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16. 甘いクッキー
しおりを挟む落としどころのない想いに蓋をして、見なかったことにして、俺は心の底で燻るようになってしまったもぞもぞとした気持ちの代わりに、穏やかに見えるような笑顔をアンリへと向けた。
「ありがとね、ほんとに。——さてと、パンはこれで全部かな。それと……はい、今日のおまけはスノーボールだよ、ってクッキーをもらった手前、なんか当てつけみたいになっちゃってるけど、そーいうんじゃないからね?」
おまけでつけている、ちょっとしたお菓子や軽食たちは毎回つけているわけじゃない。週にすれば一度か二度ほど。そのほとんどがご主人やエイラを真似て「自分たちも何か作りたい」という子どもの望みを叶えたついでみたいなものだ。
今日はたまたま、そのおまけがある日で——まあ意図的じゃないんだけどアンリが来店してくれる日になることは多いんだけど——しかも、たまたまスノーボールクッキーと呼ばれる丸いクッキーに粉砂糖をまぶした、雪玉みたいな可愛いお菓子だった。決して、アンリがクッキーを持っていることを見抜いていたわけじゃない。
「ははは。なら、今夜の試作品はそちらを参考にさせてもらうかもしれないな。まあ、それほど美味しいスノーボールにはならないとは思うが……」
「あ、それなら。結構簡単だからレシピ教えよっか?」
と言っても、普通のクッキーのレシピとそう変わりはないけれど。
でもアンリはお言葉に甘えて、と答えてくれたから、俺はカウンター横からメモ帳を引っ張り出して、材料と手順を書いてから手渡した。
「アンリさんからもらったクッキー、残りは仕事終わりにいただくね。あれがあれば明日も元気に過ごせそう」
「なら、明日も来るとしようか。今夜の試作品が上手くできればだが」
「えー、連日は悪いよ」
社交辞令だとしても、あたたかな言葉は俺の心をあっという間に攫っていく。
「まあ、でも……アンリさんが来てくれるのは、嬉しい、かな」
つい漏れ出た言葉は、隠し切れなかった本音だった。
◇◇◇
その日はアンリからもらったクッキーの力もあってか、閉店まで何事もなく仕事をこなすことができた。エイラからも「顔色がよくなった」と言われたくらいだ。
俺自身、連日の睡眠不足がたたって重かった体が随分とマシになったと感じていた。
さすがに『試作品』というだけあって、練り込まれた魔法の効力はさほど大きくはないのか、力に満ち溢れるなんてことはなかったけど。それでも、じんわりと痛んでいた目の奥や、気持ち悪さのあるお腹の奥も、心なしか軽くなっていた。
「ただいまー」
シニリントゥの仕事も終えて、自宅に帰ってきた俺は、共有スペースの玄関をくぐって声をかける。アンリからもらった残り二枚のクッキーは、鞄の中にしっかりとしまいこんである。なんだか、それだけで勇気をもらえている気がして、声も弾んだくらい。
「おかえり、リストくん」
「やあ、おかえり。お仕事お疲れさま」
迎えてくれるあたたかな声に、自然と笑みが浮かんだ。
このシェアハウスに暮らすようになって、良かったなと思うところはたくさんある。もちろん、ここに来ないことが一番良いことなのには違いないけれど……。でも、過去は変えられない。それなら、せめて少しでも楽しく暮らせるほうがいい。
だから、この家での暮らしは満足している。
「今日はパンのお裾分け、持ってきたよー。みんなで食べよ」
「やった。僕、リストくんのとこのパン、すっごく好き」
ミカにバスケットを手渡して、俺は荷物を自室へ置きに行く。それから、洗面室で手洗いとうがいをすませた。そのまま食堂へ向かうと、同居人たちがお茶を飲みながら談笑していた。そこに俺もすっと混ざる。
ただいまと、おかえりの挨拶。
それから、何気ない日々の会話。
