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第二章 魯坊丸と楽しい仲間達
四十二夜 信光叔父上からの手紙(桶売り、比叡山陥落の件)
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〔天文十七年 (一五四八年)夏六月二十四日〕
織田信光叔父上から手紙が届いた。
延暦寺は平安京に遷都した桓武天皇の勅で比叡山に伝教大師(最澄)によって開かれた。
法による支配で国家の安寧を願って建てられた。
しかし、時代が経つと腐敗は進み、僧兵をもって帝や法皇を祈りと武力で自在に操ろうとする者も現れた。
室町第六代将軍の足利-義教など、比叡山と対立して比叡山焼き討ちを敢行した事もある。
他にも、第十一代将軍足利-義澄の管領細川-政元も比叡山焼き討ちをしている。
僧達が俗世にまみれて、欲と権力を欲して政に介入したからだ。
しかし、大名並に武力を持つ比叡山延暦寺の取り扱いは厄介だ。
信仰と武力を持つ僧達は厄介なのだ。
さて、酒を主に造っているのは僧であり、京で酒を売れば、その酒蔵と対立する。
対立せぬ為に考えた方法が『桶売り』だ。
大量に造った酒を桶ごと売って、「あとは、お好きにどうぞ」と販売を譲渡する。
手間のかかる酒を桶ごと買う事で銭が手に入る。
儲かるなら賛同すると考えた。
問題は、朝廷や幕府に対しても慇懃無礼(うわべは丁寧で礼儀正しいが、実は尊大で横暴)な僧達だ。
欲に目が眩んだ僧侶が無理難題を織田弾正忠家に押し付けてくる。
そんな厄介な僧の首に誰が鈴を付けるのか?
その後の手綱を捌けるのか?
そこが解決しないから棚上げにした案であった。
しかし、突然やってきた堺商人の天王寺屋 (津田宗及)が名乗り出た。
堺の会合衆ならば、比叡山延暦寺・大和興福寺・摂津石山御坊を制御できると。
交易で栄えている堺は、朝廷や幕府、大名、寺院とも取引をしている。
しかも寺は全国に点在しており、その輸送を引き受けている堺衆が取引を渋ると、立ち所に寺の経営が干上がってしまう。
大名並に大きくなった為に流通を無視できない。
堺衆には武力で圧倒する力はないが、物資で交渉する余地があった。
だが、欲に駆られた商人が織田弾正忠家をもっと良い条件なら引き受けると脅してきた。
僧も欲深いが、商人も欲深かった。
俺は一度頭を下げて取引を続けるつもりだったが、織田信光叔父上が「駄目だ」と止めた。
武士は体面を重んじる。
舐められた儘で終われないと、平手政秀に相談した。
平手政秀は親父の知恵袋であり、僧や商人の『弁慶の泣き所』と呼ばれる向う脛を突いた。
圧倒的な力はある訳ではないが、朝廷の権威は侮れない。
僧侶の官位なども朝廷が与える。
僧侶が武家と争いになった時、朝廷の権威を借りて和議を結ぶ事も度々あったらしい。
平手政秀は、その朝廷に仲介を頼もうと言い出したのだ。
先月の終わり頃に、信光叔父上と平手政秀は京に上った。
六月一日に宮廷で『氷室の節会』が行われ、その席で熱田の酒が出された。
帝が好まれた特選の清酒だ。
同時に、宮中の各所でも清酒が振る舞われた。
その御所にきた武家・商家にも出された。
翌日から山科言継は寺や商人に特選と普通酒を売り出した。
信光叔父上は各所で宴を催して清酒を振る舞った。
酒の話題が広がってくると、清酒を売ってほしいという要望も上るようになる。
だが、まだ焦らない。
織田家が直に売ると、様々な所に迷惑が掛かると遠回しに断わった。
しかし、公家や武家の要望が強い。
そこで信光叔父上が堺衆を通じて、各寺のお抱えの藏に桶を売る話があると漏らす。
ここからは出来レースだ。
山科言継を中心に、飛鳥井-雅綱、近衛-稙家、九条-稙通が協力して、宮中の話題を作っていった。
