて」
「え!今日も一緒に寝るの?!」
「え、そのつもりだったんだけど…嫌だった?」
「…」
嫌ではなかった。
ただ今朝のことがあって気まずいだけだった。
孝太郎はそのことについてはもうなんとも思ってないのだろうか。
ちらりと孝太郎の横顔を見ると、特に気にした様子もなく普通だった。
(相変わらずかっこいな…)
なんてぼんやりと眺めていると
「瑠璃?」
信号が赤になり車が止まる。
孝太郎と目が合った。
「な、なんでもない…」
瑠璃は咄嗟に逸らしてしまう。
それからお互い無言になってしまった。
そして車が屋敷に着いた。
隣にはなにやら別の高級車が2台ほど停まっていた。
「おかえりなさいませ、瑠璃様、孝太郎様」
いつもように高橋が出迎えてくれた。
「ああ、ただいま」
「ただいま帰りました」
高橋の姿を見ると、ほっとする自分がいたのに驚いた。
「本日は総一郎様とそのお客様がいらっしゃってますよ」
「父さんが?」
孝太郎が眉をひそめる。
「はい、大事な人お話があるとか」
「わかった。瑠璃、先に俺の部屋へ行っててくれ」
「うん」
「失礼致します」
孝太郎は静かに襖を開ける。
「おお、渉久しぶりだな」
「初めましてぇ~、キャー写真よりかっこいいぃ~」
その隣でニコニコ笑う美少女がいた。
孝太郎は嫌な予感がした。
「こちらの女性は?」
「あっ、申し遅れましたぁ~、あたしぃ~早乙女姫華(さおとめひめか)ですぅ~」
「ああ、早乙女財閥のご令嬢でしたか」
早乙女財閥といえば日本全国だけでなく、海外にも進出している大手企業だ。
「姫華の事ご存知なんですねぇ~。嬉しいぃ~」
姫華はキャッキャッとはしゃぐ。
「そのご令嬢がどうしてここに?」
「ふむ。他でもない結婚の話だ」
やはり。
孝太郎は拳を強く握る。
「姫華さんが、孝太郎の写真を見たらえらく気に入ってくれたらしく是非婿養子にと」
「30とかオジサンじゃんとか思ってたけどぉ~こんなイケメンなら全然オッケー、むしろ大歓迎って感じぃ~?」
姫華は髪を指に巻き付け、クルクルさせながら言う。
「大変申し訳ありませんが、お断りさせていただきます」
孝太郎は丁寧に頭を下げる。
「孝太郎!?」
「えぇ、どぉしてぇ~」
「心に決めた方がいるので、それでは」
孝太郎は立ち上がり、部屋を後にしようとする。
「待ってよぉ~、姫華と結婚したらぁ~今よりもずっとおっきな家にぃ~、大勢の使用人たちに囲まれてぇ~いい暮らしできるよぉ~?それに姫華、若くて可愛いしぃ~、おっぱいも大きいよぉ~?」
「そうですか、ですが今の暮らしに満足していますので」
孝太郎は眉ひとつ動かさない。
「待て孝太郎!この縁談を断ることは許さんぞ」
「婚約者ならもういますので」
孝太郎は力強くそういうと襖を閉めて、部屋を後にした。
一方。
先に孝太郎の部屋へ着いた瑠璃は、何をしたらいいのやらと立ち尽くしていた。
机の上に置かれた書類を見ると、どこかの国の言葉でびっしりとかかれていた。
「これはどこの国の言葉なんだろう…」
瑠璃は書類を手に取って眺める。
見れば見るほど訳が分からなくなってしまう。
「いつもこんな難しそうなことしてるんだろうな…。残りの仕事ってなんだろう」
もしかして私の送り迎えをしているせいで、仕事の時間に支障が出ているのではないだろうか。
そう考えると本当に申し訳ない。
早く物件を探して、ここを出なければ…
と、襖をノックする音がした。
「はい」
瑠璃が返事をすると、襖が開き入ってきたのは孝太郎だった。
「もう総一郎さんとの話は済んだの?」
「ああ」
孝太郎は神妙な面立ちで瑠璃に近づくと抱きしめてきた。
「ちょ!えっ…」
「急にごめん、触れたくなった…」
耳元で甘く囁かれる。
「そ、そうなんだ…」
その声を聞くと抵抗できなくなる。
「瑠璃に触れてると落ち着く…」
孝太郎は更に強く瑠璃を抱きしめる。
「それならよかった…」
「瑠璃…」
孝太郎は瑠璃の顎を人差し指でクイと持ち上げると、そのままキスをした。
「きょ、今日もお疲れ様です…」
瑠璃は自分から素早く唇を離す。
咄嗟にこんなことしか言えなかった自分が嫌になる。
「ああ、お疲れ様」
孝太郎は満足そうに瑠璃の頭を撫でる。
「さてっと、俺はまだ仕事が残ってるから先に入浴しちゃってくれ」
「わかった…」
「一緒に入れなくて申し訳ない」
孝太郎がニヤリと笑う。
「そ、そんな一緒に入るだなんて…」
考えただけでも真っ赤になってしまう。
「まあまあいずれはね、それじゃ入っておいで」
「うん」
瑠璃は浴室へ向かい、お湯を沸かすスイッチを押した。
「お父様ぁ~、婚約破棄されましたぁ~」
姫華は帰りの車の中で、父親相手に電話で泣きつく。
「おお、おお私の可愛い姫華がそんな扱いを受けるだなんて、なんてことだ!」
父の源十郎(げんじゅうろう)はカンカンに怒っていた。
「確かぁ~他に婚約者がいるぅ~とか言ってましたわぁ~。本当ですのぉ~?」
「いや、藤堂孝太郎に婚約者など居なかったはずだ…まあいい、こうなったら徹底的に調べさせてもらおう」
「お父様ぁ~、お願いしますぅ~姫華ぁ~、ぜぇ~ったいこぉ~たろ~様と結婚したいですぅ~」
「可愛い姫華のためだ、なんだってやろう」
「わぁ~い、ありがとうぉ~お父様ぁ~」
姫華を乗せた車は暗闇の中へと消えていった。
「ふぅー」
瑠璃はお風呂が湧いたので、孝太郎の部屋で入浴をしていた。
お湯に浸かるのは久しぶりなので、身体の芯まで温まる。
備え付けのシャンプーやボディーソープは瑠璃のいた客室とは違うもので、孝太郎と同じものを使うのかとドキドキしてしまう。
そもそも普段渉が入浴している浴槽に、自分が入っている…
「あーもうおかしくなりそう…」
瑠璃は両手で顔を隠すと、孝太郎に聞こえないように小声で呟いた。
そして逆上せるギリギリまで湯船に浸かると、観念して浴室を後にした。
お風呂から上がると、孝太郎は書類に目を通していた。
真剣な眼差しはいつもとは違った良さがあった。
「おかえり瑠璃、ゆっくり入れたかい」
孝太郎は書類から顔を上げ、立ち上がる。
「うん、孝太郎さんは仕事はどう?」
「ああ、もうだいぶ片付いたよ。今日は一緒に寝れそうだ」
「そ、そうなんだ。お疲れ様…」
瑠璃は誤魔化すように、タオルでゴシゴシと髪を拭き始める。
「俺と同じ匂いがする」
孝太郎は瑠璃を抱きしめる。
「お、同じもの使ったから…」
瑠璃は髪の毛を乾かすのを止める。
「だけど瑠璃の方がずっと良い匂いがする。不思議だな」
「そうかな…」
自分では違いはよくわからなかったが、あの時布団に入った時と同じ匂いがするのはよくわかった。
「髪の毛早く乾かしちゃって、先に布団に入っていてくれ」
孝太郎は瑠璃の頬にキスをすると抱きしめていた手を離し、再び書類に向き直った。
そして数分後-
孝太郎が布団に入ってきた。
瑠璃は相変わらず孝太郎に背を向けている。
「こっち向いて」
「…」
孝太郎の問いかけには答えない。
「るーり?どうかしたの?」
孝太郎は優しく瑠璃の頭を撫でる。
「きょ、今日はそっち向かなくてもいいかなって」
「どうして?」
「ど、どうしても?」
「でも一緒の布団で寝るのはいいんだね。嬉しいよ」
孝太郎が瑠璃の手を自分の方に寄せると、指を絡ませてきた。
「じゃあ今日は手を繋ぐだけでってことで。おやすみ」
「…おやすみ」
しばらくすると孝太郎の寝息が聞こえてきたが、瑠璃はそれを聞いてばかりで一向に寝れる気配がしなかった。
次の朝。
瑠璃はぼんやりと布団から出た。
目の前の机にはいつも通り孝太郎が仕事で使う書類が置いてあったが、持ち主の姿が見えなかった。
もしかして寝坊でもしたのかと慌てて時計を確認すると、時頃は6時40分と普段よりも早い起床時間だった。
孝太郎は先に仕事へ行ったのだろうか。
なとど考えてると、襖をノックする音がした。
「はい」
「失礼致します」
襖を開けて頭を下げたのは高橋だった。
「瑠璃様おはようございます。孝太郎様は今日はお早い出勤でしたので、本日は私が職場まで送らせて頂きます」
そういえば寝てる時、布団が少しめくれて寒かった気がしなくもない。
「そうだったんですね。わかりました。すぐに準備します」
孝太郎に会えなくて寂しい。
こんなことなら昨晩もっと甘えておけばよかった。
と後悔しながら朝の準備を始めた。
高橋の丁寧な運転で職場である病院へ着いた。
「それでは瑠璃様、行ってらっしゃいませ」
「ありがとうございます」
瑠璃は車から降りる。
「帰りは孝太郎様がお迎えにあがるそうなので」
とだけ言い残すと車は発車した。
「おはようございます~」
いつものように病院のドアを開けると
「おはよう浅田。今日はいつものイケメンくんじゃないだな」
「え?」
「ほら最近よく送り迎えしてるイケメンくんいるじゃないか」
「ああ、あの人ね~本当にカッコイイわ~。医院長並のイケメンなんて久しぶりに見たもの~」
「ね~、浅田さんやるわね~。羨ましいわ~」
「はぁ…」
これは完全に勘違いされてる。
「あれは彼氏か?」
渡辺がニヤニヤして聞いてくる。
「ち、違いますよ。し、知り合いです!」
「そうかそうか知り合いかー」
渡辺のニヤニヤは止まらない。
「本当ですからね。皆さんも変な勘違いしないようにしてください」
と言い放ち、更衣室へと向かった。
昼休み。
いつものようにコンビニのパンを食べていると、携帯が鳴った。
「誰だろう」
確認すると孝太郎からだった。
「今朝は会えなくて申し訳ない。帰りは迎えに行けるからまた連絡してくれ」
申し訳ないだなんて自分が寝てたせいで、孝太郎は何にも悪くないはずだ。
「…本当にいい人だな…」
今日も孝太郎の部屋で一緒に寝る-
今夜は昨日よりも少しだけ甘えてみようかな。
嫌でも迷惑じゃないだろうか。
そんなことを考えているうちに昼休みが終わった。
そして仕事が終わり、瑠璃は孝太郎に「お疲れ様です。仕事終わりました」のメールをした。
「お疲れ様さまでした~」
瑠璃は職場を後にした。
病院から出ると見覚えのないが、高級車が停まっていた。
この時間にこんなところに高級車が停ってるなんて普通じゃまずありえなかった。
連絡はなかったが、孝太郎の車だろうか。
屋敷にも何台も別の高級車があったし、今回は別の車なのかも知れない。
瑠璃は車に近づくと、運転席の窓が開く。
サングラスをかけ、スーツを着た30代ほどの男性が声をかけてきた。
「浅田瑠璃様でお間違えないでしょうか?」
その声は非常に無機質で冷たく感じた。
「は、はい…あのどちら様でしょうか?」
「失礼致しました。孝太郎様の代わりにお迎えにあがりましたものです」
「あ、そうだったんですね。ありがとうございます」
おそらく高橋以外のお手伝いさんだろう。
瑠璃は助手席のドアを開けて、車に乗り込む。
車が一向に動こうとはしない。
「あのー?」
瑠璃は声をかけると突然口元を塞がれてしまった。
「ん、ん…」
そして段々意識がなくなっていく…。
男はポケットから携帯電話を取り出し誰かにかける
「はい、浅田瑠璃で間違えありません。確保しましたので直ちにそちらへ。それでは」
電話を切ると、車がゆっくりと走り出した。
「…ここはどこだろう…」
目を覚ました瑠璃はあたりを見回した。
何も無いしんと静まり返った空間に1人-
11月の夜の冷え込みが瑠璃を襲う。
頭痛がすごい、それから吐き気も少々。
手足は紐で縛られていて、身動きが取れない。
その場で軽く飛び跳ねるのが精一杯だった。
ポケットにものが入っている感覚がなく、入っていたスマホや財布も取り上げられたようだ。
「えっと確か…」
瑠璃は混乱している頭の中で精一杯思い出す。
孝太郎の代わりに迎えに来たという車へ乗り込んだら意識をなくし、気がついたらここにいた。
「誘拐とか…?でも私なんか誘拐しても意味無いでしょう」
それこそ名家のご令嬢ならともかく、一般庶民の瑠璃には関係の無い事だった。
と、コツンコツンとなにやら足音がする。
瑠璃は緊張で身動きがとれなくなってしまった。
額にかいた冷や汗が止まらない。
足音が止まり、ドアがギィィと音を立てて開く。
と同時に部屋の電気がついた。
「っ…」
瑠璃は久しぶりの灯りに目を細める。
「お父様ぁ~、この方がこぉ~たろ~の婚約者ですのぉ~?」
甘ったるい声で話す少女は18、19あたりだろうか。
どこかで見かけたことがある気がした。
それもそのはず彼女はとんでもない美少女だった。
ぱっちり二重の人形のような目、サラサラでツヤツヤな黒髪、形のいい各顔のパーツが小さな顔に並んでいた。
着ている着物も鶴や椿など艶やかな刺繍が施された見るからに上等なものだった。
「あぁ、どうやらそうらしい」
隣にいた濃い緑の着物を着た、50代ほどの男性が腕組みをして、瑠璃を睨んでいた。
「あの婚約者って…そもそもここはどこですか?」
瑠璃は状況が掴めないまま、先程言ってきたことを聞く。
「あらぁ~?あなた、こぉ~たろ~の婚約者じゃないですのぉ~?ピンキャの新作もぉ~着てらっちゃるしぃ~」
前者の質問しか返答がなかった。
ピンキャというのはPINKYCATの略称だ。
服を見ただけでどこのブランドかわかるだなんて、さすがお嬢様である。
「い、いえそんな婚約者だなんて…ち、違います…」
違いますと言うのになんだか罪悪感が凄かった。
結局、孝太郎への気持ちは自分の中では解決しないままだった。
「なぁ~んだぁ~、てっきりぃ~こぉ~たろ~様からぁ~買ってもらったのかとばかり思ってましたわぁ~。ほらぁ~やっぱりこの方が婚約者なわけないですわぁ~こんなどこにでもいそうな方ぁ~」
「うーむ…確かにな」
男性は腕を組むのと瑠璃を睨みつけるのをやめた。
「ではなぜ孝太郎殿のところへ一緒に住んでいるのか?」
「な、なんでそんなこと知っているのですか…?」
「浅田瑠璃さん、君のことは徹底的に調べされてもらった。正直に話した方が身のためだぞ」
瑠璃は背筋が凍る。
一体いつの間にそんなことされてたのだろうか。
「えっと…それは家が火事になって、困っていたら孝太郎さんがうちに来ないかと誘ってもらって」
「ちょっとぉ~なにそれぇ~、図々し過ぎませんことぉ~?」
「そういうことだったのか、だった今日からうちで泊まるといい」
「え?」
「そうですわぁ~ウチも部屋なんて余りに余っていますもんねぇ~」
「ああ荷物だったら気にしなくていい。藤堂家にあるものは全て使用人たちに持ってこさせよう。もっともそんなことしなくても、うちの客室には大体のものが揃っているがな」
トントン拍子で話が進んでいく。
「…」
孝太郎とは離れたくなかった。
だからといっていつまでも甘えているつもりはなかった。
次に住む場所が決まるまでの間まで居よう。
新居が決まり次第出ていく。
そのつもりだった。
しかし日に日に孝太郎の家にいるのが、高橋の迎えが当たり前になりつつあった。
「あの、お断りさせていただけませんか?」
「なにをだね」
男が再び鋭い眼光を向ける。
「こちらの家にお世話になることです」
「つまりまだ藤堂孝太郎の世話になりたいと」
「はい」
「それはどういうことかわかっての発言かね」
「もちろんです」
瑠璃は顔を上げて男を睨み返す。
「お父様ぁ~、早くこの方なんとかしてくださいぃ~、姫華ぁ~こぉ~たろ~様と結婚したいのぉ~」
「ああわかってるよ可愛い姫華。君にはしばらくここに居てもらおう」
「それでは行こうか」と姫華とその父は部屋を後にした。
明かりが消えて、再び真っ暗な部屋に1人になってしまった。
「はぁ…どうしよう…」
このまま一生ここで1人だろうか。
こんなところで死にたくはない。
だがなにをしようにもやりようがなかった。
それこそ身代金でも払えば見逃してくれるだろうか。
いやそんなのさっきの発言や服装を見る限りとても裕福そうだった。
身代金などなんの意味もないはずだ。
そもそもそんなお金どうやって用意するのか。
孝太郎と高橋は今頃何をしているのだろうか。
もしかして自分を助けに来たりなんてしてくれるのだろうか。
「…っ、頭が痛い…」
頭痛は酷くなる一方だった。
瑠璃は少しでも寒くないように身を丸めて、誰かがやってこないかを息を殺して待っていた。
「おかしいな。瑠璃がいない」
瑠璃が勤務している病院へ着いた孝太郎だったが、肝心の姿が見えなくて困惑していた。
メールを送るも一向に返信が来なかった。
「なにかあったのだろうか?」
もしかしたら急な残業に追われてるのかもしれない。
そう思った孝太郎は診療時間は過ぎているが、電気は点いている瑠璃が務めている病院へ向かった。
「ごめんください」
「まあ浅田さんの彼氏さんじゃない!近くで見ると尚更かっこいいわ~。って、さっきもいらしてたようですがどうかしましたか」
病院のドアを開けると、40代半ばほどの女性が声をかけてきた。
「さっきもいらした?」
「あら?あの高級車は違ったのかしら」
「車が来てたんですか?」
「ええ、浅田さんを乗せたからてっきり彼氏さんとばかり思ってて…」
「そうですか。わかりました。ありがとうございます」
孝太郎はお辞儀をすると、病院を後にした。
車へ着いた孝太郎は高橋へ電話をした。
「はい、高橋ですが」
高橋はワンコールで直ぐに出てくれた。
「ああ、高橋さん。瑠璃、帰ってきてないか?」
「瑠璃様ですか?まだですが」
「そうかわかった。どうやら別の車が瑠璃を乗せったきりで、もしかしたらもう帰ってると思ったんだが…」
「そうだったのですね…瑠璃様が戻り次第こちらも連絡致しますので」
「わかった」
孝太郎は電話を切った。
「瑠璃…無事でいてくれ…」
孝太郎は強くアクセルを踏んだ。
「おかえりなさいませ。孝太郎様。瑠璃様はまだご帰宅なさっていません」
高橋が心配そうに駆け寄ってきた。
「そうか…」
「やはり警察に連絡をした方がいいかと」
「そうだな。そのつもりだ。ところで」
孝太郎は自分が停めた車の隣に停まっている車を見た。
「父さんが来ているのか」
「あ、はい。総一郎様がいらっしゃってます。なにやら満足そうなご様子でしたよ」
「わかった」
父が家にいているということは毎回ろくでもない要件ばかりだった。
前回もそうだった。
今回も家にいてしかも満足そうということは-
孝太郎は早足で総一郎の部屋へと向かった。
コンコンコンと襖をノックする。
「入れ」
と声がしたので襖を開けると、総一郎は椅子に座って足を組んで新聞を読んでいた。
「父さん!瑠璃が、浅田さんが行方不明なんだ」
「そうかそうか、それはよかったではないか」
総一郎は新聞を読んだままのんびりと答える。
「よかった?」
「あんな財力も権力もない小娘よりも、なんでももってる小娘にしておけ」
「では瑠璃が行方不明なのは父さんの差し金か!」
「だったらなんだ」
総一郎はどうでも良さそうに答えた。
「瑠璃はどこにいる!」
「さぁ?ワシはそこまでは知らん」
「話にならない!」
孝太郎は部屋を後にした。
「孝太郎様?なにやら怒鳴り声が聞こえたのですが…」
高橋はお盆に湯呑みを2つのせたまま、孝太郎に問いかけてきた。
「ああ、悪かったな高橋さん。どうやら瑠璃が行方不明なのは父さんの差し金らしい」
「まあなんと…」
「俺はこれから早乙女家へ向かおうと思っている。万が一でも瑠璃が帰ってきたら連絡してくれ」
「かしこまりました。お気をつけて」
コツン、コツンと再びする足音を聞いて瑠璃は目を覚ました。
あれから一体何分、いや何時間経ったのだろうか?
相変わらずなにもわからない、しようがないままだった。
「またあの2人が来るのかな…それとも孝太郎さんが助けに来てくれたとか…?」
さっき婚約者ではないといったこの状況で、孝太郎が助けに来てくれるのではないかと、期待している自分が嫌になる。
今度は誰だろうと身を構えていると、足跡がピタリと止まりドアが開いた。
「失礼します」
パチと電気がつき、入ってきたのは黒のセーターに紺のジーンズを着た30代ほどの女性だった。
久しぶりの灯りに目が眩しい。
瑠璃は咄嗟に目を瞑る。
女性の手にはブランケットと、銀のトレー。その上にはクロワッサンとコーンスープがのっていた。
「お食事をお持ちしました」
淡々と頭を下げると、食事を瑠璃の足元に置き、腕を縛っていた縄を解いた。
「あの、ありがとうございます…」
自由になったが縄の跡がしっかりと付いた手首を見て瑠璃は言う。
「私はご命令されたことを行っただけですので」
女性は美人だったが表情は常に無く、目線は一切合わず、どこか遠くを見ているようだった。
「い、今って何時頃か分かりますか?」
「その質問にはお答えできません。ご命令されていませんので」
「ならここはどこですか?」
「お答えできません。ご命令されていませんので」
「じゃああとほかに命令されたことって何なんですか?」
瑠璃はムッとしてつい強い口調で聞いてしまった。
「浅田瑠璃を死なせない程度にもてなせとのことでした」
「死なせない程度って…」
「それでは私はこれで」
女性は一礼すると部屋を後にしようとする。
「待ってください!知り合いに連絡をしたいのですが」
「それはご命令されてませんので」
とだけ言い残すと鍵をガチャリと閉めて、部屋を後にした。
残された食事と赤地にカラフルな鞠が施されたブランケットがやけに眩しく感じた。
「重い…」
ブランケットを持ってみるとやけに重たかった。
これならこの寒さも凌げるはずだ。
だがブランケットでは拭いきれない思いが、瑠璃には溜まっていく一方だった。
「そうだ、あの美少女、早乙女姫華だ」
確か姫華のほゎほゎちゃんねる♥️というサイト名で動画投稿活動をしてたはずだ。
瑠璃もちらりとだけ投稿された動画を見た事があった。
動画投稿内容はタイトルからは想像もつかないほどしっかりしており、フランス語、中国語などの語学の講座、着物の着付け、テーブルマナーについてなどだった。
加えて偏差値60超えの難関校、聖マリアンヌ学園の薬学部に通っており、動画投稿だけではなく持ち前のスタイルの良さを活かしたグラビア活動もしていた。
実家は海外進出もしている大手企業で、そこの一人娘。
着物も水着も着こなす才色兼備の大富豪のお嬢様。
それが早乙女姫華だった。
「じゃあ今、私がいる場所は早乙女家の敷地内ってこと?」
自分がいる場所はわかったが、なぜこんなところに幽閉されているのかがわからなかった。
「孝太郎さんの婚約者だと思われてるから…?」
姫華は孝太郎と結婚したがっているのだろうか。
だから邪魔者は消そうと、こうして誘拐をしたのだろうか。
「お似合いだな」
年齢差はあるが誰が見ても美男美女カップル。
「少なくとも私なんかよりもずっと…」
「藤堂孝太郎というものですが、早乙女源十郎殿に大至急お会いしたい」
早乙女家に着いた孝太郎はインターフォンに怒鳴るような口調で言う。
早乙女家も孝太郎の家と同じように高い塀に囲まれた、純和風な建物だった。
いつもはいるはずの門番が今日はいなかったので、インターフォンを押したが相手の返答が来ない。
「聞こえていますか?!早乙女源十郎殿にお会いしたいのですが!」
「大変お待たせいたしました。現在源十郎様はお留守です」
人間味が全く感じられない無機質な声が聞こえてきた。
「では姫華殿でも構わない」
「姫華様もいらっしゃいません。今回はお引き取り下さい」
「2人ともいないはずはない!では浅田瑠璃はどこにいる。会わせていただきたい」
「そのような女性はいらっしゃいません。お引き取り下さい」
「いや、確かにいるはずだ。至急会わせていただきた…」
「こぉ~たろ~様ぁ~?ど~かなさいましたのぉ~?」
インターフォンから聞き覚えのある声が聞こえた。
「姫華殿!源十郎殿はいらっしゃいますか?」
「お父様はぁ~現在入浴中ですわぁ~。なにかご用ですのぉ~?」
「そちらに浅田瑠璃、いや、女性が来なかっただろうか?」
「あぁ~、そういえば来たようなぁ~?」
姫華は曖昧に答える。
「とりあえず門を開けて頂けないでしょうか?」
「わかりましたぁ~」
そういうとすんなりと門が開いた。
「これでやっと瑠璃に会える…」
渉は意を決して、早乙女家の敷地を跨いだ。
「こぉ~たろ~様ぁ~こんな時間にお会い出来るなんて嬉しいですわぁ~」
姫華は満面の笑みを浮かべて渉に近寄る。
「ああ、姫華様。それで女性はどこに?」
「あ~地下室ですわぁ~。でもそんな女性なんてどうでもいいではありませんかぁ~?」
「どうでもよくなんかはないんです!私にとっては大切な女性なんです」
「う~ん、よくわかりませんけどぉ~、ご案内しますわぁ~」
「こちらですわぁ~」と孝太郎は姫華の跡をついていく。
コツンコツンとまた足跡がする。
今度は1人ではなく2人分する。
またあの2人だろうか。
瑠璃は羽織っていたブランケットを軽く畳み、正座をする。
腕が自由になったので、足の縄も解けるかと思ったがキツく結ばれててできなかった。
今度は一体なんのようだろうか?
自分の生存確認にでも来たのだろうか?
