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第一章・角の生えた聖母
【第二節・角の生えた聖母】
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ペントラと酒場で別れ、汚れても問題ない茶色の革コートと地図・大きめの空き瓶・小さなスコップなどを入れた、肩さげ鞄を身に着けた私は、街から徒歩で一刻ほど離れた森林にいる。
そもそもここまで森林が深い場所に訪れること自体が初めてなのだが、舗装も整備も行き届いていない獣道が、これほどまでに歩きにくいものだとは想像もしなかった。
念のため、頭上の覆いかぶさるような木々の切れ間で一度立ち止まり、彼女に貰った地図と僅かに見える太陽の位置とを照らし合わせ、方角を確かめる。視界は木々しか捉えられられないが、地図の印はもうすぐそこである。
通り過ぎたのでは? とも道中考えたが、ここまで来る獣道は一本しかなく、ペントラも一本道だから迷うことはないと言っていた。【悪魔】である彼女の言葉を信じる【天使】という構図がなんとも滑稽で、まだ教会の狭い懺悔室に巨体を屈めて閉じこもり、他の【下級天使】を睨んでいるであろうニーズヘルグが聞いたら、怒りを通り越して笑いだすかもしれない。ただしその後私へ下される処分は考えないものとする。
森林に入って以降、虫の羽音が常に耳に付きまとうのを少し不愉快に思うようになった。
【受肉】で得た仮の肉体だが身体機能の大部分は【階級】に依存しており、私は【味覚】と【嗅覚】以外は一般的な人間と同じように機能している。欠落している五感に不便と思ったことはないが、【下級天使】は体力的労働には不向きであるという結論は嫌というほどよくわかった。そして帰りの道中も改めて考慮しなければならない。
***
払いきれない羽虫を諦め地図を鞄に戻し、黙々と進んで行くと景色に変化があった。森が開けた場所に出たのだ。
目前には整地された道と、石と木を素材に人為的に建てられたであろう赤茶色の尖った屋根の建物が七軒ほどぽつぽつと並んでいる。屋根には煙突が設置されており、うち数軒は白い煙が出ているのが見えた。
住人がいるのだろうか……いや、魔王関連だとしたら魔物か【悪魔】、もしくは更地にしたあと行方知れずとなった魔術師達か。
視線を建物から道に沿って上げると、そこには【天使】として信じ難い建造物が、小高い丘に二軒あった。
一軒は小さいながらも、石で造られた立派な城の形をした建造物。周囲には生垣と花の装飾が入った鉄柵が城を囲むように設置され、屋根は他の建物と同様に赤茶色の尖ったものであるが、外壁は白く、硝子窓があるのも見られた。鉄のみを素材に使ったであろう、重々しい鋼色の両開き門が城の出入り口であろうことは容易に想像できたが、門と屋根の形を除けば屋敷にも見なくもない。
違和感があるとすれば、素人目でも建築技術が明らかに周囲の建物や私の住む街の建造物より高等で、気味が悪いくらい色の白い外壁が目立つことぐらいか。
問題はもう一軒の方だった。屋根には同じく特徴的な尖った屋根と先端には鉄で作られた十字架が高々と掲げられ、石造りの外壁には着色と装飾のされた大きな硝子窓。扉こそ木と鉄のありふれたものであるが、職業柄見慣れてしまった【教会印】の入った青い旗が真横に掲げられており、間違いなく外観は私のよく知る教会そのものであった。
【天使】と教会は密接な関係で、知識や記憶になくても教会が感知範囲にあると存在を認識することができるのだが、森を抜けてここに足を踏み入れるまで私は一切存在を感知することができなかった。しかし【天使】としての本能が告げている。視線の先にある建造物は、信仰心のない無名の大工が見よう見真似で作ったものではなく、神官もしくは【上級天使】立会いの下で建築された教会であると。
視界に入る新鮮な情報量の多さに混乱しそうになるも瞼を閉じ、思考の整理するため一度深呼吸をする。外を出歩いている人影はない。
魔王が命を引き換えに残したものがここにあり、私はそれが何かを自分の目で確かめに来たのだ。卓越した建築技術や魔術を持っていたとしても不思議ではない。相手は魔王、人間でも【天使】でもないのだから。魔王が絡んでいるといったペントラの話が間違いでなければ、現国王である勇者、侵略戦争を勝利へ導いた【天使】であるルシも関係しているはず。当事者である二人、ましてや彼がこの場所を認知していないのはまずない。直接的な指示があったのだろうか? 魔王絡みの技術、もしくは人物をここに隠すようにと? では何故ペントラが知っている? 彼女も侵略戦争に参加していたと聞いてはいたが、勇者やルシと面識があったのだろうか……駄目だ、疑問を解けるだけの判断材料がまだ無い。
瞼を開く。そこには先ほど見た景色と何一つ変わらない建造物が立ち並んでいた。
***
一応、周囲を警戒しながら整地された道に沿ってゆっくりと歩く。相変わらず外を出歩く人影こそなかったが、例の小高い丘に辿り着くまで、左右に立ち並ぶ建物の様子をじっくりと見ることができた。
右手前から収穫や畑作業で使われるであろう一般的な農具が壁に掛けられ、束ねられた干し草が大量に積まれた小屋。
テラスにはテーブルと椅子が設置され屋内の出入口に扉がなく、奥にはカウンターと食器棚のある建物。
尖った屋根の先端に風見鶏が付けられ、今も煙突から白い煙が昇り続けている出入口に階段が設けられた高床式の家屋。
左には蔦がびっしりと外壁を覆いつくし、辛うじて窓や扉のある廃屋と見間違えそうな建物。
扉も窓もなく、しかし煙突からは煙が昇っている謎の建造物。
周りを生垣のように花壇で囲み、赤い薔薇が大量に咲いている薄桃色の外壁色の家屋。扉に私もよく知る【教会印】の刻印がされ、脇には小さな墓だろうか、十字架を模した石碑と白い花が添えられている建物……。
……さて、どこから手を付けたものか。人の気配のする家屋はいくつかあるが、今の自分の立ち位置が分からない以上、不用意に住人に近づいて接触を試みるのは危険かもしれない。あの二人が秘匿とした場所である。【天使】、人間のどちらの立場で振る舞うべきか? いや、相手によっては嘘が発覚した時の損害が大きすぎる。しかもあの教会に常駐の【天使】がいるのであれば不可能だ。間抜けなニーズヘルグ相手に口先だけで誤魔化すのと訳が違う。なら一度引き返すか? 明日にでもペントラに見たものを報告すれば何らかの返答は得られるだろう。幸い誰にも私の姿は見られていない。引き返す機会は――
「お客さんですか? 迷子ですか?」
「…………………………」
一瞬、思考が止まった。突然真横から聞こえた声に驚き、視線が正面から離せない。背中と額、手から冷汗が出るのを感じる。
人か? 子供の声にも聞こえた。確かに思考中は視野が狭くはなるが、警戒していたにも関わらず気配がしなかった。人ならば私を認知した瞬間、思考の読み取りが起こるはずである。
