地方公務員になってみたら、配属されたのは流刑地と呼ばれる音楽ホールでした。

雪うさこ

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無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータ 第一番

第7話 無伴奏ヴァイオリンソナタ

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 無伴奏ヴァイオリンソナタ 第一番。バッハは独奏のための六曲のソナタを残している。この楽曲は他とは違いピアノやチェンバロとの重奏ではない。そのため改めて「無伴奏」とういう冠がつく。

 バッハは旋律楽器であるヴァイオリンの魅力を十二分に弾き出すために可能な限りのあらゆる和音を要求した。そして不可能に見えるほどの対位法たいいほう(複数声部の旋律を、そのそれぞれが等しく独立性を保つように書く技法)も入れ込んだ。 

 さらに疑似複ぎじふく音楽という一見、単旋律たんせんりつに見せてその実、対位法であるという技法も含まれる。 

 そう——バッハはこの無伴奏ソナタに様々な技法を取り込むことで豊かな響きを実現し、他の楽器の助けを必要としない曲を仕上げたのだ。バッハ以前にもそういった試みは行われてきたが、彼がそれを精巧に完成させたのである。 
 
 バッハの音楽は、弾きようによっては誰でも弾ける。腕さえあれば——だ。しかし、その難しさは、曲の理解、表現力。 他のどの作曲家の作品よりも人間性が露呈する点だった。 

 結局。あおはギリギリまで入院だった。当日の午前中。退院した足で会場に来てくれるという話だった。 

 ——それでいい。 

 朝。ラプソディに行くといつもは午後からしか開いていない扉が開いた。 

「入りな」 

 桜は険しい表情で関口を迎えてくれる。 

「最後のレッスンつけてやるよ」 

「お願いします」 

 冬晴れの寒い朝だった。 

 
***


「ああ、なんか落ち着きませんね~……」 

 星野はコンクールのパンフレットを眺める。録音審査を経て本戦に残った奏者たちが審査員の目の前で演奏を繰り広げる。 

 午前中はピアノ部門。午後からがヴァイオリン部門。そして明日の午前中に声楽部門の予定だ。 

 各部門、最終選考メンバーの数はばらつきはあるものの、どの部門も十五名程度。 
 メンバーのメンツを眺めると、どこかのコンクールで成績を残している者もいる。 

 ——大丈夫だってわかっていても……心配になるもんだよな。ハラハラさせてくれるよな。

 星野は押し黙ったままそれをデスクの上に投げ捨てた。 

「くそ、仕事になりゃしねえ」 

 悪態を吐く。普段だったら水野谷からお小言が飛んできそうなものだが。さすがの彼もおとなしい。 
 
 蒼が入院してからというもの、やはり一人が抜ける穴は大きい。連日の雪のおかげで雪かき作業も入り、みんな疲弊している様子が見て取れた。 

「関口、大丈夫でしょうか。ここのところ顔も見ませんけど」 

 目の前でスマホをいじっている吉田も大きくため息を吐いた。 

「関口のライバルたちの情報を検索すればするほど不安になりますよ」 

「余計な知恵回してんじゃねーよ。お前が心配してどうすんだ」 

「だけど……やっぱり気になるじゃないですか。——この子。宮内って。東京の明星みょうじょうオケに所属しているんですけど、昨年度、隣の県のコンクールで優勝してますよ。ああ、大丈夫かな。ねえ、星野さん。おれ、心配ですよ~」 

 半分泣きそうな吉田を見て、星野はたしなめることもできない。正直に言うと自分も不安だからだ。 

 午前中、会場の手伝いに駆り出されていた尾形が昼になって帰ってきた。 

「すっごい緊張感ですよ。ビリビリって。いや。舐めてましたよ。星野一郎のコンクールだから、なんて。どうせ田舎のでしょう? って。本格的ですよ」 

 星野はため息を吐いた。血族である自分たちは曾祖父そうそふに対してとんと無頓着に暮らしているというのに、周囲は放っておいてはくれない。
 
 星野の父の従兄弟が代表になって星野一郎を扱った財団法人を立ち上げたのだ。星音堂せいおんどうの敷地内にある星野一郎記念館は、市の管轄だが、行く行くはその法人に指定管理をさせる気なのだろうと星野は見ている。 

「出る奴にとったら人生の分かれ道になるかも知れねえからな」 

「今回はすごい力の入れようだもんね。賞金、二百万でしょう? すごいよねえ」 

 氏家と高田も話し合う。今日明日は週末だが全員出勤だ。いくら財団法人主催とはいえ、星野一郎のお祭りだ。市役所として関わらないわけにはいかなかったのだ。 

「二百万もいいけど、優勝するとリサイタルが開けるんだ。そっちのほうが音楽家にとったら魅力的ではないだろうかね」 

 水野谷もすっかり仕事をするつもりはないらしい。盆栽を弄りながら一緒になって関口の心配をしているようだった。 

「それにしても蒼の奴。遅えなあ」 

 星野は時計を見る。 

「関口の出番は後ろのほうですから、そう焦らなくても」 

 尾形の言葉に返答をせずに星野は外を見つめる。 

 ——早くしろよ。ノロマ蒼。 

 
***


「じゃあ、いってきます」 

 相棒を肩に担いで関口はバー・ラプソディの外にいた。目の前には桜と野木。二人は関口をじっと見つめていた。 

「聴きに来てくれないんですか」 

 関口の問いに、二人は「はあ?」とバカにしたような笑みを浮かべた。 

「おい。おれらにちゃんと聴きに来て欲しいなら、もっと腕上げろよ」 

 野木の言葉に桜も笑う。 

「本当だよ。こっちはこれから店あるからね。忙しいんだよ。ヴァイオリン弾きもいないしね。しけた夜になりそうだ」 

「でも」 

「さっさとお行きよ。そういうぐずぐずした男は嫌いだよ」 

「わかりました。じゃあ」 

「ああ。——あのさ」 

 桜はふと声色を代えて関口を見た。 

「あんた、全然かっこよくないんだからさ。いつもの出来損ないのままやっておいで」 

 バカにしたような笑みだが、桜の瞳は優しい。野木も隣でいつもとは違った緊張の色を浮かべている。関口は苦笑した。 

「わかりました。野木さんたちの前で弾くみたいにやってくればいいんでしょう? 了解です。あ、そうだ。桜さん。僕が優勝したら、なんでヴァイオリンやめたか教えてくださいよ」 

「はあ? そんなの優勝くらいじゃ足りないよ!」 

 半分蹴りを入れられながら関口は走り出す。 

 ——行ける。気持ちが軽い。 

 雪の残る道を、星音堂せいおんどうに向けて——。 


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