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17. 二つの気持ち
しおりを挟む次の日——。
宣言通りというべきか、いつもより少しだけ遅い時間に、アンリはシニリントゥへとやってきた。昨日と変わらぬ、穏やかな闇色に包まれているその姿は、まごうことなき美貌の筆頭魔導師だ。
「ほんとに来てくれたんだ」
「ああ、来ると言っていたからな。少し遅くなってしまったが」
「ううん。来てくれて嬉しいよ。いらっしゃーい」
店に並ぶパンは残りわずか。
時間的に追加で補充する予定もないから、アンリとあともう一人か二人か来れば、完売になってお店も閉店になる。
連日の来店なんて初めてのことだから、どれを勧めようかな、と思案していると店の裏からエイラが顔を出した。
「リストー、申し訳ないんだけど、このまま一人で店番しててもらっていい?」
「いいけど、どうかした?」
エイラは閉店作業になるまで休んでいるか、ジャムや紙袋などの必要なものを作っているか、家の作業——子育てや家事——をしているはずだけれど……。
「それがね、夕飯を作るはずが、必要な材料を切らしていたのすっかり忘れてて。他のものでいいかって子どもたちに訊きたんだけど、ライノがどうしても譲らないのよ」
まだまだ赤ん坊ね、とエイラは困った顔で笑った。
「ああ、なるほど。ライノくんは意外と頑固だからなぁ」
「そうなのよ。まったく誰にも似たんだか。まあそんなわけで、ちょっと出てくるわ。主人は上にいるから、何かあったら呼んでちょうだい」
わかったと頷くと、エイラはアンリへと視線を向けた。
「アンリさん、いらっしゃい。昨日の今日って珍しいわね」
「やあ、エイラ。なに、リストの顔を来たのさ」
その返答に、胸がわずかに騒めく。
「リストの? ふふっ、それなら納得ね。もうそんなにパンは残ってないけど、良かったらゆっくり選んでいってくださいな」
いそいそと外出の準備して、店を横切って通りへと出ようとしたエイラは「そうだ」と何か思いついた様子で振り返った。
「ああ、そうそう。もしご迷惑じゃなければリストの話し相手になってくれたら嬉しいわ。主人がいるとはいえ、一階にこの子だけだと少し不安でしょう? 人攫いはもうずっと起きていないけど、真の犯人はまだ捕まってないとも聞くし」
「ちょ、エイラさんっ。アンリさんだって忙しい身なのに!」
まして、いつもは来ない連日の来店。きっと多忙な合間を縫って、俺の様子を見に来てくれたのだ。その彼を長い時間留めておくのは忍びない。
「いや、構わないさ。エイラさんが戻ってくるまで、リストに話相手になってもらうとしよう」
「話し相手って、それ俺のほうじゃん。もう……いいの? 塔のお仕事、忙しくない? エイラさんに言われたからって、無理して付き合わなくていいんだよ?」
念のため訊けば、アンリは朗らかに笑った。
「たまには、のんびりしてもバチは当たらないだろう」
「それじゃ、ちょっと行ってくるわね」
二人でエイラを見送ると、再び店は俺とアンリだけになる。
「エイラさん、強引なんだから」
「ははは。逞しくてなによりじゃないか」
「まあ、うちの名物女将だからねぇー」
誰も敵わないよ、と言えば、アンリも「違いない」と頷いた。
「ええっとー、見ての通りあんまり残ってないんだけど、今日はどのくらい買ってく?」
昨日も塔の人たちと食べてくれたのかなぁなんて思いながら、トレイとトングを取りに行く。昨日買ってくれた分がまだ余っているかもしれないから、昨日ほどは買っていかないかなぁ、なんて考えながら、くるっと振り返った瞬間——。
「う、わ……っと」
「リスト!」
ガタン、と大きな音が響く。
視界が急に下がったのは、俺が振り返った拍子に床に崩れ落ちたからだ。崩れ落ちたというか、転んだというか。
自分でも何が起きたのか理解できなくて、尻もちをついたまま目をぱちくりさせる。どうやら俺は、ほんの一瞬だけ目眩を起こして、その場で座りこんでしまったらしい。
情けないなぁ、なんて思っていると……。
「きみは馬鹿なのかっ!」