なんにせよ、向こうから私の存在を認知されてしまった。とりあえず私は隣にいる存在と向き合って話すことを決めた。
「もしもーし?」と子供……少女の声が再び聞こえる。
「……はい、なんでしょうか?」
震えそうになる声を抑えて、返事をしながら声の主に向き合う。
視線の先には頭部から角を二本生やした、にこやかに笑う少女がいた。背は私よりも頭一つ分小さく、紫の長い髪をかき分けて右片方が鋭利なもので切断されたような濃い赤色の角が、左は綺麗な同じ色の角が生えている。瞳の色は赤く、見覚えのある白いローブの下は質の良さそうな黒いベストとフリルの付いた白いシャツ、濃い赤のスカートに茶色のブーツが確認できた。右手には小さな十字架と聖書が一冊、しっかりと握られている。
「お兄さん。見たことのない人ですが、もしかして森で迷ってここに来ちゃったんですか?」
「あ……はい、森林で珍しい植物を採取するのが趣味でして……」
そう言いつつ、肩さげ鞄から空き瓶と小さなスコップを出して見せる。
森林で人間に接触することも考えて予め備えておいた品物だ。植物を土の入った大きめの空き瓶に植えて観賞用にする、居住区の戸口の脇にも飾られているのをよく目にしていた。無論、私にはそんな趣味は無い。
角の少女は空き瓶とスコップをまじまじと見ながら質問を続ける。
「へえー、お兄さんの住む場所ではこういうのが流行なんです?」
「どちらかと言えば個人の趣味に近いですね。空き瓶と植物を掘り返せるような道具があれば、誰でも手軽に楽しめますし」
「確かにそうですねぇ。でも森の植物の中には毒を持つ種類もありますから、採取する前に調べておいた方がいいですよ」
「ご忠告ありがとうございます。ところで、あなたはこの場所に住んでいる方ですか?」
鞄に空き瓶とスコップをしまいながらさり気なく尋ねる。彼女のまったりとした口調や態度から、明確な敵意もなさそうだ。
「あー、驚きましたよね? 森を抜けたら急にお城や教会、奇妙な家があるんですもん。ボクもあの蔦まみれの外観はどうかと思うんですよね……家主の趣味で生やしっぱなしにしてるそうですけど、雰囲気が暗くてどーも……」
角の少女は苦笑いをしながら、申し訳なさそうに左手人差し指で頬をかく。長くはないが、爪の色が赤いのが目についた。
人間ではない、魔物に近い種族かもしくは混合種なのかもしれない。角の形や特徴が、私の知る範囲での人間以外の種族と合致しないのだ。知性の高い魔物が集団で小さな社会を作り、国の目から隠れて生活する例はある。だが正式な教会を建てて聖書と十字架を持ち、祈るなど想像したこともなかった。
「教会でのお祈りが終わって外へ出てみたらお兄さんがいて、迷っちゃったのかなって声をかけたんです」
「ええ、私も困り果てていたところでした。ただ出歩いている方もいらっしゃいませんし……」
「今が畑の収穫期ですし、力仕事を任せられる方は留守にしてますから、静かなのはそのせいかと。いつもは賑やかなんですよ?」
「そうでしたか」と返しはしたが、ますますわからなくなってしまった。まるで小さな人間の集落そのものではないか。
「それはそうとお兄さん、森の中を歩いてきたのならお疲れでしょう。帰る前にボクの家で少し足を休めていきません? お茶と焼き菓子くらいは出せますよ」
角の少女は嬉しそうに私へ提案する。
久しぶりの来客に胸を弾ませているのか、または巣に連れ込んで取って食べるつもりなのだろうか……いや、後者ならばこの場で目の前の少女は牙をむき、瞬く間に私の身動きを封じて喉元へ爪を突き立てるなど造作のないことだろう。
それほどまでに【下級天使】の私は貧弱なのだ。本気で殺しに来られたら抵抗しようもない。提案を拒否し少女とこの場で別れて足早に帰る選択肢もあったが、このような形で住人と接触する機会が今後ここを訪れてあるとも考えにくい。なら私のとる選択は――
「よろしいのですか? ではお言葉に甘えさせていただきます」
「いえいえー、お客さんなんて久しぶりですし、ボクもお兄さんの住む場所の話とかも聞きたいですから」
***
角の少女に案内されたのは道の左右にあるどの建物でもなく、小さな城の前であった。
ローブの下に見えた身なりや言葉遣いで典型的な上流気質傾向が察せられたが、この場所の大元と思われる人物に、どこの誰とも知らない自分がすんなりともてなされるとは予想外である。何ができるわけでもないが、警戒するに越したことはない。
遠目で見て分かったように城の外壁は白い立派な石造り。門までの道は石畳で舗装され、敷地内の芝は綺麗に刈り揃えられている。生垣のそばの一角には花壇があり、品種が書かれているであろう二枚の小さな木製プレートも見えたが、最近植えたばかりなのだろうか、花壇の内側に花や植物は視認できない。鉄製の門は近くで見ると色調も相まってか重量感があり、縁が薔薇を模した装飾で囲まれ、引くために備え付けられた獅子の頭部を模した輪状の取っ手が生えていた。
「絵本に出てくるお城みたいでしょう、中はもっとすごいんですよ?」と角の少女は誇らしげな表情をしながら私に言う。
ああ、ペントラも似たような表情をよくしていたなと、少しだけ緊張が解ける。何度も見た本心から自分の品を自慢している顔だ、嘘ではないだろう。恐らく城の中が更にすごいといった言葉も。
石畳を歩き門前にまで来ると、角の少女は「少し待ってくださいね」と言ってローブの下から小さな鈴を出し、何度か鳴らす。するとガチリと内側から錠を外す重たい金属音が聴こえ、右手側の門が少しづつ開き始めた。
これほど重量感のある門だ、さぞ屈強な男が顔を覗かせるかと想像していたが期待は裏切られた。
「あ、お嬢おかえりなさいっすっ!!」
私と角の少女の頭上から拍子抜けな声で顔を覗かせたのは、額に角を生やした下縁眼鏡に黄色い瞳の褐色肌、栗色の髪を整髪用の油で丁寧に後ろへ纏め上げた男であった。
「ただいまローグメルクっ!! それと久しぶりにお客さんですっ!! お茶と焼き菓子準備しておいてくださいっ!!」
「おおっ!! そいつはめでたいっすねっ!! 準備出来次第客間にお邪魔しやすんで、先に客人と一緒にくつろいでてくだせぇっ!! あ、コートや聖書とかもお嬢の部屋に俺持って行くっすよ?」
角の少女と私は男が開けてくれた隙間から城内へ入る。
踏み入れた城内は外観で見た以上に広く感じた。壁の上半分は槐色の布地と思われる壁紙で、下半分は艶出しの施された装飾入りの木材がふんだんに使われており、床は玄関以外全面赤色の絨毯。左右には等間隔で鉄の装飾の入った木製扉と、真横の少し高い位置にランプが設置されている。それだけならまだ裕福な家として済むのだが、天井には光源になるものが一切見当たらないにもかかわらず、外よりも明るいことが妙に気になった。これも魔術の類だろうか?