足跡が止まり、再び扉が開く。
「瑠璃!」
「孝太郎さん…」
電気が眩しくてすぐに判断出来なったが、確かに孝太郎だった。
孝太郎は力強く瑠璃を抱きしめる。
「まぁ~、これはどういうことですのぉ~?」
姫華は口をあんぐりと開けて立ち尽くしていた。
「瑠璃、遅くなってすまなかった」
「ううん、来てくれただけで嬉しい…」
瑠璃も孝太郎を抱きしめる手を強める。
「こぉ~たろ~様ぁ~、どういう状況ですのぉ~?そちらの女性はなんの関係もない方じゃないですのぉ~?」
「関係がないだなんてとんでもない。瑠璃は俺の婚約者です」
「ええぇ~だってその方は違うと仰ってましたわぁ~」
「そ、それは…」
「瑠璃、本当か?」
「あの時はまだ決心ができてませんでしたが、私は孝太郎さんの婚約者です」
今ならもう迷いはない。
こうして助けに来てくれたのだから。
好意には好意で返したい。
「そ、そんなぁ~…」
姫華はよろよろとその場にしゃがみこむ。
「瑠璃、やっとそう言って貰えて嬉しいよ。早くここから出よう」
孝太郎は瑠璃の足を縛っていた縄を解く。
縄は解けたが暫く結ばれてたため、上手く動かない。
立てなそうな瑠璃を見て孝太郎はそっと横抱きをする。
「ありがとう、孝太郎さん」
「それでは姫華様、また」
孝太郎は床に座り込んだ姫華に一礼すると、部屋を後にしようとする。
「で、でもぉ~、姫華はぁ~こぉ~たろ~様と結構したいんですぅ…誰よりもお慕い申しておりますのにぃ…」
「その気持ちはわかります。ですがすみません俺には瑠璃しかいないので」
「そんなぁ…そんなにお好きなんですねぇ…」
「はい」
「姫華と一緒になったらぁ~望むものはぁ~なんでも手に入りますのにぃ~…」
「姫華様、本当に望むものは自分の力で手に入れた方が楽しいですよ」
「楽しいぃ~?」
姫華は首を傾げる。
「はい。では」
「姫華もぉ~、いつかぁ~こぉ~たろ~様が認めてくれるような女性にぃ~、なってみせますわぁ~。その頃にぃ~結婚してくださいなんて言われてもぉ~絶対にぃ~しないですからぁ~」
「はい。その時を楽しみにしてますよ」
孝太郎はにこやかに答えると部屋を後にした。
「どこへ行くつもりだね」
長い階段を登り終わり、1階へ着いたと思ったら源十郎が待ち構えていた。
源十郎は2人を睨みつける。
「瑠璃は返してもらいます」
「そんな小娘よりもうちの姫華の方がずっといいと思うが」
「姫華様には姫華様の、瑠璃には瑠璃の良さがありますので」
孝太郎はキッパリと言う。
「孝太郎さん…」
頬が熱くなる。
瑠璃はうっとりした目で孝太郎を見る。
「ふん、その小娘の処遇なら心配せぬともよいぞ。大体医療事務などとくだらない仕事をするよりは、海外にあるうちの別荘の管理人でも任せた方がよっぽど有意義だろう。そもそも…」
「お父様ぁ~、もういいんですぅ~。姫華ぁ~こぉ~たろ~様が羨ましがるほどの女性になるって決めたんですからぁ~」
姫華が源十郎の元へ駆け寄る。
「姫華…」
源十郎がビックリしたように姫華を見る。
「その時になってもぉ~、こぉ~かいしないみたいですしぃ~」
「はい。俺には瑠璃がいるので」
「姫華がいいというならいいが…」
源十郎はまだ驚きが隠せないようで姫華から目を離さない。
「はぃ~、お父様ぁ~姫華はもう結構ですわぁ~」
姫華は満面の笑みを浮かべ答える。
「そ、そうか…わかった…。孝太郎殿、瑠璃殿気をつけて帰るがいい…。こんなまねをしてすまなかった…」
源十郎は段々と小さな声でボソボソと話し、最後の方は瑠璃たちには微かに聞こえるほどだった。
「そうさせていただきます」
孝太郎も瑠璃も言いたいことは沢山あったがひとまず引き下がることにした。
孝太郎は瑠璃を抱き抱えたまま、頭を下げる。
瑠璃も小さく頭を下げる。
外に出ると辺りは真っ暗だったが、日付が変わってないことに驚いた。
(私が思ってるほど、早乙女家にはいなかったんだ…)
監禁されてる時は永久に時が止まってしまったような感覚でいた。
もしかしたら自分は一生ここからでられないのかもしれない。
そんな不安が常にあった。
「遅くなって本当にごめん」
瑠璃は孝太郎の車へ着くとまた抱きしめられる。
孝太郎が助けに来てくれた時、どれほど心強かったことか。
「大丈夫だよ。来てくれてありがとう」
瑠璃は宥めるように言う。
「無事でよかった…」
孝太郎は瑠璃にキスをする。
キスをされると、より一層生きて早乙女家から出ることが出来たんだと改めて実感できた。
「家に帰ろう」
「うん」
孝太郎は車をゆっくりと発進させた。
「おかえりなさいませ。瑠璃様。孝太郎様。ご無事でなによりです」
車から下りると高橋が小走りをして寄ってくる。
車は孝太郎が運転してきたものしか無かった。
孝太郎は空車になった駐車場を睨みつける。
「ご迷惑をおかけしました」
瑠璃は深々と頭を下げる。
まだ少し縛られていた感覚が抜けないが、久しぶりに自分の足で歩くのは新鮮だった。
「いいんですよ。お怪我なくこうして帰ってこられたんですから」
高橋が目に涙を浮かべて言う。
「ああ、疲れただろうからゆっくり休もう」
孝太郎は瑠璃の腰に手を回す。
「うん」
「父さんは帰ったんだな」
「ええ、何やら不機嫌そうでしたがお帰りになられました」
「そうか…まあいい。行こうか瑠璃」
瑠璃の足を気遣ってか、ゆったりとした足取りで孝太郎の部屋へ向かった。
孝太郎の部屋へ着いた瑠璃は再び抱き合う。
「孝太郎さん…もう大丈夫だから」
瑠璃は孝太郎の腕から離れようとするが、強く抱きしめられていてできない。
「本当にもっと早く行けばよかった…」
悔やみ切れないような、怒りを押し殺すような声だった。
「私はこうして無事だから。ね?」
瑠璃は敢えて元気だとアピールするように明るい口調で言う。
孝太郎は瑠璃にキスをすると解放してくれた。
「俺は仕事が残ってるから、すまないがまた先に入浴しててくれ。一緒には寝れると思う」
「うん。わかった」
瑠璃は浴室へ行き、お風呂の栓を閉めるとお風呂を沸かすスイッチを押した。
孝太郎は自席について資料に目をやり、パソコンを弄りと忙しそうだった。
だがそんな姿を眺めてるのは非常に有意義で幸せな時間だった。
しばらくするとお風呂が沸き、瑠璃は入浴を済ませた。
瑠璃は眠っていると布団がめくれて目が覚めた。
孝太郎が布団の中に入ってきた。
こうして渉と一緒に寝るのは当たり前になってきた。
「瑠璃…」
甘く自分の名前を呼ばれ、抱きしめられる。
「孝太郎さん…」
瑠璃も孝太郎の名前を呼び、抱きつく。
「好きだよ」
耳元で優しく囁かれる。
「私も」
瑠璃は孝太郎の腕の中で答える。
孝太郎は瑠璃を抱きしめる手を緩めるとキスをしてきた。
最初は唇に触れてただけだったが、徐々に瑠璃の唇を割って舌も入ってくる。
「あっ…」
咄嗟に声が漏れる。
「いいよね、瑠璃」
瑠璃はこくんと頷くと、背中に腕が回りブラのホックを外された。
「恥ずかしい…」
この姿になるのは2回目だったが、相変わらず恥ずかしさは消えなかった。
「大丈夫、とっても綺麗だよ」
孝太郎は瑠璃の手をどかし、胸元にキスをする。
「や…」
「その声もっと聞かせて」
久しぶりの夜は情熱的に終わった。
襖をノックする音が聞こえる。
高橋だろう。
瑠璃は寝起きの頭でぼんやりと考える。
相変わらず孝太郎に抱きしめられていて、動くことができない。
「孝太郎様~、瑠璃様~起きましたでしょうか?」
襖越しに声が聞こえる。
「あっ、はい。起きましたー」
「ああ。起きたよ高橋さん」
頭の上から声がする。
と、頭を優しく撫でられる。
「瑠璃もおはよう」
「うん、おはよう」
そっとキスされる。
「朝食の準備が出来ておりますので、是非召し上がっていってくださいませ。それでは」
高橋は襖越しに声をかけてきただけで、どこかに行ってしまった。
「さてと俺達も準備をしていくか」
「うん」
瑠璃はタオルを持って洗面所へ向かった。
準備が済み食堂の襖を開けると、香ばしい匂いが漂ってきた。
机の上を見ると湯気が出たご飯とワカメと豆腐の味噌汁、鮭に大根おろし、ほうれん草のおひたし、金平ごぼう、小鉢に入った大根の漬物が並んでいた。
「わー、どれも美味しそう」
瑠璃は座布団に正座して、目をキラキラさせる。
「高橋さんの料理はとても美味しいんだ。ぜひ食べてくれ」
「そうなんだ、食べるの楽しみ~。いただきまーす」
瑠璃は手を合わせてから箸を持つ。
ほうれん草のおひたしを1口食べると
「うん!美味しい!」
「だろだろ?他のも食べてみてくれ」
孝太郎が嬉しそうに勧める。
「お味噌汁もいい出汁が出てていいね」
「ああ、高橋さんが作る味噌汁は俺も大好きなんだ」
「いいなー私も今度作り方教えてもらいたいなー」
「瑠璃は普段料理するのか?」
瑠璃の動きがピタリと止まる。
「え~…たまにする程度かな?あはは…」
瑠璃は愛想笑いをして誤魔化す。
「そっかたまにか」
孝太郎は微小を浮かべ味噌汁を1口飲む。
(本当に今度、高橋さんに教えてもらおう…)
瑠璃は決心したかのように漬物を1口食べた。
素朴で家庭的であっさりとした味付けの料理たちは、毎日食べても飽きないだろう。
車が職場の病院まで着いた。
「今日も送ってくれてありがとう」
「これくらいのことはさせてくれ」
孝太郎は瑠璃にキスをする。
すぐに瑠璃から唇を離す。
「ちょ、実はここ病院から丸見えなんだけど…」
丁度受付の真正面の位置に車があった。
「いいじゃん別に」
「なんにもよくない」
瑠璃はそっぽを向く。
幸い、受付には人がいなく、見られてる可能性は低そうだった。
が、もしかしたら医院長にでも見られていないかと、冷やかされたりしないかとヒヤヒヤする。
「じゃあ終わったらまた連絡してくれ。今日も頑張って」
「もう、孝太郎さんもね」
瑠璃はやや困ったように車のドアを閉めて、病院へ向かった。
「おはようございます~」
瑠璃は職場のドアを開ける。
「おお、浅田~、朝から随分彼氏くんと仲良さげじゃねーか」
渡辺が茶化すように言ってくる。
どうやらさっきの一部始終を見られていたようだ。
「あれは向こうが一方的に…」
「まあまあいいじゃないの~。あー若いって羨ましいわ~」
「そうよね~。うちなんてもう何年も旦那とそういうことないわ~」
「ホントよね~うちもだわぁ~」
先輩たちの羨ましいそうな、なんとも言えない視線に耐えられなくなった瑠璃は居心地が悪くなり、足早に更衣室へ向かった。
昼休み
いつも通りコンビニで買ってきたパンを食べていると、スマホが鳴った。
確認すると孝太郎からだった。
「お疲れ様。今日の夕食はなにがいい?」
「ん~どうしよう」
以前、カルボナーラと言ったところあの純和風な部屋に洋食という、かなりミスマッチな選択をしてしまった。
「今回は何がいいかなー。オシャレな和食オシャレな和食…」
どんなに考えても出てこなかった。
「ああもういいや」
瑠璃は投げやりになり「カレーが食べたい」と返信した。
こうして昼休みは終わり、午後の仕事が始まった。
「お疲れ様です」
瑠璃は職場の人たちへ挨拶をすると、病院を後にした。
しばらく外で待っていると見覚えのある高級車が止まった。
「お疲れ様~ありがとう」
瑠璃は助手席へ乗り、シートベルトをつける。
「ああ、お疲れ様。今日はどうだった?」
「ん~、今日はね…って朝のやつ、やっぱり見られたみたいなんだけど」
瑠璃は口を尖られせて言う。
「ふーん。そうなんだ」
孝太郎は特に気にした様子もなくハンドルを回す。
「職場の人にからかわれたよ~もう…」
「瑠璃はからかわれて嫌だった?」
「嫌というよりは…」
恥ずかしさが勝っていた。
孝太郎とはもう何回もキスしているが、未だにドキドキしている自分がいた。
しかも人様に見られてたなんて尚更だった。
「じゃあ気にすることないじゃん」
「いやいや気にするって…」
「ならそれが習慣になる様にするしかないかなー」
「習慣になるようにって…」
「だったら職場の人もいちいちからかってこないだろう?」
「それはそうかもしれないけど…」
「ならそういうことで」
「もう!今度キスされそうになったらガードする!」
「瑠璃は俺とキスするの嫌?」
「い、嫌じゃないけど、もっとこう…場所を考えて欲しいってこと!」
「なるほどねー」
孝太郎は嬉しそうにアクセルを踏む。
「…わかってくれた?」
瑠璃は不安げに孝太郎の整った横顔を見つめる。
「ああわかったよ」
孝太郎は瑠璃の頭をわしゃわしゃと撫でる。
「ならよかったけど…」
「他に職場であったことは?」
「うーん、そうだなー…」
次第に和やかな雰囲気になってきた。
雑談しているうちに屋敷に着いた。
「おかえりなさいませ」
車を降りると同時に高橋が出迎えてくれた。
「ただいま、高橋さん」
孝太郎がにこやかに声をかける。
「高橋さん、ただいま帰りましたー」
「お2人ともお元気そうでなによりです。今日の夕飯はカレーですよ」
「わー楽しみです~」
「ああ、いつもありがとう。早速いただきに行くよ。行こうか瑠璃」
2人は食堂へ向かった。
食堂の襖を開けるとカレーの香ばしい匂いがしてきた。
「わー、いい匂い」
瑠璃が歓喜の声を上げる。
「冷めないうちに食べようか」
「うん、いただきまーす」
瑠璃は手を合わせ、カレーを食べ始める。
「ん~スパイスがいい感じ~」
ピリッと辛く絶妙なバランスでスパイスが調合されていた。
「な~、高橋さんお手製スパイスだ」
「美味しいね~」
「そうだな。瑠璃、大事な話があるんだ」
「だ、大事な話って?」
瑠璃は背筋をピンと伸ばし、身構える。
孝太郎は瑠璃を真っ直ぐ見つめるとゆっくりと口を開く。
「仕事を辞めて欲しいんだ」
「え?」
「仕事を辞めて家庭を守って欲しい」
「それって…」
つまりは専業主婦になってくれということだろうか。
「でも私、料理なんて全然できないし…」
掃除なんかも気が向いた時しかやらない。
そんな人間がこんな屋敷を守るなんてことできないだろう。
「ああ、それでも構わない。そんなのは少しづつやっていけばいいのだから」
「少しづつ…」
高橋に教えてもらないながらやっていけばいいのだろうか。
そんな悠長なことをしてても孝太郎は許してくれる。
「すぐに答えを出さなくていいから」
「うん…」
「えー!イケメン外交官に仕事辞めて家庭を守って欲しいって言われたぁ~?」
「春香、声大きいって」
「あ、ごめんごめん」
土曜日、瑠璃は春香と共にいつものカフェへ来ていた。
近状報告として以前孝太郎に言われたことを話すと、反応はプロポーズされた時と同じようなものだった。
「ってことは寿退社ってこと?あーいいなー」
春香はフォークを片手に天井に向かって叫ぶ。
「うーん確かにそうなるよね…」
「相変わらず浮かない顔しちゃってさ~」
「今の仕事は好きだし、仕事辞めて専業主婦になるほど家事できる訳じゃないし…」
「でも彼は少しづつでいいって言ってくれてるんでしょ?ならいいじゃん。あーあ、私にもそんな風に言ってくれる白馬に乗った王子様現れないかなー」
「白馬に乗った王子様って…」
瑠璃は烏龍茶を1口飲むと苦笑いする。
「だって今どきいないよ?専業主婦になって欲しいなんて言う人」
「まあねー」
瑠璃はストローから口を離すと、くるくると回す。
「そうだ。結婚式どこであげるの?軽井沢?ハワイ?」
「ちょっと、春香気が早いって」
瑠璃は早口に否定する。
「そんなの時間の問題じゃんか~。絶対招待してよね」
「う、うんわかった…」
「それに比べて私は出会いすらないやー。あの時シャンパンがかかったのが私だったらよかったのに~」
「そういえば、シャンパンがかかってなかったらこうして出会うことすらなかったのか…」
瑠璃は神妙な顔で烏龍茶を見つめる。
あの時は不運なことが起きたとばかり思っていたのに、まさかこんなことになるなんて。
「それでもあの時、春香が背中を押してくれなかったらお近ずきになれないままだったよ」
ハンカチを返すか返すまいかで悩んでた、瑠璃を後押ししてくれたのは春香だった。
「瑠璃~、それ結婚式のスピーチで言うから」
「う、うん…」
相変わらず気が早い春香だった。
春香とお開きになったことを孝太郎へとメールする。
外に出ると随分と寒く、暗くなっていた。
すっかり話し込んでしまったようだ。
自力で帰ると言ったのだが、あんな事件があってすぐだ。
危ないから送り迎えをさせてほしいとのことだった。
しばらくすると孝太郎の運転する車が、瑠璃の目の前を止まる。
「今回もありがとうね」
お礼を言いながら助手席のドアを開ける。
「気にしないでくれ」
孝太郎は瑠璃の頬にキスをする。
「今日も友達と話せてきたか?」
「うん、友達ったら気が早くて困っちゃったよ~」
「気が早いって?」
「あ…えっと…」
瑠璃は口を閉ざす。
「どういう意味?」
「け、結婚式どこで挙げるの?とか聞かれて…」
「ああ、なるほどね。そういうことか。瑠璃はどこで挙げたい?」
「え?私?私は…」
突然の問いかけに答えに詰まる。
結婚式だなんて今まで考えてなかった。
「パ、パリとかいいんじゃないかな?出会った場所でもあるし」
なんて適当にはぐらかす。
「パリかー、確かに出会った場所だしいいかもなー」
孝太郎が満更でもなさそうに言う。
「でもそんな結婚式なんていきなりすぎて…」
孝太郎は瑠璃の手をぎゅっと握る。
「よさげな会場、一緒に探そう」
「そ、そうだね」
「素敵な式にしような」
「うん…」
握られてた手に力が入る。
「おかえりなさいませ」
「ただいま帰りました」
高橋がぺこりと頭を下げるのにつられて、瑠璃も下げる。
「高橋さん、こんな遅くまですまない。今日はもう帰ってくれ」
「いえいえ、留守を守るのが私の仕事ですから」
留守を守るという単語に瑠璃はピクっとした。
いずれは自分もそうなる身だ。
今からでも高橋の仕事っぷりを見ておいた方がいいかもしれない。
瑠璃は高橋をじっと観察する。
いつも元気で笑顔で迎えてくれて、こちらまで元気と笑顔を貰えるような存在だった。
そんな存在に自分もなれるだろうか?
「…り?瑠璃?どうかしたか」
「!!う、ううんなんでもない」
「じゃあ俺達は部屋へ行くから。高橋さんお疲れ様」
「お疲れ様です」
「ありがとうございます。お2人共、お疲れ様でございました」
孝太郎の部屋へ着くといきなり抱きしめられた。
「どうかしたの?」
「いや、なんでも。ただ瑠璃を抱きしめてると落ち着くんだ」
前にもそんなことを言われた気がした。
「今日は特に仕事は残ってないんだ。一緒にテレビでも観るか」
そういうと孝太郎はテレビのスイッチを入れ、瑠璃を横抱きするとソファーへ座らせた。
「孝太郎さんの部屋でテレビ観るの初めてかも」
「はは。ずっと仕事の残りをしてばかりだったもんな」
「そうそう、だからこうして一緒にテレビ観るの新鮮」
見覚えがあるのは書類とパソコンを交互に見る、真剣な眼差しだった。
それを見るのは瑠璃は好きだったが、こうして隣で同じものを見つめる眼差しもいいなと幸せに満ち溢れていた。
「そぉ~なんですぅ~、姫華ぁ~大失恋してぇ~、ぜぇ~ったいその人のこと見返すって決めたんですぅ~」
テレビから聞き覚えがある声がする。
「あ、早乙女姫華だ」
瑠璃は咄嗟にその名前を口に出す。
黒地に百合の刺繍が入った着物を着ていた。
姫華の真っ白な肌がよく映えていた。
「テレビにも出るんだなー。普段観ないから全然知らなかったよ」
「みたいだねー。私も普段観ないから初めて出てるの観た」
「…」
「孝太郎さん?」
返事がないので横をチラと見ると孝太郎は目を閉じていた。
「寝ちゃったのかな?」
しばらくすると微かに寝息が聞こえてきた。
「へえー、姫華ちゃんみたいな可愛い子を振る男なんているんだねー」
テレビからそんな声が聞こえてきた。
「そぉ~なんですぅ~。もぉ~びっくりしましたぁ~」
振った本人は現在夢の中である。
「でも姫華ちゃんほどの家柄の子だったら、許嫁とかいるんじゃないの?」
「確かに」
瑠璃は思わずテレビに向かって相槌を打ってしまった。
「あぁ~、いたんですけどぉ~断っちゃいましたぁ~。とっても暗い方でぇ~こっちまで暗くなるような方でしたわぁ~」
「断っちゃいましたって…」
瑠璃は呆れたように言う。
そんな簡単に断れるものなのだろうか?
いやあの父親だったらなんでもするだろうから、きっとどんな手段を使ってでも断ったのだろう。
瑠璃を誘拐した時のように。
「そうだったんだね。それは大変だ。ところで姫華ちゃん…」
「ふぁ~…なんだか私も眠くなってきちゃった…」
瑠璃も目を閉じた。
隣から感じる孝太郎のぬくもりが心地いい。
カタカタと何かを叩く音で瑠璃は目を覚ました。
起きると毛布がかかっており、ソファーの上だった。
(そうだ、あのまま寝落ちしちゃって、それで…)
瑠璃は後ろを振り返ると、パソコンに向かってタイピングしてる孝太郎と目が合った。
「おはよう、瑠璃。起こしちゃったかな」
孝太郎はスーツ姿で、仕事に行く準備を済ませてあった。
「ううん、大丈夫」
瑠璃はソファーから起き上がる。
時刻を確認すると5時半。
随分と寝てたみたいだ。
「風呂さっき沸かしたばっかりだから入ってきちゃって」
「わかったありがとう」
瑠璃はコンタクトを外したり、タオルを用意したり入浴するための準備を始めた。
「ふぅ~まさかあんなに寝てたなんて」
瑠璃は浴槽の中で大きく伸びをする。
ふかふかのソファーで寝てたため身体が痛いことはなかったが、寝返りがうちにくいため若干身体がなまっている。
孝太郎が入浴したばかりのため、浴室の中が使っているシャンプーの匂いで溢れてドキドキする。
「ここのシャンプーとボディーソープ使うようになってから髪と肌の調子がいいんだよねー」
一体どこのを使っているのだろうか。
パッケージを確認してもそれらしいメーカー名は書いてない。
「あとで孝太郎さんに聞いてみよう」
そういうと瑠璃は浴室を後にした。
「おお瑠璃あがったのか」
孝太郎が机から顔を上げて瑠璃を見る。
「うん、さっぱりした~。ってそうそう渉さん使ってるシャンプーとボディーソープってどこの?」
瑠璃はタオルで髪の毛を拭きながら言う。
「あーそこら辺はみんな高橋さんに任せてるんだ。今度聞いておくよ」
「そうなんだ。わかった」
(家の事、殆ど高橋さんに任せっぱなしなんだな)
多忙な外交官なのだから仕方がない。
結婚してからはそういう細かいことも自分でやることになるだろう。
「頑張らないと…」
瑠璃は小声で呟く。
コンコンコンと襖をノックする音がする。
「はいー」
メイク中の瑠璃が返事をすると
「瑠璃様お目覚めで何よりです。孝太郎様もお目覚めでしょうか?」
「ああ、起きてるよ」
「かしこまりました。お食事の用意ができていますので召し上がっていってくださいませ。それでは」
「また高崎さんの料理食べれるー」
「ああ沢山食べてくれ。それじゃあ準備が出来次第、食堂へ向かうとするか」
「うん、ちょっとまっててね」
「ゆっくりでいいよ」
「ありがとう」
食堂の襖を開けるといつも通り香ばしい匂いがしてきた。
机の上を見るとご飯、大根の味噌汁、鰤の照り焼き、百合根の茶碗蒸しに肉じゃが、小鉢には白菜の漬物が入っていた。
「今日も美味しそうー」
瑠璃は嬉しそうに座布団に正座をする。
「だなー」
孝太郎も机を挟んで正面に腰を下ろす。
「それじゃあいただきます」
瑠璃は手を合わせると朝食を食べ始めた。
「今日もいつもの時間に終わると思うから」
職場まで送って貰った瑠璃は孝太郎にそう告げる。
「わかったよ、今日も頑張って」
「孝太郎さんもね」
「ああ、ありがとう」
そう言うと車が発進した。
(今日、医院長に言おう…)
瑠璃は覚悟を決めると、病院へ向かって歩き出した。
「おはようございます~」
瑠璃は病院のドアを開ける。
「あら、浅田さん。おはよう」
「おはよう。浅田さん」
皆もうすっかり、瑠璃の全身ブランド品コーデとデパコス顔に驚かなくなってしまって、少し寂しさがあった。
(あの時は人気者気分だったのにな…)
あんなに口々に褒められたことなんて、これから先一生ないかもしれない。
「お~浅田、おはよう」
「あ、医院長。おはようございます」
医院長の姿を見ると、無意識に背筋がピンと伸びてしまった。
「おお、どうした~そんな身構えて」
「いや~特には…あはは。着替えてきまーす」
瑠璃は適当に誤魔化すと足早に更衣室へ向かった。
昼休み。
いつも通り、早々にコンビニのパンを食べ終えた瑠璃は診察室の前へ来ていた。
コンコンコン。
瑠璃は診察室のドアをノックする。
「どーぞー」
緊張している瑠璃とは対照的に随分と気の抜けた声が聞こえたので、ドアを開ける。
「失礼します。あの医院長」
「お、なんだ~浅田か。どうした~?寿退社の相談か?」
渡辺が書類を片手に冗談っぽく言う。
「はい。実はそうなんです」
「え?マジで?」
渡辺は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしてこちらを振り向く。
「やー、まさか本当だったとは…。よかったな浅田」
「ありがとうございます。来月か再来月には辞めようかと思ってまして…」
「おー、わかった。それまでにこっちも新しい人見つけておくわー」
「すみません。ご迷惑をおかけてしますが最後までよろしくお願いします」
「迷惑なんてとんでもない。おめでたい事じゃないか。他の人には話したのか?」
「いえまだです。私の口から伝えたいのですが、中々タイミングがなくって」
「おおそうかー、本当に困ったら言えよ。俺から言っておくから」
頼もしい上司で心強かった。
「ありがとうございます」
瑠璃は頭を下げると、診察室を後にした。
「よかった、伝えられて」
瑠璃はホッとしたように診察室のドアに寄りかかる。
「あとは春香にも伝えておこっと」
瑠璃はスマホを起動すると、孝太郎からメールが来ていた。
また晩御飯のことだろう。
「今日は何にしようかな」
そんなことを考えながら休憩室へ戻っていった。
「お疲れ様でした~」
瑠璃は元気よく職場の人たちへ挨拶をする。
病院のドアを開けると、冷たい風が一気に吹き込んできた。
「う~さむっ…」
瑠璃は両手を擦り合わせる。
と、孝太郎の運転する車が瑠璃の前に来た。
「お疲れ様~今日もありがとう~」
助手席のドアを開けながら言う。
「お疲れ様、今日はどうだった?」
「あ~今日はね…」
瑠璃は外のイルミネーションを眺めながら
「近々仕事辞めますって医院長に言ってきた」
「それって…」
「う、うん…」
瑠璃は急に恥ずかしくなって自分の手を握る。
「ありがとう、嬉しいよ」
孝太郎が瑠璃の頭を撫でる。
「だいぶ驚かれちゃったけどね…」
「そっかそっか」
孝太郎はご機嫌だった。
「でも本当に家事とか何にもできないけど…」
「言ったろ?そんなのは少しづつでいいって」
「うん…」
「高橋さんに聞いたら喜んで教えてくれそうだなー。あ、でも私の仕事ですからって言って瑠璃には一切やらせないかもなー」
「えーじゃあ私の仕事はどうなるのー?」
「だったらなにか好きなことをやるといいよ」
「好きなこと?」
そんな緩いことが瑠璃の仕事になるのだろうか。
「なにかないのか?」
「え、えっと…」
適当にスマホゲームを気が向いた時にやるぐらいしか趣味らしい趣味がなかった。
「なんだろう…あはは…」
「じゃあそれも見つけていくといいよ」
「そうだね…」
辺りのイルミネーションのように瑠璃の未来もキラキラと輝き出した。
「おかえりなさいませ」
車が駐車し、降りたと同時に高橋が声をかけてくる。
「ああ、ただいま高橋さん」
「ただいま帰りました」
「今日の夕ご飯はなにに致しましょうか?」
「あ、そうだった」
今日のお昼休みはバタバタしていて、夕飯のリクエストをメールしてなかった。
「ああ、そのことなんだけど高橋さんと瑠璃でなにか作ってくれないか?」
「え?!」
瑠璃がぎょっときた目で孝太郎を見つめる。
高橋は特に変わった様子はなく
「かしこまりました。それでは瑠璃様はこちらへ」
「え、えっ…」
「じゃああとは任せたよ」
孝太郎はにこにこと手を振って瑠璃を見送った。
こうして瑠璃はキッチンへと来ていた。
「さて、瑠璃様、何を作りましょうか?」
「えっと~」
瑠璃はキッチンをキョロキョロと見回す。
3口コンロに、大きな冷蔵庫、食器棚には上品で高価そうな食器たちが並んでいた。
「瑠璃様は普段お料理はされますか?」
「い、いや全然しないです…」
瑠璃は申し訳なさそうに下を向く。
「瑠璃様、大丈夫ですよ」
高橋は瑠璃の手を握る。
「料理は愛情ですから」
高橋はにっこりと微笑む。
「そうですね」
「それでは瑠璃様は手を洗ったあと、玉ねぎを切ってくださいませ」
「わ、わかりました」
瑠璃は手を洗うと、高橋から包丁を受け取る。
久しぶりに握った包丁は思っていたよりも重たく、が、意外と手に馴染んでくれた。
「どのように切ればいいですかね?」
「うーんそうですわね…」
瑠璃は高橋にレクチャーを受けながらなんとか料理を作り始めた。
「し、失礼します」
瑠璃は緊張した面持ちで食堂の襖を開ける。
「お、瑠璃、どうだったか?」
孝太郎は読んでいた新聞紙を適当に畳むと、姿勢を正す。
瑠璃は孝太郎の目の前にお皿を置く。
「シチューか美味そうだな」
「ちょっと水っぽいんだけどね…」
加えて不揃いに切られた野菜たち。
「いや、それでもこうして作ってくれたんだろう?嬉しいよ」
「はい、普段お作りにならないと仰ってたのに手際が宜しかったですのよ。瑠璃様は料理の才能あると思います」
高橋が嬉しそうに言う。
「そ、そうでしょうか…」
高橋の補助がなかったら何回指を切っていたか、数え切れないほどだった。
「それじゃあ頂くとするよ。ほら瑠璃も」
「う、うん…」
瑠璃も孝太郎の正面に座り、自分が作ったシチューを置く。
「いただきます」
孝太郎が手を合わせて、スプーンを持つ。
「うん、美味いよ瑠璃」
「よ、よかったぁ~…」
一気に全身の力が抜ける。
「ほら、瑠璃様。やっぱり孝太郎様は喜んでくださいましたでしょ」
「はい、ありがとうございます高橋さん!色々と教えて下さって」
瑠璃は頭を下げる。
「とんでもございません!私はただサポートをしただけで、お作りになられたのは瑠璃様じゃありませんか」
「そのサポートがなかったらこうして作れなかったです」
「瑠璃様こそ…」
「まあまあ、瑠璃も高橋さんも落ち着いて。ほら、瑠璃冷めないうちに食べなよ。高橋さんももう遅いから今日は帰って。食器は俺たちで洗っておくから。今日もお疲れ様」
「かしこまりました。では私はこれで」
高橋は部屋を後にする。
「それじゃあ、私も食べようかな。いただきます」
瑠璃は手を合わせてからスプーンを持ち、シチューを1口食べる。
「あ…本当だ…美味しい…」
それは作った本人が1番びっくりしているが、美味しかった。
「私もやれば出来るんだなー…」
そんなことをぼんやりと呟くと
「そうだぞ、瑠璃。今度休みの日にでもまた作ってくれないか?」
「うん、作るよ。楽しかったし」
「それはよかった。なによりだよ」
高橋の教え方も上手く、まるで母親と料理をしている子供のような気分になれた。
「今度は何作ろうかなー」
好きな人のために作る料理は楽しく、美味しそうに食べてる姿を見るだけで満たされる。
「あー美味しかった」
瑠璃は孝太郎の部屋のふかふかの布団へダイブする。
「俺もだよ」
孝太郎も布団の隣へ寝そべる。
「急だったのに作ってくれてありがとうな」
孝太郎は瑠璃の頭を撫でる。
「もう、あの時は無茶振りされたって本当に焦ったんだから」
それでもこうして良い形におさまってよかった。
「はは。悪かった。さてと、俺は仕事が残ってるからまた先に風呂に入っててくれ」
渉は布団から起き上がると自席に着き、パソコンを起動する。
「うん、わかった」
瑠璃はお風呂の栓を閉めようと、浴室へ向かった。
「あれ?」
浴室は昨日よりも明らかにピカピカになっていた。
シャンプーやボディーソープも詰め替えられていたし、浴槽も綺麗だった。
「これも高橋さんがやったんだろうな」
いずれは自分がやることになるだろう。
瑠璃はお風呂の栓を閉めると、沸かすスイッチを押す。
部屋に戻ると相変わらず孝太郎は真剣な眼差しで、書類とパソコンを交互に見ていた。
そんな姿をぼんやりと見ていると
「暇だろうからテレビでも観ててくれ」
と声をかけられた。
「うるさくない?大丈夫?」
「大丈夫だ、ほら」
瑠璃は孝太郎からテレビのリモコンを受け取る。
そしてテレビのスイッチを入れると、
「それでは本日のゲストは、新進気鋭の2.5次元俳優、金汰壱魔琴(きんだいちまこと)さんです!」
「どーも」
と紹介された青年は確かに相当な美形だったが、まだ若いからかどこか真面目さや誠実さが欠けていて、色々遊んでそうだなという印象を受けた。
「きゃ~ぁ~、魔琴様ぁ~。姫華ぁ~大ファンなんですぅ~」
テレビで姫華がきゃーきゃー喜んでる。
今日の姫華の服装はいつもの着物ではなく、ツインテールでピンクを基調としたフリルとリボンがたっぷりついたドレス、いわゆるロリータファッションだった。
「この子、本当になんでも着こなすんだな…。ってまたテレビ出てるし…」
瑠璃は腕を組みながら関心して観ていた。
「この前の舞台も行きましたしぃ~、来月発売の写真集は100冊買うつもりですわぁ~」
「ありがとうございます。でもそんなに買っても特典会の内容は変わりませんよ」
魔琴はいたずらっ子のようにニヤリと微笑む。
瑠璃は不覚にもその微笑みに思わずドキッとしてしまった。
「相手は2.5次元俳優…雲の上の存在…それに私には孝太郎さんがいる…」
