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第18章 飼い犬に手を噛まれる
05 恋する乙女
しおりを挟む田口との関係が不安定で、なんとかしたい気持ちがないわけではない。気にしているのだ。だけど、どこをどうしたらいいのかわからないのが正直なところだ。
恋愛経験を問われれば、「ないことはない」と答えるだろう。しかし、人に引っ張られればそれに釣られるタイプだから、自分が引っ張る立場になると、どうしたらいいのかわからないのだ。田口の戸惑いもダイレクトに伝わってきて、途方に暮れているというのが本音だった。
「はあ……」
ため息を吐いて、パソコンを打つ手を止める。仕事に身が入らないのは田口だけの話ではない。相談をできる相手もいないから、当てのない答えを求めて思考がぐるぐると空回りをしている。
澤井がいた時は、そのやり取りの中で自分の気持ちを整理していたのだろう。彼がいなくなると、こうもてきめんに自分の気持ちの整理ができないなんて本当にお粗末だと思った。イライラしていた。
「係長。お昼ですよ」
ふと顔を上げると渡辺がこちらを見ていた。
——不機嫌な顔を見られたか?
だが渡辺は自分のお腹をさすりながら「腹減ったな~」と苦笑いをしている。少しほっとしてから部下たちに声をかけた。
「ああ、そうですね。どうぞ。休憩に入ってください」
渡辺、谷口、そして十文字。自分の隣の席の田口はいない。なんでこんな時にいないのだとイラついた。別に行かなくてもいい話なのに。
「係長もしっかり食べないといけませんよ。せっかく腰も治ってきたところなんだから、きちんと食べて行かないと、筋肉付かないですよ」
「そうですね。……確かにそうだ」
しかし昼食は持ってきていない。昨日は十文字を連れて、庁舎近くの居酒屋、赤ちょうちんに寄ったおかげで寝不足だ。
県で菜花と話をしてから、帰庁すると定時はゆうに回っていた。そのまま帰ろうかとも思ったが、新人をフォローするにはちょうどよい機会だと思ったからだ。
今朝、みんなの前でそのことを言わなかったのは、他の職員とのバランスを取るためだった。いくらうまく回っているチームでも、上司が一人だけ特別扱いしていたのでは歪みが生まれるからだと、咄嗟に思ったから。
別に嘘は言っていない。帰宅してから、溜まっていた書類の精査をしていたのは事実だ。ただ、十文字と飲みに行ったことを言わなかっただけ。
しかし、あの時の田口の視線が頭から離れない。なにか言いたげな……落胆したような色。不機嫌な気持ちを隠しながら、保住は席を立った。
「なにか買ってきます」
「それがいいですね」
渡辺に促されて保住は事務所を出ると、十文字が追いかけてきた。
「おれも、いいですか?」
「いいが。売店に行くだけだ」
「はい」
二人は並んで階段を降りて一階の売店に向かった。
「市内なのに、実家暮らしではないのか」
「実家から出ました。社会人ですし、いつまでも世話になるのもなーって思って。まあ、ボロアパートなんですけど」
「住まいなんてどこでも構わないだろう。おれも似たようなものだ」
「そうなんですか? 係長なのに、ボロアパートだなんて。なんかいいマンション住まいなイメージですけど」
「おれなんかより、田口の方がいいところに住んでいる」
「田口さんが? 意外ですね」
十文字は意外そうに目を見開いて笑う。
「せっかくマンションなんて住んでいるくせに、仕事仕事で、寝に帰るようなものだろう」
「それはみんな同じですね……。こんな調子は彼女なんてできてもうまくいかないんじゃないですか?ここの部署。係長は彼女とかいるんですか? あ、いますよね。失礼な質問です……」
「彼女……」
田口を思い出して笑いそうになる。
——彼女と呼べる人間ではない。
「あ、笑いましたね! 彼女さんいるんですね」
「彼女と呼べる代物なのかどうかは分からないが。いることはいるのだろうな」
「『いるのだろうな』って。なんとも微妙な言い方ですね」
「付き合うって、複雑で難解だ。……うまくいかないものだな」
「係長でもそんなこと、あるんですか?」
売店は第一弾の波が去って、人が少なくなっていた。十二時前に並べられていたお弁当は、半分以上がなくなっている。おばちゃんの冷たい視線を受けながら、二人は中に入った。
「そんなものだ。仕事以外のことは、全てうまくいかない」
「そうなんですか? 意外です。けど、おれもです」
十文字は大きくため息を吐いた。
「お前でもそんな悩みあるんだ」
——こちらも意外。こういう軽いタイプの若者でも「うまくいかない」なんて悩みがあるのか。
そんなことを考えながら、適当に十文字との会話に答える。
「まあ……いろいろです。仕事もですけど」
「そんな顔するな。星野一郎記念館のサロン企画書、さっそく取り掛かれ。田口が泣きべそかいた仕事だからな」
「田口さんが?」
十文字は愉快そうに笑ってから保住を見つめた。
「あの、ずっと思っていたんですけどぉ……。係長は、田口さんが大好きなんですね」
「え?」
弁当を手に取っていた保住は、それを落としそうになった。動揺してしまったのだ。
「な、なにを」
「だって。そうじゃないですか。田口さんの話をするとき、すごく目がキラキラして恋する乙女みたいですよ」
「バカなことを言うな」
「本当のことなのにな。おれ、結構そういう勘当たるんですけどね~」
十文字はおにぎりとカップラーメンを持ってレジに向かう。それを見送って、手に取ったお弁当を食べる気にもならない。
——十文字にそんな風に見られていただなんて。
弁当を返して、隣のサンドイッチを掴んだ。
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