雅綱の娘である目々典侍は皇太子の方仁親王の后の一人であり、目々典侍の協力で方仁親王の助力も得た。
雅綱が信光叔父上を呼んで酒を売る事を迫り、寺と堺衆を説得して頂ければ、売り上げの一部を朝廷に献上するという。
言継がどれほどの献金になるかと尋ねると、京に運べる量を述べて、最低でも毎年一千貫文の献金が可能という。
そこに言継が叫ぶ。
「毎年一千貫文の献金が納められれば、宮中のやりくりが非常に楽になりまする。ここは我らが協力して、この話をまとめましょうではありませんか」
献金が多ければ、補修工事やより多くの行事を開催できる。
つまり、役職をもらえる者が増える。
そうなると、織田派と今川派も関係ない。
延暦寺、興福寺、石山御坊、本圀寺、大徳寺などに手紙を出し、あるいは、公家が直接に足を運んだ。
六月七日、十四日の祇園祭でも酒は振る舞われ、宴会に出向いた信光叔父上の元に前向きに検討しているという話が人伝に伝わった。
祇園祭が終わった十六日に、本圀寺や大徳寺等々の寺々から正式に話し合いたいという返事をもらったが、延暦寺の返答を聞いてからと引き延ばす。
京で延暦寺を粗末に扱うと問題になるからだ。
武士と違うが、やはり面目や序列に拘る。
方仁親王が北野天満宮を訪ね、用事の序でに別当の覚恕を通じて、延暦寺の首座に帝の言葉が届けられた。
争いを好まぬ帝の性格も相まって、酒を巡って織田家と比叡山が争うのを避けてほしいというお願いだ。
二十日、帝が動いた事で延暦寺から大僧正が信光叔父上の元に遣わされた。
そこで平手政秀が言った。
「湖南三山に「常楽寺」「長寿寺」「善水寺」という天台宗ゆかりの寺があります。中でも善水寺は桓武帝が御病気になられた時に、伝教大師様は薬師様が出現されたこの池の水を掬い、病気回復の祈願をされてから桓武帝に献上されたとか。その水を飲まれた桓武帝は病魔を払ってお元気になられたとか」
「如何にも」
「善水寺の由来は、やはり老子の教えにある「上善は水のごとし、水はよく万物を利して争わず、衆人の恵む所に拠る」( 人間の理想的な生き方は、水のようにさまざまな形に変化する柔軟性を持ち、他と争わず、自然に流れるように生きること)という言葉から取られたのでしょう。延暦寺の酒は、黄金に輝く最上級の酒である事は間違いございません。対して、熱田の酒は無色透明であり、味もさらりとした呑み易さは『上善は水のごとし』でございます」
「それがどうした」
「さて、何者にも変わる酒でございます。当寺の酒と混ぜると、新たな酒に生まれ変わる事でしょう」
「真か?」
「どうかお試し頂けませんか。熱田の酒を比叡山が売るのではございません。熱田の酒は比叡山の酒を造る添え物に過ぎません」
「添え物か」
「また、熱田の酒を京で売るのは簡単でございますが、我らは延暦寺方々と争うのを望みません。天台宗を開かれた伝教大師最澄は『忘己利他慈悲之極』(己を忘れて他を利するは 慈悲の極みなり)という言葉を残されております。どうか慈悲の心でお聞き下さい」
「拙僧も御仏に仕える身である。考えぬ訳でもない」
まず、建前として比叡山が熱田の酒を売るのではないと面目を立てた。
次に、下位の寺に任せる事で比叡山には一文の損がない事を説明し、売り上げの一部を上がりとして上納させる事で銭が転がってくると説得した。
二十四日に堺衆の代表を召喚して正式な約定を公家に見届け役となってもらって結ぶらしい。
つまり、今日が比叡山との交渉の日だ。
明日は、本圀寺と大徳寺と結び、興福寺や石山御坊からも前向きに検討しているという手紙が届いたそうだ。
「千代、酒の販売が巧く行きそうだ」
「おめでとうございます」
「酒の納品は、来年の正月に間に合うように十二月からはじめる。桶の製造など各所にその準備をはじめるように手紙を出してくれ」
