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第14章 彩られる世界
06 残業
しおりを挟む翌日、渡辺は薬を飲んで回復したと顔を出したが、本調子ではない様子だった。そのため、保住は彼の仕事まで引き受けて業務が立て込んだ。
だがどうしてだろうか。昨日までの殺伐とした気持ちは嘘のように、心は穏やかになっていた。仕事の忙しさなんて、負担にもならない。久しぶりに仕事に熱中していたのか、お腹が空いたような気がして、はっと顔を上げると、周囲は薄暗く、目の前には何枚もメモが置いてあった。
「お先に失礼します 渡辺」
「すみません、帰ります 谷口」
「明日は頑張ります! 矢部」
みんな帰ったのかと視線を上げると、田口だけがそこにいた。彼はパソコンと睨めっこをして、思い悩んでいるようだ。
——そうか。また、このパターン。
神崎とのごたごたから、二人で残業をするなんてことはなかった。以前に戻ったということだ。度、集中力が途切れると、仕事に戻るのが面倒になる。
昨晩の澤井との会話を思い出した。自分が、副市長になったら手伝わせると言っていたが、一体なんの話なのだろうか。澤井の気持ちは結局、よくわからない。自分たちのためなのか。自分のためなのか。
悪い人ではないことは理解している。澤井が自分のことを隅から隅まで理解していると言うが、多分この市役所の中で、澤井の心の内を理解しているのは保住しかいないのではないかも知れない。
だがそれも一部の話だ。澤井の心は深くて計り知れないものがある。言葉の意味と、腹の中の意味は全く違っているのではないか。そう、単純な話ではないような気もするのだ。
まだまだ足元にも及ばなのだ。なんだかんだと言っても、澤井は保住の初めての指導者。仕事の仕方、人との付き合い方など、全て彼から学んだ。喧嘩をして、ぶつかって、痛めつけられて黙らされたことばかり。
しかし彼が言っていることは理解できる。正統派ではないかも知れない。だが正統派で生きていけるような世界ではないことも、彼から教えられた。時にはずる賢く、相手の懐をみて交渉していかないと、自分の好きなことはできない。熱意や思いだけでは仕事は回らないということ。
——この世界は、やるかやられるかだ。
自分は澤井タイプだ。父親と仲の良かった吉岡には悪いが、どう考えても仕事の基本には澤井が入っている。だから切っても切れないし、彼には敵わない。自分の思考過程が、彼には手に取るようにわかるというのは、そういう事もあるだろう。
ただ彼を越えたいとか、そういう精神があるわけでもない。自分は自分。人と比べるのは好きではない。自分が好きに出来る事が大事。
そんなことに想いを馳せながら田口を見つめる。悩みに悩む田口は見ていると面白いものだった。青くなったり、赤くなったり。無表情の割に顔色は、はっきり出るタイプ。表情がないせいか、苦しんでいるようには見えないが。きっと悩んでいるのだろうな。
じーっと眺めていると、田口は耐えられなくなったのか、立ち上がって保住を見た。
「見つめないでくださいよ! 恥ずかしくなります!」
「ああ、そういうことで、赤くなったり青くなったりしていたのか」
——自分のせいか?
そう言うところは鈍感。きちんと言われないとわからない。保住は笑った。
「真面目に悩んでいるんですから」
「そうだろうな。そういう顔をしていた」
「からかわないでください」
ぶつぶつ文句を言って、田口は腰を下ろした。保住は頬杖をついて田口を見た。
「だから、係長!」
「帰ろうか。田口」
「え? でも。まだ仕事が……」
「付き合ってやる」
田口は顔を赤くした。
「な、ななな……」
「なんで赤くなる? 仕事だろう」
「だ、だって」
「変な田口」
保住はパソコンを閉じた。
「帰ろう。お腹空いたな。今日はおにぎりが食べたいな」
「……」
「お腹空くと、いいアイデアも浮かばないものだ。なにか食べないと」
田口は、がさがさと資料をかき集めて帰り支度をする。
「あ、あの。保住さん」
「なに?」
「いえ。あの。その」
田口は戸惑った顔をして荷物を抱えた。
「いえ。今まで通りでいいのでしょうか」
「なにが?」
田口の言っている意味がわからない。保住は小首を傾げて見せると、田口は「ふふ」と笑ってから「……聞いた自分がバカでした」と言った。
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