91 / 94
無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータ 第一番
第7話 無伴奏ヴァイオリンソナタ
しおりを挟む無伴奏ヴァイオリンソナタ 第一番。バッハは独奏のための六曲のソナタを残している。この楽曲は他とは違いピアノやチェンバロとの重奏ではない。そのため改めて「無伴奏」とういう冠がつく。
バッハは旋律楽器であるヴァイオリンの魅力を十二分に弾き出すために可能な限りのあらゆる和音を要求した。そして不可能に見えるほどの対位法(複数声部の旋律を、そのそれぞれが等しく独立性を保つように書く技法)も入れ込んだ。
さらに疑似複音楽という一見、単旋律に見せてその実、対位法であるという技法も含まれる。
そう——バッハはこの無伴奏ソナタに様々な技法を取り込むことで豊かな響きを実現し、他の楽器の助けを必要としない曲を仕上げたのだ。バッハ以前にもそういった試みは行われてきたが、彼がそれを精巧に完成させたのである。
バッハの音楽は、弾きようによっては誰でも弾ける。腕さえあれば——だ。しかし、その難しさは、曲の理解、表現力。 他のどの作曲家の作品よりも人間性が露呈する点だった。
結局。蒼はギリギリまで入院だった。当日の午前中。退院した足で会場に来てくれるという話だった。
——それでいい。
朝。ラプソディに行くといつもは午後からしか開いていない扉が開いた。
「入りな」
桜は険しい表情で関口を迎えてくれる。
「最後のレッスンつけてやるよ」
「お願いします」
冬晴れの寒い朝だった。
***
「ああ、なんか落ち着きませんね~……」
星野はコンクールのパンフレットを眺める。録音審査を経て本戦に残った奏者たちが審査員の目の前で演奏を繰り広げる。
午前中はピアノ部門。午後からがヴァイオリン部門。そして明日の午前中に声楽部門の予定だ。
各部門、最終選考メンバーの数はばらつきはあるものの、どの部門も十五名程度。
メンバーのメンツを眺めると、どこかのコンクールで成績を残している者もいる。
——大丈夫だってわかっていても……心配になるもんだよな。ハラハラさせてくれるよな。
星野は押し黙ったままそれをデスクの上に投げ捨てた。
「くそ、仕事になりゃしねえ」
悪態を吐く。普段だったら水野谷からお小言が飛んできそうなものだが。さすがの彼もおとなしい。
蒼が入院してからというもの、やはり一人が抜ける穴は大きい。連日の雪のおかげで雪かき作業も入り、みんな疲弊している様子が見て取れた。
「関口、大丈夫でしょうか。ここのところ顔も見ませんけど」
目の前でスマホをいじっている吉田も大きくため息を吐いた。
「関口のライバルたちの情報を検索すればするほど不安になりますよ」
「余計な知恵回してんじゃねーよ。お前が心配してどうすんだ」
「だけど……やっぱり気になるじゃないですか。——この子。宮内って。東京の明星オケに所属しているんですけど、昨年度、隣の県のコンクールで優勝してますよ。ああ、大丈夫かな。ねえ、星野さん。おれ、心配ですよ~」
半分泣きそうな吉田を見て、星野はたしなめることもできない。正直に言うと自分も不安だからだ。
午前中、会場の手伝いに駆り出されていた尾形が昼になって帰ってきた。
「すっごい緊張感ですよ。ビリビリって。いや。舐めてましたよ。星野一郎のコンクールだから、なんて。どうせ田舎のでしょう? って。本格的ですよ」
星野はため息を吐いた。血族である自分たちは曾祖父に対してとんと無頓着に暮らしているというのに、周囲は放っておいてはくれない。
星野の父の従兄弟が代表になって星野一郎を扱った財団法人を立ち上げたのだ。星音堂の敷地内にある星野一郎記念館は、市の管轄だが、行く行くはその法人に指定管理をさせる気なのだろうと星野は見ている。
「出る奴にとったら人生の分かれ道になるかも知れねえからな」
「今回はすごい力の入れようだもんね。賞金、二百万でしょう? すごいよねえ」
氏家と高田も話し合う。今日明日は週末だが全員出勤だ。いくら財団法人主催とはいえ、星野一郎のお祭りだ。市役所として関わらないわけにはいかなかったのだ。
「二百万もいいけど、優勝するとリサイタルが開けるんだ。そっちのほうが音楽家にとったら魅力的ではないだろうかね」
水野谷もすっかり仕事をするつもりはないらしい。盆栽を弄りながら一緒になって関口の心配をしているようだった。
「それにしても蒼の奴。遅えなあ」
星野は時計を見る。
「関口の出番は後ろのほうですから、そう焦らなくても」
尾形の言葉に返答をせずに星野は外を見つめる。
——早くしろよ。ノロマ蒼。
***
「じゃあ、いってきます」
相棒を肩に担いで関口はバー・ラプソディの外にいた。目の前には桜と野木。二人は関口をじっと見つめていた。
「聴きに来てくれないんですか」
関口の問いに、二人は「はあ?」とバカにしたような笑みを浮かべた。
「おい。おれらにちゃんと聴きに来て欲しいなら、もっと腕上げろよ」
野木の言葉に桜も笑う。
「本当だよ。こっちはこれから店あるからね。忙しいんだよ。ヴァイオリン弾きもいないしね。しけた夜になりそうだ」
「でも」
「さっさとお行きよ。そういうぐずぐずした男は嫌いだよ」
「わかりました。じゃあ」
「ああ。——あのさ」
桜はふと声色を代えて関口を見た。
「あんた、全然かっこよくないんだからさ。いつもの出来損ないのままやっておいで」
