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独奏ヴァイオリンのための組曲 Op.123 Ⅳ chaconne
第1話 暗闇の中
しおりを挟む『蛍くん、御変わりありませんか』
ハキハキと歯切れのよい声に「変わりませんよ」と答える。受話器の向こうの男は苦笑いをしているようだった。
『そう邪見にしないでください。心配しておられますから』
「心配なんてしてもらう筋合いはないって言っておいてよ。有田さん」
『私が伝えられるわけないでしょう? そう伝えたいならご自分でお話されたらいかがでしょうか』
「じゃあいいです。無視してくださいよ」
電話口の有田は軽くため息を吐いた。申し訳ないと思っている。彼は自分たちには関係のない人だ。
第一、あの男が悪い。自分で連絡も寄越さないで、有田に代替えをさせているのだから。間に入っている彼が辛い立場にいることはわかってはいても、優しく対応できるはずもなかった。
『東京に戻ります。お時間取れませんか』
「無理だよ。忙しいの。市民オケの定期演奏会、来週だから」
『そうでしたか。——残念ですね』
「僕はラッキーだ。悪いけど忙しいから。有田さん、いつもありがとうございます。有田さんには感謝しているんですよ。どうかあいつをよろしく」
そう言うと関口は黒電話の受話器を置いた。「チン」と金属の音が鳴る。祖父母が使っていた電話だ。電話での通話が終わると一気に周囲は静まり返った。
嫌な気持ちになった。もやもやとした気持ちのまま、近くの座布団を引っ張り出して二つ折りにし、そこに頭をつけて横になった。
「くそ。気分が悪い」
独り言で悪態を吐き、目を閉じる。視界が暗闇に閉ざされると思い出すのは熊谷蒼という男のことだ。
熊谷蒼と出会ったのは、梅沢市に戻ってきて間もない頃だ。最初は彼を見ているとイライラして喧嘩腰になった。彼に自分と似ている部分を見出したからだった。
だが、蒼との時間を共有していくうちに、彼がいることで気持ちが軽くなるような気がした。
正直に言うと、それは不思議な感覚だった。今まで他人に対してそういう感覚を覚えたことはない。
自分の周りにいる人間は、純粋に自分だけを見てくれてはいなかった。必ず『あの関口先生の息子』という前置きがつくのだ。
元々、音楽の世界でしか生きてこなかった。そのおかげで、余計に父親の影響は絶大なのだ。
嫌なら別な世界に進めばよかったのに。今更そんなこともできない。もうこの世界しか知らないからだ。
臆病な男だと自責の念に駆られるが、それでもなお、この世界から離れることはできない人間だと自覚している。
そんな半分諦めの気持ちを抱えたまま、ここに戻ってきた時に出会ったのが熊谷蒼だ。彼は音楽のことなんてひとつも知らない。
だからこそ、等身大の関口と付き合ってくれる。変に飾らなくていい時間は、関口にとったら生まれて初めて感じる心地のいい時間だったのだ。
歩んできた人生の中で背負い込んだ重たい荷物が少し軽くなる気がしたのだ。
今もそうだった。嫌なことがあった後、彼を思い出すのは、彼に少なからず依存しているようにも思われた。こんなことしたくないのに。
自分は今まで一人で生きてきたのだ。自分の力で生きてきた。両親には世話になっていない。彼らに唯一世話になっているとしたら、生活をする基盤のお金の部分だけだ。
だが、頭のどこかではそれを否定する自分もいる。
——こんな年になってまで一人立ちできない。僕よりも若いヴァイオリニストは世界に飛び出しているではないか。いつまでもアマチュアオーケストラでいいのか? プロのオーケストラの後ろに座っていていいのだろうか? ヴァイオリン教室の講師でいいのか?
どこに行ったって同じだ。コンクールで実績もないのだから。誰も相手になんかするわけがない。
——いつまでもいつまでも。親の脛をかじって。一人立ちも出来ずに年ばかり重ねるつもりか——。
関口はいつも出口のないトンネルを歩いているようだった。先は見えない。光も見えない。自由に生きている蒼は、関口には眩しすぎた。
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