瑠璃は胸に手を当て、自分を落ち着かせる。
「えぇ~そぉなんですかぁ~。それでも100冊買いますわぁ~。姫華ぁ~魔琴様にぃ~少しでもこぉ~けんしたいですものぉ~。なんならもっと買ってもいいぐらいですわぁ~」
「へえ~、2.5次元俳優って写真集出す時、特典会なんてするんだ。それに対して100冊買うって宣言する早乙女姫華も凄いけど…」
さすがはお嬢様である。
「ありがとうございます。無理はなさらないでくださいね。そういうわけで、来月発売のファースト写真集よろしくお願いします!2冊以上購入でサイン入れ、3冊以上購入で握手会やります!」
そんな話を聞いているうちに、お風呂が沸いたことを知らせる音楽が流れる。
「あ、それじゃあ私、入ってきちゃうね」
「わかった、ゆっくり入っておいで」
瑠璃はテレビを消すと、入浴するための準備を始めた。
「はぁ~あったまる~」
瑠璃は昨日よりも綺麗な浴槽で大きく伸びをする。
「誰だって掃除が行き届いた部屋で生活したいもんね」
こうして浴槽に汚れがないと言うだけで、気分が良かった。
孝太郎にもそうやって生活してほしい。
「そのためにも私が頑張らなくっちゃ。料理も家事も積極的にこなしていきたいな」
家を守るということはそういうことだろう。こういうことで、孝太郎のサポートをしていきたかった。
「よし、頑張るぞ!」
瑠璃はそう決心すると浴室を後にした。
「上がったよ~」
瑠璃はタオルを頭から被り、タイピングをしている孝太郎に告げる。
「おお、おかえり」
孝太郎は立ち上がり、瑠璃を抱きしめる。
「いい匂いがする…」
「孝太郎さんと同じシャンプーとボディーソープだから、自分からも同じ匂いすると思うよ」
「いや、瑠璃の方がずっといい匂いだ」
そういうと孝太郎は瑠璃にキスをする。
「俺も風呂入ってくる。今日は一緒にゆっくり休もう」
「うん。わかった」
孝太郎は浴室へ向かい、瑠璃はタオルドライを始めた。
スキンケアとドライヤーを一通り終え、ソファーに座り、お茶を飲んで一服してると、孝太郎が浴室から出てきた。
まさに水も滴るいい男とはこのことで、入浴直後の孝太郎はやけに色っぽかった。
「あ、孝太郎さんもお茶飲む?」
瑠璃はそんな照れを誤魔化すように孝太郎にお茶を勧める。
「ああ、じゃあ飲もうかな」
孝太郎は隣へ座る。
「どうぞ」
瑠璃は湯呑みを持ってきて、孝太郎の前に置き、お茶を注ぐ。
「ありがとう。いただくよ」
孝太郎はお茶を飲む姿すら絵になる。
「瑠璃?どうかした?」
「あ」
孝太郎の姿に見惚れてしまっていた。
「なんでもない。おかわりいる?」
「いや、大丈夫だ。ありがとう。髪の毛乾かしてくる」
「うん」
「先、布団入ってていいから」
孝太郎は洗面所へ向かった。
布団がめくれて、孝太郎が入ってくる。
瑠璃はスマホを触っていたが、電源を落とす。
「瑠璃…」
孝太郎が抱きしめてくる。
布団の中で聞く彼の声は、どうしてこんなにも艶っぽいのだろうか。
「孝太郎さん…」
瑠璃も孝太郎を強く抱きしめる。
「今日は疲れてるだろうからこのまま寝ようか」
「う、うん…そうだね…」
(そっか~、少し残念だな…)
「それともしようか?」
孝太郎が試すように聞いてくる。
「わ、私は別に…」
そこから先は言葉が出てこなかった。
「どうしたい?」
「したいです…」
瑠璃は小声で呟く。
「よく言えました」
今夜は瑠璃を気遣ってか控えめに終わった。
瑠璃はいつも通り、襖をノックする音で目が覚めた。
「孝太郎様~、瑠璃様~、お目覚めでしょうか?」
「はい、起きます」
「起きてるよ」
自分の頭の上から声がする。
「お食事のご用意が出来ましたので、召し上がっていって下さいませ」
「わかりました~。毎日ありがとうございます」
瑠璃は孝太郎の腕の中から脱出しようとすると、
「おはよう」
おでこにキスをされる。
「うん、おはよう。孝太郎さん」
「今日は寒いなー」
孝太郎は瑠璃を強く抱きしめる。
「ねー」
「このまま2度寝しちゃいそうだ」
孝太郎は小さく欠伸をする。
「でも起きないと」
孝太郎は瑠璃を抱きしめていた腕の力を緩める。
瑠璃は孝太郎の腕の中からやっと脱出すると、散らばっている下着類を集め始める。
「俺も起きないとなー」
孝太郎は布団から出ると、仕事に行く準備を始めた。
「それじゃあ終わったらまたメールしてくれ」
「わかった。今日も送ってくれてありがとう」
瑠璃は孝太郎が運転する車に手を振る。
しばらくすると姿が見えくなったので、病院へ向かう。
「おはようございます~」
病院のドアを開けると
「あらぁ~ごきげんよぉ~」
聞き覚えがある甘ったるい声がする。
「え!?早乙女姫華…さん!?」
姫華は瑠璃が働いている病院の制服を着て、にこやかに受付に座っていた。
「お嬢様、そこはごきげんようではなく、おはようございますですよ」
「あ~、野村(のむら)ぁ~、そうでしたわねぇ~気をつけますわぁ~。って姫華のことぉ~覚えていてくれて嬉しいですわぁ~。今日からよろしくお願いしま~す~」
傍には野村と呼ばれた、あの時ブランケットと食事を持ってきてくれた女性と、苦い顔をした渡辺が立っていた。
「医院長これどういうことなんですか?」
「いや~、昨日姫華ちゃんのお父さん直々に病院へやってきてさ~、娘をどうか働かせてくれないだろうかって頭下げられちゃって」
「それで働かせることにしたんですか?」
「そうそう」
「姫華ぁ~今、お金が無くてぇ~ピンチなんですぅ~」
「お金が無い?」
大富豪のお嬢様のはずだ。
そんなはずはないだろう。
「はいぃ~魔琴様の写真集を100冊買いたいんですけどぉ~、おか~ぁ様が50冊分しかお金を出してくれないそうなのでぇ~あとは自分で稼ぐしかないかなぁ~ってぇ」
「お嬢様は源十郎様に甘やかされすぎです。京華(きょうか)様がお怒りになるのも無理はありませんわ」
「な、なるほど…」
しかし芸能活動や動画投稿の広告収入などがあるため、そんなことをしなくても大丈夫そうに思えたが
「あとはぁ~こぉ~たろ~様の婚約者の仕事ってどんなものなのか体験してみたくってぇ~」
「へぇ?」
「そぉしたらぁ~こぉ~たろ~様が望む女性に近づけるかなぁ~ってぇ」
お嬢様の思考はどうもよくわからない。
「なあそれって結局こぉ~たろ~様?と魔琴様?どっちが好きなんだよ」
渡辺がツッコミを入れる。
「う~ん、こぉ~たろ~様はぁ~婚約者としていいなぁ~って思っててぇ~、魔琴様は推しですわぁ~」
(あ、意外としっかり考えてた)
「お嬢様ではまだまだ至らない点があると思いますので、サポートは私が」
野村は深々と頭を下げる。
「という訳だ。姫華ちゃんはまだ大学生だからパート、野村さんは正社員として雇うことにした。浅田、これでいつでも辞めていいからな」
渡辺は満足そうに微笑む。
「わ、わかりました。よろしくお願いします」
「こちらこそですわぁ~」
「はいぃ~渡辺クリニックですわぁ~。え?えっとぉ~お電話代わりますわねぇ~。浅田様ぁ~なんか電話相手の方が訳分からないこと言ってきてぇ~」
と受話器をこちらに向けてくる。
「え!わかりました電話代ります。お待たせ致しました。渡辺クリニックです」
「おお、いつもの受付のねーちゃんだ。診察時間を変更したのだが…」
電話相手は80代ほどの男性だった。
確かにしゃがれ声に加えて、滑舌が悪く所々聞き取りにくい箇所がある。
が、そんなの瑠璃は慣れていた。
「かしこまりました。何時に変更致しましょうか?」
「それじゃあ火曜日の10時に」
「火曜日の10時ですね。空いていますので予約入れておきます」
「ああ、頼んだよ。それじゃあまた」
と電話が切れた。
「ふぅ…なんだこんなことか」
安心して受話器を置くと
「凄いですわぁ~浅田様ぁ~」
「わっ、ちょっ…」
姫華に抱きつかれる。
ふわりと、いい匂いがする。
「姫華じゃぁ~絶対たいぉ~できなかったのに、あんなにあっさりとこなしてしまうなんてぇ~」
「それくらい普通ですって…」
「さすがはこぉ~たろ~様の婚約者ですわぁ~、姫華ぁ~かんどぉ~しましたぁ~」
「大袈裟ですって。あと今は仕事中なので離れてください」
「わかりましたぁ~」
姫華は瑠璃から離れる。
「ふぅ…やっと仕事が出来る…」
「浅田さん、これ終わりました。確認お願いします」
野村が先程渡したレセプトを持ってきた。
「え、もうできたんですか?」
確かほんの数十分前に渡したばかりだった。
しかも、わからないところは聞いてくれてと言ったきり1度も聞きに来なかった。
「医療事務の資格を持っておりますので、これくらいは」
野村が淡々と告げる。
「ああ、そうだったんですね。確認します」
「浅田様ぁ~、野村ぁ~こちらのお客様がぁ~」
「お嬢様、職場の先輩には様付けで呼ぶのではなくさんで呼ぶんですよ。どうかなさいましたか?」
野村が素早くフォローに入る。
「凄い…」
野村が書いたレセプトを見ると完璧に出来ていて、入力ミスや写し間違えなどもなかった。
「初めてでこんなにできるって有能すぎない?」
もしかしたら早乙女家で働く前は医療事務の仕事をしていたのかもしれない。
姫華の仕事のできなさは拭いきれないかと思ったが、野村がこんなにも優秀なのでなんとかなった。
そして昼休みになった。
「あーなんか疲れたー」
瑠璃は机に突っ伏す。
結局姫華は持ち前の人懐っこさと、美貌を駆使して病院の患者たちをメロメロにしていた。
少しでもミスすると野村が完璧にフォローし、姫華が申し訳なさそうに謝ると「いいんだよ、まだ若いんだし」と全員から笑顔で許されていた。
「あーあ、私も美人に生まれたかったなー。世の中不公平だ」
と、スマホが鳴る。
確認してみると、孝太郎から夕飯が何がいいかという内容だった。
「うーん、どうしよう」
またなにか和風なものを考えるが一向に出てこない。
「うーん。あ、いっそ、中華とか?」
瑠璃は餃子が食べたいです。と返信した。
「お疲れ様でした~」
「お疲れ様でしたぁ~」
瑠璃は病院をあとにする。
孝太郎の車はもう着いており、瑠璃を見つけると手を振ってきた。
「お待たせ」
瑠璃は車に乗り込む。
「いや、今来たところだから気にしないでくれ。今日はどうだった?」
「そうそう、なんと早乙女姫華とその使用人が病院で働くことになってさ~」
「それはすごいな…」
孝太郎は苦笑いをする。
「でしょ?もうビックリしたよ~」
「そうしたらいつでも仕事辞めれるな」
「う、うん。そうだね。医院長も言ってたよ」
「そうか」
「はは、来週には辞めようかなーなんて」
「いいんじゃないか」
「うん…」
「もしかしてまだ迷ってるのか?」
「いやそんなことはないよ。ただ考え深いなーって」
新卒からずっと勤めていた職場だ。
それを寿退社するだなんて思ってもいなかった。
「人生何があるかわからないね」
「本当だな」
孝太郎の運転していた車が駐車場に停る。
車から降りると
「お帰りなさいませ」
高橋が出迎える。
「ただいま帰りました~」
「ただいま。高橋さん」
「本日は中華料理ですよ~」
「わぁ~ありがとうございます。食べるのが楽しみです」
「それじゃあ行こうか瑠璃」
「うん」
孝太郎が瑠璃の腰に手を回す。
食堂の襖を開ける。
今日のメニューはご飯、卵と木耳のスープ、餃子、春巻き、焼売だった。
「おー、中華だー」
瑠璃は興奮気味に座布団に正座する。
「中華は俺も久しぶりに食べるなー」
孝太郎も瑠璃の正面に腰を下ろす。
「そうなんだ。冷めないうちに食べちゃお。いただきまーす」
瑠璃は手を合わせる。
「うん、美味しい~」
「ああ、上手いな」
「今度教えてもらおっと」
2人は料理を堪能したあと孝太郎の部屋へ向かった。
「今日もお疲れ様」
瑠璃は孝太郎の部屋へ着くと抱きしめられる。
「うん、孝太郎さんもお疲れ様」
瑠璃も孝太郎の身体に腕を回す。
「今日も仕事が残ってるんだ。先に風呂に入って休んでてくれ」
「うん、わかった」
というと孝太郎は瑠璃を抱きしめていた腕を離し、パソコンの電源を入れる。
瑠璃は浴室へ行き、お風呂の栓を閉めた。
そしてお風呂を沸かすスイッチを押した。
布団がめくれて、瑠璃は目を覚ます。
「いつも起こしちゃってごめんな」
「ううん。大丈夫」
瑠璃は孝太郎に抱きしめられる。
瑠璃も孝太郎に抱きしめれると落ち着くようになってきた。
「今日はこのまま寝ようか」
孝太郎は瑠璃の頭を優しく撫でる。
「うん。そうだね…」
こうやって撫でられると段々眠くなってくる。
「おやすみ」
孝太郎は瑠璃にキスをすると満足そうに目を閉じた。
襖をノックする音が聞こえる。
「瑠璃様~、孝太郎様~、おはようございます」
「おはようございます」
「おはよう」
「本日も朝食が出来上がっておりますので、召し上がっていってくださいませ」
「さてと、それじゃあ準備するか」
「そうだね」
瑠璃たちは朝の準備を始めた。
「それじゃあ終わったら連絡してくれ」
「わかった。今日もありがとうね」
「ごきげんよぉ~、じゃなかった。おはようございますぅ~」
「お、おはようございます」
姫華は笑顔で瑠璃を歓迎してくれた。
相変わらず姫華がいるこの状況に慣れない。
「おはようございます。浅田さん」
「ああ、野村さんもおはようございます」
野村はいつものように澄まし顔で姫華の隣に座っていた。
「おお、浅田、おはよう。そうだちょっと話があるんだがいいか?」
渡辺は真面目な顔をして瑠璃に話しかける。
「あ、はい。なんでしょうか」
「まあここで話すのもなんだから」
と、診察室へ瑠璃を招く。
「それで話ってなんでしょうか?」
渡辺は診察室の椅子に腰をかける。
「浅田の寿退社のことなんだが、本当にいつでもいいからな。姫華ちゃんはともかく、野村さんなら安心して後任を任せられるから」
「はい。来週辺りを予定してます」
「そうか、なら送別会しないとな」
「そんな大袈裟ですって」
「いやー、でも浅田が寿退社かー。あの頃の浅田からは想像がつかない」
渡辺がニヤニヤとこちらを見てくる。
瑠璃が入社した当初はミスも多く、毎日のように怒られていた。
「ミスをすることが無くなったと思ったら、寿退社するなんてなー」
「医院長には本当にお世話になりました」
毎週のように「もう仕事辞めます」と弱音を吐いていたものだ。
「とにかくおめでたい事だ。幸せになれよ」
「はい!」
瑠璃は診察室を後にすると、更衣室へ向かった。
そして瑠璃が退社する日がやってきた-
今日は姫華は大学のため、野村も出勤しておらず、顔馴染みのあるメンバーのみでの送別会となった。
「浅田さん、おめでとう」
瑠璃は職場の先輩から花束を受け取る。
「こんな素敵な花束…ありがとうございます」
瑠璃は目に涙を浮かべる。
「浅田さん、幸せになってね」
「なにかあったらいつでも相談してね」
「はい!」
瑠璃は涙を我慢しながら、元気よく返事をする。
「浅田、これは皆からだ」
ピンクのラッピングがしてある袋を受け取る。
「プレゼントまでありがとうございます」
「戻ってきたとしても温かく歓迎するからな」
渡辺がいたずらっ子のような笑みを浮かべて言う。
「ちょっと~医院長。何言うんですか!そんなことならないですって。ねぇ、浅田さん」
「は、はい…」
(ならないといいな…)
「まあとにかくだ。今までご苦労さま。元気でな」
「医院長こそ、本当にありがとうございました」
こうして瑠璃の送別会は囁かに行われた。
外で待っていると、孝太郎が運転する車がやってきた。
「ありがとう~」
瑠璃は片手でなんとか助手席のドアを開けると、孝太郎が花束とプレゼントを後部座席に置いてくれた。
「今日までお疲れ様」
「うん、でもまだ仕事辞めたって実感がないや~」
5年間、お世話になった職場だ。
明日からでもいつもと同じ時間に起きて、準備を始めてしまいそうだった。
「退社記念と言ったらなんだけど、今まででやってみたかったことってなにかないか」
「やってみたかったことか~」
「なんでもいい。どんな些細なことだっていいよ」
「じゃあネイルやってみたいなー」
今までは職業柄できなかった。
いつもOLの春香がやっているのをみて、密かに羨ましがっていた。
「いいんじゃないか。ネイル。爪先が可愛いとモチベーションも上がりそうだしな」
「そうそう!」
「あと他にやって見たいことは?」
「うーん、私すごい癖字だからそれを直したい」
「癖字を直すっていうとあれか、ボールペン字講座みたいなやつか」
「うん、やってみたいなーって」
「じゃあそれも候補に入れよう。他には?」
「あとは、直すついでに歯並びも直したいなーって」
そんなにガタガタではないが、歯並びが綺麗になると横顔や口元も綺麗になると言うのを聞いて密かに興味があった。
矯正はお金も時間もかかるし、やるなら今ではないだろうか。
「なるほどね」
「なんか大学デビューする大学生みたいなことばっか言っちゃったけど…」
もっとこう、大人の女性らしいことを言えばよかったと少し後悔する。
「それも含めて今までやりたかったことだろう。全然いいよ。早速明日からやろう」
「え?明日から」
瑠璃は孝太郎を見る。
「瑠璃はどこかネイルサロンと歯医者の予約しておいてくれ。ボールペン字講座は知り合いがいるから、その人に来させるよ」
「う、うん。わかった」
ネイルに歯列矯正にボールペン字講座、全部で幾らかかることになるだろうか。
瑠璃は頭の中で簡単に計算し始める。
(えっと、確かネイルが2、3万ぐらいで、歯列矯正が100万ぐらいかな。ボールペン字講座はいくらぐらいなんだろう)
「あ、ボールペン字講座ってお月謝いくらくらいかわかる?」
「ああ、そんなの全部俺が出すよ」
「え?」
「ネイルも歯列矯正もボールペン字講座も全部俺が出すから、気にしないでくれ」
「いやいや、そういうわけには…」
「今まで頑張って働いてきたんだから。これくらいは払わせてくれ」
「これくらいはって額じゃないんだけど…」
明らかに100万は超えている。
「じゃあ、妻になる人がやりたいって言ってることなんだ。俺に払わせてくれ」
「孝太郎さん…」
「とにかく、金額とか気にしないでいいから。全力で楽しんでくれ。他にやりたいことは?」
「えっとねぇ…」
瑠璃は夢物語だと思っていたことを孝太郎に話す。
孝太郎はどんなことにでも「うん、いいね」と言ってくれて明日から色々始まる予感がする。
「お帰りなさいませ」
高橋が出迎える。
「ただいま帰りました」
「ただいま」
明日から、こうして出迎えるのも瑠璃の仕事になるだろう。
「瑠璃様、今までお疲れ様でございました。本日はすき焼きでございますよ」
「ありがとうございます。え!ホントですか!楽しみです!」
「それじゃあ行こうか」
孝太郎は瑠璃の腰に手を回し、歩き始めた。
食堂の襖を開けるとそこには新鮮な野菜がたっぷりのったお皿。
その隣には桐の箱に入ったお肉は見るからに美味しそうで、瑠璃の食欲を煽った。
「うわー、美味しそうなお肉。こんなの食べれるなんて幸せ」
「沢山食べてくれ。しかしこれは高橋さん奮発したなー」
「ありがとう。いただきまーす」
瑠璃は手を合わせる。
そしてお肉や葱など具材を鍋へと入れる。
「すき焼きなんて久しぶりだなー」
「俺もだよ。いつ食べてもテンション上がるよな」
孝太郎も珍しく嬉しそうだった。
「わかるわかる~」
「だよな~。お、そろそろ食べ頃じゃないか」
「そうだね~」
瑠璃は孝太郎のお椀にも具材をのせると
「じゃあ改めていただきまーす。うん、美味しい~」
「ああ、上手いな。卵もいいのを使っている」
こうして2人はみるみるうちにたいらげていった。
「あー美味しかった~」
瑠璃は満足そうにお腹を摩る。
「喜んでもらってなによりだよ」
そんな瑠璃の様子を見た孝太郎もご満悦だった。
「それじゃあ部屋に戻ろうか」
「うん」
「今日も仕事が残ってるんだ。テレビでも見てゆっくりしててくれ」
「わかった」
瑠璃は浴室へ行き、浴槽の栓を閉め、お風呂を沸かすスイッチを押した。
部屋に戻りテレビをつけると、これと言って面白ろそうな番組がやってなかった。
なので歯列矯正やネイルサロンについて調べ始めた。
「あ~明日から本当に何しようかな~」
浴槽の中でそんなことを呟く。
まだ結婚はしてないが、実質専業主婦になったようなものだ。
孝太郎に言われた通り、しっかりと家庭を守っていきたい。
それと同時に習い事をして自分を高めていきたい。
さっき調べてみたところ良さげな歯医者とネイルサロンが見つかったので、早速ウェブ予約をした。
「よし!頑張ろう!」
瑠璃は両手で自分の頬を叩くと浴室を後にした。
「上がったよ~」
瑠璃はパソコンに向かっていた孝太郎に声をかける。
「おお、瑠璃」
孝太郎が椅子から立ち上がり、瑠璃を抱きしめる。
「今日もいい匂いだな」
「そ、そうかな」
自分じゃわからなかった。
「早く髪の毛乾かしておいで」
孝太郎は瑠璃を抱きしめるのやめる。
「うん」
瑠璃は洗面所へ向かい、夜のルーティンを終えると先に布団に入った。
「ん…」
布団がめくれて、目を覚ます。
「瑠璃…」
孝太郎にキスをされ、頭を撫でられる。
「どうしたの…?」
いつもよりも声が艶っぽい。
「いや、なんでもない…ただ瑠璃に触れてたいんだ…」
「私も…」
瑠璃は孝太郎に抱きつく。
「してもいいか?」
「うん…」
孝太郎は瑠璃にキスをする。
唇を割って舌が入ってくる。
2人の夜はいつも通りに終わった。
今日は襖をノックする音を聞く前に目が覚めた。
今日からは早く起きて準備しなくてもいいのに。
習慣とは怖いものだ。
だが相変わらず、孝太郎の腕の中で寝ている自分にほっとする。
しばらくすると襖をノックする音が聞こえてきた。
「瑠璃様~、孝太郎様~」
高橋が呼びかける。
「起きてるよ」
「起きてます」
「了解致しました。朝食召し上がってくださいませ」
「おはよう。瑠璃」
「おはよう」
「今日から目いっぱい楽しんでくれ」
「うん!」
瑠璃は布団から出ると、大きく伸びをする。
今日の予定は午前中はネイルサロンと歯医者、お昼をここで食べてからはボールペン字講座の先生が来ることになっていた。
午後の空いた時間は、高橋と共に家事でもすればいいだろう。
髪をとかしながらそんなことを考えてると、頭にキスをされる。
「それじゃあ、俺は行ってくるよ」
準備を済ませた孝太郎が言う。
「え、もう準備終わったの?」
「ああ。瑠璃、大丈夫か?やけにぼーっとしてる気がするぞ」
「だ、大丈夫。気をつけて行ってきてね」
「ああ」
孝太郎は今度は瑠璃の唇にキスをして、部屋を後にした。
「私も浮かれてないで早く準備しちゃわないと!」
そうして1ヶ月後-
孝太郎からの誘いで、瑠璃は久しぶりに孝太郎の車に乗っていた。
「今日はちょっと寄りたい場所があるんだ」
早口でそう告げるとアクセルを踏む。
「寄りたい場所?」
「ああ、大事な話があるんだ」
とだけ言うと、孝太郎はハンドルを回す。
(どこに行くんだろう…。大事な話ってなんだろう…。)
「キレー」
100万ドルの夜景と言っても差し支えないほどの眩い景色が一望できた。
「今日が雨じゃなくて良かった」
孝太郎は瑠璃の肩に腕を回す。
「…」
「…」
暫く沈黙が続いた。
「それで大事な話って?」
瑠璃が沈黙を断ち切る。
「ああ、そうだったな」
孝太郎は瑠璃に回していた腕をポケットに移動させると
「というわけで瑠璃、改めてだが結婚してください」
孝太郎は指輪をこちらに差し出し、跪く。
瑠璃の答えは決まっていた。
「ごめんなさい」
瑠璃は勢いよく頭を下げる。
まだ指輪は貰えなかった。
家の事、習い事などどれもこれも中途半端で、これじゃあ家を守るなんてこと出来やしない。
「ごめんなさい。気持ちは凄く嬉しいのだけど、まだ待って。もっと孝太郎さんに相応しい女性になりたいの」
「…わかった…瑠璃がそういうのなら…待つよ」
孝太郎は跪くのをやめて、指輪の入った箱をしまった。
そして数ヶ月後-
この数ヶ月で色々あった。
春香はマッチングアプリで知り合った男性と意気投合し、来月から同棲を始めるらしい。
毎日届く惚気メールは、読んでるこっちまで幸せになるような内容だった。
早乙女姫華は金汰壱魔琴と電撃授かり婚をした。
姫華いわく、初めて会った時から運命を感じていたそうだ。
バイトと大学は辞めて家庭に専念するらしい。
瑠璃はというと大体の料理はレシピを見なくても作れるようになった。
毎日屋敷中の掃除をして、合間にこなすようになってきた生け花や茶道や着物の着付け、英語にフランス語などの習い事は人並み以上に出来るようになった。
そしてなにより週に1度のエステが瑠璃にとっては極上の癒しの時間になっていた。
「少しは孝太郎さんに相応しい女性になれたかな」
鏡の前で問いかける。
今の姿は自分で見ても垢抜けたと感じる。
以前、春香と会った時には「別人みたい!どんどん綺麗なっていくよね!」と驚かれたものだ。
毎日のように孝太郎に愛されて、好きなことを好きなだけできて、瑠璃は未だかつて無いほど幸せの中にいた。
と、襖がノックされる。
「はい」
「失礼します。瑠璃様、ちょっとよろしいでしょうか?」
「はい、高橋さん。なんでしょうか」
「本日の晩御飯のご相談なのですが、何を作りましょうか?」
最近の調理は瑠璃と高橋の2人で行っている。
瑠璃はネイルをしているので、調理用の手袋をはめて主に食材を切ったり、炒めたりと高橋のサポートをすることが多かった。
「うーん、そうですね…孝太郎さんに聞いてみます」
瑠璃はスマホを取りだし孝太郎へ「お疲れ様です。夕飯は何が食べたいですか?」とメールをした。
「それでは返信が来るまでの間、隣室のお掃除済ませちゃいましょうか」
「そうですね。まだその部屋は掃除してなかったですもんね」
高橋の提案に瑠璃ものる。
部屋の掃除といっても孝太郎の部屋以外殆ど使われていないため、汚れておらず掃除機をかけたり、窓を拭いたりと簡単に済むことだった。
「では私は先に隣室へ向かいますので、瑠璃様も準備が出来次第いらして下さいませ」
「わかりました」
瑠璃は着替えを済ませ、髪の毛を纏めると隣室へ向かった。
「お待たせしましたー」
「あら瑠璃様、それでは掃除機の方をかけちゃってください。私は窓を拭きますので」
「わかりました」
瑠璃は掃除機のスイッチを入れる。
(孝太郎さんからの返信まだかなー)
今日は何が食べたいと言われるだろうか。
そのリクエストに答えて料理を作るのが格別に楽しかった。
料理を作ると言っても補助的なことしかできないが、それでも高橋は瑠璃のサポートに大変助かっているらしく、孝太郎からもそれでいいと言われていた。
ポケットに入っていたスマホが震える。
「あ、孝太郎さんから返信きた」
瑠璃は掃除機をかけるのをやめて、スマホを確認する。
「ロールキャベツとビーフシチューが食べたい」
どちらも孝太郎の大好物だった。
しかしどちらも作るのに手間がかかる料理でもあった。
「高橋さん、今孝太郎さんから返信きてロールキャベツとビーフシチューが食べたいそうです」
「まあまあ、かしこまりました。ではお掃除はこの辺で切り上げて、お料理作っちゃいましょうか」
「はい」
瑠璃たちはキッチンへ向かった。
「それでは作っちゃいましょうか」
「何をしたらいいですか?」
「うーん、そうですね。ではキャベツの芯を取り除いて下さいませ」
「わかりました」
「それが終わったら人参と玉ねぎも切り刻んで下さいね」
「はい」
瑠璃は早速手を洗い、調理用の手袋をはめて調理を始める。
孝太郎の車が駐車場に停り、降りてくる。
「おかえりなさい」
「おかえりなさいませ」
孝太郎が出てくると同時に声をかける。
「ああ、瑠璃、高橋さんもただいま」
孝太郎はにこやかな笑みを浮かべる。
「今日はリクエスト通り、ロールキャベツとビーフシチューだよ」
「そうか。いつも作ってくれてありがとう。早速いただくよ」
「それじゃあ食堂へ行こっか」
「そうだな」
孝太郎は瑠璃の腰に手を回して歩き出した。
「うん。美味いな」
「良かった~」
本日作ったビーフシチューとロールキャベツはどちらも好評だった。
「高橋さんのおかげだよ。私1人じゃこんなの作れないもん」
「いやいや、瑠璃も作れるだろ。今度1人で作ってみてくれ」
「うーん、できるか分からないけどやってみる」
「瑠璃ならできるよ」
「うん!ありがとう」
「そうだ、明日俺が帰ってきてから出かけないか?」
「え、うん。いいよ。どこ行くの?」
「それは秘密だ。それじゃあご馳走様でした」
孝太郎は手を合わせる。
お皿を見るとどちらも綺麗にたいらげてあった。
「はーい。それじゃあ片付けちゃうね」
瑠璃はお皿を持つとキッチンへ向かった。
「あ、高橋さんお疲れ様です」
「瑠璃様こそお疲れ様でございます。孝太郎様は完食されたのですね。何よりです」
高橋は空になったお皿を見て、満足そうに笑う。
「美味しいって言ってましたよ」
瑠璃はお皿を流しに置くと、調理用の手袋をはめて食器を洗う。
「高橋さん、後はやっておくので今日はもう上がってください」
「わかりました。それでまた明日」
「はい、また明日」
高橋はぺこりと頭を下げ、キッチンをあとにする。
食器を洗い終えた瑠璃は、孝太郎の部屋の襖をノックする。
「どうぞ」
声が聞こえたので襖を開けると、孝太郎はパソコンと資料を眺めていた。
「お風呂もう入っちゃった?」
「いやまだだ。先に入っててくれ」
「うん。わかった」
瑠璃は浴室へ向かった。
今日は浴室を浴槽や、窓までピカピカに掃除をしたばかりだった。
綺麗な浴室だとやはり気分がいい。
(掃除した甲斐があるな)
瑠璃は満足げに浴槽の栓を閉めると、お風呂を沸かすスイッチを押した。
渉孝太郎の部屋に戻ると、相変わらず孝太郎は残りの仕事をしていた。
なので瑠璃はお風呂が沸くまでの間、テレビを見ることにした。
テレビをつけると早乙女姫華と金汰壱魔琴が並んで座っていた。
「姫華もぉ~まさか妊娠してるとは思ってなくってぇ~。ちょっと風邪っぽいなぁ~って感じでしたぁ~」
「風邪薬を飲まなくてよかったよ」
魔琴が心配そうに姫華を見つめる。
「また早乙女姫華出てるよ…」
瑠璃は呆れ気味にテレビを見る。
今日の姫華の服装は、淡い紫陽花が美しい着物を着ていた。
着物を着ているためお腹が膨らんでるのがわかりにくいが、確かに膨らんでいた。
「お父様はぁ~結婚に反対気味だったんですけどぉ~。結局、孫の顔を見るのが楽しみならしくってぇ~」
と姫華はお腹を摩る。
「僕もどんな風に怒鳴られるかとドキドキしてたのですが、結局丸く納まって良かったです」
「まぁ~?仮に反対されたとしてもぉ~、そんなの無視しかないですわぁ~。私たちはぁ~うんめぇ~の赤い糸で結ばれてるんですからぁ~」
「はは。そうだね姫ちゃん」
と魔琴が姫華の手を握る。
「うわ…テレビで放送されるのによくそんなこと言えるな…」
瑠璃は苦い顔をしてお茶を飲む。
(でも運命の赤い糸か…)
孝太郎とは、きちんと結ばれてるのだろうか。
1回プロポーズを断ってから、孝太郎の様子は変わらなかった。
今では孝太郎に釣り合う女性になれたと自覚していたが、まだ足りないのかもしれない。
(それとも結婚する気がないのかな…)
以前、結婚願望がないと言っていたことを思い出す。
もしかすると-
「瑠璃?風呂沸いたぞ。」
「え?あ…うん。入ってきちゃうね」
瑠璃は我に返ると、テレビのスイッチを消して入浴するための準備を始めた。
布団がめくれた気がして瑠璃は目を覚ます。
「いつも起こしちゃってごめんな」
申し訳なさそうに孝太郎が布団の中に入ってくる。
「ううん、大丈夫」
孝太郎は瑠璃を抱きしめる。
「相変わらず、瑠璃を抱きしめてると落ち着くよ」
「そうなの?ならよかった」
「ずっとこうしていたい…」
「私も」
瑠璃は孝太郎を抱きしめる力を強める。
孝太郎の方も更に強く抱き締めてきた。
「おやすみ、瑠璃」
孝太郎は瑠璃のおでこにキスをする。
「うん。おやすみなさい」
朝。
「おはようございます。高橋さん」
「おはようございます。瑠璃様。早速朝食を作っちゃいましょうか」
「はい」
瑠璃は仕事を辞めてから、孝太郎よりも早く起きて朝食を作るのが日課になっていた。
「それでは瑠璃様はお味噌汁をお願いします。私はおかずを作ってしまいますので」
「わかりました」
2人はテキパキと料理を作り始める。
最初は高橋に付きっきりで教えて貰っていたが、今では1人でこなせるようになった。
(今日はお麩の味噌汁にしようかな)
瑠璃は調理用の手袋をはめると、葱を切り刻む。
今日のメニューはご飯、お麩の味噌汁、だし巻き玉子、鯵の南蛮漬け、豚肉と蓮根の炒め物、小鉢には胡瓜の漬物。
味噌汁ができた頃には、もう高橋は鯵の南蛮漬けと豚肉と蓮根の炒め物が出来上がっていた。
「高橋さんありがとうございます。それじゃあ私はだし巻き玉子作っちゃいますね」
「了解しました。よろしくお願いします」
瑠璃は長方形のフライパンを取り出すと、卵を割り、慣れた手つきでだし巻き玉子を作り始める。
「うん。美味いな」
孝太郎は満足気にだし巻き玉子を食べる。
「よかった~。お味噌汁も飲んでみて」
「ああ」
孝太郎は味噌汁を1口飲む。
「これも美味しいよ」
「うん!」
ご満悦な孝太郎の姿を見ると瑠璃まで嬉しくなった。
「いつもこんな美味いもの食べれて幸せだよ。ありがとうな」
「そんな…私は高橋さんのサポートをしているだけで、何にもしてないって」
「そんなことはないだろう。あ、今日は夕飯は作らなくて大丈夫だからな」
「ってことは、どこか食べに行くの?」
「ああ」
孝太郎はお茶を1口飲む。
「久しぶりの外食だね~。楽しみだな~」
「そうだな。さてっと、ご馳走様でした」
孝太郎は両手を合わせる。
「今日も完食してくれてありがとう」
