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第二章 魯坊丸と楽しい仲間達

三十二夜 いつも金欠な魯坊丸

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〔天文十七年 (一五四八年)夏五月十二日小雨〕
雨がしとしとと降ってきた。
昨日辺りから急に蒸し暑く感じられ、梅雨入りでもしたのだろうか?
昨日津行きの船が出たことで出荷も終わった。
何とか間に合った。
あとは京まで届くことを祈ろう。
しかし、政務所の控え室には山積みの帳簿の入った木箱が溜まり、さらに増えている。
帳簿を確認すると、支払いの許可申請を送ってくる。
定季が手形の発行許可書を書いて俺が署名する仕事はまだまだ続く。

「もう嫌だ」
「魯坊丸様は、この数日で筆使いが上達しましたな」
「褒めるより代筆にしてくれ」
「魯坊丸様がいらっしゃるのに代筆する意味がありません。それに魯坊丸様がはじめたことです。自分の尻は自分で拭くものです」

もうしばらく字が書けない振りをしておけばよかった。
今更、早まったと後悔する。
しかし、絵図面を書かないと説明が難しいし、絵図面を書けるのに文字が書けないという言い訳は苦しい。
ミミズが這ったような字が綺麗に整い出していた。
回数を熟すのが重要だ。
俺が意味のない愚痴を吐くと、連動するかのように隣の部屋でさくらも悲鳴を上げた。

「護衛の私が算術を習わないといけないのですか?」
「それが魯坊丸様の侍女になった者の仕事だからです」
「侍女長殿」
「楓と紅葉はもう事務ができるようになっています。新しく入った女中も写本を終えて、算術の練習問題をはじめています。女中に追い付かれますよ」
「和算と算術を覚えるなんて無理です」
「さくらは和算も禄にできないから算術しか教えていません。数を熟せば覚えます。八桁の検算ができないと、中根家では役に立ちません」
「私は魯坊丸様の護衛なのに・・・・・・・・・・・・?」

さくらの泣き言が部屋中にひびく。
四桁の足し算の練習問題を見て算盤をはじき、答えを書くが間違う度に侍女長の叱咤が飛んだ。
庭で掃除をしている小者らに護衛の任を引き継いだので、侍女仕事の引き継ぎに大忙しだ。
千代女は侍女長の仕事をサクサクと引き継ぎ終えた。
暇になった侍女長が新人の教育係だ。
一ヵ月で一人前にする為には、寝る間を惜しんでスパルタで叩き込む。
特に、さくら、楓、紅葉の三人は、俺が熱田や酒造所に行く時の護衛の任が残っており、中根南城に入る時間が少ない。
算術をマスターできていないさくらへの熱が籠もる。

「どうして、侍女がこんな仕事を・・・・・・・・・・・・?」
「その苦情は魯坊丸様に言って下さい」
「魯坊丸様ですか?」
「生まれた年は少し変わっていましたが可愛らしい赤子だったのです。それが年の瀬もせまる頃になると炭団を作り、その後に石鹸などを次々に作り出しました。そのお陰で私らも贅沢をできる銭を手に入れることができました」
「おぉ、魯坊丸様は凄い赤ん坊だったのですね」
「そうです。凄すぎました。そこから私ら、魯坊丸様付きの侍女は苦難の道となったのです」

これまで鬱憤が相当溜まっていたのか?
侍女長は堰を切ったように昔語りをはじめた。
侍女長は「魯坊丸様は昔からそうなのです・・・・・・・・・・・・」と、祖父の大喜嘉平と取引をしている頃がよかったと言った。
石鹸、竹酢役、蚊取り線香の収益で俺の収入が増えた。
俺に割り当てられた予算が潤沢に余っていたので、着物を新調し、自分好みの紅などを買うことができた。
また、俺のアイデアで食事も改善された。
良い事尽くめだった。
しかし、大喜家の長である五郎丸と付き合うようになる頃には、河原者を抱えて家を建てはじめた。
すると、大工の賃金、木材の購入費などを支払うのは侍女の役目となった。
政務方に申請して俺の予算から支払う。
申請書を書く為に、侍女ら帳簿を付けはじめた。
さらに、金山衆の蒸留器からはじまり、鉄砲、薬や茶の加工、麻織物の制作、野菜作り、網漁、椎茸作り、琉球交易と俺は手を広げていった。
その取引総額が中根南城の予算を超え、政務方が処理して、侍女らが確認する体制へ変わった。
さらに、水路や村の農地改造などの土木工事がはじまる。
俺が儲けた銭を中根家に貸し出し、中根家の予算を侍女らがチェックする。
季節が変わる毎に、次々と仕事量が増えて侍女だけで足りず、女中まで手伝わせた。
特に、侍女長は俺の体裁を整えるのが役目だ。
俺の交流も広がったが、その作法がわからない。
中根南城の年寄りも高位の方に対する礼儀作法を知る者はいなかった。
誰も知らないから粗相をしても仕方ないとはならない。
侍女長は知っている方と連絡を取って教えを乞うた。
恥も外聞も捨てて教えてもらった。
牧家などから守護などの高位を相手にする場合の儀式や作法、熱田の神官から公家様に対応する礼儀を学び、侍女長の人脈はかなり広くなった。
熱田神宮などに招かれた日までに、衣服などもすべてを整え終えた。
母上からお褒めの言葉を頂いたと自慢する。
しかし、そこから中根南城の様々な侍女から相談を受けることになり、俺の世話より周りの侍女等に礼儀作法を教えるのに忙しくなったとか。
最近も同じような愚痴を聞いた気がする。

