上 下
112 / 231
第14章 彩られる世界

06 残業

しおりを挟む



 翌日、渡辺は薬を飲んで回復したと顔を出したが、本調子ではない様子だった。そのため、保住は彼の仕事まで引き受けて業務が立て込んだ。

 だがどうしてだろうか。昨日までの殺伐とした気持ちは嘘のように、心は穏やかになっていた。仕事の忙しさなんて、負担にもならない。久しぶりに仕事に熱中していたのか、お腹が空いたような気がして、はっと顔を上げると、周囲は薄暗く、目の前には何枚もメモが置いてあった。

「お先に失礼します 渡辺」

「すみません、帰ります 谷口」

「明日は頑張ります! 矢部」

 みんな帰ったのかと視線を上げると、田口だけがそこにいた。彼はパソコンと睨めっこをして、思い悩んでいるようだ。

 ——そうか。また、このパターン。

 神崎とのごたごたから、二人で残業をするなんてことはなかった。以前に戻ったということだ。度、集中力が途切れると、仕事に戻るのが面倒になる。

 昨晩の澤井との会話を思い出した。自分が、副市長になったら手伝わせると言っていたが、一体なんの話なのだろうか。澤井の気持ちは結局、よくわからない。自分たちのためなのか。自分のためなのか。

 悪い人ではないことは理解している。澤井が自分のことを隅から隅まで理解していると言うが、多分この市役所の中で、澤井の心の内を理解しているのは保住しかいないのではないかも知れない。

 だがそれも一部の話だ。澤井の心は深くて計り知れないものがある。言葉の意味と、腹の中の意味は全く違っているのではないか。そう、単純な話ではないような気もするのだ。

 まだまだ足元にも及ばなのだ。なんだかんだと言っても、澤井は保住の初めての指導者。仕事の仕方、人との付き合い方など、全て彼から学んだ。喧嘩をして、ぶつかって、痛めつけられて黙らされたことばかり。
 しかし彼が言っていることは理解できる。正統派ではないかも知れない。だが正統派で生きていけるような世界ではないことも、彼から教えられた。時にはずる賢く、相手の懐をみて交渉していかないと、自分の好きなことはできない。熱意や思いだけでは仕事は回らないということ。

 ——この世界は、やるかやられるかだ。

 自分は澤井タイプだ。父親と仲の良かった吉岡には悪いが、どう考えても仕事の基本には澤井が入っている。だから切っても切れないし、彼には敵わない。自分の思考過程が、彼には手に取るようにわかるというのは、そういう事もあるだろう。

 ただ彼を越えたいとか、そういう精神があるわけでもない。自分は自分。人と比べるのは好きではない。自分が好きに出来る事が大事。

 そんなことに想いを馳せながら田口を見つめる。悩みに悩む田口は見ていると面白いものだった。青くなったり、赤くなったり。無表情の割に顔色は、はっきり出るタイプ。表情がないせいか、苦しんでいるようには見えないが。きっと悩んでいるのだろうな。
 じーっと眺めていると、田口は耐えられなくなったのか、立ち上がって保住を見た。

「見つめないでくださいよ! 恥ずかしくなります!」

「ああ、そういうことで、赤くなったり青くなったりしていたのか」

 ——自分のせいか?

 そう言うところは鈍感。きちんと言われないとわからない。保住は笑った。

「真面目に悩んでいるんですから」

「そうだろうな。そういう顔をしていた」

「からかわないでください」

 ぶつぶつ文句を言って、田口は腰を下ろした。保住は頬杖をついて田口を見た。

「だから、係長!」

「帰ろうか。田口」

「え? でも。まだ仕事が……」 

「付き合ってやる」

 田口は顔を赤くした。

「な、ななな……」

「なんで赤くなる? 仕事だろう」

「だ、だって」

「変な田口」

 保住はパソコンを閉じた。

「帰ろう。お腹空いたな。今日はおにぎりが食べたいな」

「……」

「お腹空くと、いいアイデアも浮かばないものだ。なにか食べないと」

 田口は、がさがさと資料をかき集めて帰り支度をする。

「あ、あの。保住さん」

「なに?」

「いえ。あの。その」

 田口は戸惑った顔をして荷物を抱えた。

「いえ。今まで通りでいいのでしょうか」

「なにが?」

 田口の言っている意味がわからない。保住は小首を傾げて見せると、田口は「ふふ」と笑ってから「……聞いた自分がバカでした」と言った。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】義兄に十年片想いしているけれど、もう諦めます