アンリらしからぬ鋭い声が頭上から降ってきて、俺は思わず首を竦ませた。
声を荒げたところなんて、今まで見たことがない。
あるとしても、あの夜、俺が不届き者に連れ去られかけた事件のとき。俺のもとへ走っていてくれたアンリが、俺の名前を呼んだときだ。あれだって、別に怒鳴ったわけじゃなくて、俺を心配しての声だった。
「ご、ごめん……」
床に座りこんだまま見上げれば、アンリが手を差し伸べてくれた。俺はその手を取って立ち上がると、カウンター奥まで連れられて、端に置いてあった丸椅子へと腰をかけた。
「すまない、声を荒げてしまって。……だが、今のきみの状態は看過できないな」
「うぅ……心配かけて、ごめん」
看過できないと言われるのは当然だ。まさかお客さんの前で倒れこむなんて。
昨日に引き続いて、アンリの前で情けない姿を見せてしまっていることに落ち込んでいると、彼は眉根を寄せて「そうではない」と答えた。
「たしかに、きみが無理を押して働いていることについても、咎めたい気持ちはある。だが、私が言いたいことはそうでない。そうではなくて——」
両肩にそっと置かれた手は大きく、しなやかだ。
「体が本調子でないのに、無理なんて……。私相手に、そういうことはしなくていいんだ」
「でも……アンリさんはお客さんで……」
無理したわけじゃなくて、もてなしたいだけなんだ。
でも、アンリは眉を顰めて首を振った。
「きみがいつも、私をもてなしてくれているのは十分にわかっている。あれこれ甲斐甲斐しく世話を焼かずともいい。こういうときこそ、私の前でくらい気を張らずにいてくれ。いいな?」
「う、うん……ほんと、ごめんね。それから、ありがとう。でも俺だってさ、ふらっていくとは思ってなかったんだよ。まあ言い訳だけどさ」
だって、万全な体調じゃないって自覚はなかったんだ。顔色だって、今日はエイラにもアンリにも指摘されていない。アンリからもらったクッキーのおかげもあって、体も軽い気がしてた。
まあただ、このところずっと体がどこか怠かったから、それに慣れちゃってて程度がわからなくなってたんだと思う。それを無理というなら、そうかもしれない。
「連日寝不足だというのは話していたが、やはり昨日も眠れなかったのか?」
「うーん……まあ、少しね」
アンリは床に落ちてしまったトレイとトングをカウンター奥へと片づけてくれながら問う。その姿に、俺は深く息を吐きながら答えた。そこで自分が思っていた以上に気を張っていたことに気がつく。……無理って、こういうことなのかな。
「悪い夢は見なかったんだよ、珍しく。これ、本当。アンリさんからもらったクッキーのおかげで体もだいぶラクだったし」
「役に立てたのならば良かったが……」
それならば何故? と言いたげな彼。青みがかった薄緑色の瞳は涼しげでいて、愛情深さを伝える柔らかな眼差しをしていた。
ああ……この人は、本当に心の底から俺に好意を寄せてくれているんだなぁ。
言葉でなくとも、寄せられるあたたかな想いにぎゅうっと胸が苦しくなる。と同時に、どうしようもないほどに感情が溢れる。——もう、このままではいられないんだと。唐突にそう思った。
「なんかね、いろいろ考えこんじゃったんだ」
昨夜、月明かりを浴びながら、俺はずっと考えていた。
西の空に月が傾いていき、東の空が徐々に白み始めるまでずっと。
ヴィヒトリの声が聞こえなくなってからも、自分と番と向き合っていた。
「アンリさんは、俺にすごく優しくしてくれるよね。それは……俺のこと、大切に思ってくれているからでしょ?」
突然語り始めた俺に、アンリが手を止める。
椅子に座る俺のすぐそばでしゃがんで、その真摯な瞳を向けてくれた。いつだって、俺の話を優しく聞いてくれるアンリ。今は一段と、その表情に誠実さが灯っている。
「俺さ、そこまで鈍感じゃないよ。だから、アンリさんからの気持ちだって、ちゃんとわかっているつもり。自意識過剰かな?」
いいや、とアンリは答えた。その反応に、俺は小さく笑う。
