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第7章 自覚する恋心

08 名前で呼ぶのか

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 触れたくて触れたのに、自分の中の自信の無さが声を上げた。

 ——バカか、そんなことをしてなにになる?

 触れてどうするのだ? と問うてくるのだ。

 ——そうだ。触れてどうする? なにがしたいのだ? 自分は。お前の欲求を満たすだけの度胸もないくせに!

 田口の大きな手は行き場を失い、保住の頬をそっと伝った。その間、保住はじっとしていた。彼の真意を図るかの如く、じっと黙っていた。

 田口を真っ直ぐに見据える瞳は、アルコールのせいなのか、熱を帯びているように見受けられて、余計に動悸が加速した。田口にとったら、ものすごく長い時間なのかもしれないが、ほんの数秒の出来事だったのだろう。

「……田口?」

 掠れたような保住の声に、はっと我に返った。

 ——やってしまった。

 言い訳なんて立たない。「触れたかった」なんて、唐突で変態すぎる。そう判断した彼は、猛烈に下手くそな嘘を吐いた。

「は、すみません。保住さん、ゴミ付いてますよ」

 田口は慌てて手を引っ込めて誤魔化した。アルコールのおかげなのか、保住は田口の言葉に疑問を抱いている様子は見受けられなかった。

 潤んだ瞳は眠いせいもあるのだろう。少し細められた瞳に見据えられると、余計に視線が外せない。一人でドギマギしている田口の心中など知る由もない保住は、急にスイッチが入ったかのように、ムッとした顔をして田口の肩を人差し指で突いた。

「お前は——人の話を聞け!」

「すみません。わかっています。わかりましたから」

 話の途中なのに、と保住は怒る。怒っているけど、そんな保住も好き。田口はつい表情が緩んだ。

 ——ああ、やっぱり好き。この人が好きなのだ。

 そんなことを実感すると、口元は余計に緩んだのでますます怒られた。

「馬鹿にしているな。せっかく、話しているのに」

「違いますって。保住さんって可愛いことを言うのだなと思って」

 「可愛い」呼ばわりをされた保住は、今度は違う意味で顔を赤くした。

「お、おい! よくそんな恥ずかしい事が言えるな!!」

「だって、本当のことじゃないですか」

「来るんじゃなかった!」

「待ってくださいよ」

 立ち上がる保住の腕を思わず摑まえる。

 ——帰らないで。

 突然、田口が引っ張ったおかげで、酔っている保住は、容易にバランスを崩して転倒した。二人は縺れ合う。保住が先に倒れたおかげで、その上に覆いかぶさる格好になると瞬時に判断した田口は体を回転させて、なんとか彼の下に入り込んだ。

 田口の上に倒れ込んだ保住を確認して、ほっとした。まさか上司の上に倒れるわけにはいかないし、なによりこの体格差だ。自分が覆いかぶさったら潰れてしまうかもしれない。

「……すみません」

「イタタタ……」

「大丈夫ですか?」

 自分の胸の上で、顔をしかめる保住との距離は近い。掴んでいた彼の腕は思っているよりも細くて折れてしまいそうだった。

「お前な……」

 彼は文句タラタラだ。

「すみません」

 でも捕まえた腕の感覚が、田口にじんわりと染み込んでくる。

 ——温かい。だけど。

「保住さん」

「え?」

「本気で、身体鍛えたほうがいいみたいですよ」

「うるさいな」

「このままでは、そのうち骨折するのでは……」

「うるさい。田口は小姑みたいだ。それに」

「なんでしょう?」

「名前で呼ぶのか」

「え?」

 田口は瞬きをしてから初めて気が付いた。

 ——いつから?

 顔が熱くなった。

 ——なんてこと。

 人に対する敬意を忘れたことがないのに。

「あ、あの……。失礼いたしました。係長。なんてことだ。おれは……。上司を名前で呼ぶなんて。こんなこと、したことないのに……」

 頭を抱える。しかし、保住は上から田口の顔を覗き込んで満面の笑みを浮かべていた。

「別にいいではないか」

「そんな。失礼なことできません」

「そうか? おれはいい。係長なんて堅苦しいこと言われていたくない」

 保住の笑みは大変嬉しそうに見える。

 ——そうか。嫌じゃない? なら……。

「でしたら。職場ではないところでは、よいのでしょうか? お名前でお呼びしても」

「そんなことに許可はいらないだろう?おれなんて、大して年齢も違わないお前を呼び捨てだ。大変失礼な話ではないか」

 彼はそう言うと、はっと表情を変える。

「というか、いつまでも掴むな。体が起こせない」

 ずっとこのまま、くっついていられたらいいのに。

「すみません。おれ、なんだか酔っていて頭が働かないのかな?」

 そんな見え透いた言い訳なんて馬鹿みたいなのに。保住はすっかり酔っている。そういう細かいことは気にしないらしい。

「おかしいな。思ったよりも酔いが回るのが早い」

 「起きられない」なんて言っておいて、自力で起きられないのは自分のせいじゃないか。そんなことを思いつつも、こうしていられる幸せにドキドキが止まらないのだった。

「お手伝いしますよ」

 田口は彼の肩を掴まえてから、そっと体を起こす。

「すまないな。こんなところまで甘えるのか」

「いいではないですか。嬉しいです」

 気恥ずかしそうな保住を見ていると、心が弾んだ。彼は自分に対して、少しは心を動かしてくれているのか。

 ——嬉しい。

 彼の気持ちが友人なのか、部下なのか、なんなのかは話からないが、それでもなお、少しでも自分のことを気にかけてくれているのなら嬉しいのだ。

 今日は衝撃的な事ばかり。自分の気持ちに気が付いてショックを受けたし。だけど保住がこうしてまた自分のところに来てくれたこともまた、嬉しい。なんだか疲れたが、心地いいのは気のせいではないか。田口も一緒に保住に付き合ってビールを開けた。
  

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