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第二章 魯坊丸と楽しい仲間達

閑話 津田宗及は心をふるわせた

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 〔天文十七年 (一五四八年)夏五月六日夜半〕
津田宗及は風呂から戻って宿の一室に戻ってきた。
宿場に風呂があるのは珍しい。
普通は井戸などで体を清めるに留める。
しかし、蒸し風呂ではなく、熱田の湯のような浸かる風呂であった。
風呂は十文だった。
更に、十文を出すと体を隅々まで拭いてくれる者もいた。
会議の土産でもらった特選酒を少し嗜んで気分もよい。

父の宗達が茶道楽をしたい為に宗及に天王寺屋の家督を譲り、20代で店の主人となった。
伊勢長島の願証寺がんしょうじ住職である証如しょうにょとの顔繋ぎの為にやってきた宗及であったが、そこで出された酒の味に驚いた。
透き通った無色の酒から豊潤な香りと、喉を焼くような酒度を感じた。
美味い。
詳しく話を聞くと、熱田に店を構える『大喜屋』から献上した新酒だそうだ。
秋から長島で売らせてほしいらしい。
売り上げの一部は一向衆に入るので上機嫌で話してくれた。
長島の寺も酒を造らせている土蔵はあるが、長島に訪れる教徒の数に対して酒の量は足りておらず、伊勢や熱田の商人などから買っている。
その1つが増えるに過ぎない。
長島の僧侶にとって問題ないらしい。
果たしてそうだろうか?
飲み応えのある酒を呑むと、今までの濁り酒は甘ったるいだけの水に思える。
これは売れる。
そう考えた宗及は帰る前に熱田に足を運んだ。

熱田の湊には多くの船が泊まっており、堺に負けない活気に満ちていた。
木の桟橋が所狭しとズラリと並ぶ。
だが、宗及が驚いたのが足元である。
足元に石が敷かれており、荷下ろしの荷物を運ぶのが便利だった。
道は熱田神宮の門前まで続く。
門を潜ると、小石を敷いた美しい砂利道となった。
社務所で用件を述べると、本殿隣の屋敷に案内され、そこに現れたのは大宮司の千秋季忠である。
何のツテもない宗及が大宮司と会えたことに驚いた。
まず神宮に献金する。
大宮司は堺のことをよく知っており、天王寺屋が代替わりしたことに驚かれた。
宗及も大宮司が父のことを知っていることに驚きが隠せなかった
それから酒を買いたいという用件を話すと、大宮司は大喜屋へ紹介状を書いてくれた。
大喜屋では大番頭が対応し、三斗樽10個なら譲れると言ってくれた。
季節毎にほぼ同じ量の酒が買えることになった。
宗及は譲り状を持って酒問屋に足を運び、船に荷を運ぶ手配をした。
そして、宿を取り、昼過ぎに千秋邸に足を運んだ。
大宮司が合わせたい方がいると言ったのだ。
千秋邸で宗及は魯坊丸と出会った。
魯坊丸は、非常に美しい面立ちの稚児であった。
だが、話を聞くと、魯坊丸の頭の回転が異常に速いことに気づいた。

「天王寺屋は、西国のどの辺りまで酒を売れますか?」
「博多まで船を出しておりますが、酒を売るというのでしたら、摂津、阿波、淡路、播磨辺りまで手広く商いをさせてもらっております」
「船の数はいかほど回してもらえますか?」
「回すとは?」
「空いている船をすべて借り切りたい」

熱田神宮が信用できないならば現金を用意するが、出来れば手形で取引をしたいと言われた。
三歳の稚児が手形を理解しているのに驚いた。
船に積む荷は、主に酒と米だ。
酒を売り、米を買って戻ってゆくと魯坊丸は言った。
天王寺屋が保有する船の数を知っているのか?
大した船の数を持っていないとでも思われたと勘違いした宗及は、“天王寺屋を馬鹿にしているのか”と思い、持っている数に四隻を水増しして答えた。

「それは助かった」

魯坊丸はそう声を上げて、すべて借りたいという。
宗及は申し訳なさそうに“無理だ”と正直に答えると、他の堺商人を紹介してほしいと真剣に言われたので虚勢ではないと知った。
織田家はとんでもない量の酒を造っていることを知ったのだ。
それから伊勢の神官で廻船問屋を紹介され、翌日に熱田の酒造所を案内された。
藏の中に入ると、大きな木桶がズラリと並ぶ。
河内の土蔵の酒蔵とはまったく違う光景が広がっていた。
大きな大桶の横に台の上で職人が櫂を回していた。
河内でも大甕で櫂を回していた同じ光景だが、大きさが五倍は違う。
つまり、人件費が五分の一で済む。
一つの藏で10個の大桶があり、ざっとみた感じで二十藏が目に入った。
奥にも道が続いていたので、他にも酒蔵があるのがわかった。

