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第7章 自覚する恋心

06 田口を励ます会

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「元気出せよ! おれたちが聞いてやるって言ってんだろう」

 矢部は田口に絡まっていた。田口を励まそう会なんて名目で、結局は自分たちの鬱憤うっぷん晴らしであることは明らかだった。

「別に、落ち込んでいません」

 田口は小さく答える。

「嘘だ! 『おれは傷付いている、助けて!』って顔してるよ」


「そうだそうだ」

 谷口や矢部の言葉は、傷心の田口を更に追い立てるのか。田口はますます、眉間にシワを寄せて俯いた。なんだか視界がぼやけて涙が零れそうだった。

 ——辛い。生きていくのって辛いんだな……。

「な、泣くなよ!」

「そうだぞ! 男だろ?!」

「男だって、涙が出ることはあります……」

「なんだよ。辛いのか? 仕事か? 女か?」

 日本酒で出来上がった彼は突っ伏して泣き始めた。それを、隣に座る矢部は「よしよし」と背中を撫でてくれた。彼の手はグローブみたいに大きくて暖かい。田口の傷ついた心にじんわりと染み入った。

「おれ、なにかしたのでしょうか? ——係長に嫌われてます」

「はあ?!」

「そこ?!」

 田口の理由に、渡辺は苦笑した。

「田口は、本当に係長が好きだな」

「だ、だって……」

「係長もお前がお気に入りだろ? どうしたんだよ」

「昨日から、口を利いてくれません……。仕事も任せてもらえません……」

「口は利いているだろう? 無視はされていない。係長が事業のかなめを他人に渡すのは見たことがないんだぞ。お前は信頼されているだろう? そう気に病むなよ」

「しかし——」

 昨日から保住の様子がおかしいのだ。よそよそしい。今までのように仕事を与えてはくれない。信頼されていないような気がして、気持ちが落ち着かないのだ。

 ——おれのこと、信用してくれなくなったのだろうか。

「確かに。なんかさ。昨日あたりから、一昔前の係長に戻っちゃったような気はするけどね」

 矢部の意見を聞いて渡辺は「一理あるが」と頷いてから、田口に視線を寄越した。

「お前、係長の家族が体調不良なことは知っているか?」

「え?」

 渡辺の言葉に、田口は顔を上げた。

「はい」

「なら話は早い。多分、係長は今プライベートのことで頭がいっぱいなんだよ」

「それは……」

 田口はコクコクと何度か小さく頷いた。

「そっとしておいてやれよ。人間、一人になりたい時もあるものだ。気にすんなって。きっとそっちが落ち着いたら元の係長に戻るよ」

 矢部や谷口の励ましの言葉が素直に入ってこないのはどういうことなのだろうか。田口は感じ取っているのだ。保住が自分に対しての態度を変えた理由は、祖父の体調不良だけではないということ。それは一番近くにいた自分だからこそ、嗅ぎ取れるものなのだ。

 この三人にいくら励まされたり、慰められても、田口の心が満たされることはないのだ。

 ——そばにいて支えるなんて思っていたくせに。そっぽを向かれてしまうと、途端にこんなにも不安になるものか?

「さあ、今晩はお前を励ます会だぞ。さっさと飲めよ」

「——はい」

 賑やかで明るい席なはずなのに、田口の心は更に深く沈み込むばかりだった。


***

 渡辺たちが開いてくれた「自分を励ます会」がお開きになり、田口は一人帰途についた。渡辺たちは、保住のよそよそしい態度は親族の体調不良だと片付けていた。

 ——違う。あの人は、そんなんじゃない。自分はなにかしたのだろうか?

 一緒に仕事がしたい。
 信頼してもらいたい。

 ——そして。笑顔を向けて欲しい。

『田口』

 彼の口から、自分の名を呼ばれることが、どんなに幸福なことか。どんなに、たくさんの人に認められたって。心がぽっかりと穴があいたみたいに寂しい。

 ——満たされない。

 自分が欲しいのは——。

 ——たった一人。

 きっと『保住』という、その人だけなのだ。



***



『いつもの自分に戻ろう』

 そう思えば思うほど、どうしたらいいのかわからなかった。田口と過ごしてしまった時間は、巻き戻せない。

 一度、知ってしまったものは、忘れることができないという事なのだろうか。孤独なんて日常茶飯事だったのに、田口がくれた時間は保住にとったら心地がいいものだったらしい。

 みんなが帰宅したあと、一人でパソコンと睨めっこをしていたが、仕事のことなんて考えられない。むしろ、集中しようと考えるほど、田口のことばかり考えてしまうのだ。

 イライラして、イライラしていた。

 突き放したら、捨てられた子犬みたいな顔をしていた田口。雨の中ダンボールに収まって、クンクンと鳴いている姿が脳裏から離れない。まるで自分で捨てておいて、雨が降り出したから心配になって見に行く小学生のようだ。

 ——馬鹿みたいな妄想だ。

「イライラする……二日しかもたないのか」

 自分にイラついて、パソコンのキーボードを乱暴に叩いた。

「バカみたいだ!」

 吐き捨てるように呟いて、パソコンを閉じた。それから、リュックを背負い事務所を後にした。

 ——おれは、どうかしている。  

 自分が自分ではないような感覚に、不安を覚えた。

 しかし、うすぼんやりとした今までの生活には戻りたくないのだ。田口と出会ってから、今までの淡々とした生活が、いっぺんに騒がしく、嫌なはずなのに、彼がいないと、しっくりこない。そばにいると、ついうっかり頼ってしまいたくなるのだ。

 一人でやってきたのに。誰に嫌われようと、誰に後ろ指を指されようと、誰に怒鳴られようと、自分は自分の思うがままに生きてきた。そして、生き方に異論を唱える人は少ないし、みんなが自分の思う通りにやらせてくれていた。

 しかし市役所に入ってから、思い通りにならないことばかりになった。澤井という男に押さえつけられて、息苦しい思いばかりしてきた。

 今の今まで踏ん張ってきたのは、仕事が好きだからだ。父親のあとを追っているだけではない。自分は純粋にこの梅沢市が好きで、そして、そこに住む人たちのために仕事に取り組んでいるのだ。

 国の役人から見たら、「地方でしょう?」と言われるかもしれない。だけど、自分が背負っているものは、住民なのだ。国という大きなものではない。ここに足をつけて、暮らしている人たちなのだ。だから、自分の仕事には誇りを持っている。

 少しずつだけど、自分を支えてくれたり、気にかけてくれる仲間を増やしつつ、こうして大好きな仕事に没頭しているところだというのに、そこに現れたのは田口だった。

 田口には甘えてしまう。彼と一緒にいると、いつもの自分じゃないみたいだ。すっかりおんぶに抱っこなんて、ありえない。プライドの高い保住が、そんなことを許す訳もないはずなのに。

『係長!』

 時折見せる笑顔は中学生。
 しょんぼりしている姿は捨て犬。
 大型犬のくせに、優しい目をしていて、そして、纏わりついてくるのだ。

 仕事で失敗すると、尻尾を丸めてしゅんとした顔をするし、実家に帰ると、すごく訛っていて、そしてみんなに愛されている。

 保住にとって、田口がなんなのか、答えは出ていないけど、一つだけ確かなことはわかる。

「自分にとって、田口は必要」

 保住は階段を駆け下りてから、IDカードをかざし退勤手続きをする。そして暗い夜道に出て歩き出した。



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