瑠璃は食器を片付け始める。
「それじゃあ行ってくるよ」
孝太郎は瑠璃の頬にキスをする。
「うん。行ってらっしゃい。頑張ってね」
孝太郎は部屋を後にする。
「さてっと」
今日の予定は午前中は歯列矯正の調整、午後はエステと、孝太郎と外食だった。
午後の空いた時間に部屋の掃除など、家事をこなしていく。
瑠璃も空のお皿を持って、キッチンへ向かった。
「おかえりなさい」
「おかえりなさいませ」
瑠璃と高橋は帰ってきた孝太郎を出迎える。
「ただいま」
「今日はこのあと出かけるんだよね」
「ああ、だから車に乗ってくれ。遅くなるから高橋さんはもう帰ってくれ」
「かしこまりました。それでは私はこれで」
「お疲れ様でした。明日もよろしくお願いしますね」
「もちろんです」
高橋は一礼すると帰る準備を始める。
「俺達も出かけるとするか」
孝太郎が運転する車が発車する。
「ここだ」
と孝太郎の運転する車が止まったのは、以前も源十郎や孝太郎と来たことがあるレストランだった。
「わあー、またここで食事?楽しみ~」
「そうだな。ここでの久しぶりだな」
「だねー」
「ああ、とりあえず降りようか」
瑠璃と孝太郎は車から降りる。
レストランのドアを開けると
「いらっしゃいませ」
「予約した藤堂ですが」
孝太郎はウェートレスに話しかける
「かしこまりました。こちらへどうぞ」
と言って案内されたのはエレベーターだった。
(エレベーターに乗って上の階へ行くのかな)
「いらっしゃいませ。ようこそお越しくださいました」
エレベーターの中にいた、エレベーターガールは深々と頭を下げる。
「それではよろしくお願いします」
孝太郎はエレベーターガールに告げる。
「かしこまりました」
エレベーターガールは屋上のボタンを押した。
「わあ、すごい…」
屋上へきた瑠璃たちを待っていたのは、ヘリコプターだった。
「もしかしてこれに乗るの?」
「ああ、乗るのは初めてか?」
「うん!」
「瑠璃は高いところは平気だもんな。それじゃあ乗ろうか」
瑠璃たちはヘリコプターへ近づく。
と、プロペラが回り出した。
「うわ、すごい風」
「ああ、飛ばされないような」
孝太郎は瑠璃の手を握る。
「藤堂様ですね。本日はよろしくお願い致します」
ヘリコプターの運転手が明るく挨拶をする。
「こちらこそよろしくお願いします。さあ瑠璃、奥の席に乗って」
「わかった」
瑠璃は奥の席に、孝太郎はその隣に座る。
2人が座ったのを確認すると、
「それでは出発しますね」
ヘリコプターが動き出した。
「凄い凄い!動き出したよ」
瑠璃は目をキラキラさせてはしゃぐ。
「そうだな。晴れてくれてよかったよ」
孝太郎は瑠璃の頭を撫でる。
ヘリコプターから見える夜景は、以前に見た夜景とは違った良さがあった。
「瑠璃…」
孝太郎は瑠璃にキスをする。
そしてポケットをゴソゴソとすると
「瑠璃、改めてだが結婚してください」
「私でよければもちろん!」
瑠璃は泣きながら、孝太郎に抱きつく。
ここまで来るのに長かった。
が、断る理由がなかった。
これから先、結婚したから故の苦労が沢山あるだろう。
だが孝太郎となら、そんな苦労も乗り越えられる。
どんなことも笑顔で解決できる。
そんな自信しか瑠璃にはなかった。
そのために1回目のプロポーズを断り、積み上げてきたものが瑠璃にはある。
満天の星たちも瑠璃たちを祝福していた。
テストを受ければ終了5分前に解答がズレてることに気づいたり、傘を忘れた時に限って大雨が降ったり、鳩の糞は何回頭上に落ちてきたか数えるのを辞めてしまったぐらいだ。
他にもタイミングが悪かったり、ついうっかりをやらかしてしまったりと忘れてしまいたいことなど山のようにあった。
そういえばあの時も不運だった。
が、それが後にこんな事になるなんて思いもしなかった。
友達の春香(はるか)とパリに来ていた瑠璃(るり)はセーヌ川のクルージングを楽しんでいた。
キラキラと光る海と街並みに心を奪われていた。
「本当に綺麗ねー」
春香がデッキから乗り出しがちになりながら言う。
春香の茶色い長い髪が海風に揺られていた。
「そうだねー。来てよかったー」
瑠璃はカクテルグラスを片手に、のんびりと答える。
思い返せばパリに来てから、特に不幸な出来事が起きてなかった。
このまま最後の予定だったクルージングも無事に終わりそう。
そんなことを考えていると、遠くから怒鳴り声が聞こえてきた。
「え?なんだろう…?」
「さぁ…?」
瑠璃と春香は顔を見合せた。
どうやら、スーツ姿の男性がフランス語で怒鳴り散らしていた。
それを宥めるように周りの人達が必死に声をかけていた。
「喧嘩とか?」
「多分…」
そんな話をしていると、怒鳴り散らしいた男性がこちらへ向かってきた。
瑠璃とドンとぶつかり、持っていたシャンパングラスの中のシャンパンがストールにかかってしまった。
「ああ…」
(もう最悪…)
ここに来てから初めて、不幸なことがおきてしまった。
「瑠璃!大丈夫?」
「う、うん…」
瑠璃はストールを肩からかけるのをやめて、手で持った。
「すみません、大丈夫でしたか?」
と、凛とした声で日本語を話す聞こえた。
振り返ると芸能人ばりの美形の男性がスーツを着て、ハンカチをこちらに差し出していた。
(うわ、かっこいい人…)
180センチ近くある身長に、切れ長の目。
整った目鼻立ち、形のいい輪郭、綺麗にカットされた眉。
「あ、はい…大丈夫です」
と答えると、男性はハンカチと小さなメモを渡してきた。
「これ、俺の連絡先です。」
「え!はい」
瑠璃はそっと受け取る。
「何かあったらこちらまで、それでは」
と、足早に去っていった。
「ちょっと~、なにさっきのイケメンは…って連絡先教えてもらったの?」
「う、うん…」
瑠璃は困ったような顔をして、春香をみた。
「日本帰ったら連絡しちゃいなよー。あんなイケメンとお近ずきになれるかも」
「あはは、そうだね…」
こうして2人はパリを後にした。
「あーやっと帰ってきたー」
日本に帰国し、瑠璃が借りているアパートへ着いた。
「明日からまた仕事かー。よし、頑張るぞ」
なんて言いながらスーツケースを開け、荷物の整頓をしていた。
「これは洗濯して、こっちは明日職場で配るクッキーだから置いておいて…」
などと仕分けているうちに
「あ」
男性の連絡先がかかれた、メモとハンカチが出てきた。
よくハンカチを見てみると、真っ白な布地に有名高級ブランドのロゴが刺繍してあった。
「このハンカチってPINKYCAT(ピンキーキャット)のじゃん。かなりの値段するんじゃ…」
このまま貰っておくのは良くない気がするし、かといってハンカチひとつのためにわざわざ連絡するのもどうかと思った。
「うーん、どうしよう…」
そもそも彼はまだパリにいるかもしれないし、元々パリの人なのかもしれない。
「でも流暢に日本語話してたしなー」
どうしようかと考えているうちに、もう時刻は23時を過ぎようとしていた。
「いけない、明日から仕事なのに」
瑠璃はメモとハンカチをテーブルの上に置き、慌てて他の荷物も片付ける。
浴室へ向かいお風呂の栓を閉めると、お風呂を沸かすスイッチを押した。
そして次の日。
「おはようございまーす」
と、瑠璃は職場の人達に挨拶をした。
瑠璃が務めているのは総員5人ほどの個人病院だ。
そこで医療事務の仕事をしている。
「おはよう、浅田(あさだ)。今日は鳩の糞が落ちてこなかったか?」
真っ先に挨拶をしてくれたのはここの医院長である、渡辺智也(わたなべともや)からだった。
元々彼の父親が医院長をしていた。
3年程前に彼が病院を引き継ぐこととなった。
まだ30代半ばだが、腕がよく、評判の名医となっていた。
そしてなによりモデル顔負けの容姿をしているため、そういう意味でも人気だった。
「そんな毎日落ちてきませんよ…」
瑠璃は呆れ気味に答える。
確かに以前は何回か、出勤中に鳩の糞が落ちてきたことはあった。
その時は職場へ着いたと同時に家に帰らせてもらったものだ。
「はは。そうだ、パリ旅行楽しかったか?」
「はい!あ、これお土産です」
と、クッキーが入った箱を渡す。
「悪いな。皆で食べるとするよ」
「ぜひぜひ~」
瑠璃は制服に着替えるために更衣室へ向かった。
ほかの社員は40代後半の女性ばかりで、患者も内科なのもあってかお年寄りや子供が多く、出会いなんてなかった。
帰り道。
時刻は18時半を過ぎていた。
季節はもう時期11月。
日が落ちるのが早くなっていた。
(帰ったら何しようかなー)
なんて呑気に考えていると、目の前を歩いていた男性が突然倒れた。
「あの、大丈夫ですか?」
瑠璃はしゃがんで男性の体を擦る。
年齢は70代ぐらいだろうか。
色までは分からないが、上等そうな着物を着ていた。
「うっ…ゲホゲホ…」
咳をしているし、鼓動も荒い。
「私の職場、内科医なんです。すぐにそちらにお連れしますね」
おぶって行こうと思ったが、さすがに無理があったのでタクシーで職場まで向かった。
職場へ着いた瑠璃は医院長に事情を話し、ベッドへ老人を寝かせた。
老人はしばらく眠っていたが、数十分後目を覚ました。
「あ、お目覚めですか」
老人のそばに居た瑠璃は声をかける。
「君は…?ここは一体…」
老人は瑠璃の顔を見て、周りをキョロキョロと見回す。
「歩いていたら突然目の前で倒れたので、職場の病院にお連れしました」
「いやー、助かったよ。ワシは少々器官が弱くてのー。急に発作が起きることがあるんじゃが、君は命の恩人だ」
老人はぺこりと頭を下げる。
「そんな大袈裟です…でも大事に至らなくてよかったです」
「今度お礼をしたい」
老人は真っ直ぐに瑠璃を見つめる。
「いえいえ、お気になさらず…」
「いやいや、そういわずに…」
と瑠璃は連絡先が書かれた紙を貰った。
それから二言三言、医院長と話すと
「また連絡してくれたまえ」
老人はタクシーに乗って帰って行った。
(私もアパートへ帰るか)
瑠璃は再び帰路へ向かった。
「はぁー疲れたー」
と瑠璃はベッドへダイブした。
今日は5日ぶりの出勤だったり、老人を病院へ連れて行ったりと色々あった。
「それにしても…」
瑠璃は先程貰ったメモを見た。
「また連絡先貰っちゃったよ…どうしよう…」
今回の件は連絡した方がいいのかもしれない。
そんなことを考えているうちに2週間の時が流れた。
「浅田さん。藤堂さんって方からお電話なんだけども」
「え?」
いつものように医療事務の仕事をしていると、職場の先輩である相川真由子(あいかわまゆこ)に声をかけられた。
「いえ…そんな方、知り合いじゃないです…」
「あらそうなの?でも藤堂さんったら、ここで働いている20代半ばぐらいの女性と電話がしたいって言ってきて。それって浅田さんしかいないじゃない?」
「ああ、確かに…とりあえず電話代わります」
(誰だろう…)
瑠璃は受話器を受け取る。
「はい、浅田ですが…」
「おお、あの時の声だ。いやー、先日は助けて貰ってありがとう」
声を聞いてこちらもピンときた。
「あ、もしかして以前私がここへ連れてきた…」
「ああ、そういえば名乗っておらんかったの。藤堂総一郎(とうどうそういちろう)と申します。お嬢さんの名前は?」
「浅田瑠璃です」
「浅田さん、早速だが先日のお礼がしたい。空いている日付を教えてもらえないだろうか」
「そんな、お礼だなんて…私はたまたま目の前を歩いてた方が倒れたので、病院へお連れしたまでですから」
「いやいや、それほどのことをして貰ったのだからぜひお礼をさせて頂きたい。全員が全員できることではないことをあなたはしてくれたのだから」
そう言われると悪い気がしなかった。
「で、では来週の日曜日の12時頃に」
「待ち合わせはそちらの病院の前でいいかね?」
「はい、ありがとうございます」
「それではまた」
と、電話が切られた。
そして約束の日。
瑠璃は仕事は休みだが、待ち合わせ場所の職場へ来ていた。
どんな格好をしていったらいいのか分からなかったので無難に白いカーディガンに、黒のワンピースにパンプスを履いて待っていた。
時刻は11時55分。
そろそろ待ち合わせの時間になる。
と、目の前を1台の高級車が止まった。
運転席の窓が開く。
「浅田瑠璃さんでお間違えないでしょうか?」
凛とした声を聞いて瑠璃は固まってしまった。
(あの時パリで出会った人だ…)
パリで連絡先を教えてくれた人だった。
「え、あ、はい…」
「あれ?あなたはあの時の…」
向こうもこちらを覚えているようだ。
「はい、お、お久しぶりです…」
瑠璃は深々と頭を下げる。
「なんだ、孝太郎(こうたろう)、知り合いだったのか」
後部座席から総一郎の声が聞こえる。
「ああ、父さん。パリで出会ったんだよ」
(父さん…!まさか親子だったなんて)
「そいつはすごい偶然だ。まあまあ浅田さん、とりあえず車に乗って乗って」
瑠璃は遠慮がちに助手席へと座り、シートベルトをつけた。
「それでは出発しますね」
孝太郎は優しげな声で言うとアクセルを踏んだ。
「えっ、孝太郎さんって外交官なんですか?」
「ええ、まあ」
藤堂呼びだと紛らわしいからと、総一郎の提案で下の名前で呼ぶことになったが、男性を下の名前で呼ぶことなんて滅多になく少し緊張してしまう。
孝太郎の運転で着いた場所は、高級フランス料理の店だった。
困惑してる瑠璃を他所に、2人は慣れた様子で店員に話しかけてるのを見た時は「この2人は別世界の人なんだ」と確信した。
「じゃあ、あの時はお仕事でパリに来てたんですか?」
「はい」
孝太郎は上品な手つきでナイフとフォークを使って食事している。
「そうだったんですね」
「浅田さんも仕事で来ていたんですか?」
「いえ、私は単に友人と旅行で」
「なるほど」
などと話をしていると
「ところで、浅田さん。孝太郎のことどう思うかね」
と総一郎が声をかけてきた。
「え?えっと…」
(いきなりどうって言われても…)
「父さん、ここではその話はやめてください」
孝太郎が鋭い視線を総一郎に向けている。
「いいではないか、孝太郎。そろそろ身を固めたらどうだね」
「え、孝太郎さんって独身なんですか?」
こんなイケメン外交官が売れ残ってるなんて信じられなかった。
「はい。父は俺に結婚の話ばかりもってきて、うんざりしてるんです」
と肩を竦めた。
「なるほど…それは大変そうですね…」
「ワシは浅田さんと孝太郎、お似合いだと思うんだがなー。なによりワシの命の恩人でもあるし、しかも1度パリで出会ってるなんて運命的ではないかね」
「あはは…」
瑠璃は愛想笑いをする。
「父さん、浅田さんを困らせないでください。もうこの話はなしにしましょう」
「うーむ、だがな孝太郎…」
「父さん!」
孝太郎は机を両手で叩いた。
物凄い騒音がレストランに響いた。
「…」
「…」
「…」
周りの視線が一斉に孝太郎に集まる。
「まあまあ、今日はこのあたりで…」
瑠璃が宥めるように言う。
「ところで孝太郎さん…」
総一郎はそれから一言も話すことはなく、孝太郎と瑠璃は当たり障りない会話をしていた。
「わざわざ家まで送っていただいてありがとうございました」
瑠璃の借りているアパートの前に車が着いた。
「いや、こちらこそありがとう。お礼になったかね」
「はい、寧ろこちらがお礼しなきゃならないくらいです」
十分すぎるもてなしをされた。
「それならよかった。孝太郎のこともよろしく頼むよ」
「えっと…それは…」
「父さん、いい加減にしてください」
と、孝太郎は仏頂面で反抗する。
「いやいや、さっきから話してるのを見てると本当にお似合いの2人だと思うんだがなー」
「ゴホン、その話はもう終わりしましょ。それでは浅田さん、おやすみなさい」
「おやすみなさい…」
そう言うと孝太郎たちを乗せた車が動き出した。
「はぁ…」
瑠璃はため息混じりに玄関の電気をつける。
「結婚だなんて…」
いきなり話が急すぎた。
確かにパリで会った男性と再開したり、具合いが悪い人を助けたと思ったらそれがその人の父親だったなんて。
「よく出来すぎている…?」
靴を脱ぎながらそんなことを考える。
「まあ、外交官と私が結婚なんてありえないか」
脱いだ靴を揃えると、部屋の電気をつけて、玄関の電気を消した。
「あ、そういえば」
机の上に置きっぱなしになっていた、孝太郎から貰ったメモとハンカチのことをすっかり忘れていた。
「どうしよう…」
次会う機会なんてあるだろうか?
それともこのまま貰ってしまおうか。
「うーん…そうだ春香に相談してみよう」
瑠璃はスマホを片手に春香宛に「来週暇?」と連絡を入れた。
そして、来週。
瑠璃は春香とカフェでお茶をしていた。
「あーあー、いい出会いないかなー」
春香はストレートティーが入ったカップを片手にそんなことをぼんやり言う。
「出会いねー。私もないやー」
家と職場の往復だけの毎日で、そんな出会いなんて全くなかった。
「もうマッチングアプリとか使うしかないかも」
「あはは、確かにー」
もうお互い今年で27になる。
そろそろ結婚云々を本格的に考える時期だ。
「って、瑠璃はあの時のイケメンはどうなったの?」
「あーそれがさぁ。この前偶然助けたおじいちゃんがその人の父親でさー」
「ええー!なにそれー」
「すごい偶然でしょ」
瑠璃は得意げに言う。
「お近ずきになれた?」
「いやいや、全然。しかもその人、外交官みたいなの」
「イケメン外交官とか最高じゃん」
「そんな人と私が釣り合うわけないじゃん」
「まあ確かに、外交官ならもっといい出会いとか沢山ありそうだしね」
「そうそう」
瑠璃はコーヒーを1口飲んだ。
「でもだからって諦めるのは良くないんじゃない?」
「別にそんなに狙ってるわけじゃ…」
「もう、そんなこと言ってたらこのままずっと彼氏できないよ。いいのそれで?」
「よく、ないです…」
瑠璃は春香の圧に押され気味になった。
「そういえばハンカチは返したの?」
「ま、まだ…」
瑠璃は首を振った。
「ハンカチ返したいので~みたいな感じで連絡してみたら?」
「うーん。そうだね、してみるよ」
まだ少し躊躇いがあるが、春香に背中を押された瑠璃は今夜連絡してみることにした。
そして、夜。
夜やるルーティンを早めに終えた瑠璃は、テーブルにスマホと連絡先が書かれた紙を置いて、正座をしていた。
「よし…」
時刻は20時を少し過ぎた頃。
瑠璃は意を決して、連絡先が書かれた紙の番号をスマホに打った。
「はい」
孝太郎はワンコールで電話に出てくれた。
「あ、あの先日お会いした浅田瑠璃です」
心臓がドクドクいっている。
思わずスマホを持つ手に力が入る
「ああ、浅田さん。どうかされましたか?」
孝太郎はそんな瑠璃とは対照的にとても冷静だった。
「パリでお借りしたハンカチをお返ししたくって」
「そんなのわざわざ返さなくて結構ですよ。貰ってください」
「で、でもこんな高級ブランドのハンカチ、貰えないです…」
「いえ、お気になさらず」
「そういうわけには…」
「わかりました。では今度の日曜日に以前父と行った店に12時に。また病院まで迎えに行きます」
「は、はい。ありがとうございます…」
「それでは。また」
「はい。また」
少ししつこくし過ぎてしまっただろうか。
いや、これぐらいしつこいぐらいじゃないと外交官とはお近ずきになれないはずだ。
「うんうん、そうに違いない」
瑠璃は自分にそう言い聞かせると、ベッドへもぐった。
こうして今度の日曜日になった。
はりきりすぎて約束の時間30分前に着いてしまった。
瑠璃は以前よりもずっとオシャレをして、渉が来るのを待っていた。
(ヘアメイクもいつもよりも時間かけたし、大丈夫なはず…)
腕時計をチラチラ、スマホをチラチラしているうちに目の前に高級車が止まった。
運転席の窓が開き、孝太郎が声をかけてきた。
「浅田さん、お待たせしました」
「いえ、私も着いたところなので」
と、言うと助手席に座り、シートベルトをする。
「それでは向かいますか」
「はい」
「これ以前にお借りしたハンカチです。本当にあの時はありがとうございました」
レストランに着いた瑠璃は、借りていたハンカチを机に置いた。
「こちらこそ、ハンカチひとつの為にわざわざありがとうございます」
孝太郎は机の上に置かれたハンカチを受け取る。
「いえいえそんな、私の方こそ…」
瑠璃は椅子に座ったまま、頭を下げる。
なんて頭を下げていたら料理が運ばれてきた。
「うわー、今回の料理も美味しそう…」
瑠璃はスマホを片手に子供のようにはしゃぐ。
以前は総一郎がいて中々こういうことが出来なかったため、今回はだいぶ肩の荷をおろして食事が楽しめそうだった。
そんな姿を孝太郎はじっと見つめていたことに、瑠璃は気が付かなかった。
「それではいただきましょうか」
「はい、いただきます」
瑠璃は丁寧に手を合わせてから、ナイフとフォークを持つ。
「以前も思ったのですが、浅田さんはマナーがしっかりしてる方ですね」
「え?」
「手を合わせて、いただきますをする人って珍しいと思いますよ。しかも、わざわざハンカチを返したいだなんて言ってくる人も」
「そ、そうでしょうか…」
「はい、いいですね。そういうの」
瑠璃は一気に恥ずかしくなってきた。
(子供っぽいって思われたかな…)
どうしよう…
瑠璃はなにか話題がないかと頭をフル回転させる。
「そ、そういえば、あの時パリで怒鳴っていた男性は一体なにに怒っていたんですか?」
なんて突拍子もない話題しか出てこなかった。
「ああ、あれですか…」
孝太郎は少し怪訝そうな顔をした。
(聞いちゃまずかったかな)
自分のデリカシーのなさに反省する。
「実は自分の娘を嫁にどうかね。なんて言われたんです。それを断ったら激怒されてしまって…」
「ええ…そんなことが…」
日本にいたら父から言われ、海外へ行っても周りから言われるなんて。
「もううんざりしますよ。周りの結婚しろ攻撃には」
「あはは…孝太郎さんは結婚願望はないんですか?」
少し踏み入った話をしてしまったかもしれない。
が、孝太郎は特に気にすることも無く
「ないですかね。女性にこう言うのも失礼ですが、心から信じることが出来なくって…」
孝太郎は苦虫を噛み潰したような顔をする。
「ああ、なるほど…」
きっと外交官にでもなれば、お金目当てだったりで今までろくでもない女性からアタックされまくりなんだろう。
(そういう私も人のこと言えないか…っていやいや別に私はハンカチを返しに来ただけで、そんなお近ずきになろうなんて考えは…)
全くないとは言いきれなかった。
こうして、食事会も終わり瑠璃はまたアパートへ送って貰うことになった。
「毎回送っていただいてすみません…」
「これくらいのことはさせてください」
孝太郎はにこやかに答える。
(今回はやっとハンカチも渡せたし、これで会うのは最後だろうな…)
そんなことを考えていると
「あれ?サイレンの音?」
瑠璃にはウーと小さく聞こえた。
「ホントだ、北西の方から聞こえますね」
どうやら孝太郎にも聞こえたようだ。
「北西…」
ここから北西というと、瑠璃が借りてるアパートのあたりだ。
嫌な予感がした。
「…さん、浅田さん?」
「は、はい!」
「どうかしましたか、様子が変ですよ」
孝太郎はこちらを心配げに見つめる。
「い、いえ大丈夫です」
「ならいいですが…あ、煙臭くなってきましたね」
と孝太郎は換気のために少し開けていた窓を閉めた。
次の曲がり角を曲がったら、瑠璃の借りているアパートだ。
どうか杞憂に終わってくれ。
そう願って車は曲がり角を曲がると
「え?…」
瑠璃の借りてるアパートが燃えていた。
「う、そでしょ…」
「家事の場所って瑠璃さんの借りてるアパートなんですか?」
「は、はい…」
瑠璃は弱々しく答える。
「今日からネカフェとかで泊まらないといけないのかな…はは…」
思考が追いつかない。
アパートに引っ越してから約5年。
初任給で買った思い出の品や、母から送られてきたもの、今回のパリ旅行で買ったもの-
全てが燃えてしまっている。
ここまでくると1周回って面白くなってきた。
「もしよかったらなんですけど、俺の家に泊まりますか?」
「えっ!」
瑠璃は思ってもなかった提案に戸惑う。
「部屋余ってるし、客室もあるのでお気になさらず」
「でも…」
瑠璃は孝太郎の端正な顔と、燃えている自宅を見比べた。
確かに今夜から不自由なネットカフェ生活をおくるよりは、民家で身の回りのものを揃えながら次のアパートを見つければいい。
「じゃあ、お言葉に甘えて…」
「構いませんよ。では向かいますか」
「よろしくお願いします」
こうして孝太郎の住んでいる家?に来た瑠璃だったが
(な、なにこの豪邸は…)
最初に案内された時は、どこかの旅館にでも連れていかれたかと思ったほどだ。
2メートルはある塀に囲まれた、上から見るとコの字型をした建物。
(お坊ちゃまで、外交官ってこの人どんだけすごいの)
「す、すごい豪邸ですね…」
瑠璃は遠慮がちにいう。
「そうですか?普通ですよ」
(いや、普通って…)
孝太郎は何食わぬ顔をして、車を車庫に入れる。
車庫には別の高級車が並んでいた。
「あ、あの私、日用雑貨を買いに行きたいんですけど、近くにお店ってありますか?」
「ああ、心配ありませんよ。全て部屋にあるものを自由に使ってください」
「え?」
孝太郎はそう言うと車から降りる。
瑠璃も続けて車から降りた。
ガチャと車の鍵がしまった音がしたと同時に
「おかえりなさいませ」
と50代ほどの女性が声をかけてきた。
「ああ、高橋(たかはし)さん、この方を今日から暫く家に置いて貰えないだろうか」
お手伝いさんか何かだろうか。
まとめられた黒髪が艶やかな小柄な女性だった。
「まあ!かしこまりました。ではこちらに」
とどこか嬉しそうに言う。
瑠璃は女性の側へ駆け寄る。
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
高橋は優しげな声で聞いてきた。
「浅田瑠璃と言います。あの、よろしくお願いします」
瑠璃は頭を下げる。
「浅田様でございますね。かしこまりました。それではお部屋へ案内します」
歩き出した高橋に瑠璃は着いて行った。
「こちらがお部屋になります」
と、高橋に案内された部屋はとんでもなかった。
10畳ほどの広さがある部屋には綺麗な畳が、事前に敷かれてあった布団は見るからにふかふかそうだし、寝巻まで置いてある。
鏡台や箪笥など生活するには困らない程度の家具も置かれていた。
「こんな綺麗な部屋に泊まってもいいんですか?」
瑠璃は困惑を隠せないまま、高橋に聞く。
「お好きにお使いくださいませ。なにかありましたら、私の方まで。ところで…」
高橋は瑠璃との距離を詰める。
「な、な、なんでしょうか…?」
瑠璃は詰められた距離の分、後ろへと下がる。
「浅田様は孝太郎様の恋人でしょうか?」
目をキラキラさせて聞いてきた。
「え、そんな違います」
瑠璃は慌てて訂正する。
「まあ、そうですか…孝太郎様が女性をお連れしたのは今回が初めてですので、遂に恋人をお連れしたのかとばかり…」
高橋はがっくりと肩を落とす。
「すみません、そういうわけじゃなくって…」
なにやらこちらまで申し訳なくなってきて、瑠璃も肩を落とす。
「いえいえ、構いませんよ。それではまた」
と高橋は襖を閉めて出ていった。
(今まで1度も女性を連れてきたことがないのか…)
ここまで来ると相当な女性嫌い、女性に対してのトラウマが強いように感じた。
(せっかくお近ずきになれたのにな…)
と、コンコンコンと襖をノックする音がした。
「は、はい」
瑠璃は姿勢を正す。
「失礼します」
襖を開けてその場で正座をしたのは孝太郎だった。
「浅田さん、部屋はどうですか?」
「とても素敵です…こんな素敵な部屋に泊まってもいいのでしょうか?」
瑠璃は高橋に言ったことを、もう一度孝太郎に言う。
「素敵だなんてとんでもないです。ただの客室ですので、くつろいでください。必要なものがありましたら高橋に言ってください」
「わかりました」
「そうだ、以前俺に連絡をくれた番号は浅田さんの携帯番号で間違えないでしょうか?」
「はい、私の携帯番号です」
「了解しました。それではまた、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
襖が閉められた。
「ふぅ…」
瑠璃は1度大きく深呼吸をした。
今日は本当に色々あった。
ハンカチを返せて、自宅が燃えて、もう会うことも無いだろうと思ってた人の家に置いてもらうことになって…
「もういいや今日は休もう」
瑠璃はさらに部屋を見回した。
まだ開けてない扉がいくつかあり、順番に開けると、浴室とトイレだった。
更に洗面台にはよくあるホテルのアメニティのようなものや化粧水、乳液なども置いてあった。
「すごい…こんなに揃っていたら本当に買い出しに行かなくても済む…」
尚更このままお世話になるのが申し訳なくなった。
「そうだ」
明日から家事などの雑用をできる限り手伝おう。
「明日も仕事だし、早く起きないとな」
瑠璃はシャワーを浴び、置いてあった寝巻に着替え、アメニティを袋から出し、一通り普段のケアを終えると布団に入って眠りについた。
そして次の日。
起きた時刻は7時40分。
あんなに早く起きないとなと意気込んでいたいのに、盛大に寝坊してしまった。
が、「うわーどうしよう」
瑠璃は何よりもメイク道具一式や着替えがないことに気がついた。
箪笥を開けてみると、見るからに上質な着物と足袋が山ほどはいっているだけで洋服は1つもなかった。
「スッピンは流石にまずいし…かといってメイクしようにも道具なんて何にもないし」
寝癖をドライヤーで直しながら、あれやこれやと考えているうちに
「おはようございます、浅田様」
正座をして上品に頭を下げる、高橋の姿が鏡越しに見えた。
瑠璃はドライヤーをかけるのをやめると、こちらもその場で正座して
「お、おはようございます」
顔を見られないように素早く頭を下げた。
「お化粧品がおいてなかったと思われたので、持って参りました」
「ホントですか?!助かります」
「あとはお着替えと靴も」
「え!嘘…ありがとうございます」
と、ここでようやく顔を上げると高橋と目が合った。
「…!浅田様、スッピンの方がお綺麗ですよ」
「いやいや、それはさすがに…」
瑠璃は自分がメイクが苦手なのを自覚していた。
かといって、毎回数万円分を顔に塗っているのに何も塗ってない方が綺麗と言われるのは中々ショックだった。
「本当ですよ。さあ、身なりを整え下さいませ。孝太郎様がお待ちですよ」
「孝太郎さんが?」
瑠璃が聞き返すと
「職場まで送ってくださるそうですよ」
「ええ?!」
それはいくらなんでも申し訳ない。
「いえ、私1人で行けます」
「そう仰らずに。沢山甘えてくださいませ」
ふふふと、高崎はどこか嬉しそうに答える。
「それでは」
と襖を閉めて出ていってしまった。
「と、とりあえず早く準備しないとな」
瑠璃は持ってきてもらった化粧品一式を確認すると、どれもこれもデパートで売ってるものだった。
「もしかして昨日大至急買ってきてくれたのかな?」
とアイシャドウパレットをみると。
「うわー、普段私が絶対使わない色だ…」
いつもはイエローやオレンジなどはっきりとした色のアイシャドウを使っていたが、パレットに入ってた色はラベンダーやブルー、グレーなど淡い色だった。
こればかりは仕方がない。
自分を納得させてアイシャドウを目元にのせると
「あれ?」
なんだか普段よりも肌馴染みがいい気がした。
「流石はデパコス」
と関心しながらメイクをしていくと
「出来た…」
そこにはいつもよりも格段に垢抜けた自分が映ってた。
ふわふわの眉毛に、普段の倍はくるんとした睫毛が彩るのはいつもよりも大きな瞳。
ハイライトの艶も素晴らしく、肌が数段階綺麗に見えた。
「すごいすごい~。これがデパコスの力か~」
感動して鏡をみる。
「って、見惚れてる場合じゃなかった」
今度は渡された洋服の方を見てみると
「わ~」
全て借りたハンカチと同じブランド、PINKYCATのものだった。
「これって、スカートだけで2、3万はするんじゃ…」
確か以前デパートで立ち寄った際、値札にはどれもこれも数万円と書いてあった。
「まさかここの服を着る機会がくるとは…」
瑠璃は袖を通す度に心の中で(ありがとうございます。ありがとうございます…)と感謝していた。
そして、着替えが完了した。
「うっわ~、本当に私なの?」
鏡に映った自分はいつもよりも洗練された、どこか近寄り難い印象すら与える女性へなっていた。
全て自分で行ったのに、まるでプロのスタイリストにおまかせしたかのような仕上がりだった。
いつまでも鏡を見ていたいが、そうしてもいられない。
瑠璃は用意されたパンプスを持って、襖を開け、早歩きで玄関へと向かった。
「お待たせしました」
瑠璃は軽く頭を下げながら、孝太郎の車へ乗り込む。
「気にしないでください。ああ、やっぱり浅田さんにはそういう色のアイシャドウがよく似合いますね」
「そうですか?ありがとうございます…高橋さんのチョイスのお陰です」
最初はどうなるかと思いきやこんなに綺麗にまとまるなんて。
「浅田さんはイエローベースではなくブルーベースですからね。是非これからもその色のアイシャドウを使ってください」
「へ?」
自分でも呆れてしまうぐらいマヌケな声が出てしまった。
「あれ?パーソナルカラーってご存知ないですか?」
名前ぐらいは聞いたことがあった。
「知ってはいますけどでもどうして…」
何故そんなに詳しいのだろうか。
「初めてお会いした時から思ってたのですが、パーソナルカラーと合ってない色のアイシャドウを使っていて勿体ないなーと」
「勿体ない?」
一体何がだろうか?
