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Stabat Mater
第5話 本質を見抜く男
しおりを挟む翌日——昨晩の出来事は氏家の口から報告され、蒼は水野谷から口頭での厳重注意を受けた。
「まあ、喧嘩両成敗なんだけどね。関口のことは咎められないしなあ」と水野谷はぼやいていた。それからシフトを組み替えられた。市民オーケストラの練習日である火、木曜日の遅番は全て外された。関口と顔を合わせずに済むというのは、蒼とったら幸いなことであった。
だが蒼の気持ちが晴れることはない。言われた当初はその言葉で傷ついていたが、こうして時間が経過するにつれ、自分の不甲斐なさや、自分の考え方が正しいのかと疑念が湧いてくるからだ。
しかしそれらの問いに明確な返答があるはずもない。星野や吉田が気を遣って夕飯に誘ってくれるのだが、どうにも行く気にはならずに、職場とアパートとの往復を繰り返していたのだった。
木曜日。市民オーケストラの練習日だ。星野から鉢合わせする前に帰れと言われて自転車置き場に出た。別に誰からもメールや着信があるわけではないが、勤務中に確認できなかったスマホを取り出す。これは日課みたいなものだ。意味もないことなのだが、通例行為はやめられない。しかし、今日は違っていた。
父親——いや、義父からメールが入っていたのだ。
『明日は海の誕生日で……』と待ち受けのところにメッセージが表示されている。
——そうか。明日は母さんの誕生日。
蒼はメールを開いた。いつもなら読みたくもなく、目を瞑ってゴミ箱行きなのだが。
『明日は海の誕生日です。蒼は元気ですか? ちっとも顔を見せてくれないので心配しています。喘息の発作は落ち着いていますか? もしよかったら明日の夜、帰ってきませんか』
義父からのメールはそうなっていた。目尻に皺を寄せて笑う優しげな彼の顔が浮かぶ。それから母親の顔を思い出そうとするが、どこかぼんやりとしていて曖昧だった。
彼女の顔を思い出せない罪悪感に心がざわざわとした。
——やっぱり見るんじゃなかった。
開封してしまったからには、相手にも通知がされるに違いない。無視を決め込むわけにもいかず、蒼は返信をした。
明日は遅番だ。遅番でなくともいくつもりはないが、ちょうどいい言い訳が立つことに安堵している自分に気が付かないふりをした。
メールを送信し、ほっと息を吐いてから自転車の鍵を解錠した。
——帰ろう。
自転車のハンドルを握り歩き出そうとした時。蒼を見ている視線に気がついて顔を上げた。そこには会いたくもない人物、関口が立っていたのだ。
市民オーケストラの練習にやってきたところなのだろうか? たまたまの鉢合わせ? なら自分のことを無視でもしたらいいのではないか。
しかし彼は蒼を凝視していた。謝罪の一言でもするつもりか? そんな甘いことを考えている自分がバカらしくなった時。彼は蒼に向かって口を開いた。
「謝りませんよ。僕は間違っていない。本当のことを言ったまでだ」
——ああ、やっぱり。予想通り? と言うべきだな。
「あなたがなんらかの処分を受けたとしたって、僕は関係ないんだ」
だが蒼は気がついた。冷静になって考えてみるとだ。 彼はどうして自分にそう突っかかってくるのだろうかと。
「じゃあ、なぜおれに声をかけるんですか?」
蒼の問いに眼鏡の奥の聡明な瞳は揺らぐ。
——図星?
「関係ないならおれのことなんて構う必要もないじゃないですか。ドイツに留学するほどヴァイオリンの腕がいいんでしょう? 市民オーケストラのコンサートマスターなんでしょう? なら、こんな一職員のことになど心動かす必要はないはずだ」
「減らず口ばかり」
蒼のほうが頭の回転が悪いことは自覚している。だが、今回ばかりは自分のほうが主導権を握っているということも同時に理解していた。蒼は口を閉ざした関口を見据えた。
「しかし、そうさせているのは関口だ。おれはどちらかと言えば誰にでも友好的な人間なんですよ」
蒼の言葉に関口は反応を示す。
「友好的な自分を演じていると自覚しているのだろう? 人の良さそうな顔をして、本心は腹黒そうだ。僕はそこを嗅ぎ取っているのですよ。あなたはいい顔をして、みんなを欺いている。僕はわかります。あなたの中には何かがある」
正直に言えば、関口の指摘は半分は当たっているのかも知れない。繊細な音楽家としてのセンサーは非常に精密なのだ。だから、関口は蒼の本質を見抜いたのだろう。
「腹黒ではありませんよ。ただ……ただ、人と相容れないだけです」
そうだ。昔からそう。自分の周りにはバリアが張り巡らされている。他人とは極度に親密になることを好まない。近しくなると離れたくなる。まさに磁石のS極とN極のような——反発が起こるだけなのだ。
だがそれは、別に周囲を騙しているわけではないのだ。それは蒼が大事にしていることだからだ。なのに関口はそこを悪と捉えるのか?
「それはおれの大事にしていることです。あなたにとやかく言われる筋合いはない」
蒼はそれだけ言うと、自転車に跨った。この男と会話をしたくないからだ。初対面でずけずけと自分の本質に触れようとしてくるこの男が嫌いだ。
「失礼します」
後ろから男がなにやら声をかけていたのだろうが、蒼はただまっすぐに自転車を走らせた。
自分がずっとひた隠しにしてきたところを引き当てられて、どうしたらいいのかわからない。ただ気分が悪かった。
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