下縁眼鏡の角男――ローグメルクと角の少女の方を見る。ちょうど彼女が脱いだローブと聖書や十字架を彼が受け取り、何やら笑いながら話しているところだった。
首には黒いスカーフ、黒のベストに白い長袖のシャツ、黒い長ズボン。執事のような格好の彼だがやはり黒い角と高身長が目立つ。もう一つ目についた特徴が彼は靴を履いておらず、両足が山羊のような蹄であることか。よく磨かれた革靴のように艶々とした黒い蹄で、器用に立っている。人間ではないのは確かだが、変に尋ねて不信感を買うよりも、角の少女と共に流れに身を任せた方が今はよいだろう。
「客人っ!!」と呼びながら私の方へ、コートや聖書を丁寧に抱えたローグメルクが歩いて近づいてきた。
「お嬢から話聞いたっすよ。森からここまで抜けるのは獣道っすから歩きなれてない人には辛かったと思うっすけど、足腰大丈夫っすか?」
「ええ、足裏が少々痛む程度ですが問題ありません。ご心配ありがとうございます」
「いえいえっ!! 自分、執事のローグメルクっすっ!! 何かあれば俺まで言ってくだせぇっ!! すっ飛んでいきやすんでっ!!」
彼ははにかみながら自己紹介をする。決して丁寧な言葉づかいではないが、細やかな気配りができる性格なのであろうという印象を受けた。
彼の後ろで角の少女はローグメルクが用意してくれてたであろう湯で湿らせた白い手拭きで手を拭いている。それを見てローグメルクは「あっ」と小さく言い、パチリと手の空いていた右手の親指と人差し指を擦り合わせて鳴らす。するとするりと白い布のような物が、彼の手の中に現れた。
それは角の少女が使っていた物と外見が同じ、白い手拭きであった。目の前で起こった現象に言葉を失っていると、ローグメルクが少し苦笑いしながら手に現れた手拭きを差し出す。
「すんません、客人分のお手拭きっす。即席で編んだ物なんですぐ消えちゃうっすけど、どうぞ使ってくだせぇ」
「……それは、魔術の類ですか? ……初めて見ました」
そう言いながら差し出された手拭きを私は受け取る。つい先ほど湯で湿らせたように暖かく湿っていた。質の良い布に感じたが、彼の手の中に突然現れたこと以外は全く妙な使用感もない。
「そうっすよ。あーと……【生成術】って言うんすかね。錬金とかそっちの分野と違って、その場にある魔力で想像した物が造れるんす。強度や実体時間は編むのに使った魔力の量にもよるっすけど、時間掛ければ客人の伸長と同じ銅像とかできるっすよ。へへへっ」
褒めてもらったと思ったのか、照れくさそうにローグメルクは言った。
……間違いなくここには何かがある。魔王が残した遺産はこの場所に住む彼らそのものか、技術かもしくは両方か。
興奮と緊張を感じてやや鼓動が高鳴るのを感じた瞬間、私の手に握られていた手拭きはするりと消え、湿った感触や暖かさもなくなった。
***
角の少女に通された客間も城内に入った時と同様、異様なまでに広く感じた。
壁の造りの下半分は、通ってきた廊下と同じ艶出しの施された装飾木材があてがわれているのだが、上側はうっすら赤色をした壁で統一されている。窓はそれなりの大きさのものが低い位置に四つ。硝子越しに見える景色は城の見えていなかった裏面の景色だろうか、芝生と生垣、鉄柵の奥にはうっそうと生い茂る森が見えている。入口から入って右手側には火の点いていない暖炉と、座り心地のよさそうな表面に綿と布が使われふっくらとした一人用の椅子が二脚、小さな木製テーブルを挟み向かい合って置かれている。左へ視線を移すと大きなテーブルをぐるりと囲むように配置された、三人ほど並んで座れそうなふっくらとした長椅子が八脚。更にその奥には書物が隙間なく詰められた、硝子戸付きの棚が五台設置されていた。
「お掛けになってくださいな」
そう言って角の少女は、暖炉前のテーブルと椅子に座ることを促す。私は手前へ、彼女は奥の椅子へと座る。
「ではまず自己紹介ですかね? ボクはスピカ・アーヴェイン、領地の主です。以後お見知りおきを」
角の少女――スピカは私にペコリと頭を下げながら自己紹介をする。アーヴェイン? 領地の主? 想定していた言葉の斜め上の発言に驚き、表情に出そうになったのがわかる。まだだ、まだ冷静さを保て。
「ケリィです。普段は教会関連の奉仕活動を仕事としております。こちらこそお招きいただきありがとうございます」
「ふむふむ、お兄さんは教会関係者の方でしたかー。是非シスターにもお会いしていただきたかったのですが留守でしてー……彼女とお兄さんはお話が色々と合いそうですねぇ」
「スピカさんがお祈りをしてたという教会のシスター様ですか? 残念です、ご縁があればじっくりとお話ししたいですね」
司祭ではなくシスターが取りまとめているのか。鉢合わせしないのはこちらにとって好都合だが、シスターが【天使】なのかそれ以外の【なにか】なのかまでは引き出せそうにはない。代わりに疑問に思った彼女の発言を尋ねてみるべきか。
「失礼ながらスピカさん、アーヴェインと言うと――」
「はい、ボクの父は魔王でした。まあ【天使】のお兄さんなら知ってるでしょうし、疑問にも思いますか」
「――――――」
絶句である。表情筋が硬直し、開いた口がふさがらなかった。
目の前の彼女は先ほど会った時のような取り留めのない日常会話をするように、自身の存在の告白と私の存在を言い当てたのだ。いつ私が【天使】と感づいた? 表情か? 読心術でも使えるのか? それとも事前に私がここに訪れることを知っていたのか? どうする、逃げるか? 駄目だ、手も足も石のように動かない。背中の汗が流れるのを感じる。自分だけ時間が止まってしまったような気分だ。
私が固まったのを察してか、彼女が慌てた様子で言葉を続ける。
「ああいえっ!? お兄さんを騙してたとかそんなんじゃなくて、そっちから突っ込まれるのを待ってたというか、ボクの角とか見ても平然としてるしローグメルクの【生成術】に驚いてたのに本人とは普通に会話してたしっ!? ええっとなんと説明すればよいのやらー……」
スピカは髪を両手でわしゃわしゃと掻き、身悶えながら言葉を整理しようとしていた。
どうやら向こうも自らの存在が普通ではないということは初めから認知していたようで、こちらが疑問に思わない装いだったため、話を切り出せなかったようである。
言葉こそ聞き取れたものの、緊張の糸がまだ張りつめているのか私はまだ動けずにいた。
「と、とにかくボクらはお兄さんに危害を加えるつもりは一切ないですっ!! これだけは約束しますっ!! ただ本当にお茶と焼き菓子をつまみながら、森の外のお話が聞けたらなと思ってただけですからっ!!」
「は……はぁ……」
彼女が赤い目を大きく見開き必死に釈明すると様子を見て、私の口からはため息とも安堵ともつかない妙な音が出た。
目の前にいるよく喋り、表情が豊かな魔王の娘は自分と同じくらい言葉のやり取りに緊張していたらしい。目的が明確になったところで、ようやく私の中の糸が切れて表情や手足が動くようになる。
「お嬢っ!? ご無事でっ!?」
主の叫びを聞きつけたのか、私の背後にあった扉を勢いよく開け、ティーセットと焼き菓子を乗せたトレイを持ったローグメルクが入ってきた。彼の表情は玄関で見たにこやかな顔でなく、真剣な形相である。扉を見るとどうやら蹴破ったらしく、彼の蹄の跡がくっきりと残っていた。
「ローグメルクっ!! あなたまた足でドア壊してっ!! お客さんの前で失礼ですよっ!!」
「うぇ? あ……はぁ、すんません」とスピカの言葉に真剣な彼の形相が申し訳なさそうな表情に変わる。
見た目は人間とは違えど、どこか抜けていて人間らしい感情豊かな二人を見て、警戒していた私が馬鹿のようだと思うと同時に、胸の奥が少し痛むのを感じた。
***
「さっきはすんませんした。お嬢に何かあったのかと慌ててたもんで……」
「いえ、私の方こそ申し訳ありませんでした。自分の身分も明かさずに……」
紅茶とお茶菓子を広げたテーブルを囲いながら、私とスピカの間の椅子を出し座ったローグメルクと私はお互いに頭を下げる。
彼の座る椅子は先ほどの手拭きのように魔力で生成されたものだが、彼が直接触れている間は実体維持の時間が変わるらしく、消えることなく機能している。
互いに頭を上げると、用意された装飾の入ったカップの紅茶を困った表情ですするスピカが口を開く。
「……一旦落ち着いて整理しましょうか。お兄さんが一番困惑してるでしょうし」
「情報量が多過ぎて混乱しているので、そうしていただければ助かります……」
もはやこの二人には、私が【天使】であることを包み隠す必要はない。シスターの件は気がかりなままだが、順に点と点を線で結んでいこう。でないと心労で本当に倒れかねない。
紅茶で喉を潤し、テーブルに置いたカップから手を離したスピカが話し始める。
「ボクは亡くなった魔王の一人娘、スピカ・アーヴェイン。父の遺言に従い、この森の中で小さな国を築き、かつての侵略戦争の虐殺から逃れた魔物や魔物混じり、ローグメルクのようなかつて父と契約した【悪魔】の皆さんと共に、人間や他種族とはほぼ関わらず、静かに暮らしています。馴染みのある近くの人間の街や村で交易する程度の関りしか外部と接触する機会がないので、この場所の存在を知る者は【地上界】にはほとんどいません。【天界】の事情まではわかりかねますが、お兄さんの様子を見るに、やはり一握りの者達しか把握してないようですね」
「【地上界】の地図にも史実にも無い……私も自分の目で見るまでは信じられませんでした」
そう、本来ならありえない者達と私は会話しているのだ。死人と会話できるという【死霊術師】でもない私が、死んだと思われていた彼女らと、こうして紅茶と焼き菓子が並べられたテーブルを前にして。
しかし、彼女らが一体どうやって侵略戦争時に身を隠すことができたかが気になった。かつて【魔王の国】があった場所はすでに不毛の更地。別の戦火の及ばない場所へ避難していたのだろうか?
