地方公務員になってみたら、配属されたのは流刑地と呼ばれる音楽ホールでした。

雪うさこ

文字の大きさ
上 下
53 / 94
独奏ヴァイオリンのための組曲 Op.123 Ⅳ chaconne

第1話 暗闇の中

しおりを挟む



けいくん、御変わりありませんか』 

 ハキハキと歯切れのよい声に「変わりませんよ」と答える。受話器の向こうの男は苦笑いをしているようだった。 

『そう邪見にしないでください。心配しておられますから』 

「心配なんてしてもらう筋合いはないって言っておいてよ。有田ありたさん」 

『私が伝えられるわけないでしょう? そう伝えたいならご自分でお話されたらいかがでしょうか』 

「じゃあいいです。無視してくださいよ」 

 電話口の有田は軽くため息を吐いた。申し訳ないと思っている。彼は自分たちには関係のない人だ。

 第一、あの男が悪い。自分で連絡も寄越さないで、有田に代替えをさせているのだから。間に入っている彼が辛い立場にいることはわかってはいても、優しく対応できるはずもなかった。

『東京に戻ります。お時間取れませんか』 

「無理だよ。忙しいの。市民オケの定期演奏会、来週だから」 

『そうでしたか。——残念ですね』 

「僕はラッキーだ。悪いけど忙しいから。有田さん、いつもありがとうございます。有田さんには感謝しているんですよ。どうかをよろしく」 

 そう言うと関口は黒電話の受話器を置いた。「チン」と金属の音が鳴る。祖父母が使っていた電話だ。電話での通話が終わると一気に周囲は静まり返った。 

 嫌な気持ちになった。もやもやとした気持ちのまま、近くの座布団を引っ張り出して二つ折りにし、そこに頭をつけて横になった。 

「くそ。気分が悪い」 

 独り言で悪態を吐き、目を閉じる。視界が暗闇に閉ざされると思い出すのは熊谷あおという男のことだ。 

 熊谷蒼と出会ったのは、梅沢市に戻ってきて間もない頃だ。最初は彼を見ているとイライラして喧嘩腰になった。彼に自分と似ている部分を見出したからだった。 

 だが、蒼との時間を共有していくうちに、彼がいることで気持ちが軽くなるような気がした。

 正直に言うと、それは不思議な感覚だった。今まで他人に対してそういう感覚を覚えたことはない。 

 自分の周りにいる人間は、純粋に自分だけを見てくれてはいなかった。必ず『あの関口先生の息子』という前置きがつくのだ。
 
 元々、音楽の世界でしか生きてこなかった。そのおかげで、余計に父親の影響は絶大なのだ。

 嫌なら別な世界に進めばよかったのに。今更そんなこともできない。もうこの世界しか知らないからだ。

 臆病な男だと自責の念に駆られるが、それでもなお、この世界から離れることはできない人間だと自覚している。

 そんな半分諦めの気持ちを抱えたまま、ここに戻ってきた時に出会ったのが熊谷蒼だ。彼は音楽のことなんてひとつも知らない。
 だからこそ、等身大の関口と付き合ってくれる。変に飾らなくていい時間は、関口にとったら生まれて初めて感じる心地のいい時間だったのだ。

 歩んできた人生の中で背負い込んだ重たい荷物が少し軽くなる気がしたのだ。 

 今もそうだった。嫌なことがあった後、彼を思い出すのは、彼に少なからず依存しているようにも思われた。こんなことしたくないのに。

 自分は今まで一人で生きてきたのだ。自分の力で生きてきた。両親には世話になっていない。彼らに唯一世話になっているとしたら、生活をする基盤のお金の部分だけだ。 

 だが、頭のどこかではそれを否定する自分もいる。 

 ——こんな年になってまで一人立ちできない。僕よりも若いヴァイオリニストは世界に飛び出しているではないか。いつまでもアマチュアオーケストラでいいのか? プロのオーケストラの後ろに座っていていいのだろうか? ヴァイオリン教室の講師でいいのか? 