バカにしたような笑みだが、桜の瞳は優しい。野木も隣でいつもとは違った緊張の色を浮かべている。関口は苦笑した。
「わかりました。野木さんたちの前で弾くみたいにやってくればいいんでしょう? 了解です。あ、そうだ。桜さん。僕が優勝したら、なんでヴァイオリンやめたか教えてくださいよ」
「はあ? そんなの優勝くらいじゃ足りないよ!」
半分蹴りを入れられながら関口は走り出す。
——行ける。気持ちが軽い。
雪の残る道を、星音堂に向けて——。
0
お気に入りに追加
11
あなたにおすすめの小説
護堂先生と神様のごはん
栗槙ひので
キャラ文芸
亡くなった叔父の家を譲り受ける事になった、中学校教師の護堂夏也は、山間の町の古い日本家屋に引っ越して来た。静かな一人暮らしが始まるはずが、引っ越して来たその日から、食いしん坊でへんてこな神様と一緒に暮らす事になる。
気づけば、他にも風変わりな神様や妖怪まで現れて……。
季節を通して巡り合う、神様や妖怪達と織り成す、ちょっと風変わりな日々。お腹も心もほっこり温まる、ほのぼの田舎暮らし奇譚。
2019.10.8 エブリスタ 現代ファンタジー日別ランキング一位獲得
2019.10.29 エブリスタ 現代ファンタジー月別ランキング一位獲得
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
45歳のおっさん、異世界召喚に巻き込まれる
よっしぃ
ファンタジー
2月26日から29日現在まで4日間、アルファポリスのファンタジー部門1位達成!感謝です!
小説家になろうでも10位獲得しました!
そして、カクヨムでもランクイン中です!
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
スキルを強奪する為に異世界召喚を実行した欲望まみれの権力者から逃げるおっさん。
いつものように電車通勤をしていたわけだが、気が付けばまさかの異世界召喚に巻き込まれる。
欲望者から逃げ切って反撃をするか、隠れて地味に暮らすか・・・・
●●●●●●●●●●●●●●●
小説家になろうで執筆中の作品です。
アルファポリス、、カクヨムでも公開中です。
現在見直し作業中です。
変換ミス、打ちミス等が多い作品です。申し訳ありません。
【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。
三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎
長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!?
しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。
ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。
といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。
とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない!
フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!
我が家の家庭内順位は姫、犬、おっさんの順の様だがおかしい俺は家主だぞそんなの絶対に認めないからそんな目で俺を見るな
ミドリ
キャラ文芸
【奨励賞受賞作品です】
少し昔の下北沢を舞台に繰り広げられるおっさんが妖の闘争に巻き込まれる現代ファンタジー。
次々と増える居候におっさんの財布はいつまで耐えられるのか。
姫様に喋る犬、白蛇にイケメンまで来てしまって部屋はもうぎゅうぎゅう。
笑いあり涙ありのほのぼの時折ドキドキ溺愛ストーリー。ただのおっさん、三種の神器を手にバトルだって体に鞭打って頑張ります。
なろう・ノベプラ・カクヨムにて掲載中
真夜中の仕出し屋さん~料理上手な狛犬様と暮らすことになりました~
椿蛍
キャラ文芸
「結婚するか、化け物屋敷を管理するか」
仕事を辞めた私に、父は二つの選択肢を迫った。
料亭『吉浪』に働いて六年。
挫折し、料理を作れなくなってしまった――
結婚を断り、私が選んだのは、化け物屋敷と父が呼ぶ、亡くなった祖父の家へ行くことだった。
祖父が亡くなって、店は閉まっているはずだったけれど、なぜか店は開いていて――
初出:2024.5.10~
※他サイト様に投稿したものを大幅改稿しております。
狼神様と生贄の唄巫女 虐げられた盲目の少女は、獣の神に愛される
茶柱まちこ
キャラ文芸
雪深い農村で育った少女・すずは、赤子のころにかけられた呪いによって盲目となり、姉や村人たちに虐いたげられる日々を送っていた。
ある日、すずは村人たちに騙されて生贄にされ、雪山の神社に閉じ込められてしまう。失意の中、絶命寸前の彼女を救ったのは、狼と人間を掛け合わせたような姿の男──村人たちが崇める守護神・大神だった。
呪いを解く代わりに大神のもとで働くことになったすずは、大神やあやかしたちの優しさに触れ、幸せを知っていく──。
神様と盲目少女が紡ぐ、和風恋愛幻想譚。
(旧題:『大神様のお気に入り』)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる