上 下
10 / 231
第1章 出会いとはじまり

08 音楽

しおりを挟む




「鴫原さん、今日は田口に中を見せてやってもいいですか?」

「どうぞどうぞ」

 特に来館者はいないようだった。静かな館内を保住について歩いた。

 星野一郎は昭和生まれの作曲家だ。梅沢出身。代表曲を見ると、確かにテレビなどでも聞いたことのあるものばかりだった。

「ああ、この曲もですか」

 彼の作品には高校時代スポーツに打ち込んだ田口にとったら、懐かしい行進曲なども名を連ねていた。

「知らなかったな。こんなすごい作曲家が梅沢出身だったなんて」

「意外に知られていないからな。おれたちは、彼を世に出すために日々企画をするのだ」

 パネルを眺めながら保住は呟く。そして、ぱっと田口を振り返った。

「な、なんでしょう」

「さっきさ」

「はい」

「おれのことバカだなって見ていただろう」

「え? え?」

 ——いつの話?

 田口は目を瞬かせる。

「鴫原さんが褒めた時だよ。じっと見て。こいつバカだなって。あ~あ。年下にバカにされるとは一生の不覚だ」

「え! 違いますよ。おれはそんなつもりじゃ……」

「嘘だ。さっき絶対に呆れていた!」

 いつもは自分の気持ちを読むくせに、今回は外れ。だけどそれでもいいのかも知れない。まさか、保住の笑顔に見惚れていたなんて、恥ずかしくて言えない。自分で自覚すると顔が熱くなる。ぼんっと爆発したみたいだった。

「な、なんで赤くなるんだ? 困っているのはおれだろうが」

「い、いや。その。すみません。別に意味は……」

 顔に手を当てるが隠しきれない。保住は首を傾げた。

「お前の考えていることは、さっぱりわからん。本当に二十九歳なのだろうか」

「すみません……。それより、これはなんでしょうか」

 田口は近くにあったヘッドホンを指さした。

「話を逸らすなよ」

「そういうわけでは」

 保住は「仕方ない」という顔をして説明する。

「星野一郎の名曲が試聴できるのだ。聞いてみろ」

 田口はヘッドホンを耳に当て、見知った曲の番号を押す。耳に届く音源は、軽くレコードのようなジリジリとした音に乗って昭和の匂いがする。

 ——ああ、そうか。いい時代だ。どうしてだろう。この時代を経験したはずがないのに。どこか懐かしくて嬉しい気持ちになる。

 音楽のことはよくわからないが、なんだか心地がいい。田口はすっかりと音楽に夢中になっていた。


***


 田口が聞き入っている様子を見て、保住は苦笑いだった。
 田口という男は面白い男だと思っていた。落ち着いていて、とても年下には見えない。見た目だけで言ったら、断然自分のほうが年下だろう。だがこうして、時折見せる仕草は年相応。いや幼い。少し照れ屋の男子中学生がそのまま大人になった感じというのだろうか。新卒でもあるまいし。

 純粋培養なのかと思い、少し調べてみたが、前職では「市役所内上司にしたくない男ベスト5」に入る男の下にいたようだ。よくもまあ、捻くれることなくここまで来たものだ。

 ——興味深いな。

 それが正直な感想だ。この一か月、彼のことを興味を持って見ていた。だから彼の感情も読み取れたのかもしれない。興味がなければ、素通りしてしまう些細なことも。仕事が出来るかどうかの品定めのつもりもあったが、なにせ年下の部下は初めて。「話しやすい」「気持ちが楽」ということもあるのかもしれない。

 じっと見られていることに気が付いたのか。田口は、顔を上げて、ヘッドホンを少し外してから保住に声をかけて来た。

「係長、すみません、おればっかり楽しんで」

 なにもしていない上司に気が付いて、恐縮しているというところだろうか。気配りもできる男だということも、この一か月で理解していた。

「構わない。むしろ、これも仕事だ。よく聞いて星野一郎を理解してもらわないとな」

 保住の言葉の意図を理解しているのかどうかはわからないが、田口は頷く。

「そうですか……わかりました。では、もう少しいいですか?」

 本気で気に入ったというところなのだろうか。普段の田口だったら、「すみません」と言って席を立ちそうなものだ。よほど星野一郎に興味があるらしい。保住は苦笑して、側の椅子に腰をかける。
 
 それからしばらく、二人は静かなホールで過ごすことになった。



しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

怒られるのが怖くて体調不良を言えない大人

こじらせた処女
BL
 幼少期、風邪を引いて学校を休むと母親に怒られていた経験から、体調不良を誰かに伝えることが苦手になってしまった佐倉憂(さくらうい)。 しんどいことを訴えると仕事に行けないとヒステリックを起こされ怒られていたため、次第に我慢して学校に行くようになった。 「風邪をひくことは悪いこと」 社会人になって1人暮らしを始めてもその認識は治らないまま。多少の熱や頭痛があっても怒られることを危惧して出勤している。 とある日、いつものように会社に行って業務をこなしていた時。午前では無視できていただるけが無視できないものになっていた。 それでも、自己管理がなっていない、日頃ちゃんと体調管理が出来てない、そう怒られるのが怖くて、言えずにいると…?