「承知しました」
これで最低限の売り先を確保できる訳だ。
売って、売って、売りまくるぞ。
織田信光叔父上から手紙が届いた。
延暦寺は平安京に遷都した桓武天皇の勅で比叡山に伝教大師(最澄)によって開かれた。
法による支配で国家の安寧を願って建てられた。
しかし、時代が経つと腐敗は進み、僧兵をもって帝や法皇を祈りと武力で自在に操ろうとする者も現れた。
室町第六代将軍の足利-義教など、比叡山と対立して比叡山焼き討ちを敢行した事もある。
他にも、第十一代将軍足利-義澄の管領細川-政元も比叡山焼き討ちをしている。
僧達が俗世にまみれて、欲と権力を欲して政に介入したからだ。
しかし、大名並に武力を持つ比叡山延暦寺の取り扱いは厄介だ。
信仰と武力を持つ僧達は厄介なのだ。
さて、酒を主に造っているのは僧であり、京で酒を売れば、その酒蔵と対立する。
対立せぬ為に考えた方法が『桶売り』だ。
大量に造った酒を桶ごと売って、「あとは、お好きにどうぞ」と販売を譲渡する。
手間のかかる酒を桶ごと買う事で銭が手に入る。
儲かるなら賛同すると考えた。
問題は、朝廷や幕府に対しても慇懃無礼(うわべは丁寧で礼儀正しいが、実は尊大で横暴)な僧達だ。
欲に目が眩んだ僧侶が無理難題を織田弾正忠家に押し付けてくる。
そんな厄介な僧の首に誰が鈴を付けるのか?
その後の手綱を捌けるのか?
そこが解決しないから棚上げにした案であった。
しかし、突然やってきた堺商人の天王寺屋 (津田宗及)が名乗り出た。
堺の会合衆ならば、比叡山延暦寺・大和興福寺・摂津石山御坊を制御できると。
交易で栄えている堺は、朝廷や幕府、大名、寺院とも取引をしている。
しかも寺は全国に点在しており、その輸送を引き受けている堺衆が取引を渋ると、立ち所に寺の経営が干上がってしまう。
大名並に大きくなった為に流通を無視できない。
堺衆には武力で圧倒する力はないが、物資で交渉する余地があった。
だが、欲に駆られた商人が織田弾正忠家をもっと良い条件なら引き受けると脅してきた。
僧も欲深いが、商人も欲深かった。
俺は一度頭を下げて取引を続けるつもりだったが、織田信光叔父上が「駄目だ」と止めた。
武士は体面を重んじる。
舐められた儘で終われないと、平手政秀に相談した。
平手政秀は親父の知恵袋であり、僧や商人の『弁慶の泣き所』と呼ばれる向う脛を突いた。
圧倒的な力はある訳ではないが、朝廷の権威は侮れない。
僧侶の官位なども朝廷が与える。
僧侶が武家と争いになった時、朝廷の権威を借りて和議を結ぶ事も度々あったらしい。
平手政秀は、その朝廷に仲介を頼もうと言い出したのだ。
先月の終わり頃に、信光叔父上と平手政秀は京に上った。
六月一日に宮廷で『氷室の節会』が行われ、その席で熱田の酒が出された。
帝が好まれた特選の清酒だ。
同時に、宮中の各所でも清酒が振る舞われた。
その御所にきた武家・商家にも出された。
翌日から山科言継は寺や商人に特選と普通酒を売り出した。
信光叔父上は各所で宴を催して清酒を振る舞った。
酒の話題が広がってくると、清酒を売ってほしいという要望も上るようになる。
だが、まだ焦らない。
織田家が直に売ると、様々な所に迷惑が掛かると遠回しに断わった。
しかし、公家や武家の要望が強い。
そこで信光叔父上が堺衆を通じて、各寺のお抱えの藏に桶を売る話があると漏らす。
ここからは出来レースだ。
山科言継を中心に、飛鳥井-雅綱、近衛-稙家、九条-稙通が協力して、宮中の話題を作っていった。
雅綱の娘である目々典侍は皇太子の方仁親王の后の一人であり、目々典侍の協力で方仁親王の助力も得た。
雅綱が信光叔父上を呼んで酒を売る事を迫り、寺と堺衆を説得して頂ければ、売り上げの一部を朝廷に献上するという。
