地方公務員になってみたら、配属されたのは流刑地と呼ばれる音楽ホールでした。

雪うさこ

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Stabat Mater

第10話 暴かれる過去

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「血の繋がらない父です。梅沢うめざわに戻ってきたのに、あまりに実家に寄りつかないものですから、心配して会いに来てくれたんだと思います。あの人、医者で……。おれ、子どものころから喘息持ちで、成長するにつれて落ち着いていたんですけど、大学になってから発作がぶり返していて……それを心配してくれるんです。でもおれには迷惑で」 

 あおの話を関口は黙って聞いていた。その時間は蒼にとって悪くはない。よくわかりもしない人に変に相槌を打たれても上辺だけな気がするからだ。
 じっと押し黙って聞いてくれている彼の態度は、蒼にとったら落ち着ける環境であった。 

「嫌いじゃないんですよ。本当にいい人なんです。母はおれが小さい頃に入院してしまって。それからずっと帰ってきません。母がいないのに、あの人は実の子供と同じように大事にしてくれたんです。だけど、おれにはそれが辛かったんです。おれの勝手なへそ曲がりの可愛くない卑屈な感情の問題で……」 

「お母さまは今も?」 

「今も入院しています」 

「そんなに長く?」 

 彼の疑問は最もだ。ここまで話してしまうと引き返すことは出来ない。 

「精神科に入院しています。おれの本当の父がどこの人かわかりません。母がまだ若い頃にどこかの男との間にできた子みたいです。母はそのことで実家を勘当されて……夜の仕事をしながらおれを育ててくれました。そんな時にあの人と知り合って。最初は嬉しかったんです。お父さんって存在、おれ知らなかったから」 

 ——そう。あの時はそうだった。 

「もともと精神的に弱い人だったんだと思います。母は。老舗病院の院長にはふさわしくないと親戚の人たちからのバッシングにあって、結局、病んだんですよね。最後は自殺未遂、おれも巻き込まれて心中未遂事件に発展して、それっきり帰ってきませんよ」 

 ——ああ、言っちゃった。こんな話、誰にもしたことないのに。なんでだよ。本当に嫌になる。 

 蒼は右手を握りしめてひたいに当ててから、その手で自分の膝を叩いた。 

「すみませんでしたっ! もう大丈夫です。こんな暗い話するとは、自分でも驚きです。失礼しました!」 

 ——どうせ、もともと嫌いだし、嫌われてもいい相手だし。もういいじゃん……。 

 ともかく逃げたい。関口の反応なんておかまいなし。蒼は一秒でも早くそこから立ち去りたくて方向転換をした。 

「では、失礼いたします」 

 関口のテリトリーから離れたくて歩き出しているのに、体は前に進まないのはなぜだ? そう気が付いた時、彼の手が自分の腕を掴まえていることにやっと気が付いたのだ。 

 驚いて振り返ると、関口は真面目な顔をして蒼を見ていた。 

「お母さまとは会わないのか?」 

「な、なんでおれが会わなくてはいけないんです?」 

「どうして会わないのだと聞いているんだ」 

 いつもの人をからかうようなあっけらかんとした声色ではない。関口は声を潜め、真剣な瞳の色で蒼を見ていた。 

「どうしてって……」 

 蒼は体ごと振り向いて関口を見る。 

「だ、だって! なんで? なんでおれが会うの? 母さんはおれを殺そうとしたんだよ? おれなんていらない子なんだ。違う? ねえ、そうでしょう? おれはね。誰からも必要とされない子なんだよ。母さんが入院した後も親戚の人たちがみんな言っていた」 

『あの子のせいよ。あんなやせっぽっちのどこの馬の骨ともわからない男の子供でしょう?』 

 ——おれがいい子でいないから。母さんはみんなに陰口を叩かれておかしくなったんだ。 

 ずっとそう思ってきた。そう信じて疑わなかったのだ。だから母親には会えるはずなんてないのだ。 

 真っ赤に血塗られた手で蒼の腕を掴んだ母の感触が今でも忘れられない。恨めしい目で自分を見ていたのではないか? 怖くて怖くて、母親の顔を見られなかったのだ。

 父親が部屋に入ってきて、それから家政婦や看護師たちもやってきた。大人たちが何かを叫んでいた中で、血の海に母親は倒れていた。

 あれっきりだ。蒼の母親の記憶はあれが最後だ。

『蒼? そんな子知らないわ』 

 そんなことを言われたら生きていけない。現実がそうであっても——だ。 

「母さんは、おれを育てようとあの人と結婚したんだ。みんなおれのせいだ。おれさえいなければ、こんなことには……」 

 興奮してしまって視界がぼやけていることにも気が付かなかった。この自分がずっと抱えてきた思いを他人に話したことはない。いや、家族にだってしていない。生まれて初めてなのだ。一度口から出てしまった感情は容易に引っ込めることはできない。 

 母親と二人きりの生活は昔の話だ。自分も幼くて断片的な記憶しか残っていない。だが、覚えているのは匂いだ。 

 民間の夜間託児所に預けられていた蒼を迎えに来てくれた母親に背負われた時のあの匂い。プンとかすかに鼻をつくお酒と香水の混ざり合った香りを嗅ぐと、蒼は幸せだった。 

 ——お母さん。 

 蒼はあれで十分だった。あれ以上の幸せなんて求めていなかったのだ。なのに……。結婚した後の母親はいつも暗い顔色で、笑顔は滅多に見ることができなかった。 

 いつもギラギラと光る瞳で蒼を見ていた。いや、見ているというよりは監視だ。蒼が粗相をすると母親の評価につながった。親戚たちの厳しい目は日に日に彼女を追い詰めたのだ。 

 気持ちがぎりぎりで堪えきれないと思った瞬間。腕を掴まれていたことに気が付いた。関口が蒼の腕を掴んでいる手に力を入れたのだ。ぎゅっと固く握られたその感触に、ふと現実に引き戻される。ぼんやりとしていた世界が鮮明になると、関口という男がそこにはいた。 

「あ——あの」 

「いいんだ。全て吐き出せばいい。あなたのことを僕は知らない。いいじゃないですか。どうせ僕たちはなんの接点もないんだ」 

 ——そうだ。この人に話したところで利害関係もなにもあるわけではない。どう思われようと関係ないんだ……。 

 そんな安堵感が全身を襲った時。言葉はもう出ない。口を開けば嗚咽しか吐き出せなかった。 

 
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