「非常に聞きにくいのですが……皆さんは私の知る範囲の史実で、かつての【魔王の国】で亡くなったと把握しております。スピカさんのお父様も含み、誰一人勇者と軍の手からは逃れられなかったと……」
「ええっと……」
「あ、その辺りは俺が代わりに説明するっすよ。お嬢はまだ赤ん坊でしたから覚えてないでしょうし」
言葉を濁したスピカを助けるようローグメルクが会話に入り、当時の出来事を語り始める。
「俺の元主、世間で俗にいう魔王の【ヴォルガード・アーヴェイン】様は腕っぷしは確かなんすけど国民大好き平和大好きな人なんで、人間側の軍にブッ込まれる数刻前、俺らを国からちょっと離れた場所へ結界で閉じ込めたんす。国民全員をね。一ヶ所にまとめんのは見つかる可能性高いから、俺みたいな多少は腕の立つ【契約悪魔】と国民何人かで班を作って……戦争が終わるのを、俺もお嬢抱えてひたすら待ってやした。ホントはヴォルガードの旦那と一緒に死ぬ覚悟ぐらいあったんすけど、国一つ背負った漢の約束は裏切れなかったんす。んで、結界が解けたら目の前には人間側の魔術師が骸骨になって、俺らを庇うようにして立ってるし、人間の軍には攻め込まれてるしで……あんときはマジで死ぬかと思いやしたね」
「……………………」
「お嬢だけでも助けようと思った俺は、人間の軍にブッ込もうとしたんすよ。手がふさがってても足がありゃ戦えるっすから。んでも俺や目の前の骸骨魔術師が行動起こす前に、ケリがついちまいやした。サタンみてぇな形相した男が、ヴォルガードの旦那の剣で軍を吹き飛ばしちまったんす。斬ったとかもうそんなんじゃなくて消えたっつーか蒸発したっつーか……【悪魔】よりも【悪魔】してる人間見るなんて何回かあったすけど、アレはマジでサタンっす。俺や他の連中も衝撃でブッ飛んで頭打って動けなかったんで、もうお嬢抱えるので精一杯だったすよ。けどそのサタン野郎はお嬢の片方の角だけスパっと切って、『後は任せろ』ってだけ呟いてどっか行ってしまいやした。お嬢の角切り落としたのはブチギレそうになったんすけど、多分ヴォルガードの旦那と漢の約束でもしたんでしょうね。そのサタン野郎が実は勇者で、単身クーデター起こして人間側の王を斬り捨て、自分が玉座に座っちまった」
「……それが、本当の史実ですか」
「俺が知る限りは。戦争やクーデター終わって、ほとぼり冷めた頃に生き残った奴らでここに国構えて、お嬢とヴォルガードの旦那が残した遺産で、何とかやりくりしながら生活してるのが今っつーわけっす。もう一班、俺らよりも先に勇者に助けられて生き残った俺と同じ【契約悪魔のティルレット】か、元人間側の魔術師の【シスター】辺りなら、また違う話を詳しく聞けるかも知れねえっすけど。俺、丁寧な言葉選んで喋るの苦手なんで。すんません客人」
再びローグメルクが再び私に深く頭を下げる。
彼が語る【地上界】や【天界】とも異なる史実に私は身震いをした。戦火吹きあがる混沌とした時代を書物や口頭でしか知らない私にとって、単純な敵としてしか認識していなかった魔王と人間の英雄である勇者、【天界】の英雄ルシは全員共闘関係を築き、前国王を討ったのか。勇者……現国王は魔王と何らかのの形で盟約を交わし、侵略する側の敵国民を可能な限り助け、自軍をすべて斬り倒し、狂王と誰しもが恐れた前国王にもその刃を向けたのだ。侵略戦争最前線にいた当人が魔王と対峙し、正義感や罪悪感にかられたのか、それとも【導きの天使】であったルシの【お告げ】か。
「……ルシは……ローグメルクさんは、【導きの天使・ルシ】にお会いしたことは…?」
「あるっすよ。つってもクーデターが終わって、勇者が国を立て直し始めた時から何度かっすけど」
下げていた頭を上げ、彼は私の質問にさらりと答える。
「そ……その時、彼とは何かお話を?」
「……泣いて謝られたっす。自分の力不足でみんなを救えず申し訳ないって」
「ルシが……?」
「ええ、ずいぶんいい身なりのやつれた優男が、フラッと領地に入ってきたと思ったら跪いて大号泣。何言ってるか最初俺らもわかんなくて困ってたんすけど、シスターが要約してくれたお陰で助かったっすよあん時は。滅茶苦茶自分を責めてたみたいで、まともに飯も食えねえし眠れもしないで、ああもボロボロだと見てらんないっす。結局お嬢が許してやっとしゃんとしたんで、そんあとは多分客人の知る通り大出世。城の横にある教会建てたのもルシっす」
「……………………」
ルシは……罪悪感を感じていたのか。自分の使命に、人間を侵略戦争の勝利へ導くことに。【受肉】した体が栄養や睡眠を受けつけない、自分が明日死ぬかもしれない重圧以上に、自分の偉業よりも救えなかった命を嘆き続けていたのか。
彼は確かに【導きの天使】として、英雄であろうとした。非凡な才能をいかんなく発揮し、的確な未来予測、強固な敵陣を返す一手の作戦の提案、人間側の魔術の発展――あらゆる面に精通し、侵略戦争への勝利、クーデターの成功、現在の統治基盤作成……それでも尚、自分の無力さに苛まれていたのである。
「生き地獄……でしたでしょうね」思わず口にその言葉を出してしまう。その声でローグメルクの話を横で私と共に聞いていたスピカが、ようやく口を開く。
「でしょうねぇ。どれだけ発展に尽くしても亡くなった方々は救えませんし、戻ってきません。許しを乞おうにも、殆どの相手はもうこの世にいないんですから、一生それは背負っていかなければいけません」
「それでも、スピカさんはルシを赦したのですか?」
私の問いに、スピカは真っ直ぐとこちらを見つめ返す。その顔には哀れみにも近い表情が浮かんでいた。私と初めて出会った少女の顔は、そこに無い。
「父の死を、無駄にしてほしくなかったんですよ。彼や勇者が死んでしまっては、それこそ何の為にふざけた戦争で沢山の犠牲を出したのか、まるで意味がわかりません。混沌とした時代を自分の手中に収めようと、侵略と虐殺を行い続けたあのクソったれ狂王をボクは許す気はないですし、死んで当然だと思っています。もしクソったれ狂王が今日まで生きていたとしたら……復讐に駆られ、喉元を掻き切るための牙を研いでいたことでしょうね。それでも――」
スピカは切られた片角の付け根を擦りながら続ける。
「――勇者が父の剣で父との約束を果たし、【導きの天使】としてクーデターを成功させた彼は、ボクらにとっても英雄なんです。だからボクは彼の建てた教会で、毎日祈りを捧げながら過ごしています。積み重ねた過去を忘れないよう、今の平和に感謝し、この先再び混沌とした時代が訪れないようにと」
彼女は両手を握り、祈りの姿勢を私に向けてとる。教会の天使像に祈るよう、微笑みをたたえて。