「魯坊丸様にお仕えする者はできないでは済まされないのです」
「算術は必要ですか?」
「算術だけではありません。まだ、礼儀作法も残っています。行事によって服も変わります。着方も一つ一つが違うのです」
「大丈夫です。わたしには楓、紅葉という仲間がおります」
「さくら、それは無茶だ。誰が魯坊丸様の担当になるかわからない。全員が覚える必要があるだろう。連帯責任で千代女様から折檻を受けるのが嫌だからな」
「さくらさん。頑張りましょう」
「楓、紅葉も喋っている暇はない。早く必要な現金を捻出しろ。支払いに間に合わないと、魯坊丸様に恥をかかせることになる」
「侍女長。何故、儲かっている中根南城に銭がないのですか?」
「良い質問だ。教えてやろう」

侍女長が説明をはじめた。
俺はうどん、水飴、麻着、生活グッズなどを売って現金を調達している。
商人とのやり取りはほとんどが手形だ。
仮に、三百貫文の買い物をするとする。
一文が3.75グラムだ。
三百貫文なら30万枚となり、1125キログラムとなる。
(一貫 = 1000文 = 3.75キログラム)
150キログラムを積める馬を八頭を用意しないと持ち帰れない。
そして、逆に商品を売るときは馬八頭の背中に銅銭を積んでくることになる。
面倒過ぎるだろう。
それを三百貫文の手形にすれば、懐に仕舞って持ち運びができる。
常に売り買いをする商人との取引ならば、現金を持ち運ぶなど無駄な行為だ。
だから、互いに手形で取引をする。
俺の銭が儲けた銭の大半は熱田神宮と大喜屋の帳簿に記載されている。

まぁ、儲けた銭の倍以上の借財も残っているけどね。

だが、そんな借金生活も終りだ。
今月の酒の儲けは、滞納されている宮大工などに支払い、きっちりと精算してすっきりした。
来月には、米を用意してくれた同士に儲けと、米代金の一部を返還する。
今年中にすべての借財を返還だ。
そして、「借金生活よ、さようなら。貯金でウハウハな生活よ、こんにちは」だ。
しばらく、銭で頭を悩ませる必要がなくなる。

こほん、話は逸れた。
どうして中根南城に銭がないのかの話が続いていた。
要するに、商人との取引で銭が動かない。
しかし、皆に払う給金や小麦などの材料を買う商人は数多おり、前金で取引する者もいる。
献金も現金だ。
中根南城の銭は支出の方が圧倒的に多く、現金収入は少ない。
だから、必要な現金を大喜屋に命じて運んでもらう。
しかし、大喜屋も常に藏に大量の銭を余らせている訳もなく、前もって頼んでいないと足りないという事態もあり得る。

「つまり、毎月に支払う現金と手形の取引を分けて管理する必要があるのです」
「必要な現金を前もって用意するのですね」
「その通りです。ですが、中根家も余裕がある訳ではありませんから、必要以上の銭を藏に寝かせる訳にはいきません。帳簿の管理を一桁間違えば、大変なことになります」
「支払いができないということですか」
「中根家に銭がないなど、そんな噂を出す訳にいきません。その為の和算であり、算術なのです」
「わかりました」
「ですが、魯坊丸様が突然に変なことをします。突拍子ないものを買うことも念頭に置くことを忘れていけません。余裕を持たせるのが腕の見せ所となります」

侍女長がちらりと俺を見ながら、そう付け加えた。
何か言いたいことがありそうな目だ。
言いたいことがあるなら言ってみろと、睨み返した処で、表屋敷の家臣が廊下から声を掛けてきた。

「魯坊丸様。大喜五郎丸様がお越しになりました。客間に通して宜しいでしょうか?」
「五郎丸なら、こちらに来てもらえ」
「畏まりました」

話の腰が折れてしまった。
侍女長も他の女中の指導に移った。
すぐに、五郎丸がやってきた。
顔色が少し青ざめていた。

「話を聞きたくないが、話せ」
「あははは、大した問題ではございません。また、魯坊丸様にお手を煩わしますが、それほどの問題ではありません」
「その割に青ざめているな」
「大喜屋のやりくりをどうするかと頭を抱えていただけです。どうしようもない所は千秋様を頼ることになりますが・・・・・・・・・・・・」

あぁ、何となく察した。
五郎丸は末森城にいる信光叔父に会いにいった。
先日、酒代に四千貫文、手数料に一千貫文を請求した。
酒は一升10文だ。
そのほとんどが濁り酒であり、酢入りの濁り酒も珍しくない。
それと比べると、40文は滅茶苦茶に暴利のような気がするかもしれないが、河内の僧坊酒は70文で売られているので、それと比べれば安値で卸している。
それでも三千貫文の投資をしているので、払う義務はないと突っぱねるかもしれないと恐れていた。
どうやら親父はそちらの手を取ったようだ。
「魯坊丸様。大殿は無理なことは言われておりません。織田家に回す取り分から支払うように命じられただけです」

やっぱり支払う気がなかったのか。
信光叔父上が大盤振る舞いの献金をする話をしていたから、そんな気がしていた。
親父の命令なら熱田神宮は渋々でも借財に応じてくれる。

「魯坊丸様が千秋様に頼めば、千秋様はむしろ喜ばれます。借財は問題ありませんが・・・・・・・・・・・・」
「他の宮司の心象だな」
「その通りでございます。こちらも借りる額は減らすつもりですが、すべては出し切れません」
「伊勢の内宮と外宮のそれぞれに毎年三百貫文の献金をすることになった。熱田神宮には毎年五百貫文も織田家から献金する。その程度でどうだ?」
「それが妥当かと」

その献金も織田家への上納金から天引きだ。
織田家の借財は俺の借財じゃないと考えたいが、向こうから見れば一緒だよね。
俺の借金生活はまだまだ続く。
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