「せっかくお綺麗なのに」
「お、お綺麗だなんて…」
信号が丁度赤信号になり、車が止まった。
「本心ですよ」
孝太郎は真剣な顔をして、瑠璃を見つめる。
「そんな…」
瑠璃は咄嗟にそっぽを向いてしまった。
向いた先に丁度、サイドミラーが見えた。
(何回見ても別人のよう)
「洋服も良くお似合いで、それにして正解でした」
信号が青になり、車が動き出す。
「もしかして孝太郎さんが選んでくれたんですか?」
「はい、コスメも俺が選びました」
瑠璃は目を丸くする。
「そ、そうだったんですね。てっきり高橋さんが選んだとばかり思ってました…」
まさか全部孝太郎のチョイスだったとは思ってもなかった。
「あの後、買いに行かれたんですか?」
「ええ、閉店時間ギリギリだったので、間に合ってよかったです」
しかも時間が無い中で選んでこのセンスの良さ。
「孝太郎さんって…なんでも出来るんですね…」
(本当に雲の上の存在だな)
「何言ってるんですか、そんなことはありませんよ」
「あ、そういえばこの洋服やコスメの代金って…」
一体トータルで幾らかかっているのか。
考えるだけで恐ろしくなった。
が、こうして使わせてもらった以上は支払わなければならない。
「ああ、そんなの貰ってください」
孝太郎はサラリと答える。
「いや、それはさすがに…」
特別な日ならいいが、こんな高価なものたちは薄給で万年金欠な自分には分不相応だ。
「いつも仕事を頑張っているんですから、ね?」
「頑張ってるだなんて…毎日淡々とほぼ同じことをしているだけですので…」
電話対応、診察料の計算、院内の清掃などどれもこれももはや習慣になってしまった。
「毎日淡々とほぼ同じことをするって、とても凄いことですよ」
なんだか少し泣きそうになってしまった。
こうして仕事のことを褒められるのはいつぶりだろうか。
だが泣く訳にはいかない。
「外交官の孝太郎さんに比べたら大したことないですって…」
「そういうのは比べるものじゃないですよ」
「そうでしょうか?」
きっと自分なんかは比べ物にならないくらい、強烈なプレッシャーの中、毎日仕事をしているんだろう。
「さてと、到着しましたよ。終わった頃に連絡してください。迎えに行くので」
「なにからなにまですみません…」
瑠璃はシートベルトを外した。
「そんな暗い顔しないでください。今日も仕事頑張ってくださいね」
「…ありがとうございます」
瑠璃は車のドアを閉めた。
と同時に車が発進した。
孝太郎は運転しながら軽く会釈をして、この場を去っていった。
「おはようございます…」
瑠璃は少し自信無さげに挨拶をした。
「おはようございますって、浅田さんどうしたのその格好!それにメイクも!」
「や、やり過ぎでしょうか?」
職場へ行くだけにしては、少しやり過ぎたかもしれないという心配があった。
今日の服装はそれこそ以前、孝太郎と行ったレストランにでもいくようなものだった。
「ううん。とってもよく似合ってるわ。制服に着替えるのが勿体ないくらい」
「ええ、本当に。女優さんみたいよ」
今日は口々に褒められて、頭の中で混乱してしまう。
「おお、浅田。そんなにオシャレして今日はデートか?」
渡辺がニヤニヤしながら聞いてきた。
「ち、違いますよ。ちょっと…イメチェンです」
孝太郎と会った後だと、渡辺のイケメンぷりに驚かなくなる。
それくらい今日の孝太郎はかっこよく見えた。
「にしては、気合入ってるなー」
「本当にただのイメチェンですから!」
瑠璃はそう言うと更衣室へ向かった。
お昼休み。
いつもの様に春香とメールでやり取りしてると、誰からメールが来た。
「え、誰だろう」
確認すると孝太郎からだった。
孝太郎からの初めてのメールにドキドキしながら、本文を読んだ。
「お疲れ様です。本日の夕食はなにがいいですか?」
「夕食はなにがいいって聞いてくるってことはもしかして作ってくれるってこと?」
どれだけハイスペックなのだろうか。
瑠璃はコンビニで買ってきたパンの袋を、じっと見つめた。
普段自炊なんて殆どすることなく、適当にコンビニやスーパーで済ませてしまってる自分が情けなく思えて仕方がなかった。
「なにがいいって言われてもなー」
こういう場合なんて答えるのが無難なんだろうか?
「カレーとか?いやでもそれじゃあ女子力に欠けるか」
うーんと悩んでいるうちに時計は時刻12時55分を指していた。
昼休みまであと5分しかない。
「えっと…」
女子力高そうな食べ物、女子力高そうな食べ物と頭をフル回転させた結果。
「カルボナーラが食べたいです」と返信した。
そして、就業後。
孝太郎に「お疲れ様です。仕事終わりました」の連絡をしてから10分後、病院の前に高級車が停った。
瑠璃はそっと車のドアを開け乗り込む。
「すみません、遅くなりました」
孝太郎が申し訳なさそうに言う。
申し訳ないのはこちらのセリフだ。
「いえ、そんな、お忙しい中ありがとうございます」
「今は暇な時期なので、気にしないでください」
緩やかに車が動き出す。
「浅田さんは今日は何されてたんですか?」
「え?いつも通りです」
今日は待ち時間が長いだとかクレームを言ってくるお客がいなくて助かったぐらいだ。
もっともそんなクレームも滅多に来ないし、本当にいつも通り、変わり映えしない日だった。
「いつも通りっていいですね」
「そうですか?嫌になりますよ」
なんの生産性もない、自分って必要なのかすら思えてくる日々にうんざりしていた。
「いつも通りってことは、無事に今日を終えることができたってことじゃないですか」
そうか、この人は目まぐるしく変化している日常の中で、トラブルの対応などをこなしているんだ。
そう考えるといつも通りって素晴らしいことなのかもしれない。
「確かにそれって素敵なことですね」
瑠璃は微笑みながら言う。
「そうですよ。今日も1日お疲れ様でした」
「孝太郎さんこそお疲れ様です」
「はは。ありがとうございます」
「そうだ、そういえば今日の私の格好をみた職場の先輩たちにびっくりされちゃいました」
いつも通りじゃないことがあったことを思い出す。
「実は俺もびっくりしたんですよ。こんなに変わるんだって」
「えー、そうだったんですか」
「はい、本当に良くお似合いですよ」
「こ、孝太郎さんのチョイスのお陰ですよ…」
今日は本当に褒められっぱなしだな。
こうして和やかな雰囲気で雑談しているうちに、孝太郎の家へと着いた。
「お帰りなさいませ」
車を停めて、降りたと同時に高橋がお辞儀をする。
「ああ、高橋さんただいま」
「ただいま帰りました」
瑠璃も頭を下げる。
「浅田様もお帰りなさいませ。今日の夕飯カルボナーラですよ」
「高橋さんが作られるんですか?」
「はい、私が作らせて頂きます」
(な、なーんだ)
瑠璃は胸を撫で下ろす。
「もう準備は出来ておりますので、どうぞこちらへ」
2人は食堂へ案内された。
案内された食堂は広さは20畳ほどだろうか。
その中心に置かれた8人は座れそうな縦長なテーブルは、大きいはずだがこの部屋の広さでは小さく感じてしまった。
更にテーブルに置いてあるカルボナーラが畳との相性が悪く、見えていて笑いそうになってしまった。
「すみません、私ったらこんな和室に洋食をリクエストするなんて」
こんな純和風な屋敷で、洋食を食べたいだなんてなんて馬鹿げていただろうか。
瑠璃は今更になって反省した。
「気にしないでください。パスタなんて久しぶりに食べるのでわくわくしますよ」
「そうですよ。私も洋食の1品ものなんて何年も作ってないので、腕が鳴りました」
「それならよかったのですが…」
「ささ、冷めないうちに召し上がってくださいませ」
長机の対面上に置かれた座布団に2人は座り、カルボナーラを食べた。
夜。
雨がしとしとと降り出した頃、自室へと戻った瑠璃はシャワーを浴びるための準備をしていた。
「コンタクトも外したし、タオルも持ったし、寝巻きも用意してあるし、よし」
必要なものを準備し終えると、浴室へ向かいシャワーを浴び始めた。
本当はお湯に浸かりたいが、他人の家だ。微々たるものかもしれないが節約したい。
「ああ、さぶっ…」
瑠璃はシャワーを止めシャンプーを泡立てる。
雨が次第に強くなってきた。
「雪じゃないだけまだ寒くないってことか」
瑠璃は再びシャワーを浴び始めた。
「ふう、さっぱりした」
寝巻きに着替え、ハンドタオルで頭を軽く拭く。
と、ポタポタと音がする。
「なんだろう…ってえ!」
部屋が雨漏りしていた。
特に布団を敷いてある辺りがびしょ濡れになっていた。
綿毛布が濡れてるのはもちろん、敷パットまで浸透していた。
「どうしよう…」
さすがにこんな布団で寝る訳にはいかない。
瑠璃は高橋に伝えようと思ったが、夕食を作り終えると帰ってしまうと聞いていたためできない。
「あと他に伝えるとしたら…」
孝太郎しかいなかった。
瑠璃はすっぴんを少しでも誤魔化すためにメガネをかけ、孝太郎にメールをした。
屋敷が広いため、下手に探すよりもメールの方が効率が良かった。
そしてすぐに「わかりました。浅田さんの部屋へ向かいます」との返信が来た。
「よかった、すぐに返信きてくれて」
しばらく待っていると、雨音に消されそうな小さく襖をノックする音が聞こえた。
「はい」
と返事をすると同時に襖が開く。
「大丈夫ですか。浅田さん」
孝太郎は紺の寝巻きに羽織ものを着ていた。
スーツ以外の姿を初めて見た。
(こういうのも似合うんだな)
ぼんやりと孝太郎を見つめる。
「すみません、まさか雨漏りするなんて」
「いえいえ、私もあんな所に布団敷いておいたのが悪いんですし」
枕の位置を移動させたくて、本来敷いてあった場所とは違うところに敷いていた。
「浅田さんはなんにも悪くないですよ。他の部屋に布団がないか探してきます。浅田さんは隣の客室へ移ってください」
というと孝太郎は部屋から出ていき、瑠璃も隣室へ移動するための準備を始めた。
隣室へ向かうと雨漏りはしておらず、部屋の造りはほぼ同じだったが、
「布団がない…」
「あ、浅田さん、こっちの部屋は雨漏りしてなくてよかったです。高橋に連絡をしてみたのですが、布団があるのは浅田さんがいた客室と俺の部屋にしかないみたいで」
「そうなんですね…」
(仕方がない、今日はエアコンの温度を高めにして椅子にでも寝よう)
「俺の布団一式持ってくるので、それを使ってください。俺は椅子で寝るので」
「いえ、私なんかよりも孝太郎さんが…」
多忙な外交官を椅子で寝かせるなんてことはできない。
「女性を椅子に寝かせるようなことはできないです」
「私のことはお気になさらず休んでください」
「そういうわけにはいきません」
「でも…」
お互い1歩も引かない。
「じゃあ、一緒の布団に寝ますか?」
「え?」
孝太郎の思ってもなかった提案に戸惑う。
「それともやっぱり俺の布団で浅田さん1人で寝ますか?」
瑠璃は首を強く振る。
「なら決まりですね」
こうして2人で一緒の布団に寝ることになった。
「こちらです」
と案内された孝太郎の部屋は、黒で統一された落ち着きのある雰囲気だった。
(本当に来ちゃったよ…)
瑠璃は未だに混乱していた。
確かにお互い1歩も譲らない空気ではあったが、だからといって一緒に寝るという選択肢になるとは思ってもなかった。
「俺はまだ仕事が残っているので、先に休んでください」
と言うと、椅子に座り机の上に置いてあった書類に目を通し始めた。
「え!先に、ですか…」
「はい、お気になさらずに」
瑠璃はしばらく孝太郎の姿をぼんやりの眺めていたが、意を決して布団に入ることにした。
布団に入ると、孝太郎が使っているシャンプーかボディーソープのいい匂いがした。
(はぁ…入っちゃった…)
瑠璃は孝太郎に背を向けて、壁をじっと見つめる。
(こんなの寝れるわけない…)
パソコンを立ち上げた音が聞こえた。
カタカタと規則的に打たれるキーの音を聞いていると不思議と心地いい。
瑠璃は少しづつ落ち着いてきた。
そしていつの間にか寝てしまった。
「ん…」
布団がめくられた気がして瑠璃は目を覚ます。
「すみません、起こしてしまいましたか?」
孝太郎が布団に入ってきた。
一気に目が覚める。
(どうしよう…どうしよう…)
心臓の音が孝太郎に聞こえていたらと不安になる。
「浅田さん、まだ起きてますか?」
暗闇で聞く孝太郎の声は、いつもよりもずっと艶っぽい。
「は、は、はい…」
「どうしてこっちを向いてくれないんですか?」
そんなの恥ずかしいからに決まっている。
「わ、私は異性とこうして寝たことがあまりなくって…」
「俺もですよ」
そんなはずはない。
「だったらどうしてそんなに落ち着いているんですか?」
「落ち着いている?そんなことはありませんよ」
「ほら」と瑠璃の手を掴み、自分の心臓辺りに持っていく。
ドクン、ドクンとものすごい速さで動いているのがわかる。
「孝太郎さんも緊張されてるんですね…」
瑠璃はほっとしたように答える。
「そりゃあ浅田さんと寝るんですから、緊張しますよ。自分で誘っておいて言うのもなんですが」
「たかが私と寝るくらい…」
大したことないだろう。
特別美人でも、なんの取り柄もない自分なのだから。
「そんなこと言わないでください」
まだ握られたままだった手に、ぐっと力が入る。
「綺麗な手ですね」
手を掴んだまま、人差し指で瑠璃の手をなぞる。
「っ…」
瑠璃も繋がれた手に力が入ってしまった。
「ふふ。ですからこっちを向いてください」
孝太郎は握っていた手を離した。
瑠璃は観念して、孝太郎の方を向いた。
「うん、よくできました」
と頬にキスをされた。
「…孝太郎さん、もしかして酔ってますか?」
「酔ってなんかいませんよ。ずっとこうしたかった…」
というと優しく瑠璃を抱きしめる。
(暖かい…けど…)
「これじゃ寝れません…」
「大丈夫ですよ」
今度は瑠璃の頭を撫でる。
「子供扱いしないでください…」
「してませんよ」
「絶対してますって」
「瑠璃さん、敬語で話すの辞めませんか?」
「え?」
突然の孝太郎の提案に瑠璃は固まる。
呼び方も苗字から名前へと変わっていた。
「嫌?」
甘く問われた。
「そんなことは…」
「なら敬語はなしってことで」
「わかりました…じゃないや、わかった…」
「うん」
孝太郎は満足そうに言う。
「…」
「…」
暫く沈黙が続いた。
「あの…」
瑠璃の声は孝太郎の唇に塞がれてしまった。
それは今までしたキスの中で1番心地いいものだった。
ふわりとケーキのスポンジのように柔らかく、吸い付いた唇の感覚が忘れられない。
「もう1回してもいい?」
瑠璃はこくりと頷く。
今度は孝太郎の舌が入ってきた。
「あっ…」
咄嗟に声が漏れる。
「瑠璃の声、聞かせて」
更に孝太郎の舌が絡まってくる。
「ん…」
孝太郎はそのままブラのホックを外し、寝巻の紐をほどく。
「や…」
あられもない姿になった瑠璃は咄嗟に胸を隠す。
「恥ずかしがらないで、全部見せて…」
孝太郎は胸を隠していた手をどかし、そっとキスする。
「恥ずかしい…」
弱々しい声で孝太郎に訴える。
「大丈夫。綺麗だよ」
孝太郎も寝巻きを脱ぎ出した。
「もっと見せて」
月明かりに照らされた2人は官能的な夜を堪能した。
翌日。
瑠璃はコンコンコンと襖をノックする音で目が覚めた。
「う、ううん…」
ふと目を開けると孝太郎の整った顔が目の前にあった。
と同時に昨晩あったことを一気に思い出して真っ赤になる。
コンコンコン。
もう1度襖をノックする音がした。
この状況を見られるのはまずい。
「孝太郎さん、孝太郎さん起きてください」
「…」
瑠璃は孝太郎の筋肉質な身体を揺すりながら声をかけるが返事はない。
「孝太郎様~?」
襖越しに高橋の声がする。
「起きて~」
瑠璃はさらに激しく孝太郎を揺する。
それでも孝太郎は起きない。
この状態を見られたらどうしようと瑠璃は焦る。
「失礼致します」
高橋が襖を開ける。
と同時に布団を巻き付けただけの瑠璃と目が合った。
「あ、浅田様!これは大変失礼致しました」
慌てて襖を閉める音が響いた。
(み、見られてしまった…。完全に勘違いされた)
昨晩のはただの勢いでなった出来事だ。
もう忘れよう。
それなのに隣で眠る孝太郎の姿を見ると、ドキドキしておかしくなりそうだった。
「とりあえずなにか着ないとな…」
瑠璃は布団から出ようとすると、
「きゃあ!」
孝太郎に腕を掴まれ、抱きしめられた。
「おはよう、瑠璃」
「お、おはようございます…」
「敬語に戻ってるよ」
「あー、うん…あはは…。そ、そろそろ準備しないと…」
「すっぴんも可愛いね」
おでこにキスをされた。
「か、からかわないで…」
「本心なのにな」
孝太郎は残念と肩を竦める。
「私、準備したいんだけど…」
瑠璃が困ったように言うと、孝太郎の抱きしめていた腕が緩む。
瑠璃は今度こそ布団から出て、散らばった下着をいそいそと付け始める。
「今日も送っていくよ」
孝太郎は瑠璃を後ろから抱きしめる。
「え、ああ、ありがとう…」
「こっち向いて」
「…っ」
耳元で囁かれる。
孝太郎の甘い声を聞くと、それに従わないといけない気がしてしまう。
瑠璃は孝太郎の方を向く。
「うん、いい子だね」
孝太郎は瑠璃の唇を奪う。
孝太郎と一緒だと心臓によくない。
瑠璃は大慌てで散らばった自分の衣服を着て、孝太郎の部屋を後にした。
孝太郎の部屋を後にした瑠璃は化粧品や着替えなどは置きっぱなしになっていたため、昨日使う予定だった客室へ向かった。
すぐにメイクして着替えなければと急ぎ足で廊下を歩いていると
「浅田様、先程は失礼致しました」
後ろから声をかけられ、振り返ると高橋がいた。
「高橋さん!あれはその…」
「孝太郎様も遂に恋人をお連れになってくださったと思うと嬉しくて、嬉しくて」
あたふたしてる瑠璃を他所に、高橋は目に薄ら涙を浮かべている。
(完全に勘違いされたままだ…)
だが、あまりにも嬉しそうな高橋の表情を見ると「あれは誤解です」とは言い難い。
「お2人はいつからお付き合いされてるんですか?」
「えっと…その…」
「パリで出会ったんだよ」
凛とした声が響いた。
孝太郎は瑠璃の肩に手を置き「これは俺の女です」と言わんばかりの自信に満ちていた。
身支度はもう整えたそうで、いつも通りスーツ姿だった。
「まあまあ、そうだったんですね。孝太郎様ったらなんにもお話してくださらないんですから」
「ああ、悪かったな。これから父さんにも伝える予定だよ」
「えっ?伝えるって何を」
「俺たちの結婚のこと」
孝太郎はサラリと答える。
「「結婚!?」」
瑠璃と高橋は声を荒らげる。
「そんな…結婚だなんて…」
「おめでとうございます!浅田様、いや、瑠璃様、孝太郎様!」
「ありがとう。それじゃあ行こうか瑠璃」
孝太郎は瑠璃の腰に手を回し、客室へ向かって歩き出す。
「あの…結婚って?」
なにの冗談でしょ?とでも言いたげな瑠璃の口調だったが孝太郎は真剣な口調で
「本気ですよ」
瑠璃を真っ直ぐ見つめる。
「そんないきなり言われても…」
「答えは待ちます。ただ絶対惚れさせてみせます」
孝太郎は瑠璃の手を握ると、手の甲にキスをする。
「…っ」
「さぁ、客室に着いたよ。準備済ませておいで」
「…わかった」
瑠璃は客室の襖を開け、準備を済まし、孝太郎の車に乗った。
孝太郎の車が瑠璃の職場へ着いた。
「着いたよ」
「ありがとう…」
「元気ないね。どうかしたの?」
孝太郎は瑠璃の頬に触れようとしたが、バシッとその手を叩く。
「…なんでもない」
瑠璃は浮かない顔をして、車を降りた。
車の窓が開く。
「終わったら連絡して。また迎えに行くから」
「うん…」
(こんなに優しくしてもらってるのにな…)
せっかく両思いになれたのに、瑠璃の表情は曇っていた。
素敵な王子様だった彼が両思いになった途端、蛙のように醜く見えてしまう-
瑠璃は蛙化現象に陥っていた。
「おはようございます…」
魂が抜けたような声でドアを開ける。
「おはよう、浅田さんどうかしたの?ってあら今日も素敵な格好ね」
「いや、特には…」
イケメン外交官にプロポーズされて、戸惑ってるなんて言えるわけなかった。
瑠璃は更衣室へ向かい制服に着替えると、いつものように仕事を始めた。
昼休み。
近くのコンビニで買ってきたパンを食べながらぼんやりと考える。
(私が孝太郎さんと結婚…)
まずは孝太郎のことが本当に好きなのを自分に問いてみた。
客観的に見て孝太郎は魅力的だった。
容姿端麗なのはもちろん優しいし、頼りにもなる外交官。
こんな人物探せといったって中々見つからない。
そんな人物だ。
そんな人がなんの取り柄もない自分と釣り合うわけが無い…
そもそも孝太郎はこんな自分のどこを好きになったのだろうか?