――ああそうか、ルシ。あなたは私の目の前にいる角の生えた聖母に救われたのですね。
そもそもここまで森林が深い場所に訪れること自体が初めてなのだが、舗装も整備も行き届いていない獣道が、これほどまでに歩きにくいものだとは想像もしなかった。
念のため、頭上の覆いかぶさるような木々の切れ間で一度立ち止まり、彼女に貰った地図と僅かに見える太陽の位置とを照らし合わせ、方角を確かめる。視界は木々しか捉えられられないが、地図の印はもうすぐそこである。
通り過ぎたのでは? とも道中考えたが、ここまで来る獣道は一本しかなく、ペントラも一本道だから迷うことはないと言っていた。【悪魔】である彼女の言葉を信じる【天使】という構図がなんとも滑稽で、まだ教会の狭い懺悔室に巨体を屈めて閉じこもり、他の【下級天使】を睨んでいるであろうニーズヘルグが聞いたら、怒りを通り越して笑いだすかもしれない。ただしその後私へ下される処分は考えないものとする。
森林に入って以降、虫の羽音が常に耳に付きまとうのを少し不愉快に思うようになった。
【受肉】で得た仮の肉体だが身体機能の大部分は【階級】に依存しており、私は【味覚】と【嗅覚】以外は一般的な人間と同じように機能している。欠落している五感に不便と思ったことはないが、【下級天使】は体力的労働には不向きであるという結論は嫌というほどよくわかった。そして帰りの道中も改めて考慮しなければならない。
***
払いきれない羽虫を諦め地図を鞄に戻し、黙々と進んで行くと景色に変化があった。森が開けた場所に出たのだ。
目前には整地された道と、石と木を素材に人為的に建てられたであろう赤茶色の尖った屋根の建物が七軒ほどぽつぽつと並んでいる。屋根には煙突が設置されており、うち数軒は白い煙が出ているのが見えた。
住人がいるのだろうか……いや、魔王関連だとしたら魔物か【悪魔】、もしくは更地にしたあと行方知れずとなった魔術師達か。
視線を建物から道に沿って上げると、そこには【天使】として信じ難い建造物が、小高い丘に二軒あった。
一軒は小さいながらも、石で造られた立派な城の形をした建造物。周囲には生垣と花の装飾が入った鉄柵が城を囲むように設置され、屋根は他の建物と同様に赤茶色の尖ったものであるが、外壁は白く、硝子窓があるのも見られた。鉄のみを素材に使ったであろう、重々しい鋼色の両開き門が城の出入り口であろうことは容易に想像できたが、門と屋根の形を除けば屋敷にも見なくもない。
違和感があるとすれば、素人目でも建築技術が明らかに周囲の建物や私の住む街の建造物より高等で、気味が悪いくらい色の白い外壁が目立つことぐらいか。
問題はもう一軒の方だった。屋根には同じく特徴的な尖った屋根と先端には鉄で作られた十字架が高々と掲げられ、石造りの外壁には着色と装飾のされた大きな硝子窓。扉こそ木と鉄のありふれたものであるが、職業柄見慣れてしまった【教会印】の入った青い旗が真横に掲げられており、間違いなく外観は私のよく知る教会そのものであった。
【天使】と教会は密接な関係で、知識や記憶になくても教会が感知範囲にあると存在を認識することができるのだが、森を抜けてここに足を踏み入れるまで私は一切存在を感知することができなかった。しかし【天使】としての本能が告げている。視線の先にある建造物は、信仰心のない無名の大工が見よう見真似で作ったものではなく、神官もしくは【上級天使】立会いの下で建築された教会であると。
視界に入る新鮮な情報量の多さに混乱しそうになるも瞼を閉じ、思考の整理するため一度深呼吸をする。外を出歩いている人影はない。
魔王が命を引き換えに残したものがここにあり、私はそれが何かを自分の目で確かめに来たのだ。卓越した建築技術や魔術を持っていたとしても不思議ではない。相手は魔王、人間でも【天使】でもないのだから。魔王が絡んでいるといったペントラの話が間違いでなければ、現国王である勇者、侵略戦争を勝利へ導いた【天使】であるルシも関係しているはず。当事者である二人、ましてや彼がこの場所を認知していないのはまずない。直接的な指示があったのだろうか? 魔王絡みの技術、もしくは人物をここに隠すようにと? では何故ペントラが知っている? 彼女も侵略戦争に参加していたと聞いてはいたが、勇者やルシと面識があったのだろうか……駄目だ、疑問を解けるだけの判断材料がまだ無い。
瞼を開く。そこには先ほど見た景色と何一つ変わらない建造物が立ち並んでいた。
***
一応、周囲を警戒しながら整地された道に沿ってゆっくりと歩く。相変わらず外を出歩く人影こそなかったが、例の小高い丘に辿り着くまで、左右に立ち並ぶ建物の様子をじっくりと見ることができた。
右手前から収穫や畑作業で使われるであろう一般的な農具が壁に掛けられ、束ねられた干し草が大量に積まれた小屋。
テラスにはテーブルと椅子が設置され屋内の出入口に扉がなく、奥にはカウンターと食器棚のある建物。
尖った屋根の先端に風見鶏が付けられ、今も煙突から白い煙が昇り続けている出入口に階段が設けられた高床式の家屋。
左には蔦がびっしりと外壁を覆いつくし、辛うじて窓や扉のある廃屋と見間違えそうな建物。
扉も窓もなく、しかし煙突からは煙が昇っている謎の建造物。
周りを生垣のように花壇で囲み、赤い薔薇が大量に咲いている薄桃色の外壁色の家屋。扉に私もよく知る【教会印】の刻印がされ、脇には小さな墓だろうか、十字架を模した石碑と白い花が添えられている建物……。
……さて、どこから手を付けたものか。人の気配のする家屋はいくつかあるが、今の自分の立ち位置が分からない以上、不用意に住人に近づいて接触を試みるのは危険かもしれない。あの二人が秘匿とした場所である。【天使】、人間のどちらの立場で振る舞うべきか? いや、相手によっては嘘が発覚した時の損害が大きすぎる。しかもあの教会に常駐の【天使】がいるのであれば不可能だ。間抜けなニーズヘルグ相手に口先だけで誤魔化すのと訳が違う。なら一度引き返すか? 明日にでもペントラに見たものを報告すれば何らかの返答は得られるだろう。幸い誰にも私の姿は見られていない。引き返す機会は――
「お客さんですか? 迷子ですか?」
「…………………………」
一瞬、思考が止まった。突然真横から聞こえた声に驚き、視線が正面から離せない。背中と額、手から冷汗が出るのを感じる。
人か? 子供の声にも聞こえた。確かに思考中は視野が狭くはなるが、警戒していたにも関わらず気配がしなかった。人ならば私を認知した瞬間、思考の読み取りが起こるはずである。
なんにせよ、向こうから私の存在を認知されてしまった。とりあえず私は隣にいる存在と向き合って話すことを決めた。
