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無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータ 第一番
第9話 トンネルの先に見えたもの
しおりを挟む——終わったのか。
拍手の音にはったとして我に返る。自分らしく演奏できたのかすらよくわからない。だが関口は客席を見渡した。
星音堂のホールは、まるで星空の下にいるみたいだった。 壁面の九谷焼は紺碧色。照明の落とされた客席は暗く、まるで星が仄かに輝く夜空だ。
——僕はこのホールが大好きだ。
二階の中央にいる審査員の席が視界に入る。審査員は楽譜を見たり、逐一感想を書いたりしているので、手元が明るいように卓上ライトがついているから居場所がよくわかる。
卓上ライトの光が眩しくてよく見えないが、あの男がそこにいるのだ。
だがどうしてだろうか。どんな評価が下されようといい気がした。
——そう、できることはすべてやった。もういい。満足だ。もしダメならそれでいい。
なぜかそんな気持ちがわいた。
悪夢みたいに繰り返されてきた川越の言葉。その彼の前で演奏をするだなんて、つい数ヶ月前の自分では考えられなかった。怖くて足が竦むはずなのに。桜の店で徹底的に貶されていたら、そんなことはちっぽけだと気がついた。
音楽とは自分が主語である。しかし相手に届いた時、その受け取る側によって見せる反応は様々だ。上辺だけを取り繕って、綺麗に上手く仕上げるのはもう終わりだ。
今の自分の弾きたいものを届けるのだ。自分を信じて……。
桜の元でそれを学んだ。彼女は型にハマった自分を解放してくれたのだ。枷が外れた関口の心は自由に思えた。
そしてもう一つ。関口の心を自由にしてくれたものは蒼と言う人間との出会いだった。
生まれる前から今まで、自分の人生は「音楽」しかなかったし、それ以外の道があるなんて知る由もなかったのだ。それなのに、彼と出会って視野が広がったのだ。
音楽を知らない人なんてたくさんいる。世の中は音楽が中心に回っているのではないということもだ。
関口にとっての音楽は体の一部だ。音楽は彼を成すもの。骨であり、血であり、肉でもある。だから容易に捨てられるものでもないことは理解している。だが、それだけに固執する必要もないということも知ったのだ。
——大好きなものがあればいい。大切な人がいればいいんだ。
出演者控室に戻ると、自分が最後なので誰もいなかった。楽器を眺めてから苦笑する。
「本当、よく頑張ってくれているよ。相棒」
ヴァイオリンの弦を緩めて、布で一拭きしてからケースにしまう。私服に着替えをして、忘れ物がないかを確認し、廊下に出るとふと、長身の男と鉢合わせになった。
「蛍くん——」
漆黒のジャケットに白いシャツ。神経質そうな瞳は彼を賢く見せる。以前よりも白髪の増えた髪は彼を年齢よりも落ち着いて見せた。
これで関口圭一郎と同級生だというのだから恐ろしい。断然圭一郎のほうが若く見えた。
「川越、先生」
「いや。驚いていたんだよ。キミが出てくるなんてね。本当に久しいね。キミの演奏を聴くのは。いつぶりだろうか?」
——この男にとったら、忘れてしまうくらいどうでもいいことなのだろうか。
関口は無言で彼を見つめた。
彼はなにか言いたげに口を開いたが、ふと関口の後方を見て苦笑した。関口も釣られて後ろを振り返る。——と、そこには蒼がいたのだ。
川越は関口と蒼を交互に見てから、関口に視線を戻した。
「蛍くん。キミの演奏は素晴らしかった。キミの今まで生きてきたすべてのものがダイレクトの伝わってきたよ。以前、キミの演奏を『空っぽだ』と言ったこと、覚えているかな?」
「ええ。夢にまで出てくるくらい」
「怖い顔だね。そうか。僕の言葉はキミの本質に突き刺さってしまったのだろうね。だが、それはキミも薄々は感じていたことだったからじゃないのかな?」
川越の言葉は真実だ。
——そうだ。知っていた。自分が一番理解していたのだ。
父親の真似事。上手く弾こう。褒めてもらおう。すべて自分が主語ではなかった。すべてが他人が主語の音楽だったのだ。川越はそんな関口の戸惑いを見抜いて指摘してくれただけだ。彼が悪いのではない。すべて彼のせいにしていただけのことだ。
「先生。僕はずっとあなたのせいにして、自分と向き合ってこなかったんです。でも今日は、あたなに聴いてもらえて本当によかったと思っています」
「そうだね。僕も嬉しいよ。キミの成長には目を見張るものがあるね。まあ、少々遅咲きすぎるけどね。キミならそんなハンデは乗り越えていくんじゃないかなって期待しているよ。圭一郎も気が気じゃないんだろうね。僕のところに電話ばかり寄越していたよ」
「先生、あの——」
「大丈夫だよ。僕の性格はキミがわかっているでしょう? そんなことでひいきにしたりしないしね。それに他の先生方もいらっしゃる。どんな結果になっても恨みっこなしにしてね」
彼は薄い唇を緩めて笑みを見せる。今まで彼のイメージは氷のような男だと思っていた。自分の中で作り上げた幻想だったようだ。
違っていたのだ。彼もまた、自分の音楽家としての人生を杞憂してくれていたのかも知れない。
「ありがとうございました」
関口が頭を下げると、川越は「まあまあ」と言った。
「僕よりも。ほら。ファンが来ているみたいだし。行ってあげなさい」
「はい」
関口はもう一度頭を下げてから蒼の元に駆けていく。蒼はいつもの如く目を真っ赤にしていた。
——いつも泣くんだ。蒼は。
「泣き虫」
「だ、だって」
自分の音楽を聴いて涙を流してくれる人が一人でもいるなら嬉しい。関口は蒼の頭をポンポンと叩いた。
すると蒼の後ろから星音堂の職員が全員集合していた。水野谷、氏家、高田、尾形、吉田。そして星野。
「事務所、どうしたんですか」
関口は嬉しい気持ちで胸がはち切れそうだが、その気持ちを抑えてぶっきらぼうに言う。星野は恥ずかしそうに頭をかいていた。
「別に……たまにはいいじゃねえか」
「御用の方はお待ちくださいって張り紙してきましたもんね」
尾形の言葉に水野谷たちおじさん三人組は笑う。
「まあねえ。今日はいいんじゃないですかね」
「そうそう。おまえの晴れ舞台じゃん!」
「おつ加齢臭~」
「あのねえ、だから氏家さん——」
吉田の声に関口は笑い出した。
「よかったぞ。本当に」
「お前、本当。おれたちお父さんたちは嬉しいよ」
「高田さん、お父さん何人いるんですか」
みんなに揉みくちゃにされて形無しだ。だが——関口は暗闇のトンネルから抜け出した。
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