「ずっと、悩んでいたことがあるんだ。って言っても、きっとアンリさんにはとっくにバレてると思うけど。それでも、俺がこうして話すことに意味があると思うから、話をさせてくれる? もしかしたら、聞きたくない話もしちゃうかもだけど、それでも聞いてほしい」
「聞こう。何でも話してくれ。どんな話でも聞きたい」
「ありがと」
片膝をついたままのアンリに、壁に寄せてあったもう一つの椅子を勧める。
アンリはそこへ腰掛ける前に、店の扉にかかる『オープン』の看板をひっくり返してきてくれた。もとより、もう少しで閉店の予定だったシニリントゥは、完全に店仕舞いとなった。
彼の気遣いに感謝して、アンリが椅子に座ったところで俺は口を開いた。
「俺に『番』がいることは知ってるよね。名前はヴィヒトリ・ヒルトネン。俺の伴侶で、アルファの騎士で……三年前に亡くなった、俺の最愛」
頷くアンリに、俺も小さく頷く。
頭の中に浮かぶのは、最愛の男の姿だ。豊かな秋の大地よりも深い茶色の髪に、夕闇の迫る昼と夜の間の空みたいな青い瞳をした、精悍な騎士。
無愛想で寡黙なように見えて、人一倍愛情に満ち、誰よりも勇敢で誠実で真面目だった、俺の愛しい番。仲間のために命を落とした、どうしようもないほどに最後まで騎士を全うした男。
「ヴィヒトリのことは、今も愛している。俺の一目惚れで始まった関係だけど、すっごく仲は良かったし、ヴィヒトリも俺のことはずっと好きでいてくれたと思う。もしヴィヒトリが空から見守ってくれているとしたら、今この瞬間も……ヴィヒトリは俺を愛してくれている。そして、俺も彼を愛してる」
アンリは俺の語りを真剣に聞いてくれている。
「でもね。——俺、好きになっちゃったんだ」
ふっと目が合う。赤い瞳と、薄緑色の瞳がぶつかる。
ブルートルマリンみたいな瞳が驚きのままにはっと見開いていた。いつも穏やかな彼が見せる表情に、俺は頬を緩ませた。
「アンリさんのこと、好きだよ。常連さんとしてじゃなくて、ちゃんと、そういう……恋愛の意味で好きなんだ」
「リスト……それは……」
息を呑むアンリに、心の隅でこれで良かったのかな、と少し不安になる。
でも、同じくらい心の中心のほうでは、今さら話を止めたいとは思わなかった。むしろ、今の俺の気持ちをアンリに聞いてほしい。伝えたい。知ってほしい。
「うん。つまりは、両想いってこと。けどさ……これって、不誠実じゃない?」
俺がアンリに話したいのは、彼への想いだけじゃない。
「アンリさんのことが好き。だけど、俺はヴィヒトリのことも愛してる。ヴィヒトリへの気持ちは絶対に忘れられないし、失われない。……二人の人を同時に好きになるなんて、俺ってダメなやつでしょ。ヴィヒトリにも、アンリさんにも、どっちにも悪いってわかってるのに、気持ちが止まらないんだ」
口にすると、改めて自分の矛盾した心に傷つく。
アンリに伝えたいという気持ちと同じくらい、この気持ちを口にするのは怖かった。空から見守ってくれているヴィヒトリに悪いという気持ちがあったし、口にすればこの気持ちに目を瞑れなくなってしまうから。
「そんなことを、もう何日も考えてる。昨日もアンリさんからもらったクッキーを食べていたら、そこに籠った愛情をすごく感じてさ。なんていうのかなぁ……たまらないなぁって思った」
「それは……私の気持ちが、きみに無理をさせてしまったな……」
眉を顰めたアンリに、俺は首を振った。
「ううん、違うんだ。嬉しかったんだよ。——うん、俺はすごく嬉しいんだ。アンリさんから向けてもらえる好意がすごく嬉しい。だから、アンリさんと想いを通じ合えていることに、幸せを感じずにはいられない」
今こうしてアンリに話を聞いてもらえていることも。
アンリが俺の気持ちに寄り添おうとしてくれていることも。
ずっと……きっと、出会ってすぐの頃から、俺は、優しくて愛しい感情を惜しみなく、静かに、ただただひっそりと向け続けてくれたことが嬉しかった。
彼からのぜんぶが、嬉しいし、幸せだとも思う。
「……だから、苦しくてたまらない」
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