 どこに行ったって同じだ。コンクールで実績もないのだから。誰も相手になんかするわけがない。 

 ——いつまでもいつまでも。親の脛をかじって。一人立ちも出来ずに年ばかり重ねるつもりか——。 

 関口はいつも出口のないトンネルを歩いているようだった。先は見えない。光も見えない。自由に生きている蒼は、関口には眩しすぎた。 







しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

狼神様と生贄の唄巫女 虐げられた盲目の少女は、獣の神に愛される

茶柱まちこ
キャラ文芸
 雪深い農村で育った少女・すずは、赤子のころにかけられた呪いによって盲目となり、姉や村人たちに虐いたげられる日々を送っていた。  ある日、すずは村人たちに騙されて生贄にされ、雪山の神社に閉じ込められてしまう。失意の中、絶命寸前の彼女を救ったのは、狼と人間を掛け合わせたような姿の男──村人たちが崇める守護神・大神だった。  呪いを解く代わりに大神のもとで働くことになったすずは、大神やあやかしたちの優しさに触れ、幸せを知っていく──。  神様と盲目少女が紡ぐ、和風恋愛幻想譚。 (旧題:『大神様のお気に入り』)

真夜中の仕出し屋さん~料理上手な狛犬様と暮らすことになりました~

椿蛍
キャラ文芸
「結婚するか、化け物屋敷を管理するか」 仕事を辞めた私に、父は二つの選択肢を迫った。 料亭『吉浪』に働いて六年。 挫折し、料理を作れなくなってしまった―― 結婚を断り、私が選んだのは、化け物屋敷と父が呼ぶ、亡くなった祖父の家へ行くことだった。 祖父が亡くなって、店は閉まっているはずだったけれど、なぜか店は開いていて―― 初出:2024.5.10~ ※他サイト様に投稿したものを大幅改稿しております。

欲張ってチートスキル貰いすぎたらステータスを全部0にされてしまったので最弱から最強&ハーレム目指します

ゆさま
ファンタジー
チートスキルを授けてくれる女神様が出てくるまで最短最速です。(多分) HP1 全ステータス0から這い上がる! 可愛い女の子の挿絵多めです!! カクヨムにて公開したものを手直しして投稿しています。

小さなパン屋の恋物語

あさの紅茶
ライト文芸
住宅地にひっそりと佇む小さなパン屋さん。 毎日美味しいパンを心を込めて焼いている。 一人でお店を切り盛りしてがむしゃらに働いている、そんな毎日に何の疑問も感じていなかった。 いつもの日常。 いつものルーチンワーク。 ◆小さなパン屋minamiのオーナー◆ 南部琴葉(ナンブコトハ) 25 早瀬設計事務所の御曹司にして若き副社長。 自分の仕事に誇りを持ち、建築士としてもバリバリ働く。 この先もずっと仕事人間なんだろう。 別にそれで構わない。 そんな風に思っていた。 ◆早瀬設計事務所 副社長◆ 早瀬雄大(ハヤセユウダイ) 27 二人の出会いはたったひとつのパンだった。 ********** 作中に出てきます三浦杏奈のスピンオフ【そんな恋もありかなって。】もどうぞよろしくお願い致します。 ********** この作品は、他のサイトにも掲載しています。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

完結【真】ご都合主義で生きてます。-創生魔法で思った物を創り、現代知識を使い世界を変える-

ジェルミ
ファンタジー
魔法は5属性、無限収納のストレージ。 自分の望んだものを創れる『創生魔法』が使える者が現れたら。 28歳でこの世を去った佐藤は、異世界の女神により転移を誘われる。 そして女神が授けたのは、想像した事を実現できる創生魔法だった。 安定した収入を得るために創生魔法を使い生産チートを目指す。 いずれは働かず、寝て暮らせる生活を目指して! この世界は無い物ばかり。 現代知識を使い生産チートを目指します。 ※カクヨム様にて1日PV数10,000超え、同時掲載しております。

【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。

三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎ 長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!? しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。 ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。 といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。 とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない! フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!

処理中です...