いやそもそも-
考えれば考えるほど混乱していくばかりだった。
「はぁ…どうしたらいいんだろう…」
と、スマホが鳴った。
「孝太郎さんからかな…」
また今晩のメニューについてかと思っていたら、春香からだった。
「今晩暇?」
また春香に相談してみるのもいいかもしれない。
瑠璃は「暇だよ」と返信をした。
そして孝太郎には「お疲れ様です。今日は友達と会ってくるので自力で帰ります」とメールをした。
「ええ、イケメン外交官にプロポーズされた!?」
「ちょ、春香、声が大きい」
「ごめんごめん」
あれから瑠璃と春香はいきつけのカフェに来ていた。
いつものようにドリアとドリンクバーを頼むと、瑠璃は早速近状を話した。
「しかもイケメン外交官の家にお世話になってるってどういうことよ。いくら自宅が家事になったからって」
「そうだよね…甘えすぎだよね」
瑠璃は申し訳なさそうに言う。
「その洋服もコスメもみんなイケメン外交官に買ってもらったんでしょ」
瑠璃はこくりと頷く。
おそらく本当に全身デパート御用達コーデの人間が、こんな庶民的なカフェだなんてこないだろうが。
「あーいいなー、そんな人とお近付きになりたかったぁー」
「あはは…」
「瑠璃!」
「な、何?!」
春香は瑠璃の手をがっちりと握ると、真っ直ぐに見つめて
「ぜっっったいその人逃しちゃ駄目だからね!」
「う、うん…」
瑠璃は曖昧に返事をする。
「あー、またどうせ両思いになった途端、彼の好意を喜べなくなってるんでしょ?」
「うん…」
春香にはなんでもお見通しだった。
「なんで両思いになったのに素直に喜べないんかなー」
「私もよくわからなくって…しかもいきなり結婚だなんて…」
「いきなり結婚に驚くのはわかるよ。でもそれと好意に喜べなくなるのは別じゃん?」
「そうだね…」
自分に好意を向けられる度、私は貴方が思ってるような素敵な人じゃないと避けてしまう。
学生時代も何度もこういう事があった。
「私だったら好きな人からの好意なんて嬉しくて嬉しくて仕方ないけどなー」
「嬉しいには嬉しいんだけど…」
どこか心の中で引っかかってしまう。
自分は好かれたくていい子の振りをしているだけで、本当はもっと醜くくてどうしようもないやつなのに-
と、スマホが鳴った。
確認してみると孝太郎からだった。
「お疲れ様、どこの店?終わり次第連絡してくれ。迎えに行くから」
孝太郎はどこまでも優しかった。
その優しさが瑠璃を傷つける。
「結構です。自力で帰りますので」
と返信した。
「瑠璃、彼からメール?」
「うん、迎えに来るって」
「えー送り迎えまでしてもらってるの?いいなー。こっちは毎日満員電車だっていうのにさー」
「でも断ったから」
「断ったぁ?!なんでよ」
春香が信じられないという顔をしている。
「も、申し訳ないから…」
それに孝太郎と顔を合わせるのも気まずかった。
「相手からの好意なんだから、素直に甘えればいいのに」
「それが出来たら苦労しないよ…」
瑠璃はオレンジジュースを1口飲む。
「それじゃあいつまで経っても学生の頃のまんまだよ。それでいいの?」
高校生からの付き合いがある春香はよく知っていた。
「よく、ない、です…」
「ならとことん好意に甘えるべきでしょ」
「うん…」
瑠璃も今回は成就させたかった。
他の誰でもない孝太郎と。
「ほら、ウダウダ考えてないでやっぱり迎えに来てくださいってメール送る」
瑠璃は言われた通りにメールを送った。
こうして今日はお開きになった。
お店の前で待ってること数分、目の前に馴染みのある高級車が止まった。
瑠璃は助手席のドアを恐る恐る開けた。
「お疲れ様」
孝太郎は爽やかな笑顔を向ける。
「お疲れ様…今日も迎えに来てくれてありがとう」
「いいよ、そんなの気にしないで」
車が発進する。
「今日はどうだった?」
「あー、仕事の方はいつも通りだよ。あとは友達とご飯食べてきたぐらいかな」
「友達って女性?それとも…」
「じょ、女性だって!男性で一緒にご飯食べる仲の人なんていないから!」
「はは。そんなに否定しなくったていいのに」
「…っ、それもそうだね…」
「もしも男性と食べてきたなんて言ったら、嫉妬するなー」
「嫉妬って…そんな大袈裟な…」
「瑠璃は俺が他の女性と食事してたら嫉妬しない?」
「それは…」
するに決まっている。
「するの?しないの?」
孝太郎は心底嬉しそうに聞いてくる。
「し、し、します…」
「うん。そうだよね」
と頭を撫でられる。
「今日も仕事が残ってるから先に寝てて」
「え!今日も一緒に寝るの?!」
「え、そのつもりだったんだけど…嫌だった?」
「…」
嫌ではなかった。
ただ今朝のことがあって気まずいだけだった。
孝太郎はそのことについてはもうなんとも思ってないのだろうか。
ちらりと孝太郎の横顔を見ると、特に気にした様子もなく普通だった。
(相変わらずかっこいな…)
なんてぼんやりと眺めていると
「瑠璃?」
信号が赤になり車が止まる。
孝太郎と目が合った。
「な、なんでもない…」
瑠璃は咄嗟に逸らしてしまう。
それからお互い無言になってしまった。
そして車が屋敷に着いた。
隣にはなにやら別の高級車が2台ほど停まっていた。
「おかえりなさいませ、瑠璃様、孝太郎様」
いつもように高橋が出迎えてくれた。
「ああ、ただいま」
「ただいま帰りました」
高橋の姿を見ると、ほっとする自分がいたのに驚いた。
「本日は総一郎様とそのお客様がいらっしゃってますよ」
「父さんが?」
孝太郎が眉をひそめる。
「はい、大事な人お話があるとか」
「わかった。瑠璃、先に俺の部屋へ行っててくれ」
「うん」
「失礼致します」
孝太郎は静かに襖を開ける。
「おお、渉久しぶりだな」
「初めましてぇ~、キャー写真よりかっこいいぃ~」
その隣でニコニコ笑う美少女がいた。
孝太郎は嫌な予感がした。
「こちらの女性は?」
「あっ、申し遅れましたぁ~、あたしぃ~早乙女姫華(さおとめひめか)ですぅ~」
「ああ、早乙女財閥のご令嬢でしたか」
早乙女財閥といえば日本全国だけでなく、海外にも進出している大手企業だ。
「姫華の事ご存知なんですねぇ~。嬉しいぃ~」
姫華はキャッキャッとはしゃぐ。
「そのご令嬢がどうしてここに?」
「ふむ。他でもない結婚の話だ」
やはり。
孝太郎は拳を強く握る。
「姫華さんが、孝太郎の写真を見たらえらく気に入ってくれたらしく是非婿養子にと」
「30とかオジサンじゃんとか思ってたけどぉ~こんなイケメンなら全然オッケー、むしろ大歓迎って感じぃ~?」
姫華は髪を指に巻き付け、クルクルさせながら言う。
「大変申し訳ありませんが、お断りさせていただきます」
孝太郎は丁寧に頭を下げる。
「孝太郎!?」
「えぇ、どぉしてぇ~」
「心に決めた方がいるので、それでは」
孝太郎は立ち上がり、部屋を後にしようとする。
「待ってよぉ~、姫華と結婚したらぁ~今よりもずっとおっきな家にぃ~、大勢の使用人たちに囲まれてぇ~いい暮らしできるよぉ~?それに姫華、若くて可愛いしぃ~、おっぱいも大きいよぉ~?」
「そうですか、ですが今の暮らしに満足していますので」
孝太郎は眉ひとつ動かさない。
「待て孝太郎!この縁談を断ることは許さんぞ」
「婚約者ならもういますので」
孝太郎は力強くそういうと襖を閉めて、部屋を後にした。
一方。
先に孝太郎の部屋へ着いた瑠璃は、何をしたらいいのやらと立ち尽くしていた。
机の上に置かれた書類を見ると、どこかの国の言葉でびっしりとかかれていた。
「これはどこの国の言葉なんだろう…」
瑠璃は書類を手に取って眺める。
見れば見るほど訳が分からなくなってしまう。
「いつもこんな難しそうなことしてるんだろうな…。残りの仕事ってなんだろう」
もしかして私の送り迎えをしているせいで、仕事の時間に支障が出ているのではないだろうか。
そう考えると本当に申し訳ない。
早く物件を探して、ここを出なければ…
と、襖をノックする音がした。
「はい」
瑠璃が返事をすると、襖が開き入ってきたのは孝太郎だった。
「もう総一郎さんとの話は済んだの?」
「ああ」
孝太郎は神妙な面立ちで瑠璃に近づくと抱きしめてきた。
「ちょ!えっ…」
「急にごめん、触れたくなった…」
耳元で甘く囁かれる。
「そ、そうなんだ…」
その声を聞くと抵抗できなくなる。
「瑠璃に触れてると落ち着く…」
孝太郎は更に強く瑠璃を抱きしめる。
「それならよかった…」
「瑠璃…」
孝太郎は瑠璃の顎を人差し指でクイと持ち上げると、そのままキスをした。
「きょ、今日もお疲れ様です…」
瑠璃は自分から素早く唇を離す。
咄嗟にこんなことしか言えなかった自分が嫌になる。
「ああ、お疲れ様」
孝太郎は満足そうに瑠璃の頭を撫でる。
「さてっと、俺はまだ仕事が残ってるから先に入浴しちゃってくれ」
「わかった…」
「一緒に入れなくて申し訳ない」
孝太郎がニヤリと笑う。
「そ、そんな一緒に入るだなんて…」
考えただけでも真っ赤になってしまう。
「まあまあいずれはね、それじゃ入っておいで」
「うん」
瑠璃は浴室へ向かい、お湯を沸かすスイッチを押した。
「お父様ぁ~、婚約破棄されましたぁ~」
姫華は帰りの車の中で、父親相手に電話で泣きつく。
「おお、おお私の可愛い姫華がそんな扱いを受けるだなんて、なんてことだ!」
父の源十郎(げんじゅうろう)はカンカンに怒っていた。
「確かぁ~他に婚約者がいるぅ~とか言ってましたわぁ~。本当ですのぉ~?」
「いや、藤堂孝太郎に婚約者など居なかったはずだ…まあいい、こうなったら徹底的に調べさせてもらおう」
「お父様ぁ~、お願いしますぅ~姫華ぁ~、ぜぇ~ったいこぉ~たろ~様と結婚したいですぅ~」
「可愛い姫華のためだ、なんだってやろう」
「わぁ~い、ありがとうぉ~お父様ぁ~」
姫華を乗せた車は暗闇の中へと消えていった。
「ふぅー」
瑠璃はお風呂が湧いたので、孝太郎の部屋で入浴をしていた。
お湯に浸かるのは久しぶりなので、身体の芯まで温まる。
備え付けのシャンプーやボディーソープは瑠璃のいた客室とは違うもので、孝太郎と同じものを使うのかとドキドキしてしまう。
そもそも普段渉が入浴している浴槽に、自分が入っている…
「あーもうおかしくなりそう…」
瑠璃は両手で顔を隠すと、孝太郎に聞こえないように小声で呟いた。
そして逆上せるギリギリまで湯船に浸かると、観念して浴室を後にした。
お風呂から上がると、孝太郎は書類に目を通していた。
真剣な眼差しはいつもとは違った良さがあった。
「おかえり瑠璃、ゆっくり入れたかい」
孝太郎は書類から顔を上げ、立ち上がる。
「うん、孝太郎さんは仕事はどう?」
「ああ、もうだいぶ片付いたよ。今日は一緒に寝れそうだ」
「そ、そうなんだ。お疲れ様…」
瑠璃は誤魔化すように、タオルでゴシゴシと髪を拭き始める。
「俺と同じ匂いがする」
孝太郎は瑠璃を抱きしめる。
「お、同じもの使ったから…」
瑠璃は髪の毛を乾かすのを止める。
「だけど瑠璃の方がずっと良い匂いがする。不思議だな」
「そうかな…」
自分では違いはよくわからなかったが、あの時布団に入った時と同じ匂いがするのはよくわかった。
「髪の毛早く乾かしちゃって、先に布団に入っていてくれ」
孝太郎は瑠璃の頬にキスをすると抱きしめていた手を離し、再び書類に向き直った。
そして数分後-
孝太郎が布団に入ってきた。
瑠璃は相変わらず孝太郎に背を向けている。
「こっち向いて」
「…」
孝太郎の問いかけには答えない。
「るーり?どうかしたの?」
孝太郎は優しく瑠璃の頭を撫でる。
「きょ、今日はそっち向かなくてもいいかなって」
「どうして?」
「ど、どうしても?」
「でも一緒の布団で寝るのはいいんだね。嬉しいよ」
孝太郎が瑠璃の手を自分の方に寄せると、指を絡ませてきた。
「じゃあ今日は手を繋ぐだけでってことで。おやすみ」
「…おやすみ」
しばらくすると孝太郎の寝息が聞こえてきたが、瑠璃はそれを聞いてばかりで一向に寝れる気配がしなかった。
次の朝。
瑠璃はぼんやりと布団から出た。
目の前の机にはいつも通り孝太郎が仕事で使う書類が置いてあったが、持ち主の姿が見えなかった。
もしかして寝坊でもしたのかと慌てて時計を確認すると、時頃は6時40分と普段よりも早い起床時間だった。
孝太郎は先に仕事へ行ったのだろうか。
なとど考えてると、襖をノックする音がした。
「はい」
「失礼致します」
襖を開けて頭を下げたのは高橋だった。
「瑠璃様おはようございます。孝太郎様は今日はお早い出勤でしたので、本日は私が職場まで送らせて頂きます」
そういえば寝てる時、布団が少しめくれて寒かった気がしなくもない。
「そうだったんですね。わかりました。すぐに準備します」
孝太郎に会えなくて寂しい。
こんなことなら昨晩もっと甘えておけばよかった。
と後悔しながら朝の準備を始めた。
高橋の丁寧な運転で職場である病院へ着いた。
「それでは瑠璃様、行ってらっしゃいませ」
「ありがとうございます」
瑠璃は車から降りる。
「帰りは孝太郎様がお迎えにあがるそうなので」
とだけ言い残すと車は発車した。
「おはようございます~」
いつものように病院のドアを開けると
「おはよう浅田。今日はいつものイケメンくんじゃないだな」
「え?」
「ほら最近よく送り迎えしてるイケメンくんいるじゃないか」
「ああ、あの人ね~本当にカッコイイわ~。医院長並のイケメンなんて久しぶりに見たもの~」
「ね~、浅田さんやるわね~。羨ましいわ~」
「はぁ…」
これは完全に勘違いされてる。
「あれは彼氏か?」
渡辺がニヤニヤして聞いてくる。
「ち、違いますよ。し、知り合いです!」
「そうかそうか知り合いかー」
渡辺のニヤニヤは止まらない。
「本当ですからね。皆さんも変な勘違いしないようにしてください」
と言い放ち、更衣室へと向かった。
昼休み。
いつものようにコンビニのパンを食べていると、携帯が鳴った。
「誰だろう」
確認すると孝太郎からだった。
「今朝は会えなくて申し訳ない。帰りは迎えに行けるからまた連絡してくれ」
申し訳ないだなんて自分が寝てたせいで、孝太郎は何にも悪くないはずだ。
「…本当にいい人だな…」
今日も孝太郎の部屋で一緒に寝る-
今夜は昨日よりも少しだけ甘えてみようかな。
嫌でも迷惑じゃないだろうか。
そんなことを考えているうちに昼休みが終わった。
そして仕事が終わり、瑠璃は孝太郎に「お疲れ様です。仕事終わりました」のメールをした。
「お疲れ様さまでした~」
瑠璃は職場を後にした。
病院から出ると見覚えのないが、高級車が停まっていた。
この時間にこんなところに高級車が停ってるなんて普通じゃまずありえなかった。
連絡はなかったが、孝太郎の車だろうか。
屋敷にも何台も別の高級車があったし、今回は別の車なのかも知れない。
瑠璃は車に近づくと、運転席の窓が開く。
サングラスをかけ、スーツを着た30代ほどの男性が声をかけてきた。
「浅田瑠璃様でお間違えないでしょうか?」
その声は非常に無機質で冷たく感じた。
「は、はい…あのどちら様でしょうか?」
「失礼致しました。孝太郎様の代わりにお迎えにあがりましたものです」
「あ、そうだったんですね。ありがとうございます」
おそらく高橋以外のお手伝いさんだろう。
瑠璃は助手席のドアを開けて、車に乗り込む。
車が一向に動こうとはしない。
「あのー?」
瑠璃は声をかけると突然口元を塞がれてしまった。
「ん、ん…」
そして段々意識がなくなっていく…。
男はポケットから携帯電話を取り出し誰かにかける
「はい、浅田瑠璃で間違えありません。確保しましたので直ちにそちらへ。それでは」
電話を切ると、車がゆっくりと走り出した。
「…ここはどこだろう…」
目を覚ました瑠璃はあたりを見回した。
何も無いしんと静まり返った空間に1人-
11月の夜の冷え込みが瑠璃を襲う。
頭痛がすごい、それから吐き気も少々。
手足は紐で縛られていて、身動きが取れない。
その場で軽く飛び跳ねるのが精一杯だった。
ポケットにものが入っている感覚がなく、入っていたスマホや財布も取り上げられたようだ。
「えっと確か…」
瑠璃は混乱している頭の中で精一杯思い出す。
孝太郎の代わりに迎えに来たという車へ乗り込んだら意識をなくし、気がついたらここにいた。
「誘拐とか…?でも私なんか誘拐しても意味無いでしょう」
それこそ名家のご令嬢ならともかく、一般庶民の瑠璃には関係の無い事だった。
と、コツンコツンとなにやら足音がする。
瑠璃は緊張で身動きがとれなくなってしまった。
額にかいた冷や汗が止まらない。
足音が止まり、ドアがギィィと音を立てて開く。
と同時に部屋の電気がついた。
「っ…」
瑠璃は久しぶりの灯りに目を細める。
「お父様ぁ~、この方がこぉ~たろ~の婚約者ですのぉ~?」
甘ったるい声で話す少女は18、19あたりだろうか。
どこかで見かけたことがある気がした。
それもそのはず彼女はとんでもない美少女だった。
ぱっちり二重の人形のような目、サラサラでツヤツヤな黒髪、形のいい各顔のパーツが小さな顔に並んでいた。
着ている着物も鶴や椿など艶やかな刺繍が施された見るからに上等なものだった。
「あぁ、どうやらそうらしい」
隣にいた濃い緑の着物を着た、50代ほどの男性が腕組みをして、瑠璃を睨んでいた。
「あの婚約者って…そもそもここはどこですか?」
瑠璃は状況が掴めないまま、先程言ってきたことを聞く。
「あらぁ~?あなた、こぉ~たろ~の婚約者じゃないですのぉ~?ピンキャの新作もぉ~着てらっちゃるしぃ~」
前者の質問しか返答がなかった。
ピンキャというのはPINKYCATの略称だ。
服を見ただけでどこのブランドかわかるだなんて、さすがお嬢様である。
「い、いえそんな婚約者だなんて…ち、違います…」
違いますと言うのになんだか罪悪感が凄かった。
結局、孝太郎への気持ちは自分の中では解決しないままだった。
「なぁ~んだぁ~、てっきりぃ~こぉ~たろ~様からぁ~買ってもらったのかとばかり思ってましたわぁ~。ほらぁ~やっぱりこの方が婚約者なわけないですわぁ~こんなどこにでもいそうな方ぁ~」
「うーむ…確かにな」
男性は腕を組むのと瑠璃を睨みつけるのをやめた。
「ではなぜ孝太郎殿のところへ一緒に住んでいるのか?」
「な、なんでそんなこと知っているのですか…?」
「浅田瑠璃さん、君のことは徹底的に調べされてもらった。正直に話した方が身のためだぞ」
瑠璃は背筋が凍る。
一体いつの間にそんなことされてたのだろうか。
「えっと…それは家が火事になって、困っていたら孝太郎さんがうちに来ないかと誘ってもらって」
「ちょっとぉ~なにそれぇ~、図々し過ぎませんことぉ~?」
「そういうことだったのか、だった今日からうちで泊まるといい」
「え?」
「そうですわぁ~ウチも部屋なんて余りに余っていますもんねぇ~」
「ああ荷物だったら気にしなくていい。藤堂家にあるものは全て使用人たちに持ってこさせよう。もっともそんなことしなくても、うちの客室には大体のものが揃っているがな」
トントン拍子で話が進んでいく。
「…」
孝太郎とは離れたくなかった。
だからといっていつまでも甘えているつもりはなかった。
次に住む場所が決まるまでの間まで居よう。
新居が決まり次第出ていく。
そのつもりだった。
しかし日に日に孝太郎の家にいるのが、高橋の迎えが当たり前になりつつあった。
「あの、お断りさせていただけませんか?」
「なにをだね」
男が再び鋭い眼光を向ける。
「こちらの家にお世話になることです」
「つまりまだ藤堂孝太郎の世話になりたいと」
「はい」
「それはどういうことかわかっての発言かね」
「もちろんです」
瑠璃は顔を上げて男を睨み返す。
「お父様ぁ~、早くこの方なんとかしてくださいぃ~、姫華ぁ~こぉ~たろ~様と結婚したいのぉ~」
「ああわかってるよ可愛い姫華。君にはしばらくここに居てもらおう」
「それでは行こうか」と姫華とその父は部屋を後にした。
明かりが消えて、再び真っ暗な部屋に1人になってしまった。
「はぁ…どうしよう…」
このまま一生ここで1人だろうか。
こんなところで死にたくはない。
だがなにをしようにもやりようがなかった。
それこそ身代金でも払えば見逃してくれるだろうか。
いやそんなのさっきの発言や服装を見る限りとても裕福そうだった。
身代金などなんの意味もないはずだ。
そもそもそんなお金どうやって用意するのか。
孝太郎と高橋は今頃何をしているのだろうか。
もしかして自分を助けに来たりなんてしてくれるのだろうか。
「…っ、頭が痛い…」
頭痛は酷くなる一方だった。
瑠璃は少しでも寒くないように身を丸めて、誰かがやってこないかを息を殺して待っていた。
「おかしいな。瑠璃がいない」
瑠璃が勤務している病院へ着いた孝太郎だったが、肝心の姿が見えなくて困惑していた。
メールを送るも一向に返信が来なかった。
「なにかあったのだろうか?」
もしかしたら急な残業に追われてるのかもしれない。
そう思った孝太郎は診療時間は過ぎているが、電気は点いている瑠璃が務めている病院へ向かった。
「ごめんください」
「まあ浅田さんの彼氏さんじゃない!近くで見ると尚更かっこいいわ~。って、さっきもいらしてたようですがどうかしましたか」
病院のドアを開けると、40代半ばほどの女性が声をかけてきた。
「さっきもいらした?」
「あら?あの高級車は違ったのかしら」
「車が来てたんですか?」
「ええ、浅田さんを乗せたからてっきり彼氏さんとばかり思ってて…」
「そうですか。わかりました。ありがとうございます」
孝太郎はお辞儀をすると、病院を後にした。
車へ着いた孝太郎は高橋へ電話をした。
「はい、高橋ですが」
高橋はワンコールで直ぐに出てくれた。
「ああ、高橋さん。瑠璃、帰ってきてないか?」
「瑠璃様ですか?まだですが」
「そうかわかった。どうやら別の車が瑠璃を乗せったきりで、もしかしたらもう帰ってると思ったんだが…」
「そうだったのですね…瑠璃様が戻り次第こちらも連絡致しますので」
「わかった」
孝太郎は電話を切った。
「瑠璃…無事でいてくれ…」
孝太郎は強くアクセルを踏んだ。
「おかえりなさいませ。孝太郎様。瑠璃様はまだご帰宅なさっていません」
高橋が心配そうに駆け寄ってきた。
「そうか…」
「やはり警察に連絡をした方がいいかと」
「そうだな。そのつもりだ。ところで」
孝太郎は自分が停めた車の隣に停まっている車を見た。
「父さんが来ているのか」
「あ、はい。総一郎様がいらっしゃってます。なにやら満足そうなご様子でしたよ」
「わかった」
父が家にいているということは毎回ろくでもない要件ばかりだった。
前回もそうだった。
今回も家にいてしかも満足そうということは-
孝太郎は早足で総一郎の部屋へと向かった。
コンコンコンと襖をノックする。
「入れ」
と声がしたので襖を開けると、総一郎は椅子に座って足を組んで新聞を読んでいた。
「父さん!瑠璃が、浅田さんが行方不明なんだ」
「そうかそうか、それはよかったではないか」
総一郎は新聞を読んだままのんびりと答える。
「よかった?」
「あんな財力も権力もない小娘よりも、なんでももってる小娘にしておけ」
「では瑠璃が行方不明なのは父さんの差し金か!」
「だったらなんだ」
総一郎はどうでも良さそうに答えた。
「瑠璃はどこにいる!」
「さぁ?ワシはそこまでは知らん」
「話にならない!」
孝太郎は部屋を後にした。
「孝太郎様?なにやら怒鳴り声が聞こえたのですが…」
高橋はお盆に湯呑みを2つのせたまま、孝太郎に問いかけてきた。
「ああ、悪かったな高橋さん。どうやら瑠璃が行方不明なのは父さんの差し金らしい」
「まあなんと…」
「俺はこれから早乙女家へ向かおうと思っている。万が一でも瑠璃が帰ってきたら連絡してくれ」
「かしこまりました。お気をつけて」
コツン、コツンと再びする足音を聞いて瑠璃は目を覚ました。
あれから一体何分、いや何時間経ったのだろうか?
相変わらずなにもわからない、しようがないままだった。
「またあの2人が来るのかな…それとも孝太郎さんが助けに来てくれたとか…?」
さっき婚約者ではないといったこの状況で、孝太郎が助けに来てくれるのではないかと、期待している自分が嫌になる。
今度は誰だろうと身を構えていると、足跡がピタリと止まりドアが開いた。
「失礼します」
パチと電気がつき、入ってきたのは黒のセーターに紺のジーンズを着た30代ほどの女性だった。
久しぶりの灯りに目が眩しい。
瑠璃は咄嗟に目を瞑る。
女性の手にはブランケットと、銀のトレー。その上にはクロワッサンとコーンスープがのっていた。
「お食事をお持ちしました」
淡々と頭を下げると、食事を瑠璃の足元に置き、腕を縛っていた縄を解いた。
「あの、ありがとうございます…」
自由になったが縄の跡がしっかりと付いた手首を見て瑠璃は言う。
「私はご命令されたことを行っただけですので」
女性は美人だったが表情は常に無く、目線は一切合わず、どこか遠くを見ているようだった。
「い、今って何時頃か分かりますか?」
「その質問にはお答えできません。ご命令されていませんので」
「ならここはどこですか?」
「お答えできません。ご命令されていませんので」
「じゃああとほかに命令されたことって何なんですか?」
瑠璃はムッとしてつい強い口調で聞いてしまった。
「浅田瑠璃を死なせない程度にもてなせとのことでした」
「死なせない程度って…」
「それでは私はこれで」
女性は一礼すると部屋を後にしようとする。
「待ってください!知り合いに連絡をしたいのですが」
「それはご命令されてませんので」
とだけ言い残すと鍵をガチャリと閉めて、部屋を後にした。
残された食事と赤地にカラフルな鞠が施されたブランケットがやけに眩しく感じた。
「重い…」
ブランケットを持ってみるとやけに重たかった。
これならこの寒さも凌げるはずだ。
だがブランケットでは拭いきれない思いが、瑠璃には溜まっていく一方だった。
「そうだ、あの美少女、早乙女姫華だ」
確か姫華のほゎほゎちゃんねる♥️というサイト名で動画投稿活動をしてたはずだ。
瑠璃もちらりとだけ投稿された動画を見た事があった。
動画投稿内容はタイトルからは想像もつかないほどしっかりしており、フランス語、中国語などの語学の講座、着物の着付け、テーブルマナーについてなどだった。
加えて偏差値60超えの難関校、聖マリアンヌ学園の薬学部に通っており、動画投稿だけではなく持ち前のスタイルの良さを活かしたグラビア活動もしていた。
実家は海外進出もしている大手企業で、そこの一人娘。
着物も水着も着こなす才色兼備の大富豪のお嬢様。
それが早乙女姫華だった。
「じゃあ今、私がいる場所は早乙女家の敷地内ってこと?」
自分がいる場所はわかったが、なぜこんなところに幽閉されているのかがわからなかった。
「孝太郎さんの婚約者だと思われてるから…?」
姫華は孝太郎と結婚したがっているのだろうか。
だから邪魔者は消そうと、こうして誘拐をしたのだろうか。
「お似合いだな」
年齢差はあるが誰が見ても美男美女カップル。
「少なくとも私なんかよりもずっと…」
「藤堂孝太郎というものですが、早乙女源十郎殿に大至急お会いしたい」
早乙女家に着いた孝太郎はインターフォンに怒鳴るような口調で言う。
早乙女家も孝太郎の家と同じように高い塀に囲まれた、純和風な建物だった。
いつもはいるはずの門番が今日はいなかったので、インターフォンを押したが相手の返答が来ない。
「聞こえていますか?!早乙女源十郎殿にお会いしたいのですが!」
「大変お待たせいたしました。現在源十郎様はお留守です」
人間味が全く感じられない無機質な声が聞こえてきた。
「では姫華殿でも構わない」
「姫華様もいらっしゃいません。今回はお引き取り下さい」
「2人ともいないはずはない!では浅田瑠璃はどこにいる。会わせていただきたい」
「そのような女性はいらっしゃいません。お引き取り下さい」
「いや、確かにいるはずだ。至急会わせていただきた…」
「こぉ~たろ~様ぁ~?ど~かなさいましたのぉ~?」
インターフォンから聞き覚えのある声が聞こえた。
「姫華殿!源十郎殿はいらっしゃいますか?」
「お父様はぁ~現在入浴中ですわぁ~。なにかご用ですのぉ~?」
「そちらに浅田瑠璃、いや、女性が来なかっただろうか?」
「あぁ~、そういえば来たようなぁ~?」
姫華は曖昧に答える。
「とりあえず門を開けて頂けないでしょうか?」
「わかりましたぁ~」
そういうとすんなりと門が開いた。
「これでやっと瑠璃に会える…」
渉は意を決して、早乙女家の敷地を跨いだ。
「こぉ~たろ~様ぁ~こんな時間にお会い出来るなんて嬉しいですわぁ~」
姫華は満面の笑みを浮かべて渉に近寄る。
「ああ、姫華様。それで女性はどこに?」
「あ~地下室ですわぁ~。でもそんな女性なんてどうでもいいではありませんかぁ~?」
「どうでもよくなんかはないんです!私にとっては大切な女性なんです」
「う~ん、よくわかりませんけどぉ~、ご案内しますわぁ~」
「こちらですわぁ~」と孝太郎は姫華の跡をついていく。
コツンコツンとまた足跡がする。
今度は1人ではなく2人分する。
またあの2人だろうか。
瑠璃は羽織っていたブランケットを軽く畳み、正座をする。
腕が自由になったので、足の縄も解けるかと思ったがキツく結ばれててできなかった。
今度は一体なんのようだろうか?
自分の生存確認にでも来たのだろうか?
足跡が止まり、再び扉が開く。
「瑠璃!」
「孝太郎さん…」
電気が眩しくてすぐに判断出来なったが、確かに孝太郎だった。
孝太郎は力強く瑠璃を抱きしめる。
「まぁ~、これはどういうことですのぉ~?」
姫華は口をあんぐりと開けて立ち尽くしていた。
「瑠璃、遅くなってすまなかった」
「ううん、来てくれただけで嬉しい…」
瑠璃も孝太郎を抱きしめる手を強める。
「こぉ~たろ~様ぁ~、どういう状況ですのぉ~?そちらの女性はなんの関係もない方じゃないですのぉ~?」
「関係がないだなんてとんでもない。瑠璃は俺の婚約者です」
「ええぇ~だってその方は違うと仰ってましたわぁ~」
「そ、それは…」
「瑠璃、本当か?」
「あの時はまだ決心ができてませんでしたが、私は孝太郎さんの婚約者です」
今ならもう迷いはない。
こうして助けに来てくれたのだから。
好意には好意で返したい。
「そ、そんなぁ~…」
姫華はよろよろとその場にしゃがみこむ。
「瑠璃、やっとそう言って貰えて嬉しいよ。早くここから出よう」
孝太郎は瑠璃の足を縛っていた縄を解く。
縄は解けたが暫く結ばれてたため、上手く動かない。
立てなそうな瑠璃を見て孝太郎はそっと横抱きをする。
「ありがとう、孝太郎さん」
「それでは姫華様、また」
孝太郎は床に座り込んだ姫華に一礼すると、部屋を後にしようとする。
「で、でもぉ~、姫華はぁ~こぉ~たろ~様と結構したいんですぅ…誰よりもお慕い申しておりますのにぃ…」
「その気持ちはわかります。ですがすみません俺には瑠璃しかいないので」
「そんなぁ…そんなにお好きなんですねぇ…」
「はい」
「姫華と一緒になったらぁ~望むものはぁ~なんでも手に入りますのにぃ~…」
「姫華様、本当に望むものは自分の力で手に入れた方が楽しいですよ」
「楽しいぃ~?」
姫華は首を傾げる。
「はい。では」
「姫華もぉ~、いつかぁ~こぉ~たろ~様が認めてくれるような女性にぃ~、なってみせますわぁ~。その頃にぃ~結婚してくださいなんて言われてもぉ~絶対にぃ~しないですからぁ~」
「はい。その時を楽しみにしてますよ」
孝太郎はにこやかに答えると部屋を後にした。
「どこへ行くつもりだね」
長い階段を登り終わり、1階へ着いたと思ったら源十郎が待ち構えていた。
源十郎は2人を睨みつける。
「瑠璃は返してもらいます」
「そんな小娘よりもうちの姫華の方がずっといいと思うが」
「姫華様には姫華様の、瑠璃には瑠璃の良さがありますので」
孝太郎はキッパリと言う。
「孝太郎さん…」
頬が熱くなる。
瑠璃はうっとりした目で孝太郎を見る。
「ふん、その小娘の処遇なら心配せぬともよいぞ。大体医療事務などとくだらない仕事をするよりは、海外にあるうちの別荘の管理人でも任せた方がよっぽど有意義だろう。そもそも…」
「お父様ぁ~、もういいんですぅ~。姫華ぁ~こぉ~たろ~様が羨ましがるほどの女性になるって決めたんですからぁ~」
姫華が源十郎の元へ駆け寄る。
「姫華…」
源十郎がビックリしたように姫華を見る。
「その時になってもぉ~、こぉ~かいしないみたいですしぃ~」
「はい。俺には瑠璃がいるので」
「姫華がいいというならいいが…」
源十郎はまだ驚きが隠せないようで姫華から目を離さない。
「はぃ~、お父様ぁ~姫華はもう結構ですわぁ~」
姫華は満面の笑みを浮かべ答える。
「そ、そうか…わかった…。孝太郎殿、瑠璃殿気をつけて帰るがいい…。こんなまねをしてすまなかった…」
源十郎は段々と小さな声でボソボソと話し、最後の方は瑠璃たちには微かに聞こえるほどだった。
「そうさせていただきます」
孝太郎も瑠璃も言いたいことは沢山あったがひとまず引き下がることにした。
孝太郎は瑠璃を抱き抱えたまま、頭を下げる。
瑠璃も小さく頭を下げる。
外に出ると辺りは真っ暗だったが、日付が変わってないことに驚いた。
(私が思ってるほど、早乙女家にはいなかったんだ…)
監禁されてる時は永久に時が止まってしまったような感覚でいた。
もしかしたら自分は一生ここからでられないのかもしれない。
そんな不安が常にあった。
「遅くなって本当にごめん」
瑠璃は孝太郎の車へ着くとまた抱きしめられる。
孝太郎が助けに来てくれた時、どれほど心強かったことか。
「大丈夫だよ。来てくれてありがとう」
瑠璃は宥めるように言う。
「無事でよかった…」
孝太郎は瑠璃にキスをする。
キスをされると、より一層生きて早乙女家から出ることが出来たんだと改めて実感できた。
「家に帰ろう」
「うん」
孝太郎は車をゆっくりと発進させた。
「おかえりなさいませ。瑠璃様。孝太郎様。ご無事でなによりです」
車から下りると高橋が小走りをして寄ってくる。
車は孝太郎が運転してきたものしか無かった。
孝太郎は空車になった駐車場を睨みつける。
「ご迷惑をおかけしました」
瑠璃は深々と頭を下げる。
まだ少し縛られていた感覚が抜けないが、久しぶりに自分の足で歩くのは新鮮だった。
「いいんですよ。お怪我なくこうして帰ってこられたんですから」
高橋が目に涙を浮かべて言う。
「ああ、疲れただろうからゆっくり休もう」
孝太郎は瑠璃の腰に手を回す。
「うん」
「父さんは帰ったんだな」
「ええ、何やら不機嫌そうでしたがお帰りになられました」
「そうか…まあいい。行こうか瑠璃」
瑠璃の足を気遣ってか、ゆったりとした足取りで孝太郎の部屋へ向かった。
孝太郎の部屋へ着いた瑠璃は再び抱き合う。
「孝太郎さん…もう大丈夫だから」
瑠璃は孝太郎の腕から離れようとするが、強く抱きしめられていてできない。
「本当にもっと早く行けばよかった…」
悔やみ切れないような、怒りを押し殺すような声だった。
「私はこうして無事だから。ね?」
瑠璃は敢えて元気だとアピールするように明るい口調で言う。
孝太郎は瑠璃にキスをすると解放してくれた。
「俺は仕事が残ってるから、すまないがまた先に入浴しててくれ。一緒には寝れると思う」
「うん。わかった」
瑠璃は浴室へ行き、お風呂の栓を閉めるとお風呂を沸かすスイッチを押した。
孝太郎は自席について資料に目をやり、パソコンを弄りと忙しそうだった。
だがそんな姿を眺めてるのは非常に有意義で幸せな時間だった。
しばらくするとお風呂が沸き、瑠璃は入浴を済ませた。
瑠璃は眠っていると布団がめくれて目が覚めた。
孝太郎が布団の中に入ってきた。
こうして渉と一緒に寝るのは当たり前になってきた。
「瑠璃…」
甘く自分の名前を呼ばれ、抱きしめられる。
「孝太郎さん…」
瑠璃も孝太郎の名前を呼び、抱きつく。
「好きだよ」
耳元で優しく囁かれる。
「私も」
瑠璃は孝太郎の腕の中で答える。
孝太郎は瑠璃を抱きしめる手を緩めるとキスをしてきた。
最初は唇に触れてただけだったが、徐々に瑠璃の唇を割って舌も入ってくる。
「あっ…」
咄嗟に声が漏れる。
「いいよね、瑠璃」
瑠璃はこくんと頷くと、背中に腕が回りブラのホックを外された。
「恥ずかしい…」
この姿になるのは2回目だったが、相変わらず恥ずかしさは消えなかった。
「大丈夫、とっても綺麗だよ」
孝太郎は瑠璃の手をどかし、胸元にキスをする。
「や…」
「その声もっと聞かせて」
久しぶりの夜は情熱的に終わった。
襖をノックする音が聞こえる。
高橋だろう。
瑠璃は寝起きの頭でぼんやりと考える。
相変わらず孝太郎に抱きしめられていて、動くことができない。
「孝太郎様~、瑠璃様~起きましたでしょうか?」
襖越しに声が聞こえる。
「あっ、はい。起きましたー」
「ああ。起きたよ高橋さん」
頭の上から声がする。
と、頭を優しく撫でられる。
「瑠璃もおはよう」
「うん、おはよう」
そっとキスされる。
「朝食の準備が出来ておりますので、是非召し上がっていってくださいませ。それでは」
高橋は襖越しに声をかけてきただけで、どこかに行ってしまった。
「さてと俺達も準備をしていくか」
「うん」
瑠璃はタオルを持って洗面所へ向かった。
準備が済み食堂の襖を開けると、香ばしい匂いが漂ってきた。
机の上を見ると湯気が出たご飯とワカメと豆腐の味噌汁、鮭に大根おろし、ほうれん草のおひたし、金平ごぼう、小鉢に入った大根の漬物が並んでいた。
「わー、どれも美味しそう」
瑠璃は座布団に正座して、目をキラキラさせる。
「高橋さんの料理はとても美味しいんだ。ぜひ食べてくれ」
「そうなんだ、食べるの楽しみ~。いただきまーす」
瑠璃は手を合わせてから箸を持つ。
ほうれん草のおひたしを1口食べると
「うん!美味しい!」
「だろだろ?他のも食べてみてくれ」
孝太郎が嬉しそうに勧める。
「お味噌汁もいい出汁が出てていいね」
「ああ、高橋さんが作る味噌汁は俺も大好きなんだ」
「いいなー私も今度作り方教えてもらいたいなー」
「瑠璃は普段料理するのか?」
瑠璃の動きがピタリと止まる。
「え~…たまにする程度かな?あはは…」
瑠璃は愛想笑いをして誤魔化す。
「そっかたまにか」
孝太郎は微小を浮かべ味噌汁を1口飲む。
(本当に今度、高橋さんに教えてもらおう…)
瑠璃は決心したかのように漬物を1口食べた。
素朴で家庭的であっさりとした味付けの料理たちは、毎日食べても飽きないだろう。
車が職場の病院まで着いた。
「今日も送ってくれてありがとう」
「これくらいのことはさせてくれ」
孝太郎は瑠璃にキスをする。
すぐに瑠璃から唇を離す。
「ちょ、実はここ病院から丸見えなんだけど…」
丁度受付の真正面の位置に車があった。
「いいじゃん別に」
「なんにもよくない」
瑠璃はそっぽを向く。
幸い、受付には人がいなく、見られてる可能性は低そうだった。
が、もしかしたら医院長にでも見られていないかと、冷やかされたりしないかとヒヤヒヤする。
「じゃあ終わったらまた連絡してくれ。今日も頑張って」
「もう、孝太郎さんもね」
瑠璃はやや困ったように車のドアを閉めて、病院へ向かった。
「おはようございます~」
瑠璃は職場のドアを開ける。
「おお、浅田~、朝から随分彼氏くんと仲良さげじゃねーか」
渡辺が茶化すように言ってくる。
どうやらさっきの一部始終を見られていたようだ。
「あれは向こうが一方的に…」
「まあまあいいじゃないの~。あー若いって羨ましいわ~」
「そうよね~。うちなんてもう何年も旦那とそういうことないわ~」
「ホントよね~うちもだわぁ~」
先輩たちの羨ましいそうな、なんとも言えない視線に耐えられなくなった瑠璃は居心地が悪くなり、足早に更衣室へ向かった。
昼休み
いつも通りコンビニで買ってきたパンを食べていると、スマホが鳴った。
確認すると孝太郎からだった。
「お疲れ様。今日の夕食はなにがいい?」
「ん~どうしよう」
以前、カルボナーラと言ったところあの純和風な部屋に洋食という、かなりミスマッチな選択をしてしまった。
「今回は何がいいかなー。オシャレな和食オシャレな和食…」
どんなに考えても出てこなかった。
「ああもういいや」
瑠璃は投げやりになり「カレーが食べたい」と返信した。
こうして昼休みは終わり、午後の仕事が始まった。
「お疲れ様です」
瑠璃は職場の人たちへ挨拶をすると、病院を後にした。
しばらく外で待っていると見覚えのある高級車が止まった。
「お疲れ様~ありがとう」
瑠璃は助手席へ乗り、シートベルトをつける。
「ああ、お疲れ様。今日はどうだった?」
「ん~、今日はね…って朝のやつ、やっぱり見られたみたいなんだけど」
瑠璃は口を尖られせて言う。
「ふーん。そうなんだ」
孝太郎は特に気にした様子もなくハンドルを回す。
「職場の人にからかわれたよ~もう…」
「瑠璃はからかわれて嫌だった?」
「嫌というよりは…」
恥ずかしさが勝っていた。
孝太郎とはもう何回もキスしているが、未だにドキドキしている自分がいた。
しかも人様に見られてたなんて尚更だった。
「じゃあ気にすることないじゃん」
「いやいや気にするって…」
「ならそれが習慣になる様にするしかないかなー」
「習慣になるようにって…」
「だったら職場の人もいちいちからかってこないだろう?」
「それはそうかもしれないけど…」
「ならそういうことで」
「もう!今度キスされそうになったらガードする!」
「瑠璃は俺とキスするの嫌?」
「い、嫌じゃないけど、もっとこう…場所を考えて欲しいってこと!」
「なるほどねー」
孝太郎は嬉しそうにアクセルを踏む。
「…わかってくれた?」
瑠璃は不安げに孝太郎の整った横顔を見つめる。
「ああわかったよ」
孝太郎は瑠璃の頭をわしゃわしゃと撫でる。
「ならよかったけど…」
「他に職場であったことは?」
「うーん、そうだなー…」
次第に和やかな雰囲気になってきた。
雑談しているうちに屋敷に着いた。
「おかえりなさいませ」
車を降りると同時に高橋が出迎えてくれた。
「ただいま、高橋さん」
孝太郎がにこやかに声をかける。
「高橋さん、ただいま帰りましたー」
「お2人ともお元気そうでなによりです。今日の夕飯はカレーですよ」
「わー楽しみです~」
「ああ、いつもありがとう。早速いただきに行くよ。行こうか瑠璃」
2人は食堂へ向かった。
食堂の襖を開けるとカレーの香ばしい匂いがしてきた。
「わー、いい匂い」
瑠璃が歓喜の声を上げる。
「冷めないうちに食べようか」
「うん、いただきまーす」
瑠璃は手を合わせ、カレーを食べ始める。
「ん~スパイスがいい感じ~」
ピリッと辛く絶妙なバランスでスパイスが調合されていた。
「な~、高橋さんお手製スパイスだ」
「美味しいね~」
「そうだな。瑠璃、大事な話があるんだ」
「だ、大事な話って?」
瑠璃は背筋をピンと伸ばし、身構える。
孝太郎は瑠璃を真っ直ぐ見つめるとゆっくりと口を開く。
「仕事を辞めて欲しいんだ」
「え?」
「仕事を辞めて家庭を守って欲しい」
「それって…」
つまりは専業主婦になってくれということだろうか。
「でも私、料理なんて全然できないし…」
掃除なんかも気が向いた時しかやらない。
そんな人間がこんな屋敷を守るなんてことできないだろう。
「ああ、それでも構わない。そんなのは少しづつやっていけばいいのだから」
「少しづつ…」
高橋に教えてもらないながらやっていけばいいのだろうか。
そんな悠長なことをしてても孝太郎は許してくれる。
「すぐに答えを出さなくていいから」
「うん…」
「えー!イケメン外交官に仕事辞めて家庭を守って欲しいって言われたぁ~?」
「春香、声大きいって」
「あ、ごめんごめん」
土曜日、瑠璃は春香と共にいつものカフェへ来ていた。
近状報告として以前孝太郎に言われたことを話すと、反応はプロポーズされた時と同じようなものだった。
「ってことは寿退社ってこと?あーいいなー」
春香はフォークを片手に天井に向かって叫ぶ。
「うーん確かにそうなるよね…」
「相変わらず浮かない顔しちゃってさ~」
「今の仕事は好きだし、仕事辞めて専業主婦になるほど家事できる訳じゃないし…」
「でも彼は少しづつでいいって言ってくれてるんでしょ?ならいいじゃん。あーあ、私にもそんな風に言ってくれる白馬に乗った王子様現れないかなー」
「白馬に乗った王子様って…」
瑠璃は烏龍茶を1口飲むと苦笑いする。
「だって今どきいないよ?専業主婦になって欲しいなんて言う人」
「まあねー」
瑠璃はストローから口を離すと、くるくると回す。
「そうだ。結婚式どこであげるの?軽井沢?ハワイ?」
「ちょっと、春香気が早いって」
瑠璃は早口に否定する。
「そんなの時間の問題じゃんか~。絶対招待してよね」
「う、うんわかった…」
「それに比べて私は出会いすらないやー。あの時シャンパンがかかったのが私だったらよかったのに~」
「そういえば、シャンパンがかかってなかったらこうして出会うことすらなかったのか…」
瑠璃は神妙な顔で烏龍茶を見つめる。
あの時は不運なことが起きたとばかり思っていたのに、まさかこんなことになるなんて。
「それでもあの時、春香が背中を押してくれなかったらお近ずきになれないままだったよ」
ハンカチを返すか返すまいかで悩んでた、瑠璃を後押ししてくれたのは春香だった。
「瑠璃~、それ結婚式のスピーチで言うから」
「う、うん…」
相変わらず気が早い春香だった。
春香とお開きになったことを孝太郎へとメールする。
外に出ると随分と寒く、暗くなっていた。
すっかり話し込んでしまったようだ。
自力で帰ると言ったのだが、あんな事件があってすぐだ。
危ないから送り迎えをさせてほしいとのことだった。
しばらくすると孝太郎の運転する車が、瑠璃の目の前を止まる。
「今回もありがとうね」
お礼を言いながら助手席のドアを開ける。
「気にしないでくれ」
孝太郎は瑠璃の頬にキスをする。
「今日も友達と話せてきたか?」
「うん、友達ったら気が早くて困っちゃったよ~」
「気が早いって?」
「あ…えっと…」
瑠璃は口を閉ざす。
「どういう意味?」
「け、結婚式どこで挙げるの?とか聞かれて…」
「ああ、なるほどね。そういうことか。瑠璃はどこで挙げたい?」
「え?私?私は…」
突然の問いかけに答えに詰まる。
結婚式だなんて今まで考えてなかった。
「パ、パリとかいいんじゃないかな?出会った場所でもあるし」
なんて適当にはぐらかす。
「パリかー、確かに出会った場所だしいいかもなー」
孝太郎が満更でもなさそうに言う。
「でもそんな結婚式なんていきなりすぎて…」
孝太郎は瑠璃の手をぎゅっと握る。
「よさげな会場、一緒に探そう」
「そ、そうだね」
「素敵な式にしような」
「うん…」
握られてた手に力が入る。
「おかえりなさいませ」
「ただいま帰りました」
高橋がぺこりと頭を下げるのにつられて、瑠璃も下げる。
「高橋さん、こんな遅くまですまない。今日はもう帰ってくれ」
「いえいえ、留守を守るのが私の仕事ですから」
留守を守るという単語に瑠璃はピクっとした。
いずれは自分もそうなる身だ。
今からでも高橋の仕事っぷりを見ておいた方がいいかもしれない。
瑠璃は高橋をじっと観察する。
いつも元気で笑顔で迎えてくれて、こちらまで元気と笑顔を貰えるような存在だった。
そんな存在に自分もなれるだろうか?