夏ノ宮萄玄
BL
 オレには、親の再婚によってできた義兄がいる。彼に対しオレが長年抱き続けてきた想いとは。  ――どうしてオレは、この不毛な恋心を捨て去ることができないのだろう。  懊悩する義弟の桧理(かいり)に訪れた終わり。  義兄×義弟。美形で穏やかな社会人義兄と、つい先日まで高校生だった少しマイナス思考の義弟の話。短編小説です。

白い部屋で愛を囁いて

氷魚彰人
BL
幼馴染でありお腹の子の父親であるαの雪路に「赤ちゃんができた」と告げるが、不機嫌に「誰の子だ」と問われ、ショックのあまりもう一人の幼馴染の名前を出し嘘を吐いた葵だったが……。 シリアスな内容です。Hはないのでお求めの方、すみません。 ※某BL小説投稿サイトのオメガバースコンテストにて入賞した作品です。

この愛のすべて

高嗣水清太
BL
 「妊娠しています」  そう言われた瞬間、冗談だろう?と思った。  俺はどこからどう見ても男だ。そりゃ恋人も男で、俺が受け身で、ヤることやってたけど。いきなり両性具有でした、なんて言われても困る。どうすればいいんだ――。 ※この話は2014年にpixivで連載、2015年に再録発行した二次小説をオリジナルとして少し改稿してリメイクしたものになります。  両性具有や生理、妊娠、中絶等、描写はないもののそういった表現がある地雷が多い話になってます。少し生々しいと感じるかもしれません。加えて私は医学を学んだわけではありませんので、独学で調べはしましたが、両性具有者についての正しい知識は無いに等しいと思います。完全フィクションと捉えて下さいますよう、お願いします。

食事届いたけど配達員のほうを食べました

ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
なぜ自転車に乗る人はピチピチのエロい服を着ているのか? そう思っていたところに、食事を届けにきたデリバリー配達員の男子大学生がピチピチのサイクルウェアを着ていた。イケメンな上に筋肉質でエロかったので、追加料金を払って、メシではなく彼を食べることにした。

怒られるのが怖くて体調不良を言えない大人

こじらせた処女
BL
 幼少期、風邪を引いて学校を休むと母親に怒られていた経験から、体調不良を誰かに伝えることが苦手になってしまった佐倉憂(さくらうい)。 しんどいことを訴えると仕事に行けないとヒステリックを起こされ怒られていたため、次第に我慢して学校に行くようになった。 「風邪をひくことは悪いこと」 社会人になって1人暮らしを始めてもその認識は治らないまま。多少の熱や頭痛があっても怒られることを危惧して出勤している。 とある日、いつものように会社に行って業務をこなしていた時。午前では無視できていただるけが無視できないものになっていた。 それでも、自己管理がなっていない、日頃ちゃんと体調管理が出来てない、そう怒られるのが怖くて、言えずにいると…?

姫を拐ったはずが勇者を拐ってしまった魔王

ミクリ21
BL
姫が拐われた! ……と思って慌てた皆は、姫が無事なのをみて安心する。 しかし、魔王は確かに誰かを拐っていった。 誰が拐われたのかを調べる皆。 一方魔王は? 「姫じゃなくて勇者なんだが」 「え?」 姫を拐ったはずが、勇者を拐ったのだった!?

成り行き番の溺愛生活

アオ
BL
タイトルそのままです 成り行きで番になってしまったら溺愛生活が待っていたというありきたりな話です 始めて投稿するので変なところが多々あると思いますがそこは勘弁してください オメガバースで独自の設定があるかもです 27歳×16歳のカップルです この小説の世界では法律上大丈夫です  オメガバの世界だからね それでもよければ読んでくださるとうれしいです

友達が僕の股間を枕にしてくるので困る

ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
僕の股間枕、キンタマクラ。なんか人をダメにする枕で気持ちいいらしい。

処理中です...