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第一幕

06 口付け*

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「あちっ!」

 フライパンの縁に触れた指先を引っ込めてから、すぐに水道の水で冷やす。そんなことをしているうちに、焦げ臭い匂いが漂ってきて、慌ててガスコンロのボタンを押すが、すでに遅し。フライパンの中身は、真っ黒に仕上がっていた。

「あちゃ……またかよ」

 ガックリと項垂れていると、玄関から音がした。
 この残骸を隠さなくては……と思っていても、もう遅い。キッチンに顔を出した野原は、無表情で槇を眺めていた。

「焦げ臭い」

「な、気のせいだろう?」

「気のせいじゃないと思う」

 彼はそう述べてから、じっと槇の手元を見つめていた。

「失敗じゃないからな。これはおれの創作アレンジで……新作だぞ!」

 リアクションのない野原は、しばらくじっと槇を見つめたままだったが、ネクタイを緩めるのをやめて呟く。

「外に食べに行く」

「……だな。夕飯にはありつけないみたいだ」

 槇も諦めてフライパンを流しに突っ込み、エプロンを外した。

 ——あれからもう何年たつのだろう?

 生まれた時から一緒で35歳だから、35年間もこうして一緒にいることになるのだろうか。

 いやずっと一緒ではない。ある出来事が起こるまでは、少々距離が離れていた時期もあったのだが……。

「お菓子でもいいけど」

 そう呟く野原に槇は首を横に振った。

「おれはいやだ」

「あ、そう」

 今さっき帰ってきたばかりの野原を連れて、槇は玄関を締めた。

「遅かったじゃないか」

「新しい部署の仕事を早く覚えたい」

「文化課だろう? 大した仕事ないだろうに」

「そうでもない。結構忙しい」

「ふうん」

 エレベーターに乗り込むと、ふと野原が槇を見た。

「私設秘書なのに市役所のことよくわかってない」

「べ、別にいいの。おれは市長の政治家の顔を支える役目だから。公務は秘書課の奴らがやっているだろう? おれには関係ないんだから。無駄なことはしないの。面倒くさい」

 槇の返答に、野原はやや呆れ気味のため息を吐く。

「なんだよ。せつ

「別に。実篤さねあつらしいって思っただけ」

「おれらしいって、なんだよ?」

 槇は野原に問うが、彼が返答することはない。彼の意識が仕事に向いているのが面白くない。
 後ろから腕をそっと回して、野原の腰を引き寄せた。

「実篤」

 不満気な声色をあげる野原だが、槇はお構いなしだ。

 ——だって、雪は、昔からおれのもの。

 彼の耳元に唇を寄せる。

「いじめてほしいって言ってるみたいだ」

「……意味がわからない」

「お前は自分の気持ちがわからないって言うけど、おれにはわかるよ。こうしていたいくせに」

 槇がそっと耳朶を噛むと、野原の体が強張る様が手にとるようにわかる。

「夕飯、やめるか」

「……でも」

 地下に駐車場に向かっていたエレベーターだが、そのまま十二階のボタンを押す。

「我慢できない」

 更に引き寄せて耳孔に舌を差し入れる。冷えている野原の耳は舌触りがいい。

 槇の腕にしがみつく野原の手の力がこめられるのを感じるだけで興奮した。

「こんなところで。部屋に戻るんだから、待って」

「待てないからしてんじゃん」

 後ろから抱き抱えるような姿勢で、野原の顔は見えないが、目元が赤くなっているのはよくわかる。

「早く戻ろう」

 一度、地下に着いたエレベーターは誰も迎え入れることなく、折り返して上昇する。一つ一つ順番に点灯していくボタンを見つめてながら、だれかが乗ってくるのではないかと思うと余計に気分が高まる。
 時限爆弾が時を刻むかのように動悸が激しくなった。

「……っ」

 それでも野原を味わうことはやめたくない。執拗に左の耳を嬲る。耳の輪郭を舐め上げ、甘噛みした。

「実篤……ッ」

 きっと泣きそうな顔になっているに違いない。振り向かせて口付けを交わしたいが、十二階に到着を告げるチャイムが鳴った。

「お遊びは終わりだな」

 腰に回した腕で半分抱え上げるように野原を連れ出し、自宅の扉のロックを解除した。

 乱暴に押し込めるようになだれ込んだ玄関先で、壁に押しつけて唇を重ねた。耳を弄んだだけで上気した目元が仄かに赤らんでいるのがいい。

 ざらついた舌の感触を確かめるかのように、執拗に絡ませて舐め回す。
 大きく開いた口元からは唾液が溢れ出した。

「……んっ、は……んっ」

 鼻から抜けるような吐息は槇を興奮させるだけだ。
 力なく握られるスーツの上からの感触を感じながら、息継ぎなどさせないかの如く口内を犯した。

 ——ほら、夕飯よりいいくせに。おれはおまえを食べてしまいたい。

 ドンドンと肩を叩かれたので、仕方なしに唇を離すと、彼は大きく肩で息を継いだ。

「……殺す気?」

「はは、それはいいかも。雪を殺して刑務所入るのも悪くない」

 少し下から寄越させる視線は不満そうだ。朱色に光る唇が槇の欲情を刺激する。

「そう怒るな。冗談だろ?」

「実篤の言うことは冗談に聞こえないから」

「そう? 雪はおれに黙って命預けられる?」

 そんなの、ノーに決まっているのに。野原は平然と答える。

「愚問——」

 差し伸べられた腕に誘われるように彼を掻き抱く。
 野原の匂いがする。
 野原の熱を感じる。

 槇の頬に添えられた手を握り締めながら再び深い口付けを交わす。

 槇には野原しかいない。
 野原には槇しかいない。

 そう槇は固く信じていた。



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