「…り?瑠璃?どうかしたか」
「!!う、ううんなんでもない」
「じゃあ俺達は部屋へ行くから。高橋さんお疲れ様」
「お疲れ様です」
「ありがとうございます。お2人共、お疲れ様でございました」
孝太郎の部屋へ着くといきなり抱きしめられた。
「どうかしたの?」
「いや、なんでも。ただ瑠璃を抱きしめてると落ち着くんだ」
前にもそんなことを言われた気がした。
「今日は特に仕事は残ってないんだ。一緒にテレビでも観るか」
そういうと孝太郎はテレビのスイッチを入れ、瑠璃を横抱きするとソファーへ座らせた。
「孝太郎さんの部屋でテレビ観るの初めてかも」
「はは。ずっと仕事の残りをしてばかりだったもんな」
「そうそう、だからこうして一緒にテレビ観るの新鮮」
見覚えがあるのは書類とパソコンを交互に見る、真剣な眼差しだった。
それを見るのは瑠璃は好きだったが、こうして隣で同じものを見つめる眼差しもいいなと幸せに満ち溢れていた。
「そぉ~なんですぅ~、姫華ぁ~大失恋してぇ~、ぜぇ~ったいその人のこと見返すって決めたんですぅ~」
テレビから聞き覚えがある声がする。
「あ、早乙女姫華だ」
瑠璃は咄嗟にその名前を口に出す。
黒地に百合の刺繍が入った着物を着ていた。
姫華の真っ白な肌がよく映えていた。
「テレビにも出るんだなー。普段観ないから全然知らなかったよ」
「みたいだねー。私も普段観ないから初めて出てるの観た」
「…」
「孝太郎さん?」
返事がないので横をチラと見ると孝太郎は目を閉じていた。
「寝ちゃったのかな?」
しばらくすると微かに寝息が聞こえてきた。
「へえー、姫華ちゃんみたいな可愛い子を振る男なんているんだねー」
テレビからそんな声が聞こえてきた。
「そぉ~なんですぅ~。もぉ~びっくりしましたぁ~」
振った本人は現在夢の中である。
「でも姫華ちゃんほどの家柄の子だったら、許嫁とかいるんじゃないの?」
「確かに」
瑠璃は思わずテレビに向かって相槌を打ってしまった。
「あぁ~、いたんですけどぉ~断っちゃいましたぁ~。とっても暗い方でぇ~こっちまで暗くなるような方でしたわぁ~」
「断っちゃいましたって…」
瑠璃は呆れたように言う。
そんな簡単に断れるものなのだろうか?
いやあの父親だったらなんでもするだろうから、きっとどんな手段を使ってでも断ったのだろう。
瑠璃を誘拐した時のように。
「そうだったんだね。それは大変だ。ところで姫華ちゃん…」
「ふぁ~…なんだか私も眠くなってきちゃった…」
瑠璃も目を閉じた。
隣から感じる孝太郎のぬくもりが心地いい。
カタカタと何かを叩く音で瑠璃は目を覚ました。
起きると毛布がかかっており、ソファーの上だった。
(そうだ、あのまま寝落ちしちゃって、それで…)
瑠璃は後ろを振り返ると、パソコンに向かってタイピングしてる孝太郎と目が合った。
「おはよう、瑠璃。起こしちゃったかな」
孝太郎はスーツ姿で、仕事に行く準備を済ませてあった。
「ううん、大丈夫」
瑠璃はソファーから起き上がる。
時刻を確認すると5時半。
随分と寝てたみたいだ。
「風呂さっき沸かしたばっかりだから入ってきちゃって」
「わかったありがとう」
瑠璃はコンタクトを外したり、タオルを用意したり入浴するための準備を始めた。
「ふぅ~まさかあんなに寝てたなんて」
瑠璃は浴槽の中で大きく伸びをする。
ふかふかのソファーで寝てたため身体が痛いことはなかったが、寝返りがうちにくいため若干身体がなまっている。
孝太郎が入浴したばかりのため、浴室の中が使っているシャンプーの匂いで溢れてドキドキする。
「ここのシャンプーとボディーソープ使うようになってから髪と肌の調子がいいんだよねー」
一体どこのを使っているのだろうか。
パッケージを確認してもそれらしいメーカー名は書いてない。
「あとで孝太郎さんに聞いてみよう」
そういうと瑠璃は浴室を後にした。
「おお瑠璃あがったのか」
孝太郎が机から顔を上げて瑠璃を見る。
「うん、さっぱりした~。ってそうそう渉さん使ってるシャンプーとボディーソープってどこの?」
瑠璃はタオルで髪の毛を拭きながら言う。
「あーそこら辺はみんな高橋さんに任せてるんだ。今度聞いておくよ」
「そうなんだ。わかった」
(家の事、殆ど高橋さんに任せっぱなしなんだな)
多忙な外交官なのだから仕方がない。
結婚してからはそういう細かいことも自分でやることになるだろう。
「頑張らないと…」
瑠璃は小声で呟く。
コンコンコンと襖をノックする音がする。
「はいー」
メイク中の瑠璃が返事をすると
「瑠璃様お目覚めで何よりです。孝太郎様もお目覚めでしょうか?」
「ああ、起きてるよ」
「かしこまりました。お食事の用意ができていますので召し上がっていってくださいませ。それでは」
「また高崎さんの料理食べれるー」
「ああ沢山食べてくれ。それじゃあ準備が出来次第、食堂へ向かうとするか」
「うん、ちょっとまっててね」
「ゆっくりでいいよ」
「ありがとう」
食堂の襖を開けるといつも通り香ばしい匂いがしてきた。
机の上を見るとご飯、大根の味噌汁、鰤の照り焼き、百合根の茶碗蒸しに肉じゃが、小鉢には白菜の漬物が入っていた。
「今日も美味しそうー」
瑠璃は嬉しそうに座布団に正座をする。
「だなー」
孝太郎も机を挟んで正面に腰を下ろす。
「それじゃあいただきます」
瑠璃は手を合わせると朝食を食べ始めた。
「今日もいつもの時間に終わると思うから」
職場まで送って貰った瑠璃は孝太郎にそう告げる。
「わかったよ、今日も頑張って」
「孝太郎さんもね」
「ああ、ありがとう」
そう言うと車が発進した。
(今日、医院長に言おう…)
瑠璃は覚悟を決めると、病院へ向かって歩き出した。
「おはようございます~」
瑠璃は病院のドアを開ける。
「あら、浅田さん。おはよう」
「おはよう。浅田さん」
皆もうすっかり、瑠璃の全身ブランド品コーデとデパコス顔に驚かなくなってしまって、少し寂しさがあった。
(あの時は人気者気分だったのにな…)
あんなに口々に褒められたことなんて、これから先一生ないかもしれない。
「お~浅田、おはよう」
「あ、医院長。おはようございます」
医院長の姿を見ると、無意識に背筋がピンと伸びてしまった。
「おお、どうした~そんな身構えて」
「いや~特には…あはは。着替えてきまーす」
瑠璃は適当に誤魔化すと足早に更衣室へ向かった。
昼休み。
いつも通り、早々にコンビニのパンを食べ終えた瑠璃は診察室の前へ来ていた。
コンコンコン。
瑠璃は診察室のドアをノックする。
「どーぞー」
緊張している瑠璃とは対照的に随分と気の抜けた声が聞こえたので、ドアを開ける。
「失礼します。あの医院長」
「お、なんだ~浅田か。どうした~?寿退社の相談か?」
渡辺が書類を片手に冗談っぽく言う。
「はい。実はそうなんです」
「え?マジで?」
渡辺は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしてこちらを振り向く。
「やー、まさか本当だったとは…。よかったな浅田」
「ありがとうございます。来月か再来月には辞めようかと思ってまして…」
「おー、わかった。それまでにこっちも新しい人見つけておくわー」
「すみません。ご迷惑をおかけてしますが最後までよろしくお願いします」
「迷惑なんてとんでもない。おめでたい事じゃないか。他の人には話したのか?」
「いえまだです。私の口から伝えたいのですが、中々タイミングがなくって」
「おおそうかー、本当に困ったら言えよ。俺から言っておくから」
頼もしい上司で心強かった。
「ありがとうございます」
瑠璃は頭を下げると、診察室を後にした。
「よかった、伝えられて」
瑠璃はホッとしたように診察室のドアに寄りかかる。
「あとは春香にも伝えておこっと」
瑠璃はスマホを起動すると、孝太郎からメールが来ていた。
また晩御飯のことだろう。
「今日は何にしようかな」
そんなことを考えながら休憩室へ戻っていった。
「お疲れ様でした~」
瑠璃は元気よく職場の人たちへ挨拶をする。
病院のドアを開けると、冷たい風が一気に吹き込んできた。
「う~さむっ…」
瑠璃は両手を擦り合わせる。
と、孝太郎の運転する車が瑠璃の前に来た。
「お疲れ様~今日もありがとう~」
助手席のドアを開けながら言う。
「お疲れ様、今日はどうだった?」
「あ~今日はね…」
瑠璃は外のイルミネーションを眺めながら
「近々仕事辞めますって医院長に言ってきた」
「それって…」
「う、うん…」
瑠璃は急に恥ずかしくなって自分の手を握る。
「ありがとう、嬉しいよ」
孝太郎が瑠璃の頭を撫でる。
「だいぶ驚かれちゃったけどね…」
「そっかそっか」
孝太郎はご機嫌だった。
「でも本当に家事とか何にもできないけど…」
「言ったろ?そんなのは少しづつでいいって」
「うん…」
「高橋さんに聞いたら喜んで教えてくれそうだなー。あ、でも私の仕事ですからって言って瑠璃には一切やらせないかもなー」
「えーじゃあ私の仕事はどうなるのー?」
「だったらなにか好きなことをやるといいよ」
「好きなこと?」
そんな緩いことが瑠璃の仕事になるのだろうか。
「なにかないのか?」
「え、えっと…」
適当にスマホゲームを気が向いた時にやるぐらいしか趣味らしい趣味がなかった。
「なんだろう…あはは…」
「じゃあそれも見つけていくといいよ」
「そうだね…」
辺りのイルミネーションのように瑠璃の未来もキラキラと輝き出した。
「おかえりなさいませ」
車が駐車し、降りたと同時に高橋が声をかけてくる。
「ああ、ただいま高橋さん」
「ただいま帰りました」
「今日の夕ご飯はなにに致しましょうか?」
「あ、そうだった」
今日のお昼休みはバタバタしていて、夕飯のリクエストをメールしてなかった。
「ああ、そのことなんだけど高橋さんと瑠璃でなにか作ってくれないか?」
「え?!」
瑠璃がぎょっときた目で孝太郎を見つめる。
高橋は特に変わった様子はなく
「かしこまりました。それでは瑠璃様はこちらへ」
「え、えっ…」
「じゃああとは任せたよ」
孝太郎はにこにこと手を振って瑠璃を見送った。
こうして瑠璃はキッチンへと来ていた。
「さて、瑠璃様、何を作りましょうか?」
「えっと~」
瑠璃はキッチンをキョロキョロと見回す。
3口コンロに、大きな冷蔵庫、食器棚には上品で高価そうな食器たちが並んでいた。
「瑠璃様は普段お料理はされますか?」
「い、いや全然しないです…」
瑠璃は申し訳なさそうに下を向く。
「瑠璃様、大丈夫ですよ」
高橋は瑠璃の手を握る。
「料理は愛情ですから」
高橋はにっこりと微笑む。
「そうですね」
「それでは瑠璃様は手を洗ったあと、玉ねぎを切ってくださいませ」
「わ、わかりました」
瑠璃は手を洗うと、高橋から包丁を受け取る。
久しぶりに握った包丁は思っていたよりも重たく、が、意外と手に馴染んでくれた。
「どのように切ればいいですかね?」
「うーんそうですわね…」
瑠璃は高橋にレクチャーを受けながらなんとか料理を作り始めた。
「し、失礼します」
瑠璃は緊張した面持ちで食堂の襖を開ける。
「お、瑠璃、どうだったか?」
孝太郎は読んでいた新聞紙を適当に畳むと、姿勢を正す。
瑠璃は孝太郎の目の前にお皿を置く。
「シチューか美味そうだな」
「ちょっと水っぽいんだけどね…」
加えて不揃いに切られた野菜たち。
「いや、それでもこうして作ってくれたんだろう?嬉しいよ」
「はい、普段お作りにならないと仰ってたのに手際が宜しかったですのよ。瑠璃様は料理の才能あると思います」
高橋が嬉しそうに言う。
「そ、そうでしょうか…」
高橋の補助がなかったら何回指を切っていたか、数え切れないほどだった。
「それじゃあ頂くとするよ。ほら瑠璃も」
「う、うん…」
瑠璃も孝太郎の正面に座り、自分が作ったシチューを置く。
「いただきます」
孝太郎が手を合わせて、スプーンを持つ。
「うん、美味いよ瑠璃」
「よ、よかったぁ~…」
一気に全身の力が抜ける。
「ほら、瑠璃様。やっぱり孝太郎様は喜んでくださいましたでしょ」
「はい、ありがとうございます高橋さん!色々と教えて下さって」
瑠璃は頭を下げる。
「とんでもございません!私はただサポートをしただけで、お作りになられたのは瑠璃様じゃありませんか」
「そのサポートがなかったらこうして作れなかったです」
「瑠璃様こそ…」
「まあまあ、瑠璃も高橋さんも落ち着いて。ほら、瑠璃冷めないうちに食べなよ。高橋さんももう遅いから今日は帰って。食器は俺たちで洗っておくから。今日もお疲れ様」
「かしこまりました。では私はこれで」
高橋は部屋を後にする。
「それじゃあ、私も食べようかな。いただきます」
瑠璃は手を合わせてからスプーンを持ち、シチューを1口食べる。
「あ…本当だ…美味しい…」
それは作った本人が1番びっくりしているが、美味しかった。
「私もやれば出来るんだなー…」
そんなことをぼんやりと呟くと
「そうだぞ、瑠璃。今度休みの日にでもまた作ってくれないか?」
「うん、作るよ。楽しかったし」
「それはよかった。なによりだよ」
高橋の教え方も上手く、まるで母親と料理をしている子供のような気分になれた。
「今度は何作ろうかなー」
好きな人のために作る料理は楽しく、美味しそうに食べてる姿を見るだけで満たされる。
「あー美味しかった」
瑠璃は孝太郎の部屋のふかふかの布団へダイブする。
「俺もだよ」
孝太郎も布団の隣へ寝そべる。
「急だったのに作ってくれてありがとうな」
孝太郎は瑠璃の頭を撫でる。
「もう、あの時は無茶振りされたって本当に焦ったんだから」
それでもこうして良い形におさまってよかった。
「はは。悪かった。さてと、俺は仕事が残ってるからまた先に風呂に入っててくれ」
渉は布団から起き上がると自席に着き、パソコンを起動する。
「うん、わかった」
瑠璃はお風呂の栓を閉めようと、浴室へ向かった。
「あれ?」
浴室は昨日よりも明らかにピカピカになっていた。
シャンプーやボディーソープも詰め替えられていたし、浴槽も綺麗だった。
「これも高橋さんがやったんだろうな」
いずれは自分がやることになるだろう。
瑠璃はお風呂の栓を閉めると、沸かすスイッチを押す。
部屋に戻ると相変わらず孝太郎は真剣な眼差しで、書類とパソコンを交互に見ていた。
そんな姿をぼんやりと見ていると
「暇だろうからテレビでも観ててくれ」
と声をかけられた。
「うるさくない?大丈夫?」
「大丈夫だ、ほら」
瑠璃は孝太郎からテレビのリモコンを受け取る。
そしてテレビのスイッチを入れると、
「それでは本日のゲストは、新進気鋭の2.5次元俳優、金汰壱魔琴(きんだいちまこと)さんです!」
「どーも」
と紹介された青年は確かに相当な美形だったが、まだ若いからかどこか真面目さや誠実さが欠けていて、色々遊んでそうだなという印象を受けた。
「きゃ~ぁ~、魔琴様ぁ~。姫華ぁ~大ファンなんですぅ~」
テレビで姫華がきゃーきゃー喜んでる。
今日の姫華の服装はいつもの着物ではなく、ツインテールでピンクを基調としたフリルとリボンがたっぷりついたドレス、いわゆるロリータファッションだった。
「この子、本当になんでも着こなすんだな…。ってまたテレビ出てるし…」
瑠璃は腕を組みながら関心して観ていた。
「この前の舞台も行きましたしぃ~、来月発売の写真集は100冊買うつもりですわぁ~」
「ありがとうございます。でもそんなに買っても特典会の内容は変わりませんよ」
魔琴はいたずらっ子のようにニヤリと微笑む。
瑠璃は不覚にもその微笑みに思わずドキッとしてしまった。
「相手は2.5次元俳優…雲の上の存在…それに私には孝太郎さんがいる…」
瑠璃は胸に手を当て、自分を落ち着かせる。
「えぇ~そぉなんですかぁ~。それでも100冊買いますわぁ~。姫華ぁ~魔琴様にぃ~少しでもこぉ~けんしたいですものぉ~。なんならもっと買ってもいいぐらいですわぁ~」
「へえ~、2.5次元俳優って写真集出す時、特典会なんてするんだ。それに対して100冊買うって宣言する早乙女姫華も凄いけど…」
さすがはお嬢様である。
「ありがとうございます。無理はなさらないでくださいね。そういうわけで、来月発売のファースト写真集よろしくお願いします!2冊以上購入でサイン入れ、3冊以上購入で握手会やります!」
そんな話を聞いているうちに、お風呂が沸いたことを知らせる音楽が流れる。
「あ、それじゃあ私、入ってきちゃうね」
「わかった、ゆっくり入っておいで」
瑠璃はテレビを消すと、入浴するための準備を始めた。
「はぁ~あったまる~」
瑠璃は昨日よりも綺麗な浴槽で大きく伸びをする。
「誰だって掃除が行き届いた部屋で生活したいもんね」
こうして浴槽に汚れがないと言うだけで、気分が良かった。
孝太郎にもそうやって生活してほしい。
「そのためにも私が頑張らなくっちゃ。料理も家事も積極的にこなしていきたいな」
家を守るということはそういうことだろう。こういうことで、孝太郎のサポートをしていきたかった。
「よし、頑張るぞ!」
瑠璃はそう決心すると浴室を後にした。
「上がったよ~」
瑠璃はタオルを頭から被り、タイピングをしている孝太郎に告げる。
「おお、おかえり」
孝太郎は立ち上がり、瑠璃を抱きしめる。
「いい匂いがする…」
「孝太郎さんと同じシャンプーとボディーソープだから、自分からも同じ匂いすると思うよ」
「いや、瑠璃の方がずっといい匂いだ」
そういうと孝太郎は瑠璃にキスをする。
「俺も風呂入ってくる。今日は一緒にゆっくり休もう」
「うん。わかった」
孝太郎は浴室へ向かい、瑠璃はタオルドライを始めた。
スキンケアとドライヤーを一通り終え、ソファーに座り、お茶を飲んで一服してると、孝太郎が浴室から出てきた。
まさに水も滴るいい男とはこのことで、入浴直後の孝太郎はやけに色っぽかった。
「あ、孝太郎さんもお茶飲む?」
瑠璃はそんな照れを誤魔化すように孝太郎にお茶を勧める。
「ああ、じゃあ飲もうかな」
孝太郎は隣へ座る。
「どうぞ」
瑠璃は湯呑みを持ってきて、孝太郎の前に置き、お茶を注ぐ。
「ありがとう。いただくよ」
孝太郎はお茶を飲む姿すら絵になる。
「瑠璃?どうかした?」
「あ」
孝太郎の姿に見惚れてしまっていた。
「なんでもない。おかわりいる?」
「いや、大丈夫だ。ありがとう。髪の毛乾かしてくる」
「うん」
「先、布団入ってていいから」
孝太郎は洗面所へ向かった。
布団がめくれて、孝太郎が入ってくる。
瑠璃はスマホを触っていたが、電源を落とす。
「瑠璃…」
孝太郎が抱きしめてくる。
布団の中で聞く彼の声は、どうしてこんなにも艶っぽいのだろうか。
「孝太郎さん…」
瑠璃も孝太郎を強く抱きしめる。
「今日は疲れてるだろうからこのまま寝ようか」
「う、うん…そうだね…」
(そっか~、少し残念だな…)
「それともしようか?」
孝太郎が試すように聞いてくる。
「わ、私は別に…」
そこから先は言葉が出てこなかった。
「どうしたい?」
「したいです…」
瑠璃は小声で呟く。
「よく言えました」
今夜は瑠璃を気遣ってか控えめに終わった。
瑠璃はいつも通り、襖をノックする音で目が覚めた。
「孝太郎様~、瑠璃様~、お目覚めでしょうか?」
「はい、起きます」
「起きてるよ」
自分の頭の上から声がする。
「お食事のご用意が出来ましたので、召し上がっていって下さいませ」
「わかりました~。毎日ありがとうございます」
瑠璃は孝太郎の腕の中から脱出しようとすると、
「おはよう」
おでこにキスをされる。
「うん、おはよう。孝太郎さん」
「今日は寒いなー」
孝太郎は瑠璃を強く抱きしめる。
「ねー」
「このまま2度寝しちゃいそうだ」
孝太郎は小さく欠伸をする。
「でも起きないと」
孝太郎は瑠璃を抱きしめていた腕の力を緩める。
瑠璃は孝太郎の腕の中からやっと脱出すると、散らばっている下着類を集め始める。
「俺も起きないとなー」
孝太郎は布団から出ると、仕事に行く準備を始めた。
「それじゃあ終わったらまたメールしてくれ」
「わかった。今日も送ってくれてありがとう」
瑠璃は孝太郎が運転する車に手を振る。
しばらくすると姿が見えくなったので、病院へ向かう。
「おはようございます~」
病院のドアを開けると
「あらぁ~ごきげんよぉ~」
聞き覚えがある甘ったるい声がする。
「え!?早乙女姫華…さん!?」
姫華は瑠璃が働いている病院の制服を着て、にこやかに受付に座っていた。
「お嬢様、そこはごきげんようではなく、おはようございますですよ」
「あ~、野村(のむら)ぁ~、そうでしたわねぇ~気をつけますわぁ~。って姫華のことぉ~覚えていてくれて嬉しいですわぁ~。今日からよろしくお願いしま~す~」
傍には野村と呼ばれた、あの時ブランケットと食事を持ってきてくれた女性と、苦い顔をした渡辺が立っていた。
「医院長これどういうことなんですか?」
「いや~、昨日姫華ちゃんのお父さん直々に病院へやってきてさ~、娘をどうか働かせてくれないだろうかって頭下げられちゃって」
「それで働かせることにしたんですか?」
「そうそう」
「姫華ぁ~今、お金が無くてぇ~ピンチなんですぅ~」
「お金が無い?」
大富豪のお嬢様のはずだ。
そんなはずはないだろう。
「はいぃ~魔琴様の写真集を100冊買いたいんですけどぉ~、おか~ぁ様が50冊分しかお金を出してくれないそうなのでぇ~あとは自分で稼ぐしかないかなぁ~ってぇ」
「お嬢様は源十郎様に甘やかされすぎです。京華(きょうか)様がお怒りになるのも無理はありませんわ」
「な、なるほど…」
しかし芸能活動や動画投稿の広告収入などがあるため、そんなことをしなくても大丈夫そうに思えたが
「あとはぁ~こぉ~たろ~様の婚約者の仕事ってどんなものなのか体験してみたくってぇ~」
「へぇ?」
「そぉしたらぁ~こぉ~たろ~様が望む女性に近づけるかなぁ~ってぇ」
お嬢様の思考はどうもよくわからない。
「なあそれって結局こぉ~たろ~様?と魔琴様?どっちが好きなんだよ」
渡辺がツッコミを入れる。
「う~ん、こぉ~たろ~様はぁ~婚約者としていいなぁ~って思っててぇ~、魔琴様は推しですわぁ~」
(あ、意外としっかり考えてた)
「お嬢様ではまだまだ至らない点があると思いますので、サポートは私が」
野村は深々と頭を下げる。
「という訳だ。姫華ちゃんはまだ大学生だからパート、野村さんは正社員として雇うことにした。浅田、これでいつでも辞めていいからな」
渡辺は満足そうに微笑む。
「わ、わかりました。よろしくお願いします」
「こちらこそですわぁ~」
「はいぃ~渡辺クリニックですわぁ~。え?えっとぉ~お電話代わりますわねぇ~。浅田様ぁ~なんか電話相手の方が訳分からないこと言ってきてぇ~」
と受話器をこちらに向けてくる。
「え!わかりました電話代ります。お待たせ致しました。渡辺クリニックです」
「おお、いつもの受付のねーちゃんだ。診察時間を変更したのだが…」
電話相手は80代ほどの男性だった。
確かにしゃがれ声に加えて、滑舌が悪く所々聞き取りにくい箇所がある。
が、そんなの瑠璃は慣れていた。
「かしこまりました。何時に変更致しましょうか?」
「それじゃあ火曜日の10時に」
「火曜日の10時ですね。空いていますので予約入れておきます」
「ああ、頼んだよ。それじゃあまた」
と電話が切れた。
「ふぅ…なんだこんなことか」
安心して受話器を置くと
「凄いですわぁ~浅田様ぁ~」
「わっ、ちょっ…」
姫華に抱きつかれる。
ふわりと、いい匂いがする。
「姫華じゃぁ~絶対たいぉ~できなかったのに、あんなにあっさりとこなしてしまうなんてぇ~」
「それくらい普通ですって…」
「さすがはこぉ~たろ~様の婚約者ですわぁ~、姫華ぁ~かんどぉ~しましたぁ~」
「大袈裟ですって。あと今は仕事中なので離れてください」
「わかりましたぁ~」
姫華は瑠璃から離れる。
「ふぅ…やっと仕事が出来る…」
「浅田さん、これ終わりました。確認お願いします」
野村が先程渡したレセプトを持ってきた。
「え、もうできたんですか?」
確かほんの数十分前に渡したばかりだった。
しかも、わからないところは聞いてくれてと言ったきり1度も聞きに来なかった。
「医療事務の資格を持っておりますので、これくらいは」
野村が淡々と告げる。
「ああ、そうだったんですね。確認します」
「浅田様ぁ~、野村ぁ~こちらのお客様がぁ~」
「お嬢様、職場の先輩には様付けで呼ぶのではなくさんで呼ぶんですよ。どうかなさいましたか?」
野村が素早くフォローに入る。
「凄い…」
野村が書いたレセプトを見ると完璧に出来ていて、入力ミスや写し間違えなどもなかった。
「初めてでこんなにできるって有能すぎない?」
もしかしたら早乙女家で働く前は医療事務の仕事をしていたのかもしれない。
姫華の仕事のできなさは拭いきれないかと思ったが、野村がこんなにも優秀なのでなんとかなった。
そして昼休みになった。
「あーなんか疲れたー」
瑠璃は机に突っ伏す。
結局姫華は持ち前の人懐っこさと、美貌を駆使して病院の患者たちをメロメロにしていた。
少しでもミスすると野村が完璧にフォローし、姫華が申し訳なさそうに謝ると「いいんだよ、まだ若いんだし」と全員から笑顔で許されていた。
「あーあ、私も美人に生まれたかったなー。世の中不公平だ」
と、スマホが鳴る。
確認してみると、孝太郎から夕飯が何がいいかという内容だった。
「うーん、どうしよう」
またなにか和風なものを考えるが一向に出てこない。
「うーん。あ、いっそ、中華とか?」
瑠璃は餃子が食べたいです。と返信した。
「お疲れ様でした~」
「お疲れ様でしたぁ~」
瑠璃は病院をあとにする。
孝太郎の車はもう着いており、瑠璃を見つけると手を振ってきた。
「お待たせ」
瑠璃は車に乗り込む。
「いや、今来たところだから気にしないでくれ。今日はどうだった?」
「そうそう、なんと早乙女姫華とその使用人が病院で働くことになってさ~」
「それはすごいな…」
孝太郎は苦笑いをする。
「でしょ?もうビックリしたよ~」
「そうしたらいつでも仕事辞めれるな」
「う、うん。そうだね。医院長も言ってたよ」
「そうか」
「はは、来週には辞めようかなーなんて」
「いいんじゃないか」
「うん…」
「もしかしてまだ迷ってるのか?」
「いやそんなことはないよ。ただ考え深いなーって」
新卒からずっと勤めていた職場だ。
それを寿退社するだなんて思ってもいなかった。
「人生何があるかわからないね」
