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第4章 犬の故郷へ
10 戦線復帰
しおりを挟むそわそわした。早目に自宅を出て職場に顔を出すと、みんなが揃っていた。
「おはようございます!」
田口の声に、三人が顔を上げた。
「おー、このクソ忙しい時に、堂々と休みを取った神経図太い新人君」
矢部の言葉は、棘があるけど悪意はない。田口は頭を下げた。
「すみませんでした」
「別にいいさ」
「ゆっくり休めたか?」
あんまり……と言いたいところだが。
「クラス会に行けました。本当にありがとうございます」
そう言って、お土産のせんべいを出す。
「お、雪割せんべいじゃん! うまいよな」
「米どころだからな」
「田口の実家って、雪割なんだな」
「そうなんですよ」
そんな会話をしていると、入り口が開いて保住が顔を出した。
「おはようございます」
「あ!」
「か、係長!!」
渡辺も矢部も谷口も、みんな泣きそうだった。
「みなさん、ご迷惑をおかけしました。本日より復帰させていただきます」
「もういいんですか?」
「顔色悪いですよ」
「まだ休んでいなくて、いいのですか」
それぞれが口々に言うが、保住は取り合わない。
「平気です! 休んでいた分、取り返します」
「係長、そんな張り切らなくても……」
自分の席に座り、係長ではないと処理できない案件の書類の山へ手を伸ばそうとすると、ドンドンと重い音が響く。一同は、ポカンとして音の主、田口を見た。彼は500のペットボトルに入ったイオン水と麦茶を保住の机に置いていた。
「田口……?」
保住は、顔がひきつっていた。
「いいですか? 人間が一日に必要な水分量は2.5リットル程度。食事から1リットル以上摂取する予定ですが、あなたの場合は、絶対的に仕事中の食事量が少ない。よって、水分で摂取しなくてはいけない量は1リットル以上です。食事量も少ないし、水分も少ない。また干からびたら大変だ。しばらくの間、水分補給については、強制的に管理させてもらいます」
「た、田口……?」
保住だけではない。他の三人も開いた口が塞がらないのか、ポカンとしていた。
「水分は苦手だ」
「水分補給は一気にするものではありません。少しずつが肝要です。午前中一本、午後一本のペースで行きましょう」
「あ、あの……」
タジタジな保住は珍しい。矢部は笑った。
「田口、本気モード」
谷口も同様だ。
「これは言うことをきいたほうが良さそうですね。係長」
「そんな……」
「田口、本気ですね」
渡辺にも言われて、がっくりするしかないと保住は肩を落とした。
「なんだか、田口がたくましくなっちゃって。面白いな」
「勘弁してくれ、田口」
「いいえ、また入院なんてごめんです! 絶対守ってもらいます!」
文化課振興係に久しぶりに賑やかさが戻ってくる。他の部署のメンバーも、一安心という顔だ。しかし、そんな和やかムードは続かないのが振興係。ガヤガヤしている部屋の扉が豪快に開いて澤井が顔を出したのだ。
「出てきたなら、挨拶ぐらいしろ」
「すみません。まだ出勤されていなかったので。今から行くところでした」
「言い訳はいい。それより、おれの部屋の書類をなんとかしろ」
「わかりました」
保住はそう返答すると、澤井の後を追い姿を消した。
「金曜は田口もいないから、澤井局長の怒りマックスで大変だったんだから」
谷口の説明に、田口は笑う。
「まさか」
「そのまさか」
矢部が口を挟んだ。
「結局、局長が切れて書類はめちゃくちゃ。誰も復元できない訳」
「あちゃーですね」
「いや、係長が来れば大丈夫だ。あの人の安定剤は係長だろ」
「あ」
田口は手を叩く。
「田口?」
「水分を忘れて行きました」
「お前さ」
一同は笑う。その笑みは安堵の笑み。みんなが揃った嬉しさでもあった。
***
「これをなんとかしろ」
澤井は「体調はどうだ?」なんて言葉もなく、開口一番にそう言った。保住は苦笑してから、澤井の部屋の応接セットに山積みになっている書類を見渡す。
「ずい分と暴れたのではないですか」
「お前がいないのが悪い」
「おれのせいですか」
保住はそばの書類を手に取り、そして整理を始める。手伝う素振りもなく、澤井は自分の椅子にどっかりと座った。
「病み上がりなんだから、もう少し優しく扱ってくださいよ」
「今週、休めと言ったのに出てきたお前が悪い」
「それはそうですが」
書類の頭とお尻を見ながら、保住は書類を仕分けを始める。その様子をじっと見ていた澤井は、ふと声を上げた。
「どのくらいで終わる?」
「そうですね。さすがに一時間は、かかりそうです」
「そうか。なら、別な仕事をしていよう」
「どうぞ、そうしてください。見ていられても仕方がない」
「いちいち減らず口を叩くんだから、調子は戻ってきたようだな」
老眼眼鏡をかけて、澤井はパソコンを眺めながら言った。
「そうですね。ええ。結構、調子出てきましたね」
保住も書類を分ける手を止めることはないが、ふと顔を上げた。
「今回は、田口におれを預けてくれたんですね。ありがとうございます。大変面白い経験をさせてもらいました」
「別に。ただ、あいつは少しは使えるからな。お前のこともみれるかと思っただけだ」
「そうですか」
保住は、黙り込んで作業を続けた。
澤井は悪い人ではないのは、よく分かっている。セクハラやパワハラは日常なのに、嫌いになれない自分がいることも理解している。自分は、相当変わり者なのだろうと思わずにはいられない。
「ちゃんと出来たら、昼飯くらいおごってやる」
「局長とランチですか?」
「愚問」
「あまり食欲がありません。ご一緒しても、お相手にはならないかと」
老眼鏡を外して、澤井は保住を見る。
「だからだろ。どうせなにも食わない気だ。強制的に飯食わせてやる」
「ありがた迷惑ですけど。……ありがとうございます」
心配してくれているらしい。嫌なやつなのに。保住はソファに座りこみ、書類の整理を黙々とこなした。
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