「昨年、帝から熱田の酒が美味いとお褒めをいただきました。今年の正月に少しばかりの清酒を献上したのですが、皆様に届けるには量が少なかったのです。それで帝にお届けする酒を造る為に酒蔵を新設しました」
「帝に献上する酒を造る為に新設されたのですか。ですが、少しばかり多くありませんか」
「お恥ずかしいことでございますが、帝に献上する酒は、清酒の中の清酒です。私は『特選』と名付けておりますが、二十藏に一桶できるかできないか。貴重な酒なのです。しかし、余った酒をどこかに売らねば、赤字になってしまうのです」
「二十桶に一つではなく、二十藏に一つですか」
「我が織田家は、帝の為に労力を惜しむつもりはございません。ですが、余った酒を売らねば、困るのです。後で『特選酒』と呑み比べてください」

帝への忠義の熱さを知らされた。
帝へ収める一桶を造る為に、百九十九桶が削ぎ落とされる。
安定して朝廷に収める為に津島にも酒造所を増設すると、魯坊丸は言った。
大量に余った酒を売る先が必要だ。

「帝に献上する酒が安値で売り買いされては、帝が安い酒を呑まれていると勘違いされます。高値で売る気はありませんが、安値で切り売りをするつもりございません。安値でしか買わぬというならば、川に捨てます」
「川に?」
「織田家の損と帝の威光。どちらが重いかなど比べる必要もないでしょう」

魯坊丸の言葉に宗及は衝撃を受けた。
損を恐れないのか?
商人ではなく、武家でもなく、それらを超越した言葉であった。
隣の伊勢神官の松本元吉は涙を流して、「伊勢神宮もよろしくお願いいたします」といい、魯坊丸は「天照大御神は国の礎です。伊勢神宮を疎かにできましょうか」と答えた。
魯坊丸は熱田明神の生まれ代わりと噂されるだけあって信仰心が強い。
津田宗及はそう感じた。
この貴重な酒を川に捨てさせてなるものか。
そう拳を強く握りしめた。

次の日、魯坊丸と別れて、末森の織田信秀、那古野の織田信長、守山の織田信光などを訪ねた。
信秀から商売の許可をもらい。
信長と信光に変わったものを献上し、様々な注文をもらった。
信長は鉄砲だ。
熱田に戻り、町で買い付けを行うと、東国の品ではなく、南蛮品などが手に入った。
織田は土佐の一条と取引をして琉球交易で南蛮品も手に入れており、売り付けより買い付けの方が多くなるという珍現象を起こした。
まさか、博多以外で南蛮品が買えるとは思っていなかった。

さらに翌日、先程の熱田の豪商を集めた会議で魯坊丸が出した数字に興味が湧いた、
出兵した敵の兵と、買い付けの米の値段で、相手の石高を把握する。
目から鱗だった。
多少の誤差があったとしても、豊作で石高が増えれば売れる米の量が増える。
売られる量で米価が下がる。
石高が多い国ほど、米価が下がるという単純なことに気づかされた。
今川義元は駿河・遠江・東三河を治め、国力は百万石の大大名だが石高が低い。
誰がそんなことに気づくだろうか?
宗及は魯坊丸が大人物になると確信を思った。

宗及の心を揺り動かしたのは、「酒を売るのではなく、桶を売る」という言葉であった。
尾張の名は要らない。
安値で売ることはしないと言われたが、尾張や織田の名を売る気もない。
売り手・運び手・買い手の三者で儲けも三等分する。
買った比叡山なら延暦寺の酒、大和なら興福寺の酒、摂津なら石山御坊の酒として売ってよい。
実際、伊勢は伊勢の酒として売る。
しかも、会話の中に造船の言葉が隠されていた。
魯坊丸は船が足りないなら船も造る気だと宗及は気づいた。
宗及の勘が告げる。
この魯坊丸の手を放してはならない。
この桶売りを成立させれば、莫大な利益を産む。
天王寺屋の看板をかけても取引を巧くまとめる自信がないが、堺の会合衆の力を借りれば呼び込むことができる。
堺の会合衆は大大名と同等の力を持っていた。
他の商人に儲け話をもってゆくのは癪であったが、今後も魯坊丸と付き合えば、僅かな損は切り捨ててしまえと思い切った。
そう思い切った瞬間に、宗及は叫んでいた。

会議が終わり、風呂に入って落ち着いた宗及は自分が担った役目の大きさを思う。
天王寺屋の家督を継いで、数万貫を動かす最初の大仕事だ。
絶対にまとめてみせると誓っていた。
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