「もしもーし?」と子供……少女の声が再び聞こえる。
「……はい、なんでしょうか?」
震えそうになる声を抑えて、返事をしながら声の主に向き合う。
視線の先には頭部から角を二本生やした、にこやかに笑う少女がいた。背は私よりも頭一つ分小さく、紫の長い髪をかき分けて右片方が鋭利なもので切断されたような濃い赤色の角が、左は綺麗な同じ色の角が生えている。瞳の色は赤く、見覚えのある白いローブの下は質の良さそうな黒いベストとフリルの付いた白いシャツ、濃い赤のスカートに茶色のブーツが確認できた。右手には小さな十字架と聖書が一冊、しっかりと握られている。
「お兄さん。見たことのない人ですが、もしかして森で迷ってここに来ちゃったんですか?」
「あ……はい、森林で珍しい植物を採取するのが趣味でして……」
そう言いつつ、肩さげ鞄から空き瓶と小さなスコップを出して見せる。
森林で人間に接触することも考えて予め備えておいた品物だ。植物を土の入った大きめの空き瓶に植えて観賞用にする、居住区の戸口の脇にも飾られているのをよく目にしていた。無論、私にはそんな趣味は無い。
角の少女は空き瓶とスコップをまじまじと見ながら質問を続ける。
「へえー、お兄さんの住む場所ではこういうのが流行なんです?」
「どちらかと言えば個人の趣味に近いですね。空き瓶と植物を掘り返せるような道具があれば、誰でも手軽に楽しめますし」
「確かにそうですねぇ。でも森の植物の中には毒を持つ種類もありますから、採取する前に調べておいた方がいいですよ」
「ご忠告ありがとうございます。ところで、あなたはこの場所に住んでいる方ですか?」
鞄に空き瓶とスコップをしまいながらさり気なく尋ねる。彼女のまったりとした口調や態度から、明確な敵意もなさそうだ。
「あー、驚きましたよね? 森を抜けたら急にお城や教会、奇妙な家があるんですもん。ボクもあの蔦まみれの外観はどうかと思うんですよね……家主の趣味で生やしっぱなしにしてるそうですけど、雰囲気が暗くてどーも……」
角の少女は苦笑いをしながら、申し訳なさそうに左手人差し指で頬をかく。長くはないが、爪の色が赤いのが目についた。
人間ではない、魔物に近い種族かもしくは混合種なのかもしれない。角の形や特徴が、私の知る範囲での人間以外の種族と合致しないのだ。知性の高い魔物が集団で小さな社会を作り、国の目から隠れて生活する例はある。だが正式な教会を建てて聖書と十字架を持ち、祈るなど想像したこともなかった。
「教会でのお祈りが終わって外へ出てみたらお兄さんがいて、迷っちゃったのかなって声をかけたんです」
「ええ、私も困り果てていたところでした。ただ出歩いている方もいらっしゃいませんし……」
「今が畑の収穫期ですし、力仕事を任せられる方は留守にしてますから、静かなのはそのせいかと。いつもは賑やかなんですよ?」
「そうでしたか」と返しはしたが、ますますわからなくなってしまった。まるで小さな人間の集落そのものではないか。
「それはそうとお兄さん、森の中を歩いてきたのならお疲れでしょう。帰る前にボクの家で少し足を休めていきません? お茶と焼き菓子くらいは出せますよ」
角の少女は嬉しそうに私へ提案する。
久しぶりの来客に胸を弾ませているのか、または巣に連れ込んで取って食べるつもりなのだろうか……いや、後者ならばこの場で目の前の少女は牙をむき、瞬く間に私の身動きを封じて喉元へ爪を突き立てるなど造作のないことだろう。
それほどまでに【下級天使】の私は貧弱なのだ。本気で殺しに来られたら抵抗しようもない。提案を拒否し少女とこの場で別れて足早に帰る選択肢もあったが、このような形で住人と接触する機会が今後ここを訪れてあるとも考えにくい。なら私のとる選択は――
「よろしいのですか? ではお言葉に甘えさせていただきます」
「いえいえー、お客さんなんて久しぶりですし、ボクもお兄さんの住む場所の話とかも聞きたいですから」
***
角の少女に案内されたのは道の左右にあるどの建物でもなく、小さな城の前であった。
ローブの下に見えた身なりや言葉遣いで典型的な上流気質傾向が察せられたが、この場所の大元と思われる人物に、どこの誰とも知らない自分がすんなりともてなされるとは予想外である。何ができるわけでもないが、警戒するに越したことはない。
遠目で見て分かったように城の外壁は白い立派な石造り。門までの道は石畳で舗装され、敷地内の芝は綺麗に刈り揃えられている。生垣のそばの一角には花壇があり、品種が書かれているであろう二枚の小さな木製プレートも見えたが、最近植えたばかりなのだろうか、花壇の内側に花や植物は視認できない。鉄製の門は近くで見ると色調も相まってか重量感があり、縁が薔薇を模した装飾で囲まれ、引くために備え付けられた獅子の頭部を模した輪状の取っ手が生えていた。
「絵本に出てくるお城みたいでしょう、中はもっとすごいんですよ?」と角の少女は誇らしげな表情をしながら私に言う。
ああ、ペントラも似たような表情をよくしていたなと、少しだけ緊張が解ける。何度も見た本心から自分の品を自慢している顔だ、嘘ではないだろう。恐らく城の中が更にすごいといった言葉も。
石畳を歩き門前にまで来ると、角の少女は「少し待ってくださいね」と言ってローブの下から小さな鈴を出し、何度か鳴らす。するとガチリと内側から錠を外す重たい金属音が聴こえ、右手側の門が少しづつ開き始めた。
これほど重量感のある門だ、さぞ屈強な男が顔を覗かせるかと想像していたが期待は裏切られた。
「あ、お嬢おかえりなさいっすっ!!」
私と角の少女の頭上から拍子抜けな声で顔を覗かせたのは、額に角を生やした下縁眼鏡に黄色い瞳の褐色肌、栗色の髪を整髪用の油で丁寧に後ろへ纏め上げた男であった。
「ただいまローグメルクっ!! それと久しぶりにお客さんですっ!! お茶と焼き菓子準備しておいてくださいっ!!」
「おおっ!! そいつはめでたいっすねっ!! 準備出来次第客間にお邪魔しやすんで、先に客人と一緒にくつろいでてくだせぇっ!! あ、コートや聖書とかもお嬢の部屋に俺持って行くっすよ?」
角の少女と私は男が開けてくれた隙間から城内へ入る。
踏み入れた城内は外観で見た以上に広く感じた。壁の上半分は槐色の布地と思われる壁紙で、下半分は艶出しの施された装飾入りの木材がふんだんに使われており、床は玄関以外全面赤色の絨毯。左右には等間隔で鉄の装飾の入った木製扉と、真横の少し高い位置にランプが設置されている。それだけならまだ裕福な家として済むのだが、天井には光源になるものが一切見当たらないにもかかわらず、外よりも明るいことが妙に気になった。これも魔術の類だろうか?
