地方公務員になってみたら、配属されたのは流刑地と呼ばれる音楽ホールでした。

雪うさこ

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ダビデの詩篇歌集 SWV22-47

第4話 バー・ラプソディ

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 あおを連れてやってきたのは星音堂せいおんどうからは離れた街中のバーだった。まだ大学を卒業したばかりの蒼には早い場所かも知れないと思いつつ、扉の前に立つと案の定、彼は後ろでもぞもぞと落ち着かない様子だった。 

「お前、緊張してんの?」 

「し、しますよ。なんか、こう……いかがわしい気持ちになります」 

「いかがわしいってよぉ。どんなんだよ」 

 星野は苦笑する。紫色に光っている看板『バー・ラプソディ』を横目に、星野は木製の扉を開いた。 

 カランカランと小さい鐘の音が響き、煙草の匂いが鼻を突いた。 

「おっす! 星野ちゃん」 

 カウンターに座っている男はだるそうに右手を挙げた。ネクタイを緩め、よれよれのワイシャツは疲れ切ったサラリーマンの典型的な風貌だ。星野は見慣れた男の挨拶にほっとしてから店内に入っていった。 

「野木くん、どうもね」 

「なんだよ~。久しぶりじゃん! 新しい年度になってずっとこなかったじゃん」 

「公務員はね、新年度の始まりは忙しいんだよ」 

 星野は野木と呼ばれた男の隣に腰を下ろす。それから辺りをきょろきょろとしている蒼を呼びよせた。

「こっちだ。蒼!」 

「あ、はい!」 

「お~、お~。なんだよ。今日はかわい子ちゃん連れてきちゃってよ~」 

「熊谷蒼と申します」 

 蒼は礼儀正しく野木に頭を下げた。その様がなんだか微笑ましくて、星野は口元を緩めた。 

「なんだよー。威勢のいい子だな」 

「うちに入った新人だよ。可愛いだろう?」 

 『可愛い』を連発されて少々ばかにされている気がしなくもないという不可解な表情を見せた蒼は、星野の隣に腰を下ろした。するとカウンターの中にいた女性が他の客の相手を終えて星野たちの前にやってくる。 

 彼女は腰までの長い黒髪を無造作に伸ばしている。黒目がちな瞳はパッとしていて、一言でいうと『派手』。エキゾチック美人という形容詞が似合う容姿だった。店内は暖かいせいか、彼女は半袖のTシャツを着ていた。下は随分着古したジーンズだ。接客業の割に飾り気のない女性だった。 

「桜ねえさん。こいつ、うちの新人の……」 

「熊……」 

 再び自己紹介をしようとした蒼の言葉を遮って桜と呼ばれた女性は笑った。 

「あーあー。あっちまで聞こえていたよ。何度も自分の名前言うんじゃないよ。うるさい子ね」 

「……すみません」 

「ほらよ」 

 桜はシェイカーからグラスにブルーのカクテルを注いだ。 

「あおって言うんだろ? 名前」 

「はい」 

 人見知りの桜が、初めての客である蒼に気さくに話をするなんて意外だ、と星野は思った。 

 彼女はこの店の店主マスターである桜だ。星野がこの店に初めて足を踏み入れたのは三年前。懇意になった市民オーケストラ指揮者の柴田につられてやってきたのが始まりだった。

 柴田の話では、この店は梅沢市周辺で活動している音楽家たちのたまり場になっているという話しだった。 

 確かに、足しげく通うようになると、星音堂へも顔を出す音楽家たちを見かけた。星野はこの店で、様々な音楽家たちと懇意になり、広範囲で精密な音楽業界のネットワークを構築することに成功していたのだ。 

 星野が通い始めた頃には、すでにカウンターの一番奥はこの野木という男の特等席だった。彼は食品メーカーの営業マンで、音楽は全くの音痴という珍しい男だった。その野木がこの店の常連第一号というのも星野には面白い話でもあった。 

「この店、覚えておけよ。音楽家たちのたまり場だからな」 

 星野の説明に桜は不本意そうな顔をした。 

「たまり場ってなんだよ。お前、失礼だな」 

 星野よりもずっと若く見える彼女は、ぶっきらぼうにそう言い放つ。桜の特徴だ。この不愛想さ。こんなんでよく繁盛するものだと思うが……。 

「いいじゃねえか。姐さん。本当のことだし」 

 育ちの良さそうな蒼は目を白黒とさせていた。蒼は市内にある『熊谷医院』という老舗の病院の息子らしい。父親はもちろん医者だ。 

 先日、蒼に「お前は医者にならなかったのか」と聞いたところ「兄がなっているので大丈夫です」とだけ答えた。 

 いつもは朗らかな男だが、実家の話になると表情を曇らせたさまを見ると、触れて欲しくないのだなということがわかった。だから星野はそれ以降、蒼の実家のことには極力触れないようにしていた。

 人には触れて欲しくない過去が一つや二つあるものだからだ。 

「ほら見ろよ。グランドピアノあんだろ」 

 今日は珍しく空席になっているそこだが、普段は誰かが何かを演奏している。ここは、新人音楽家たちの度胸試しの場でもあるのだ。 

 ここにいる客たちは、どこの誰よりも耳が肥えているらしい。たまにへたくそな演奏をした者は、野次とブーイングの嵐を食らうことになるのだ。だが、裏を返せば、ここで認められれば、どこでも通用する腕前であるということだ。 

 どこからか噂を聞きつけるのか、そういった若者たちも集まって来る場所でもあるのだ。 

 蒼は首を傾げてからピアノの元に行き、それから急いで駆け戻って来る。 

「ほ、星野さん。す、スタンウェイ? 二千万円するピアノ?」 

 彼は顔を青くしていた。星野だって初めて見た時には、さすがに度肝を抜かれた。失礼だが、こんな古びたバーにある代物ではなかったからだ。 

「すげえだろう? まあ、フルコンの最上級モデルではないがよぉ。桜さん、教えてくれないんだよね。どこで手に入れたか。きっとすげえパトロンいるんだろう?」 

 星野は毎回そうやってカマをかけてみるのだが、桜が口を割ることはなかった。 

「勝手に想像しておけ」 

「はいはい」 

 星野の前に置かれた水割りの氷が音を立てる。 

 隣で様子を見ていた野木は頬杖をついて星野に声をかけた。 

「なんだか元気ないんじゃん。星野ちゃん。どうした?」 

「え——やっぱりわかる? 野木くん」 

「わかるわかる。おれたちマブダチじゃん」 

「ま、マブダチってなんですか?」 

 ふと蒼が口を挟んだ。野木はがははと笑った。 

「いや。若い子にはわからんさ」 

「秘密の関係ですか」 

 蒼は星野と野木を訝しむように眺めた。 





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