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第12章 家政夫と嫉妬
07 代償
しおりを挟むそれから三日後。空いている田口の席が当たり前のようになった頃。
「係長、やっぱり田口を呼び戻しますか? 楽曲も要ですけど、人がいないのは結構、堪えます」
渡辺の申し出は、彼が主語のように見えるが、本当はこの人の為。彼は当事者である保住を見つめる。目の下に隈を作っている保住は、渡辺の言葉に顔を上げた。
「戻す気はありません。申し訳ないですが、もう少し堪えてください」
「おれたちはいいけど……」と矢部と谷口も顔を見合わせた。
田口に依存していた部分が多い。彼がいなくて滞っているのは保住その人だ。毎晩残業しているようだし、珍しく余裕がないようだ。
「保住、ちょっと来い!」
それに、この呼び出し。
「聞こえんのか!」
「はい」
仕事も途中に澤井に呼ばれて席を立つ。悪態や嫌味も出てこないのか、彼は黙って首をかきながら事務室を後にした。それを見送ってから渡辺、谷口、矢部は顔を見合わせた。
「かなりのオーバーワークじゃないっすか」
「だな」
「結構、頑張っているつもりなんですけど」
「おれたちがやっても結局、見直作業は係長だからな。時間がかかる」
渡辺はため息を吐いた。
——田口が来る前はこんなだったか? 思い出せない。だが、ここまで酷かったかな?
保住の能力が下がったのか。いや一度覚えたものを失うと、代償は大きいのだろうな。
「まだかよ。神崎先生……」
***
「お前らしくもない。こんなミス」
澤井は書類を目の前に出す。
「一つくらい大目にみてくださいよ」
めんどくさそうに、保住は書類を持ち上げた。日付ミスなんて、こんなの初めてだった。
「神崎先生は、どうなっている」
「わかりません」
「なぜだ」
「把握していないからに決まっているじゃないですか」
開き直られても困るというところか。
「なぜ把握しない。職務放棄か」
「田口に任せています」
「係長職は把握する義務がある」
澤井はため息を吐いた。
「田口はお前の急所だな。お前をダメにするには、あいつをどうにかすればいいと言うことだな」
「そんなことは……」
保住は書類を握る。
「あいつは職務を全うしているだけです。問題ありません」
「問題があるのはお前だろう」
「おれも問題があるとは思えません」
澤井は立ち上がって保住の目の前に立った。
「お前、寝ていないだろう。健康管理できない奴は問題山積だ」
「ご心配なく」
「保住」
「失礼します」
いつもの掛け合いも続かないか。澤井が退室しようとする保住を呼び止めようとした時、突然田口が顔を出した。
「出来ました!」
「田口」
「係長、仕上がりました。オープニング序曲から、最後のエンディングまで全てです」
嬉しそうにしていた彼だが、保住の顔を見て、一瞬表情を翳られた。
「係長——?」
「見せてみろ」
澤井の声に、保住に頭を下げてから田口は中に入ってきた。
「こちらです。おれにはよくわかりませんが、終わったようです」
澤井は楽譜をペラペラとめくり、そして頷いた。
「どうやら本当らしい。至急、製版会社に回せ」
「了解です。この足で行ってきます!」
「原稿はこっち持ちだ。何部かコピーしていけ」
「わかりました」
田口はバタバタと局長室を後にした。合わせる顔もない。保住はじっとしていた。
それを見ていた澤井は保住に声をかけた。
「——声かけてやれよ。お前が押し付けた無理難題をこなしてきたんだぞ」
「すみません。言葉が見つかりません」
「そうか」
澤井の部屋を出る。
田口に出会ってしまったら、言葉が出なかった。まさかの——田口への罪悪感が、胸を締め付ける。田口に甘えて、酷い有様だ。
——最悪。最低。
結局、田口は定時を過ぎても帰らなかった。
「そう。わかった。お疲れさまな」
谷口は電話でなにやら話していたが、受話器を下ろしてから保住を見る。
「依頼に時間がかかるそうです。何時になるかわからないので直帰《ちょっき》させちゃいましたけどいいですか?」
「ありがとうございます」
——田口が戻ってこない。
それはそれで、内心ほっとしてしまうのは気のせいではない。顔向けできない。それが本音。時計の針は六時を回っていた。
「帰ります」
「珍しいですね。今日は」
渡辺は笑う。悪い意味ではないらしい。彼は「係長は仕事し過ぎですからね」と付け加えた。
「そんなことは。効率が悪いのです。どうしたものか。元々こんなタイプだから気晴らしの方法も分からないし」
「係長、こういう時は飲み会ですよ」
矢部はすかさず言った。
「しかし」
「大丈夫ですよ。田口を先生に預けちゃったから気が引けるんでしょう? あいつ、そんな奴じゃないし」
谷口は慰めようとしてくれているようだ。
「ありがとうございます。みなさんに気を使わせました。帰ります」
保住は頭を下げてから事務所を後にした。 それを見送って三人は顔を見合わせた。
「亡霊みたいだな」
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