下縁眼鏡の角男――ローグメルクと角の少女の方を見る。ちょうど彼女が脱いだローブと聖書や十字架を彼が受け取り、何やら笑いながら話しているところだった。
首には黒いスカーフ、黒のベストに白い長袖のシャツ、黒い長ズボン。執事のような格好の彼だがやはり黒い角と高身長が目立つ。もう一つ目についた特徴が彼は靴を履いておらず、両足が山羊のような蹄であることか。よく磨かれた革靴のように艶々とした黒い蹄で、器用に立っている。人間ではないのは確かだが、変に尋ねて不信感を買うよりも、角の少女と共に流れに身を任せた方が今はよいだろう。
「客人っ!!」と呼びながら私の方へ、コートや聖書を丁寧に抱えたローグメルクが歩いて近づいてきた。
「お嬢から話聞いたっすよ。森からここまで抜けるのは獣道っすから歩きなれてない人には辛かったと思うっすけど、足腰大丈夫っすか?」
「ええ、足裏が少々痛む程度ですが問題ありません。ご心配ありがとうございます」
「いえいえっ!! 自分、執事のローグメルクっすっ!! 何かあれば俺まで言ってくだせぇっ!! すっ飛んでいきやすんでっ!!」
彼ははにかみながら自己紹介をする。決して丁寧な言葉づかいではないが、細やかな気配りができる性格なのであろうという印象を受けた。
彼の後ろで角の少女はローグメルクが用意してくれてたであろう湯で湿らせた白い手拭きで手を拭いている。それを見てローグメルクは「あっ」と小さく言い、パチリと手の空いていた右手の親指と人差し指を擦り合わせて鳴らす。するとするりと白い布のような物が、彼の手の中に現れた。
それは角の少女が使っていた物と外見が同じ、白い手拭きであった。目の前で起こった現象に言葉を失っていると、ローグメルクが少し苦笑いしながら手に現れた手拭きを差し出す。
「すんません、客人分のお手拭きっす。即席で編んだ物なんですぐ消えちゃうっすけど、どうぞ使ってくだせぇ」
「……それは、魔術の類ですか? ……初めて見ました」
そう言いながら差し出された手拭きを私は受け取る。つい先ほど湯で湿らせたように暖かく湿っていた。質の良い布に感じたが、彼の手の中に突然現れたこと以外は全く妙な使用感もない。
「そうっすよ。あーと……【生成術】って言うんすかね。錬金とかそっちの分野と違って、その場にある魔力で想像した物が造れるんす。強度や実体時間は編むのに使った魔力の量にもよるっすけど、時間掛ければ客人の伸長と同じ銅像とかできるっすよ。へへへっ」
褒めてもらったと思ったのか、照れくさそうにローグメルクは言った。
……間違いなくここには何かがある。魔王が残した遺産はこの場所に住む彼らそのものか、技術かもしくは両方か。
興奮と緊張を感じてやや鼓動が高鳴るのを感じた瞬間、私の手に握られていた手拭きはするりと消え、湿った感触や暖かさもなくなった。
***
角の少女に通された客間も城内に入った時と同様、異様なまでに広く感じた。
壁の造りの下半分は、通ってきた廊下と同じ艶出しの施された装飾木材があてがわれているのだが、上側はうっすら赤色をした壁で統一されている。窓はそれなりの大きさのものが低い位置に四つ。硝子越しに見える景色は城の見えていなかった裏面の景色だろうか、芝生と生垣、鉄柵の奥にはうっそうと生い茂る森が見えている。入口から入って右手側には火の点いていない暖炉と、座り心地のよさそうな表面に綿と布が使われふっくらとした一人用の椅子が二脚、小さな木製テーブルを挟み向かい合って置かれている。左へ視線を移すと大きなテーブルをぐるりと囲むように配置された、三人ほど並んで座れそうなふっくらとした長椅子が八脚。更にその奥には書物が隙間なく詰められた、硝子戸付きの棚が五台設置されていた。
「お掛けになってくださいな」
そう言って角の少女は、暖炉前のテーブルと椅子に座ることを促す。私は手前へ、彼女は奥の椅子へと座る。
「ではまず自己紹介ですかね? ボクはスピカ・アーヴェイン、領地の主です。以後お見知りおきを」
角の少女――スピカは私にペコリと頭を下げながら自己紹介をする。アーヴェイン? 領地の主? 想定していた言葉の斜め上の発言に驚き、表情に出そうになったのがわかる。まだだ、まだ冷静さを保て。
「ケリィです。普段は教会関連の奉仕活動を仕事としております。こちらこそお招きいただきありがとうございます」
「ふむふむ、お兄さんは教会関係者の方でしたかー。是非シスターにもお会いしていただきたかったのですが留守でしてー……彼女とお兄さんはお話が色々と合いそうですねぇ」
「スピカさんがお祈りをしてたという教会のシスター様ですか? 残念です、ご縁があればじっくりとお話ししたいですね」
司祭ではなくシスターが取りまとめているのか。鉢合わせしないのはこちらにとって好都合だが、シスターが【天使】なのかそれ以外の【なにか】なのかまでは引き出せそうにはない。代わりに疑問に思った彼女の発言を尋ねてみるべきか。
「失礼ながらスピカさん、アーヴェインと言うと――」
「はい、ボクの父は魔王でした。まあ【天使】のお兄さんなら知ってるでしょうし、疑問にも思いますか」
「――――――」
絶句である。表情筋が硬直し、開いた口がふさがらなかった。
目の前の彼女は先ほど会った時のような取り留めのない日常会話をするように、自身の存在の告白と私の存在を言い当てたのだ。いつ私が【天使】と感づいた? 表情か? 読心術でも使えるのか? それとも事前に私がここに訪れることを知っていたのか? どうする、逃げるか? 駄目だ、手も足も石のように動かない。背中の汗が流れるのを感じる。自分だけ時間が止まってしまったような気分だ。
私が固まったのを察してか、彼女が慌てた様子で言葉を続ける。
「ああいえっ!? お兄さんを騙してたとかそんなんじゃなくて、そっちから突っ込まれるのを待ってたというか、ボクの角とか見ても平然としてるしローグメルクの【生成術】に驚いてたのに本人とは普通に会話してたしっ!? ええっとなんと説明すればよいのやらー……」
スピカは髪を両手でわしゃわしゃと掻き、身悶えながら言葉を整理しようとしていた。
どうやら向こうも自らの存在が普通ではないということは初めから認知していたようで、こちらが疑問に思わない装いだったため、話を切り出せなかったようである。
言葉こそ聞き取れたものの、緊張の糸がまだ張りつめているのか私はまだ動けずにいた。
「と、とにかくボクらはお兄さんに危害を加えるつもりは一切ないですっ!! これだけは約束しますっ!! ただ本当にお茶と焼き菓子をつまみながら、森の外のお話が聞けたらなと思ってただけですからっ!!」
「は……はぁ……」
彼女が赤い目を大きく見開き必死に釈明すると様子を見て、私の口からはため息とも安堵ともつかない妙な音が出た。
目の前にいるよく喋り、表情が豊かな魔王の娘は自分と同じくらい言葉のやり取りに緊張していたらしい。目的が明確になったところで、ようやく私の中の糸が切れて表情や手足が動くようになる。
「お嬢っ!? ご無事でっ!?」
主の叫びを聞きつけたのか、私の背後にあった扉を勢いよく開け、ティーセットと焼き菓子を乗せたトレイを持ったローグメルクが入ってきた。彼の表情は玄関で見たにこやかな顔でなく、真剣な形相である。扉を見るとどうやら蹴破ったらしく、彼の蹄の跡がくっきりと残っていた。
「ローグメルクっ!! あなたまた足でドア壊してっ!! お客さんの前で失礼ですよっ!!」
「うぇ? あ……はぁ、すんません」とスピカの言葉に真剣な彼の形相が申し訳なさそうな表情に変わる。
見た目は人間とは違えど、どこか抜けていて人間らしい感情豊かな二人を見て、警戒していた私が馬鹿のようだと思うと同時に、胸の奥が少し痛むのを感じた。
***
「さっきはすんませんした。お嬢に何かあったのかと慌ててたもんで……」
「いえ、私の方こそ申し訳ありませんでした。自分の身分も明かさずに……」
紅茶とお茶菓子を広げたテーブルを囲いながら、私とスピカの間の椅子を出し座ったローグメルクと私はお互いに頭を下げる。
彼の座る椅子は先ほどの手拭きのように魔力で生成されたものだが、彼が直接触れている間は実体維持の時間が変わるらしく、消えることなく機能している。
互いに頭を上げると、用意された装飾の入ったカップの紅茶を困った表情ですするスピカが口を開く。
「……一旦落ち着いて整理しましょうか。お兄さんが一番困惑してるでしょうし」
「情報量が多過ぎて混乱しているので、そうしていただければ助かります……」
