上 下
216 / 231
第25章 犬、お見合いします!

02 誠意ある男

しおりを挟む





 結局、母親にはメールで断りの返事を入れた。『急な案件が入り、春まで動けない。年度末は異動もあるから、忙しい』と送ったのだった。

 一月三日の市役所。文化課振興係以外でも、あちこちの部署は動いている。特に忙しいのは秘書課や観光系だろう。正月でも様々なイベントがある。いつもよりはひっそりと、だけど静かでもない市役所内。事務所の扉を開けるといつものメンバーが顔をそろえていた。

「あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします」

 保住の挨拶に一同は頭を下げ、口々に挨拶を述べる。文化課振興係は三月までのラストスパートの時期である。残り三ヶ月とは言え、年度末のオペラ開催も控えていた。今回は予算が少ないところでの開催なので、出演者は地元のセミプロが多い。昨年の出来栄えとは雲泥の差になることは目に見えているが、継続していくことが大事なのだ。

 なにせ、三年後に控えた市制100周年事業でも花を添えてくれる企画だからだ。なんとしても繋いでおきたいというのが、保住の思惑だった。

 先日、そう説明されて、オペラの重要性について認識をした田口は、今年のオペラの準備に取り組んでいた。しかし、忙しい時に限って携帯がうるさく鳴る。

 母親だろう。お断りのメールを一方的に送ったから怒っているのか、仕事中でもなんでも電話を寄越すのだ。しかし無視だ。無視しておけばなんとかなる。そう思っていたからだが、その無視が裏目に出るとは思っても見なかった。それが明らかになったのは、一月も中旬過ぎであった。


***


 雪の多い年だった。道路が見えきたかと思うとまた雪。積もっては解けの繰り返しは路面を氷化する。「ぎゅーっとコートの背中を握られても……」と、田口は苦笑した。

「庁舎前まで車でお送りしますけど」

 後ろで田口にしがみついている保住を見下ろして苦笑する。 

「そ、そんなみっともないことするか」

「そうは言いますけど。そんなにしがみつかれても……」

「誰もいない間だけだ。近くなったら手を離す」

 雪道で転倒してから、怖いと思うようになったのだろう。ツルツルの路面で悪戦苦闘している彼は面白い。

「保住さんって、本当。躰の感覚が鈍いですよね」

「鈍い言うな。コントロールが難しいだけだ」

「そうそう。それですね。あ、そうか。感覚が鈍いわけではないか。むしろ敏感です」

 軽く笑って退ける田口が憎たらしい。保住はむーっとする。

「冗談に聞こえない」

「すみません。冗談ではないのですけど」

 飄々と歩く田口。普段は何事も勝っているはずなのに。雪道だけは完敗だ。悔しいけど田口がいなければ、また転倒しかねない。

「見ている分にはいいが。通勤があるから雪は嫌いだ」

「そうですか。おれは雪、大好きなんですけどね……?」

 もう少しで市役所。そんなところで、田口のポケットに入っている携帯が鳴った。保住のことに気を取られていた。大して相手を確認することもなく、応答してしまったのが運の尽きだった。

