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無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータ 第一番
第3話 悪霊退散
しおりを挟む「マエストロは、蛍くんの演奏を心待ちにされておりまして、すべての予定をキャンセルして来日いたしました。しかし、蛍くんに見つかると大事になりますからね。どうか彼に見つからないように配慮していただけないでしょうか」
市民オーケストラはまさに練習中なので、鉢合わせることはないと思うが、星野は念には念を入れてと、圭一郎と有田を会議室に通していた。
「市民オケのスケジュールは事前にお知らせいたしますよ」
「それは助かります」
有田は星野に頭を下げる。その様子を眺めている蒼を、圭一郎が眺める。先ほどからじっと見つめられていてほとほと困ってしまう。
「一緒に住んでいると聞いた。どうだ? どんな具合だ」
圭一郎の言葉に星野が「え?」と目を丸くした。秘密にしていたはずなのに。どうしてそのことを知っているのだろうか?
「え、えっと。はい。すみません。あの。居候させてもらっております。ご挨拶もせずに申し訳ありません」
「いやいや。居候ではないだろう? 蛍が養ってもらっているのだ。本当にすまないね。きちんとご挨拶しなければならないのは私のほうだ」
結婚前提の恋人と父親の会話みたいで首を傾げたくなるが仕方がない。それよりもなによりも、星野の視線が痛い。
きっと「おれに内緒で勝手な真似しやがって」と怒っているに違いない。あとでネチネチと嫌味を言われるのが目に見えていた。
「ともかく。今晩はお帰りください。練習が終わりますよ」
星野が見た時計の針は夜の九時を指そうとしているところだ。
「九時なら君たちも終わりだろう? 蒼、ちょっと付き合わない?」
「え?」
「星野くん、いいでしょう? 蒼を借りても」
マエストロの依頼なら断れない——そういうところか。星野は「どうぞ」と両手を差し出した。なんだか人身売買された気分だ。蒼は困った顔をして星野に助けを求めるが、彼は「あきらめろ」という顔をしていた。
結局。蒼は圭一郎と有田に連れられて星音堂を出た。
「いいですね? くれぐれも蛍くんの邪魔をしてはいけませんよ?」
そう有田に念を押されて……。
***
「ただいま~……」
おずおずとガラス戸の玄関を開けると、そこには関口が立っていた。
「蒼、どこ行ってたの? 遅くない? 帰りに寄ったら先に帰ったって星野さんが言っていたのに……。こんな夜にどこ行っていたんだよ? 心配したんだから——」
腰に手を当てて少々怒り気味の関口は、蒼の後ろにいる男を見て顔をしかめた。
「あんた……っ」
「蛍! 元気そうだな! お父さんは嬉しいぞ!」
圭一郎はそう叫んだかと思うと、関口に抱き着いた。
「ええい! うざい! 離れろ。この変態野郎」
「お父さんに向かってなんてことを……!」
「誰が父親だ!」
関口は自分の父親を蹴飛ばしたが、針金のように細い圭一郎は、そう簡単にはよろめかない。見た目よりも体ができているということだろうか。
「蛍くん、乱暴はいけません。どんなに頭にきても、です」
大きくため息を吐いた有田は二人の仲裁に入った。初めてのことばかりでぽかんとしている蒼もはったとしてそれに加勢した。
「なんでこんな時に帰ってくるんだよ」
「それは、もちろん! お前の演奏を聴きたくてだな……」
「誰が聴かせるか! 蒼、こいつ、星音堂の出入り禁止にしてよ」
「でも、関口……」
「おお、なんて子だ。蒼にまで迷惑をかけるとは」
「蒼とか呼ぶなよ! お前が!」
関口は圭一郎を強引に押し出すと玄関を締めて鍵をかけた。
「おい! 蛍!」
「うるさい。近所迷惑だ。さっさと帰れ! 悪霊め!」
彼はそう言い放つと、台所から塩を持ち出して玄関にまいた。しばらく肩で息をしていた関口だが、ぽかんとしている蒼を見てバツの悪い顔をした。
「すまない。蒼。僕の父親だ。あいつに捕まっていたんだな。すまなかった」
「ううん。ううん。気にしていないよ。気にしない」
関口は大きく息を吐くと、なにも言わずに奥に入っていった。
「食事、台所にある。好きに食べて。悪いけど、僕寝るから」
彼はいつもよりも蒼白な顔色を浮かべ、そのまま自室に入っていった。
「関口……」
父親との邂逅は関口にとったら好ましくないことなのだ。それは以前から周知のところではあるのだが……。玄関と奥を交互に見つめて、蒼は大きくため息を吐いた。
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