言継がどれほどの献金になるかと尋ねると、京に運べる量を述べて、最低でも毎年一千貫文の献金が可能という。
そこに言継が叫ぶ。
「毎年一千貫文の献金が納められれば、宮中のやりくりが非常に楽になりまする。ここは我らが協力して、この話をまとめましょうではありませんか」
献金が多ければ、補修工事やより多くの行事を開催できる。
つまり、役職をもらえる者が増える。
そうなると、織田派と今川派も関係ない。
延暦寺、興福寺、石山御坊、本圀寺、大徳寺などに手紙を出し、あるいは、公家が直接に足を運んだ。
六月七日、十四日の祇園祭でも酒は振る舞われ、宴会に出向いた信光叔父上の元に前向きに検討しているという話が人伝に伝わった。
祇園祭が終わった十六日に、本圀寺や大徳寺等々の寺々から正式に話し合いたいという返事をもらったが、延暦寺の返答を聞いてからと引き延ばす。
京で延暦寺を粗末に扱うと問題になるからだ。
武士と違うが、やはり面目や序列に拘る。
方仁親王が北野天満宮を訪ね、用事の序でに別当の覚恕を通じて、延暦寺の首座に帝の言葉が届けられた。
争いを好まぬ帝の性格も相まって、酒を巡って織田家と比叡山が争うのを避けてほしいというお願いだ。
二十日、帝が動いた事で延暦寺から大僧正が信光叔父上の元に遣わされた。
そこで平手政秀が言った。
「湖南三山に「常楽寺」「長寿寺」「善水寺」という天台宗ゆかりの寺があります。中でも善水寺は桓武帝が御病気になられた時に、伝教大師様は薬師様が出現されたこの池の水を掬い、病気回復の祈願をされてから桓武帝に献上されたとか。その水を飲まれた桓武帝は病魔を払ってお元気になられたとか」
「如何にも」
「善水寺の由来は、やはり老子の教えにある「上善は水のごとし、水はよく万物を利して争わず、衆人の恵む所に拠る」( 人間の理想的な生き方は、水のようにさまざまな形に変化する柔軟性を持ち、他と争わず、自然に流れるように生きること)という言葉から取られたのでしょう。延暦寺の酒は、黄金に輝く最上級の酒である事は間違いございません。対して、熱田の酒は無色透明であり、味もさらりとした呑み易さは『上善は水のごとし』でございます」
「それがどうした」
「さて、何者にも変わる酒でございます。当寺の酒と混ぜると、新たな酒に生まれ変わる事でしょう」
「真か?」
「どうかお試し頂けませんか。熱田の酒を比叡山が売るのではございません。熱田の酒は比叡山の酒を造る添え物に過ぎません」
「添え物か」
「また、熱田の酒を京で売るのは簡単でございますが、我らは延暦寺方々と争うのを望みません。天台宗を開かれた伝教大師最澄は『忘己利他慈悲之極』(己を忘れて他を利するは 慈悲の極みなり)という言葉を残されております。どうか慈悲の心でお聞き下さい」
「拙僧も御仏に仕える身である。考えぬ訳でもない」
まず、建前として比叡山が熱田の酒を売るのではないと面目を立てた。
次に、下位の寺に任せる事で比叡山には一文の損がない事を説明し、売り上げの一部を上がりとして上納させる事で銭が転がってくると説得した。
二十四日に堺衆の代表を召喚して正式な約定を公家に見届け役となってもらって結ぶらしい。
つまり、今日が比叡山との交渉の日だ。
明日は、本圀寺と大徳寺と結び、興福寺や石山御坊からも前向きに検討しているという手紙が届いたそうだ。
「千代、酒の販売が巧く行きそうだ」
「おめでとうございます」
「酒の納品は、来年の正月に間に合うように十二月からはじめる。桶の製造など各所にその準備をはじめるように手紙を出してくれ」
「承知しました」
これで最低限の売り先を確保できる訳だ。
売って、売って、売りまくるぞ。
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