「もしもし」

『銀太! もう。何度も連絡しだんだから』
  
 ——しまった。油断した。

 母親である。

「今から仕事だから」

 切ろうとすると、向こうから聞き捨てならない言葉が聞こえてくる。

『今日、行くから』

「は? はあ!?」

 田口の反応に、コートを握りしめていた保住は顔を上げた。

『先方さん、もう待てないって言うし。ともかく。その子と一緒に義一郎《ぎいちろう》さんと私とで行くから』

「!?」

 ——困る。来るって。

『大丈夫。日帰りにする予定だから』

「おれ、仕事だし」

『なんとかしなさいよ。午後からくらい休み取れるんでしょう? どこかいいところでお茶して。会ってみなさい』

「……ッ、無理。無理だからね! じゃあ」

 強引に通話を切ってやる。勘弁して欲しい。なんて身勝手と思うと、軽く憤りを覚えた。珍しく不機嫌になった田口を、不思議そうに保住は見上げてきた。

「田口?」

「……母です。お見合いの件、お断りしたっきり無視していたのですが。今日、先方さんと梅沢に来ると言ってきました。勝手なんだから……っ」

「今日?」

 保住は目を丸くする。

「どうするのだ」

「無視しますよ。どうせ。来たっておれの家だってわかりっこないです」

「そうなのか?」

「そもそものマンションの住所なんて教えていませんし。無視します」

 やっとの思いで玄関に到着。雪のない場所に出、保住はほっとするが、それよりもなによりも、田口の問題が大きすぎる。

「田口。そんなこと言わないで、ちゃんと時間を取らないと」

「保住さん」

 田口は「また、そんなこと言うの?」と不安げな視線で保住を見るが、彼は首を横に振った。

「おれは大丈夫だ。お前のこと信じている。だから。ちゃんとして来い」

「でも」

「あんまりそんな態度では、相手の方にも失礼だろう? それに、お前のお母さんだってわざわざ梅沢までいらっしゃるんだ。無視なんてしてはいけない」

 ——わかっている。わかっているけど。でも、嫌なのだ。

 ぽんと肩を叩かれる。

「お前は誠意ある男だ」

「……保住さん」

「大丈夫。ちゃんと待っているから」

 彼はふと笑みを見せてから歩き出すが、その瞳には不安の色が見て取れた。保住だって心配している。不安にさせてはいけないのだ。しっかりしなくちゃ。田口はため息を吐いて、保住の後ろを追った。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

怒られるのが怖くて体調不良を言えない大人

こじらせた処女
BL
 幼少期、風邪を引いて学校を休むと母親に怒られていた経験から、体調不良を誰かに伝えることが苦手になってしまった佐倉憂(さくらうい)。 しんどいことを訴えると仕事に行けないとヒステリックを起こされ怒られていたため、次第に我慢して学校に行くようになった。 「風邪をひくことは悪いこと」 社会人になって1人暮らしを始めてもその認識は治らないまま。多少の熱や頭痛があっても怒られることを危惧して出勤している。 とある日、いつものように会社に行って業務をこなしていた時。午前では無視できていただるけが無視できないものになっていた。 それでも、自己管理がなっていない、日頃ちゃんと体調管理が出来てない、そう怒られるのが怖くて、言えずにいると…?

壁穴奴隷No.19 麻袋の男

猫丸
BL
壁穴奴隷シリーズ・第二弾、壁穴奴隷No.19の男の話。 麻袋で顔を隠して働いていた壁穴奴隷19番、レオが誘拐されてしまった。彼の正体は、実は新王国の第二王子。変態的な性癖を持つ王子を連れ去った犯人の目的は? シンプルにドS(攻)✕ドM(受※ちょっとビッチ気味)の組合せ。 前編・後編+後日談の全3話 SM系で鞭多めです。ハッピーエンド。 ※壁穴奴隷シリーズのNo.18で使えなかった特殊性癖を含む内容です。地雷のある方はキーワードを確認してからお読みください。 ※No.18の話と世界観(設定)は一緒で、一部にNo.18の登場人物がでてきますが、No.19からお読みいただいても問題ありません。

男色医師

虎 正規
BL
ゲイの医者、黒河の毒牙から逃れられるか?

おねしょ癖のせいで恋人のお泊まりを避け続けて不信感持たれて喧嘩しちゃう話

こじらせた処女
BL
 網谷凛(あみやりん)には付き合って半年の恋人がいるにもかかわらず、一度もお泊まりをしたことがない。それは彼自身の悩み、おねしょをしてしまうことだった。  ある日の会社帰り、急な大雨で網谷の乗る電車が止まり、帰れなくなってしまう。どうしようかと悩んでいたところに、彼氏である市川由希(いちかわゆき)に鉢合わせる。泊まって行くことを強く勧められてしまい…?

僕は社長の奴隷秘書♡

ビビアン
BL
性奴隷――それは、専門の養成機関で高度な教育を受けた、政府公認のセックスワーカー。 性奴隷養成学園男子部出身の青年、浅倉涼は、とある企業の社長秘書として働いている。名目上は秘書課所属だけれど、主な仕事はもちろんセックス。ご主人様である高宮社長を始めとして、会議室で応接室で、社員や取引先に誠心誠意えっちなご奉仕活動をする。それが浅倉の存在意義だ。 これは、母校の教材用に、性奴隷浅倉涼のとある一日をあらゆる角度から撮影した貴重な映像記録である―― ※日本っぽい架空の国が舞台 ※♡喘ぎ注意 ※短編。ラストまで予約投稿済み

男の子たちの変態的な日常

M
BL
主人公の男の子が変態的な目に遭ったり、凌辱されたり、攻められたりするお話です。とにかくHな話が読みたい方向け。 ※この作品はムーンライトノベルズにも掲載しています。

俺の彼氏は俺の親友の事が好きらしい

15
BL
「だから、もういいよ」 俺とお前の約束。

隣の親父

むちむちボディ
BL
隣に住んでいる中年親父との出来事です。

処理中です...