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第13章 変態野郎の集まり
02 遠い距離感
しおりを挟む翌日。保住の案がなんなのか、わからないまま日が昇った。
田口は、どうしたらいいのか、心配で眠れなかった。保住にメールをしようかと思案したのだが、結局は下書きまでしかたどり着かなかった。
——なぜだろう?
神崎の家政夫事件以来、保住との距離感が大きく横たわっている。近づきたくても近づけない。
なんだか眠れなかったせいで、早めに出勤することにして身支度を整えた。事務所の扉を開くと保住だけが出てきていた。
「おはようございます。あの……」
田口は言葉を切る。人を寄せ付けない雰囲気に、言葉が出ないのだ。
——なぜ? どうして?
自問自答しても、答えは見つからない。
今日の彼は、余所行きの恰好をしていた。教育長研修会の時を、彷彿させる出で立ちだ。黒のスーツに赤いネクタイをしていた。
「係長、今日はなにか……」
「今日は一日出張だ」
「どこへですか」
「東京に行ってくる」
聞いていない。
——突然の? 昨日の件?
いつもだったら、色々教えてもらえるのに。やはり彼との距離が遠いのだ。
——嫌われた? 避けられている?
「あ、あの。係長……」
声をかけて手を伸ばした瞬間。
「準備できたか」
そこに澤井が顔を出した。
「ええ」
田口を見ていたはずの保住の視線は、澤井に向いてしまった。ここのところいつものことだ。
——保住さんはおれを見てくれない。
「そうか。正念場だ。気合い入れとけよ」
「わかっていますよ」
——澤井と一緒?
田口は目を瞬かせた。
「帰りは何時になるか分からない。渡辺さんにはメールしておいたから。じゃ」
保住はそう言い残すと、澤井と事務所を出て行った。
「いってらっしゃい……」
なぜだろう。
「やっぱりまだ怒ってるのかな……」
いいや。なにかが違う。そんな話ではない気がする。
怒っていたら、きっと感情をぶつけてくる人だ。八つ当たりされたり、甘えられたり、頼られたり。それなのに……遠い。手を伸ばせば届く距離なのに。
「保住さん」と名前で呼ぶのが憚られた。
——どうして。
「なんで?」
田口はため息を吐いた。
***
「お疲れさまです」その一言が打てない。田口は携帯をソファに投げ出して、ため息を吐いた。
「ダメだ。メールが送れない……」
結局、保住と澤井は帰ってこなかった。残業をして粘ったが、渡辺に「お前も切り上げろ」と言われて渋々帰宅したのだ。
首を横に振ってから、ビールを飲む。気持ちが通じなくてもいい。そばに居られれば。そう思っていたのに。贅沢だ。欲張りだ。そばに居るだけではダメなくせに——。
「保住さん……」
悶々としてしまう。相談できる相手もいない。眠れるわけもない。田口は走ってこようと外に出た。
深夜に差し掛かっている時間だが、田口の家の界隈には飲み屋が多いので、人通りが絶えなかった。外に出て、周囲を見渡すと、ふと紫の看板ライトが光を放っているのが目についた。『バー ラプソディ』だ。古ぼけた壁と日に焼けてくすんだ色の扉を見ると、なんだか昭和の匂いがするスナックみたい。
——まだやっているのだろうか?
なんとなく人恋しくて扉を押すと、中からはピアノの音が流れてきた。
「生演奏?」
驚いて目を瞬かせると、無愛想な女がカウンター越しに田口を見てから、プイッと顔を背けた。
「初めてはダメですか?」
拒否されているような気がして尋ねると、カウンターに座っていた男が笑う。
「大丈夫だよ、入りなよ」
——店の人? じゃないな。客か。
彼はウイスキーの水割りを飲んでいたからだ。
「桜、愛想良くしないと新しいお客様がビビるだろう」
男は女を茶化すが、彼女は面倒だと言わんばかりの表情をしただけ。本当に無愛想だ。田口は店内を見渡してみた。大して広くないようだ。カウンターに五、六人が座れて、後は丸テーブルがいくつかある程度。
ただ、目を見張るのは、店の奥にあるグランドピアノだ。あれは——。
「スタンウェイ?」
確か、星音堂が所有する、高額なピアノと同じメーカーだ。
「お! 兄ちゃん、音楽わかるの?」
男は嬉しそうに田口を招き、隣に座らせた。
「いえ。すみません。仕事柄知っているだけで、おれ自身、音楽はよくわかりません」
スタンウェイを弾くのは若い男。静かな雰囲気の曲は田口の心を落ち着かせてくれた。
「仕事って?」
桜が珍しく口を開く。
「えっと、役所です」
「役所でスタンウェイと出会える部署なんてあんの?」
「文化課です。星野一郎記念館を担当しています」
「ああ、なるほど」
桜は笑った。無愛想なのに笑顔は素敵。なんだか保住を思い出した。
彼がいない、田口の世界は色あせていく。モノクロの世界だ。田口は表情を暗くした。
「ここに来る奴は、なにか背負ってるもんだ。野木にでも話してみたら」
桜はそう言って男を見た。見られた男——野木は胸をドンっと叩いた。
「ああ、おれは野木。この店の一番の古株な。いつもは大人しいけど、音楽にはちとうるさいぜ」
「田口です。音楽関係の方ですか?」
田口の問いに桜が口を挟んだ。
「野木は自分では全く演奏できないんだよな! こんなに楽器下手なセンスのない奴は初めてみたくらいだ」
酷い言い様だが、野木は笑う。
「そうなんだよ。こんなに音楽を愛しているのにさ。全くダメ。ピアノ、歌、ギター、パーカッション、なんでもトライしたんだが」
「全部センスゼロ。全て講師から印籠を渡されたんだ」
「そうなんですね」
しかしものすごい執念だ。そんなに音楽が好きなのか。
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