地方公務員になってみたら、配属されたのは流刑地と呼ばれる音楽ホールでした。

雪うさこ

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無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータ 第一番

第3話 蒼のいない夜

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 自宅に帰ってから、防音室で練習に取り組んでいた。この部屋に入ると時間の感覚が麻痺する。体内時計など当てにならないのだ。頼りになるのは棚に置かれた時計のみだ。 

 桜の言いたいことがわかならない。技術面は口出しをしてこないので、合格点なのだろうと想像する。後は曲想。——どう演奏するか、だ。 

「くそ」 

 思うようではない。Dデー(レ)の音が三つ並んでいる。その単純な旋律がことさら難しい。いろいろな音色で試してみるものの、しっくりこないのだ。ため息を吐いて半分諦めの気持ちになると集中力は切れた。ふと時計に視線をやると夜の九時を回っていた。 

「もう、こんな時間か」 

 今日は自宅にいるのだ。夕飯くらいは作らないと——と思い、台所に向かう。古い日本家屋の冬は寒い。祖父母がいた時は良かった。 

 いつも居間のこたつで楽譜を広げていた祖父。割烹着を付けて和装がトレードマークだった祖母。少々腰が曲がっているのに、せっせと仕事をする働き者だった。 

 関口の祖父は高校で音楽の指導をしていた。主は管弦楽。それを見て育った圭一郎は当然の如く音楽の道を突き進んだ。 

 祖母はピアノの講師だった。優しい人で、近所の子供たちを集めてレッスンをしていた。 

 二人とも信仰心厚く、日曜日になると教会に足を運んでいた。関口も何度も一緒に連れていかれていたおかげで、教会で取り扱う讃美歌は童謡のように馴染んでいたのだ。 

 祖母が愛用していた台所の灯油ストーブに火を入れ、それからなにを作ろうかと思案していると、帰宅してから置きっぱなしになっていたスマホに目が留まった。 

 練習をしている間は、スマホは持ち込まない。気が散るからだ。何気なしにそれを取り上げると、メッセージが二つ来ていた。 

 一つ目は有田からだ。父親からなにか頼まれたのだろう。見る気になれないが、真面目そうな、それでいてどこか自分のことを心配気に見つめる有田の顔を思い出した。 

 彼は音楽雑誌の出版会社に勤めていたのに、圭一郎にスカウトされて引き抜かれようだ。有田をもらい受ける代わりに、その会社の取材は優先的に受けるなどというふざけた取引をしたと聞いている。

 人身売買のように扱われた有田のことを考えると、息子として申し訳ない気持ちになるが、そんな状況でも、十年以上も圭一郎のサポートをしてくれている彼は、この仕事はまんざらでもないと思っているのだろうか——。 

「あいつ。バカなクセに、そういうところは無意識に計算高い」 

 多分、圭一郎はそう深く考えていないだろう。有田に頼めばなんとかしてくれる——くらいなのだろうが、関口にとったら彼の顔を立てようと思うと無碍にもできない。圭一郎がそこまで計算しているとは考えにくいが。 

『本戦までもう少しですね。ご両親ともに心配されております。時間がある時で結構なので、一度電話かメールを頂けませんか』 

 ——子供でもあるまいし。もういい大人だ。コンクール前に連絡を取り合うなんて無意味だ。結果だけ報告すればいいだろう? 

 「ち」と舌打ちをしてから、関口はもう一通のメッセージをタップする。自分に用事があってメッセージを寄越す人はそういない。迷惑メッセージかと思ったのだ。 

 しかし、メッセージを見て関口は目を疑った。 

「——え?」 

 スマホを取り上げてから、慌てて通話を押す。何度もコールは鳴るものの相手がそれに応えることはない。しかも留守番電話サービスのメッセージも流れてこない。 

「あいつ!」 

 妙に苛立つと指先が震えた。すぐに違うところに電話を掛ける。そこはさきほどとは違い、相手の声が響いてきた。 

『なんだよ~。こんな時間によお』 

 いつも不愛想な星野の声が聞こえた。 

「すみません。夜分に……あの。あおは?」 

『え~……。あいつ早退したけど? なに? まだ帰ってこねーの』 

「——え? 早退ってなんですか。今日は遅番って」 

『はあ? っつかさ。お前さ。一緒に住んでんのになにしてんの? 朝から調子悪そうだったぞ? 自分のことばっかりで、ちゃんとみてやってねーのかよ』 

 ——。 

 星野の言葉がぐっとくる。 

『ともかく、早退しちまってからのことは知らねーけどよ。まだ帰っていないってどういうことだよ? なんの連絡もない訳?』 

「いや——あの。蒼からメッセージが来ていたんです。迷惑かかるから、しばらく実家に帰りますって。だって、あんなに実家に行くの嫌がっていたんですよ?」 

『おれは蒼の実家のことは知らねーぞ。だけど、じゃあその通りに実家に行っているんじゃねーの? 電話してみろよ』 

「でも、繋がらなくて……」 

『ああ、もうよう! めんどくせえな。明日は出てくんだろう。そしたらとっちめておくから。今日はもう寝ろ!』 

 プツっと電話は切れる。関口は大きくため息を吐いた。 

「具合が悪いだって?」 

 関口は廊下に出ると、奥に歩いて行ってから蒼の寝泊まりをしていた部屋に入る。中は朝出ていった時のまま。実家に帰ると言っても、身の回りの物を持って行かないということがあるのだろうか?  しかも体調不良というのは……。 

 周囲を見渡していると、祖母が使っていた鏡台の上に置かれている白い薬袋やくたいを見つけた。くしゃくしゃになったその袋から薬を取り出すと、それは『気管支拡張剤』と書かれていた。 

 ——喘息持ちだと言っていたが……。そんなに体調悪かったなんて知らなかった。 

 なんだか自分のことで精いっぱいで、彼になんの配慮も出来ていなかったことが悔やまれる。 

「大丈夫なんだろうか」 

 とても練習など手につくような状況ではない。関口は襖を閉めて廊下に出た。 

 祖父母が死んでから一人だった。五月にここに来てから一人だった。別に寂しいとは思っていなかったのだが……。なんだか妙に居間の振り子時計の音が大きく聞こえる。

 蒼がいないこの家は広くて暗くて、寂しい気持ちにさせられた。 

 


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