おねしょ癖のせいで恋人のお泊まりを避け続けて不信感持たれて喧嘩しちゃう話

こじらせた処女
BL
 網谷凛(あみやりん)には付き合って半年の恋人がいるにもかかわらず、一度もお泊まりをしたことがない。それは彼自身の悩み、おねしょをしてしまうことだった。  ある日の会社帰り、急な大雨で網谷の乗る電車が止まり、帰れなくなってしまう。どうしようかと悩んでいたところに、彼氏である市川由希(いちかわゆき)に鉢合わせる。泊まって行くことを強く勧められてしまい…?

【完結】義兄に十年片想いしているけれど、もう諦めます

夏ノ宮萄玄
BL
 オレには、親の再婚によってできた義兄がいる。彼に対しオレが長年抱き続けてきた想いとは。  ――どうしてオレは、この不毛な恋心を捨て去ることができないのだろう。  懊悩する義弟の桧理(かいり)に訪れた終わり。  義兄×義弟。美形で穏やかな社会人義兄と、つい先日まで高校生だった少しマイナス思考の義弟の話。短編小説です。

【R18】孕まぬΩは皆の玩具【完結】

海林檎
BL
子宮はあるのに卵巣が存在しない。 発情期はあるのに妊娠ができない。 番を作ることさえ叶わない。 そんなΩとして生まれた少年の生活は 荒んだものでした。 親には疎まれ味方なんて居ない。 「子供できないとか発散にはちょうどいいじゃん」 少年達はそう言って玩具にしました。 誰も救えない 誰も救ってくれない いっそ消えてしまった方が楽だ。 旧校舎の屋上に行った時に出会ったのは 「噂の玩具君だろ?」 陽キャの三年生でした。

こっそりバウムクーヘンエンド小説を投稿したら相手に見つかって押し倒されてた件

神崎 ルナ
BL
バウムクーヘンエンド――片想いの相手の結婚式に招待されて引き出物のバウムクーヘンを手に失恋に浸るという、所謂アンハッピーエンド。 僕の幼なじみは天然が入ったぽんやりしたタイプでずっと目が離せなかった。 だけどその笑顔を見ていると自然と僕も口角が上がり。 子供の頃に勢いに任せて『光くん、好きっ!!』と言ってしまったのは黒歴史だが、そのすぐ後に白詰草の指輪を持って来て『うん、およめさんになってね』と来たのは反則だろう。   ぽやぽやした光のことだから、きっとよく意味が分かってなかったに違いない。 指輪も、僕の左手の中指に収めていたし。 あれから10年近く。 ずっと仲が良い幼なじみの範疇に留まる僕たちの関係は決して崩してはならない。 だけど想いを隠すのは苦しくて――。 こっそりとある小説サイトに想いを吐露してそれで何とか未練を断ち切ろうと思った。 なのにどうして――。 『ねぇ、この小説って海斗が書いたんだよね?』 えっ!?どうしてバレたっ!?というより何故この僕が押し倒されてるんだっ!?(※注 サブ垢にて公開済みの『バウムクーヘンエンド』をご覧になるとより一層楽しめるかもしれません)

この愛のすべて

高嗣水清太
BL
 「妊娠しています」  そう言われた瞬間、冗談だろう?と思った。  俺はどこからどう見ても男だ。そりゃ恋人も男で、俺が受け身で、ヤることやってたけど。いきなり両性具有でした、なんて言われても困る。どうすればいいんだ――。 ※この話は2014年にpixivで連載、2015年に再録発行した二次小説をオリジナルとして少し改稿してリメイクしたものになります。  両性具有や生理、妊娠、中絶等、描写はないもののそういった表現がある地雷が多い話になってます。少し生々しいと感じるかもしれません。加えて私は医学を学んだわけではありませんので、独学で調べはしましたが、両性具有者についての正しい知識は無いに等しいと思います。完全フィクションと捉えて下さいますよう、お願いします。

食事届いたけど配達員のほうを食べました

ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
なぜ自転車に乗る人はピチピチのエロい服を着ているのか? そう思っていたところに、食事を届けにきたデリバリー配達員の男子大学生がピチピチのサイクルウェアを着ていた。イケメンな上に筋肉質でエロかったので、追加料金を払って、メシではなく彼を食べることにした。

刑事は薬漬けにされる

希京
BL
流通経路がわからない謎の薬「シリー」を調査する刑事が販売組織に拉致されて無理やり犯される。 思考は壊れ、快楽だけを求めて狂っていく。

処理中です...