もはやこの二人には、私が【天使】であることを包み隠す必要はない。シスターの件は気がかりなままだが、順に点と点を線で結んでいこう。でないと心労で本当に倒れかねない。
紅茶で喉を潤し、テーブルに置いたカップから手を離したスピカが話し始める。
「ボクは亡くなった魔王の一人娘、スピカ・アーヴェイン。父の遺言に従い、この森の中で小さな国を築き、かつての侵略戦争の虐殺から逃れた魔物や魔物混じり、ローグメルクのようなかつて父と契約した【悪魔】の皆さんと共に、人間や他種族とはほぼ関わらず、静かに暮らしています。馴染みのある近くの人間の街や村で交易する程度の関りしか外部と接触する機会がないので、この場所の存在を知る者は【地上界】にはほとんどいません。【天界】の事情まではわかりかねますが、お兄さんの様子を見るに、やはり一握りの者達しか把握してないようですね」
「【地上界】の地図にも史実にも無い……私も自分の目で見るまでは信じられませんでした」
そう、本来ならありえない者達と私は会話しているのだ。死人と会話できるという【死霊術師】でもない私が、死んだと思われていた彼女らと、こうして紅茶と焼き菓子が並べられたテーブルを前にして。
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「非常に聞きにくいのですが……皆さんは私の知る範囲の史実で、かつての【魔王の国】で亡くなったと把握しております。スピカさんのお父様も含み、誰一人勇者と軍の手からは逃れられなかったと……」
「ええっと……」
「あ、その辺りは俺が代わりに説明するっすよ。お嬢はまだ赤ん坊でしたから覚えてないでしょうし」
言葉を濁したスピカを助けるようローグメルクが会話に入り、当時の出来事を語り始める。
「俺の元主、世間で俗にいう魔王の【ヴォルガード・アーヴェイン】様は腕っぷしは確かなんすけど国民大好き平和大好きな人なんで、人間側の軍にブッ込まれる数刻前、俺らを国からちょっと離れた場所へ結界で閉じ込めたんす。国民全員をね。一ヶ所にまとめんのは見つかる可能性高いから、俺みたいな多少は腕の立つ【契約悪魔】と国民何人かで班を作って……戦争が終わるのを、俺もお嬢抱えてひたすら待ってやした。ホントはヴォルガードの旦那と一緒に死ぬ覚悟ぐらいあったんすけど、国一つ背負った漢の約束は裏切れなかったんす。んで、結界が解けたら目の前には人間側の魔術師が骸骨になって、俺らを庇うようにして立ってるし、人間の軍には攻め込まれてるしで……あんときはマジで死ぬかと思いやしたね」
「……………………」
「お嬢だけでも助けようと思った俺は、人間の軍にブッ込もうとしたんすよ。手がふさがってても足がありゃ戦えるっすから。んでも俺や目の前の骸骨魔術師が行動起こす前に、ケリがついちまいやした。サタンみてぇな形相した男が、ヴォルガードの旦那の剣で軍を吹き飛ばしちまったんす。斬ったとかもうそんなんじゃなくて消えたっつーか蒸発したっつーか……【悪魔】よりも【悪魔】してる人間見るなんて何回かあったすけど、アレはマジでサタンっす。俺や他の連中も衝撃でブッ飛んで頭打って動けなかったんで、もうお嬢抱えるので精一杯だったすよ。けどそのサタン野郎はお嬢の片方の角だけスパっと切って、『後は任せろ』ってだけ呟いてどっか行ってしまいやした。お嬢の角切り落としたのはブチギレそうになったんすけど、多分ヴォルガードの旦那と漢の約束でもしたんでしょうね。そのサタン野郎が実は勇者で、単身クーデター起こして人間側の王を斬り捨て、自分が玉座に座っちまった」
「……それが、本当の史実ですか」
「俺が知る限りは。戦争やクーデター終わって、ほとぼり冷めた頃に生き残った奴らでここに国構えて、お嬢とヴォルガードの旦那が残した遺産で、何とかやりくりしながら生活してるのが今っつーわけっす。もう一班、俺らよりも先に勇者に助けられて生き残った俺と同じ【契約悪魔のティルレット】か、元人間側の魔術師の【シスター】辺りなら、また違う話を詳しく聞けるかも知れねえっすけど。俺、丁寧な言葉選んで喋るの苦手なんで。すんません客人」
再びローグメルクが再び私に深く頭を下げる。
彼が語る【地上界】や【天界】とも異なる史実に私は身震いをした。戦火吹きあがる混沌とした時代を書物や口頭でしか知らない私にとって、単純な敵としてしか認識していなかった魔王と人間の英雄である勇者、【天界】の英雄ルシは全員共闘関係を築き、前国王を討ったのか。勇者……現国王は魔王と何らかのの形で盟約を交わし、侵略する側の敵国民を可能な限り助け、自軍をすべて斬り倒し、狂王と誰しもが恐れた前国王にもその刃を向けたのだ。侵略戦争最前線にいた当人が魔王と対峙し、正義感や罪悪感にかられたのか、それとも【導きの天使】であったルシの【お告げ】か。
「……ルシは……ローグメルクさんは、【導きの天使・ルシ】にお会いしたことは…?」
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「……………………」
ルシは……罪悪感を感じていたのか。自分の使命に、人間を侵略戦争の勝利へ導くことに。【受肉】した体が栄養や睡眠を受けつけない、自分が明日死ぬかもしれない重圧以上に、自分の偉業よりも救えなかった命を嘆き続けていたのか。
彼は確かに【導きの天使】として、英雄であろうとした。非凡な才能をいかんなく発揮し、的確な未来予測、強固な敵陣を返す一手の作戦の提案、人間側の魔術の発展――あらゆる面に精通し、侵略戦争への勝利、クーデターの成功、現在の統治基盤作成……それでも尚、自分の無力さに苛まれていたのである。
「生き地獄……でしたでしょうね」思わず口にその言葉を出してしまう。その声でローグメルクの話を横で私と共に聞いていたスピカが、ようやく口を開く。
「でしょうねぇ。どれだけ発展に尽くしても亡くなった方々は救えませんし、戻ってきません。許しを乞おうにも、殆どの相手はもうこの世にいないんですから、一生それは背負っていかなければいけません」
「それでも、スピカさんはルシを赦したのですか?」
私の問いに、スピカは真っ直ぐとこちらを見つめ返す。その顔には哀れみにも近い表情が浮かんでいた。私と初めて出会った少女の顔は、そこに無い。
「父の死を、無駄にしてほしくなかったんですよ。彼や勇者が死んでしまっては、それこそ何の為にふざけた戦争で沢山の犠牲を出したのか、まるで意味がわかりません。混沌とした時代を自分の手中に収めようと、侵略と虐殺を行い続けたあのクソったれ狂王をボクは許す気はないですし、死んで当然だと思っています。もしクソったれ狂王が今日まで生きていたとしたら……復讐に駆られ、喉元を掻き切るための牙を研いでいたことでしょうね。それでも――」
スピカは切られた片角の付け根を擦りながら続ける。
「――勇者が父の剣で父との約束を果たし、【導きの天使】としてクーデターを成功させた彼は、ボクらにとっても英雄なんです。だからボクは彼の建てた教会で、毎日祈りを捧げながら過ごしています。積み重ねた過去を忘れないよう、今の平和に感謝し、この先再び混沌とした時代が訪れないようにと」
彼女は両手を握り、祈りの姿勢を私に向けてとる。教会の天使像に祈るよう、微笑みをたたえて。
――ああそうか、ルシ。あなたは私の目の前にいる角の生えた聖母に救われたのですね。
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「わ~、おねえちゃんキレイなブローチしてるのね! いいなぁ」
そう、新しい妹? が、言った瞬間・・・
頭の中を、凄まじい情報が巡った。
これ、なんでも奪って行く異母妹と家族に虐げられるドアマット主人公の話じゃね?
ドアマットヒロイン……物語の主人公としての、奪われる人生の、最初の一手。
だから、わたしは・・・よし、とりあえず馬鹿なことを言い出したこのアホをぶん殴っておこう。
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そう言って、ヒロインのクズ親父と異母妹の母親との間に亀裂を入れることにする。
フハハハハハハハ! これで、異母妹の母親とこの男が仲良くわたしを虐げることはないだろう。ドアマットフラグを一つ折ってやったわっ!
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