「本当だな」
孝太郎の運転していた車が駐車場に停る。
車から降りると
「お帰りなさいませ」
高橋が出迎える。
「ただいま帰りました~」
「ただいま。高橋さん」
「本日は中華料理ですよ~」
「わぁ~ありがとうございます。食べるのが楽しみです」
「それじゃあ行こうか瑠璃」
「うん」
孝太郎が瑠璃の腰に手を回す。
食堂の襖を開ける。
今日のメニューはご飯、卵と木耳のスープ、餃子、春巻き、焼売だった。
「おー、中華だー」
瑠璃は興奮気味に座布団に正座する。
「中華は俺も久しぶりに食べるなー」
孝太郎も瑠璃の正面に腰を下ろす。
「そうなんだ。冷めないうちに食べちゃお。いただきまーす」
瑠璃は手を合わせる。
「うん、美味しい~」
「ああ、上手いな」
「今度教えてもらおっと」
2人は料理を堪能したあと孝太郎の部屋へ向かった。
「今日もお疲れ様」
瑠璃は孝太郎の部屋へ着くと抱きしめられる。
「うん、孝太郎さんもお疲れ様」
瑠璃も孝太郎の身体に腕を回す。
「今日も仕事が残ってるんだ。先に風呂に入って休んでてくれ」
「うん、わかった」
というと孝太郎は瑠璃を抱きしめていた腕を離し、パソコンの電源を入れる。
瑠璃は浴室へ行き、お風呂の栓を閉めた。
そしてお風呂を沸かすスイッチを押した。
布団がめくれて、瑠璃は目を覚ます。
「いつも起こしちゃってごめんな」
「ううん。大丈夫」
瑠璃は孝太郎に抱きしめられる。
瑠璃も孝太郎に抱きしめれると落ち着くようになってきた。
「今日はこのまま寝ようか」
孝太郎は瑠璃の頭を優しく撫でる。
「うん。そうだね…」
こうやって撫でられると段々眠くなってくる。
「おやすみ」
孝太郎は瑠璃にキスをすると満足そうに目を閉じた。
襖をノックする音が聞こえる。
「瑠璃様~、孝太郎様~、おはようございます」
「おはようございます」
「おはよう」
「本日も朝食が出来上がっておりますので、召し上がっていってくださいませ」
「さてと、それじゃあ準備するか」
「そうだね」
瑠璃たちは朝の準備を始めた。
「それじゃあ終わったら連絡してくれ」
「わかった。今日もありがとうね」
「ごきげんよぉ~、じゃなかった。おはようございますぅ~」
「お、おはようございます」
姫華は笑顔で瑠璃を歓迎してくれた。
相変わらず姫華がいるこの状況に慣れない。
「おはようございます。浅田さん」
「ああ、野村さんもおはようございます」
野村はいつものように澄まし顔で姫華の隣に座っていた。
「おお、浅田、おはよう。そうだちょっと話があるんだがいいか?」
渡辺は真面目な顔をして瑠璃に話しかける。
「あ、はい。なんでしょうか」
「まあここで話すのもなんだから」
と、診察室へ瑠璃を招く。
「それで話ってなんでしょうか?」
渡辺は診察室の椅子に腰をかける。
「浅田の寿退社のことなんだが、本当にいつでもいいからな。姫華ちゃんはともかく、野村さんなら安心して後任を任せられるから」
「はい。来週辺りを予定してます」
「そうか、なら送別会しないとな」
「そんな大袈裟ですって」
「いやー、でも浅田が寿退社かー。あの頃の浅田からは想像がつかない」
渡辺がニヤニヤとこちらを見てくる。
瑠璃が入社した当初はミスも多く、毎日のように怒られていた。
「ミスをすることが無くなったと思ったら、寿退社するなんてなー」
「医院長には本当にお世話になりました」
毎週のように「もう仕事辞めます」と弱音を吐いていたものだ。
「とにかくおめでたい事だ。幸せになれよ」
「はい!」
瑠璃は診察室を後にすると、更衣室へ向かった。
そして瑠璃が退社する日がやってきた-
今日は姫華は大学のため、野村も出勤しておらず、顔馴染みのあるメンバーのみでの送別会となった。
「浅田さん、おめでとう」
瑠璃は職場の先輩から花束を受け取る。
「こんな素敵な花束…ありがとうございます」
瑠璃は目に涙を浮かべる。
「浅田さん、幸せになってね」
「なにかあったらいつでも相談してね」
「はい!」
瑠璃は涙を我慢しながら、元気よく返事をする。
「浅田、これは皆からだ」
ピンクのラッピングがしてある袋を受け取る。
「プレゼントまでありがとうございます」
「戻ってきたとしても温かく歓迎するからな」
渡辺がいたずらっ子のような笑みを浮かべて言う。
「ちょっと~医院長。何言うんですか!そんなことならないですって。ねぇ、浅田さん」
「は、はい…」
(ならないといいな…)
「まあとにかくだ。今までご苦労さま。元気でな」
「医院長こそ、本当にありがとうございました」
こうして瑠璃の送別会は囁かに行われた。
外で待っていると、孝太郎が運転する車がやってきた。
「ありがとう~」
瑠璃は片手でなんとか助手席のドアを開けると、孝太郎が花束とプレゼントを後部座席に置いてくれた。
「今日までお疲れ様」
「うん、でもまだ仕事辞めたって実感がないや~」
5年間、お世話になった職場だ。
明日からでもいつもと同じ時間に起きて、準備を始めてしまいそうだった。
「退社記念と言ったらなんだけど、今まででやってみたかったことってなにかないか」
「やってみたかったことか~」
「なんでもいい。どんな些細なことだっていいよ」
「じゃあネイルやってみたいなー」
今までは職業柄できなかった。
いつもOLの春香がやっているのをみて、密かに羨ましがっていた。
「いいんじゃないか。ネイル。爪先が可愛いとモチベーションも上がりそうだしな」
「そうそう!」
「あと他にやって見たいことは?」
「うーん、私すごい癖字だからそれを直したい」
「癖字を直すっていうとあれか、ボールペン字講座みたいなやつか」
「うん、やってみたいなーって」
「じゃあそれも候補に入れよう。他には?」
「あとは、直すついでに歯並びも直したいなーって」
そんなにガタガタではないが、歯並びが綺麗になると横顔や口元も綺麗になると言うのを聞いて密かに興味があった。
矯正はお金も時間もかかるし、やるなら今ではないだろうか。
「なるほどね」
「なんか大学デビューする大学生みたいなことばっか言っちゃったけど…」
もっとこう、大人の女性らしいことを言えばよかったと少し後悔する。
「それも含めて今までやりたかったことだろう。全然いいよ。早速明日からやろう」
「え?明日から」
瑠璃は孝太郎を見る。
「瑠璃はどこかネイルサロンと歯医者の予約しておいてくれ。ボールペン字講座は知り合いがいるから、その人に来させるよ」
「う、うん。わかった」
ネイルに歯列矯正にボールペン字講座、全部で幾らかかることになるだろうか。
瑠璃は頭の中で簡単に計算し始める。
(えっと、確かネイルが2、3万ぐらいで、歯列矯正が100万ぐらいかな。ボールペン字講座はいくらぐらいなんだろう)
「あ、ボールペン字講座ってお月謝いくらくらいかわかる?」
「ああ、そんなの全部俺が出すよ」
「え?」
「ネイルも歯列矯正もボールペン字講座も全部俺が出すから、気にしないでくれ」
「いやいや、そういうわけには…」
「今まで頑張って働いてきたんだから。これくらいは払わせてくれ」
「これくらいはって額じゃないんだけど…」
明らかに100万は超えている。
「じゃあ、妻になる人がやりたいって言ってることなんだ。俺に払わせてくれ」
「孝太郎さん…」
「とにかく、金額とか気にしないでいいから。全力で楽しんでくれ。他にやりたいことは?」
「えっとねぇ…」
瑠璃は夢物語だと思っていたことを孝太郎に話す。
孝太郎はどんなことにでも「うん、いいね」と言ってくれて明日から色々始まる予感がする。
「お帰りなさいませ」
高橋が出迎える。
「ただいま帰りました」
「ただいま」
明日から、こうして出迎えるのも瑠璃の仕事になるだろう。
「瑠璃様、今までお疲れ様でございました。本日はすき焼きでございますよ」
「ありがとうございます。え!ホントですか!楽しみです!」
「それじゃあ行こうか」
孝太郎は瑠璃の腰に手を回し、歩き始めた。
食堂の襖を開けるとそこには新鮮な野菜がたっぷりのったお皿。
その隣には桐の箱に入ったお肉は見るからに美味しそうで、瑠璃の食欲を煽った。
「うわー、美味しそうなお肉。こんなの食べれるなんて幸せ」
「沢山食べてくれ。しかしこれは高橋さん奮発したなー」
「ありがとう。いただきまーす」
瑠璃は手を合わせる。
そしてお肉や葱など具材を鍋へと入れる。
「すき焼きなんて久しぶりだなー」
「俺もだよ。いつ食べてもテンション上がるよな」
孝太郎も珍しく嬉しそうだった。
「わかるわかる~」
「だよな~。お、そろそろ食べ頃じゃないか」
「そうだね~」
瑠璃は孝太郎のお椀にも具材をのせると
「じゃあ改めていただきまーす。うん、美味しい~」
「ああ、上手いな。卵もいいのを使っている」
こうして2人はみるみるうちにたいらげていった。
「あー美味しかった~」
瑠璃は満足そうにお腹を摩る。
「喜んでもらってなによりだよ」
そんな瑠璃の様子を見た孝太郎もご満悦だった。
「それじゃあ部屋に戻ろうか」
「うん」
「今日も仕事が残ってるんだ。テレビでも見てゆっくりしててくれ」
「わかった」
瑠璃は浴室へ行き、浴槽の栓を閉め、お風呂を沸かすスイッチを押した。
部屋に戻りテレビをつけると、これと言って面白ろそうな番組がやってなかった。
なので歯列矯正やネイルサロンについて調べ始めた。
「あ~明日から本当に何しようかな~」
浴槽の中でそんなことを呟く。
まだ結婚はしてないが、実質専業主婦になったようなものだ。
孝太郎に言われた通り、しっかりと家庭を守っていきたい。
それと同時に習い事をして自分を高めていきたい。
さっき調べてみたところ良さげな歯医者とネイルサロンが見つかったので、早速ウェブ予約をした。
「よし!頑張ろう!」
瑠璃は両手で自分の頬を叩くと浴室を後にした。
「上がったよ~」
瑠璃はパソコンに向かっていた孝太郎に声をかける。
「おお、瑠璃」
孝太郎が椅子から立ち上がり、瑠璃を抱きしめる。
「今日もいい匂いだな」
「そ、そうかな」
自分じゃわからなかった。
「早く髪の毛乾かしておいで」
孝太郎は瑠璃を抱きしめるのやめる。
「うん」
瑠璃は洗面所へ向かい、夜のルーティンを終えると先に布団に入った。
「ん…」
布団がめくれて、目を覚ます。
「瑠璃…」
孝太郎にキスをされ、頭を撫でられる。
「どうしたの…?」
いつもよりも声が艶っぽい。
「いや、なんでもない…ただ瑠璃に触れてたいんだ…」
「私も…」
瑠璃は孝太郎に抱きつく。
「してもいいか?」
「うん…」
孝太郎は瑠璃にキスをする。
唇を割って舌が入ってくる。
2人の夜はいつも通りに終わった。
今日は襖をノックする音を聞く前に目が覚めた。
今日からは早く起きて準備しなくてもいいのに。
習慣とは怖いものだ。
だが相変わらず、孝太郎の腕の中で寝ている自分にほっとする。
しばらくすると襖をノックする音が聞こえてきた。
「瑠璃様~、孝太郎様~」
高橋が呼びかける。
「起きてるよ」
「起きてます」
「了解致しました。朝食召し上がってくださいませ」
「おはよう。瑠璃」
「おはよう」
「今日から目いっぱい楽しんでくれ」
「うん!」
瑠璃は布団から出ると、大きく伸びをする。
今日の予定は午前中はネイルサロンと歯医者、お昼をここで食べてからはボールペン字講座の先生が来ることになっていた。
午後の空いた時間は、高橋と共に家事でもすればいいだろう。
髪をとかしながらそんなことを考えてると、頭にキスをされる。
「それじゃあ、俺は行ってくるよ」
準備を済ませた孝太郎が言う。
「え、もう準備終わったの?」
「ああ。瑠璃、大丈夫か?やけにぼーっとしてる気がするぞ」
「だ、大丈夫。気をつけて行ってきてね」
「ああ」
孝太郎は今度は瑠璃の唇にキスをして、部屋を後にした。
「私も浮かれてないで早く準備しちゃわないと!」
そうして1ヶ月後-
孝太郎からの誘いで、瑠璃は久しぶりに孝太郎の車に乗っていた。
「今日はちょっと寄りたい場所があるんだ」
早口でそう告げるとアクセルを踏む。
「寄りたい場所?」
「ああ、大事な話があるんだ」
とだけ言うと、孝太郎はハンドルを回す。
(どこに行くんだろう…。大事な話ってなんだろう…。)
「キレー」
100万ドルの夜景と言っても差し支えないほどの眩い景色が一望できた。
「今日が雨じゃなくて良かった」
孝太郎は瑠璃の肩に腕を回す。
「…」
「…」
暫く沈黙が続いた。
「それで大事な話って?」
瑠璃が沈黙を断ち切る。
「ああ、そうだったな」
孝太郎は瑠璃に回していた腕をポケットに移動させると
「というわけで瑠璃、改めてだが結婚してください」
孝太郎は指輪をこちらに差し出し、跪く。
瑠璃の答えは決まっていた。
「ごめんなさい」
瑠璃は勢いよく頭を下げる。
まだ指輪は貰えなかった。
家の事、習い事などどれもこれも中途半端で、これじゃあ家を守るなんてこと出来やしない。
「ごめんなさい。気持ちは凄く嬉しいのだけど、まだ待って。もっと孝太郎さんに相応しい女性になりたいの」
「…わかった…瑠璃がそういうのなら…待つよ」
孝太郎は跪くのをやめて、指輪の入った箱をしまった。
そして数ヶ月後-
この数ヶ月で色々あった。
春香はマッチングアプリで知り合った男性と意気投合し、来月から同棲を始めるらしい。
毎日届く惚気メールは、読んでるこっちまで幸せになるような内容だった。
早乙女姫華は金汰壱魔琴と電撃授かり婚をした。
姫華いわく、初めて会った時から運命を感じていたそうだ。
バイトと大学は辞めて家庭に専念するらしい。
瑠璃はというと大体の料理はレシピを見なくても作れるようになった。
毎日屋敷中の掃除をして、合間にこなすようになってきた生け花や茶道や着物の着付け、英語にフランス語などの習い事は人並み以上に出来るようになった。
そしてなにより週に1度のエステが瑠璃にとっては極上の癒しの時間になっていた。
「少しは孝太郎さんに相応しい女性になれたかな」
鏡の前で問いかける。
今の姿は自分で見ても垢抜けたと感じる。
以前、春香と会った時には「別人みたい!どんどん綺麗なっていくよね!」と驚かれたものだ。
毎日のように孝太郎に愛されて、好きなことを好きなだけできて、瑠璃は未だかつて無いほど幸せの中にいた。
と、襖がノックされる。
「はい」
「失礼します。瑠璃様、ちょっとよろしいでしょうか?」
「はい、高橋さん。なんでしょうか」
「本日の晩御飯のご相談なのですが、何を作りましょうか?」
最近の調理は瑠璃と高橋の2人で行っている。
瑠璃はネイルをしているので、調理用の手袋をはめて主に食材を切ったり、炒めたりと高橋のサポートをすることが多かった。
「うーん、そうですね…孝太郎さんに聞いてみます」
瑠璃はスマホを取りだし孝太郎へ「お疲れ様です。夕飯は何が食べたいですか?」とメールをした。
「それでは返信が来るまでの間、隣室のお掃除済ませちゃいましょうか」
「そうですね。まだその部屋は掃除してなかったですもんね」
高橋の提案に瑠璃ものる。
部屋の掃除といっても孝太郎の部屋以外殆ど使われていないため、汚れておらず掃除機をかけたり、窓を拭いたりと簡単に済むことだった。
「では私は先に隣室へ向かいますので、瑠璃様も準備が出来次第いらして下さいませ」
「わかりました」
瑠璃は着替えを済ませ、髪の毛を纏めると隣室へ向かった。
「お待たせしましたー」
「あら瑠璃様、それでは掃除機の方をかけちゃってください。私は窓を拭きますので」
「わかりました」
瑠璃は掃除機のスイッチを入れる。
(孝太郎さんからの返信まだかなー)
今日は何が食べたいと言われるだろうか。
そのリクエストに答えて料理を作るのが格別に楽しかった。
料理を作ると言っても補助的なことしかできないが、それでも高橋は瑠璃のサポートに大変助かっているらしく、孝太郎からもそれでいいと言われていた。
ポケットに入っていたスマホが震える。
「あ、孝太郎さんから返信きた」
瑠璃は掃除機をかけるのをやめて、スマホを確認する。
「ロールキャベツとビーフシチューが食べたい」
どちらも孝太郎の大好物だった。
しかしどちらも作るのに手間がかかる料理でもあった。
「高橋さん、今孝太郎さんから返信きてロールキャベツとビーフシチューが食べたいそうです」
「まあまあ、かしこまりました。ではお掃除はこの辺で切り上げて、お料理作っちゃいましょうか」
「はい」
瑠璃たちはキッチンへ向かった。
「それでは作っちゃいましょうか」
「何をしたらいいですか?」
「うーん、そうですね。ではキャベツの芯を取り除いて下さいませ」
「わかりました」
「それが終わったら人参と玉ねぎも切り刻んで下さいね」
「はい」
瑠璃は早速手を洗い、調理用の手袋をはめて調理を始める。
孝太郎の車が駐車場に停り、降りてくる。
「おかえりなさい」
「おかえりなさいませ」
孝太郎が出てくると同時に声をかける。
「ああ、瑠璃、高橋さんもただいま」
孝太郎はにこやかな笑みを浮かべる。
「今日はリクエスト通り、ロールキャベツとビーフシチューだよ」
「そうか。いつも作ってくれてありがとう。早速いただくよ」
「それじゃあ食堂へ行こっか」
「そうだな」
孝太郎は瑠璃の腰に手を回して歩き出した。
「うん。美味いな」
「良かった~」
本日作ったビーフシチューとロールキャベツはどちらも好評だった。
「高橋さんのおかげだよ。私1人じゃこんなの作れないもん」
「いやいや、瑠璃も作れるだろ。今度1人で作ってみてくれ」
「うーん、できるか分からないけどやってみる」
「瑠璃ならできるよ」
「うん!ありがとう」
「そうだ、明日俺が帰ってきてから出かけないか?」
「え、うん。いいよ。どこ行くの?」
「それは秘密だ。それじゃあご馳走様でした」
孝太郎は手を合わせる。
お皿を見るとどちらも綺麗にたいらげてあった。
「はーい。それじゃあ片付けちゃうね」
瑠璃はお皿を持つとキッチンへ向かった。
「あ、高橋さんお疲れ様です」
「瑠璃様こそお疲れ様でございます。孝太郎様は完食されたのですね。何よりです」
高橋は空になったお皿を見て、満足そうに笑う。
「美味しいって言ってましたよ」
瑠璃はお皿を流しに置くと、調理用の手袋をはめて食器を洗う。
「高橋さん、後はやっておくので今日はもう上がってください」
「わかりました。それでまた明日」
「はい、また明日」
高橋はぺこりと頭を下げ、キッチンをあとにする。
食器を洗い終えた瑠璃は、孝太郎の部屋の襖をノックする。
「どうぞ」
声が聞こえたので襖を開けると、孝太郎はパソコンと資料を眺めていた。
「お風呂もう入っちゃった?」
「いやまだだ。先に入っててくれ」
「うん。わかった」
瑠璃は浴室へ向かった。
今日は浴室を浴槽や、窓までピカピカに掃除をしたばかりだった。
綺麗な浴室だとやはり気分がいい。
(掃除した甲斐があるな)
瑠璃は満足げに浴槽の栓を閉めると、お風呂を沸かすスイッチを押した。
渉孝太郎の部屋に戻ると、相変わらず孝太郎は残りの仕事をしていた。
なので瑠璃はお風呂が沸くまでの間、テレビを見ることにした。
テレビをつけると早乙女姫華と金汰壱魔琴が並んで座っていた。
「姫華もぉ~まさか妊娠してるとは思ってなくってぇ~。ちょっと風邪っぽいなぁ~って感じでしたぁ~」
「風邪薬を飲まなくてよかったよ」
魔琴が心配そうに姫華を見つめる。
「また早乙女姫華出てるよ…」
瑠璃は呆れ気味にテレビを見る。
今日の姫華の服装は、淡い紫陽花が美しい着物を着ていた。
着物を着ているためお腹が膨らんでるのがわかりにくいが、確かに膨らんでいた。
「お父様はぁ~結婚に反対気味だったんですけどぉ~。結局、孫の顔を見るのが楽しみならしくってぇ~」
と姫華はお腹を摩る。
「僕もどんな風に怒鳴られるかとドキドキしてたのですが、結局丸く納まって良かったです」
「まぁ~?仮に反対されたとしてもぉ~、そんなの無視しかないですわぁ~。私たちはぁ~うんめぇ~の赤い糸で結ばれてるんですからぁ~」
「はは。そうだね姫ちゃん」
と魔琴が姫華の手を握る。
「うわ…テレビで放送されるのによくそんなこと言えるな…」
瑠璃は苦い顔をしてお茶を飲む。
(でも運命の赤い糸か…)
孝太郎とは、きちんと結ばれてるのだろうか。
1回プロポーズを断ってから、孝太郎の様子は変わらなかった。
今では孝太郎に釣り合う女性になれたと自覚していたが、まだ足りないのかもしれない。
(それとも結婚する気がないのかな…)
以前、結婚願望がないと言っていたことを思い出す。
もしかすると-
「瑠璃?風呂沸いたぞ。」
「え?あ…うん。入ってきちゃうね」
瑠璃は我に返ると、テレビのスイッチを消して入浴するための準備を始めた。
布団がめくれた気がして瑠璃は目を覚ます。
「いつも起こしちゃってごめんな」
申し訳なさそうに孝太郎が布団の中に入ってくる。
「ううん、大丈夫」
孝太郎は瑠璃を抱きしめる。
「相変わらず、瑠璃を抱きしめてると落ち着くよ」
「そうなの?ならよかった」
「ずっとこうしていたい…」
「私も」
瑠璃は孝太郎を抱きしめる力を強める。
孝太郎の方も更に強く抱き締めてきた。
「おやすみ、瑠璃」
孝太郎は瑠璃のおでこにキスをする。
「うん。おやすみなさい」
朝。
「おはようございます。高橋さん」
「おはようございます。瑠璃様。早速朝食を作っちゃいましょうか」
「はい」
瑠璃は仕事を辞めてから、孝太郎よりも早く起きて朝食を作るのが日課になっていた。
「それでは瑠璃様はお味噌汁をお願いします。私はおかずを作ってしまいますので」
「わかりました」
2人はテキパキと料理を作り始める。
最初は高橋に付きっきりで教えて貰っていたが、今では1人でこなせるようになった。
(今日はお麩の味噌汁にしようかな)
瑠璃は調理用の手袋をはめると、葱を切り刻む。
今日のメニューはご飯、お麩の味噌汁、だし巻き玉子、鯵の南蛮漬け、豚肉と蓮根の炒め物、小鉢には胡瓜の漬物。
味噌汁ができた頃には、もう高橋は鯵の南蛮漬けと豚肉と蓮根の炒め物が出来上がっていた。
「高橋さんありがとうございます。それじゃあ私はだし巻き玉子作っちゃいますね」
「了解しました。よろしくお願いします」
瑠璃は長方形のフライパンを取り出すと、卵を割り、慣れた手つきでだし巻き玉子を作り始める。
「うん。美味いな」
孝太郎は満足気にだし巻き玉子を食べる。
「よかった~。お味噌汁も飲んでみて」
「ああ」
孝太郎は味噌汁を1口飲む。
「これも美味しいよ」
「うん!」
ご満悦な孝太郎の姿を見ると瑠璃まで嬉しくなった。
「いつもこんな美味いもの食べれて幸せだよ。ありがとうな」
「そんな…私は高橋さんのサポートをしているだけで、何にもしてないって」
「そんなことはないだろう。あ、今日は夕飯は作らなくて大丈夫だからな」
「ってことは、どこか食べに行くの?」
「ああ」
孝太郎はお茶を1口飲む。
「久しぶりの外食だね~。楽しみだな~」
「そうだな。さてっと、ご馳走様でした」
孝太郎は両手を合わせる。
「今日も完食してくれてありがとう」
瑠璃は食器を片付け始める。
「それじゃあ行ってくるよ」
孝太郎は瑠璃の頬にキスをする。
「うん。行ってらっしゃい。頑張ってね」
孝太郎は部屋を後にする。
「さてっと」
今日の予定は午前中は歯列矯正の調整、午後はエステと、孝太郎と外食だった。
午後の空いた時間に部屋の掃除など、家事をこなしていく。
瑠璃も空のお皿を持って、キッチンへ向かった。
「おかえりなさい」
「おかえりなさいませ」
瑠璃と高橋は帰ってきた孝太郎を出迎える。
「ただいま」
「今日はこのあと出かけるんだよね」
「ああ、だから車に乗ってくれ。遅くなるから高橋さんはもう帰ってくれ」
「かしこまりました。それでは私はこれで」
「お疲れ様でした。明日もよろしくお願いしますね」
「もちろんです」
高橋は一礼すると帰る準備を始める。
「俺達も出かけるとするか」
孝太郎が運転する車が発車する。
「ここだ」
と孝太郎の運転する車が止まったのは、以前も源十郎や孝太郎と来たことがあるレストランだった。
「わあー、またここで食事?楽しみ~」
「そうだな。ここでの久しぶりだな」
「だねー」
「ああ、とりあえず降りようか」
瑠璃と孝太郎は車から降りる。
レストランのドアを開けると
「いらっしゃいませ」
「予約した藤堂ですが」
孝太郎はウェートレスに話しかける
「かしこまりました。こちらへどうぞ」
と言って案内されたのはエレベーターだった。
(エレベーターに乗って上の階へ行くのかな)
「いらっしゃいませ。ようこそお越しくださいました」
エレベーターの中にいた、エレベーターガールは深々と頭を下げる。
「それではよろしくお願いします」
孝太郎はエレベーターガールに告げる。
「かしこまりました」
エレベーターガールは屋上のボタンを押した。
「わあ、すごい…」
屋上へきた瑠璃たちを待っていたのは、ヘリコプターだった。
「もしかしてこれに乗るの?」
「ああ、乗るのは初めてか?」
「うん!」
「瑠璃は高いところは平気だもんな。それじゃあ乗ろうか」
瑠璃たちはヘリコプターへ近づく。
と、プロペラが回り出した。
「うわ、すごい風」
「ああ、飛ばされないような」
孝太郎は瑠璃の手を握る。
「藤堂様ですね。本日はよろしくお願い致します」
ヘリコプターの運転手が明るく挨拶をする。
「こちらこそよろしくお願いします。さあ瑠璃、奥の席に乗って」
「わかった」
瑠璃は奥の席に、孝太郎はその隣に座る。
2人が座ったのを確認すると、
「それでは出発しますね」
ヘリコプターが動き出した。
「凄い凄い!動き出したよ」
瑠璃は目をキラキラさせてはしゃぐ。
「そうだな。晴れてくれてよかったよ」
孝太郎は瑠璃の頭を撫でる。
ヘリコプターから見える夜景は、以前に見た夜景とは違った良さがあった。
「瑠璃…」
孝太郎は瑠璃にキスをする。
そしてポケットをゴソゴソとすると
「瑠璃、改めてだが結婚してください」
「私でよければもちろん!」
瑠璃は泣きながら、孝太郎に抱きつく。
ここまで来るのに長かった。
が、断る理由がなかった。
これから先、結婚したから故の苦労が沢山あるだろう。
だが孝太郎となら、そんな苦労も乗り越えられる。
どんなことも笑顔で解決できる。
そんな自信しか瑠璃にはなかった。
そのために1回目のプロポーズを断り、積み上げてきたものが瑠璃にはある。
満天の星たちも瑠璃たちを祝福していた。
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