一人でぽつんと暮らしていたら、帰ってきても「おかえり」と迎えてくれる人はいなかった。あるいは、「おかえり」と迎えてあげる相手も。それどころか、きっと「ただいま」という言葉すら忘れていたかもしれない。
この家を包む、優しい空気に、俺はいつだって救われている。
「さぁて、ご飯にしよう」
料理自慢の同居人が席を立ったのをきっかけにして、みんなでわいわい言いながら、キッチンと食堂でそれぞれに準備をする。あたたかい光景に、疲れも悩みも癒やされる思いだった。
それから同居人たちと食事をとって、食後の歓談を少し楽しんでから、俺は自室へと引き上げてきた。
書物机のそばに置かれた椅子に腰かけて、窓から空を眺める。夜の帳が落ちていた紺色の空には、満月からは少し欠けた月がぽっかりと浮かんでいる。たしか満月は、三日前の夜だった。
月明かりのおかげで、今夜は夜更けでもかなり明るい。俺は部屋の照明も、机の上に置いてあるランタンもつけずに、薄ぼんやりとした暗がりの下で、そっと夜空を眺めていた。
(アンリさん、元気かな……)
手元にあるのは、手のひらサイズの包み紙。
アンリからもらった、残り二枚のクッキーが包んであるものだ。
特にリボンやメッセージカードが添えられているわけじゃない。くすんだ白い紙でささっと包んだだけのそれは、本当に『試作品』として作ったであろうことを物語っている。魔導師としての真摯さの中に、優しい気遣いが浮かんでいて、なんとも言えない気持ちになる。
俺は一枚のクッキーを摘んで、口へと放った。
「……甘いなぁ」
サクリとした食感と、ほんのり甘い素朴な味わいが俺の心を満たしていく。
ただ夜空に浮かぶ月と星を眺めながら、その優しさを味わう。
今頃、アンリは何をしているだろう。
今夜もあの塔に籠って、人々のために魔法の研究をしているんだろう。大きな作業台にいくつもの研究道具を並べて、うんうん頭を捻らせているのかもしれない。今日もクッキー研究のお手伝いをするとも話していたから、作業台に並ぶのは研究道具じゃなくて製菓道具かもしれないけれど。
「優しくされたらさ……絆されちゃうよ……」
ぽつりと漏れた、小さな心の声。
折りたたみながら、椅子の上に引き寄せた両膝に、俺はこてんと頭をのせた。
クッキーのおかげか、じんわりとお腹の内側があたたかい。
頭の中に思い浮かぶのは、二人の男だ。
一人はもちろん俺の番、ヴィヒトリ。
彼を忘れた日はたったの一日だってない。もう生きているヴィヒトリを見ることはないけれど、俺の中ではずっとずっと生きている。その顔や声、ちょっとした仕草を一欠片だって忘れたくない。
でも……人の記憶っていうのは残酷だ。俺がどんなに忘れないでおこうと決意していても、どうしても小さな欠片が少しずつ、少しずつ、俺の手のひらからこぼれてしまっている気がするんだ。細かい砂のように、すべてを手の中に収め続けることができないでいる。
今はまだ、彼との思い出に溢れているのに。——いつかは、溢れんばかりの思い出は小さな箱に収まるくらいになってしまう。そして、俺の心の奥に大切に置かれるんだろう。
どうしたって、どう足掻いて、もがいたって、俺が生き続けていく以上、ヴィヒトリのいない時間は積み重なっていって、彼がいない記憶は増えていく。このシェアハウスでの日々、パン屋・シニリントゥでの日々、そこでのお客さんとのやりとり。アンリとの何気なくも楽しい会話。
俺の心に浮かぶもう一人の男。アンリは、きっと俺のことを慕ってくれている。そこに多少の恋慕が入っているのにも、薄々は気づいている。
それに……俺も、彼にはそれなりに良い感情を抱いている。——かつて、ヴィヒトリに向けていたような、熱を帯びた感情を。
こんな気持ちを抱くなんて……。
今でも、ヴィヒトリを愛している気持ちに嘘はない。
でも……その愛と異なる感情が、俺の奥のほうで育ち始めている。
「ヴィヒトリ、俺はどうしたらいい……?」
愛する男に向けて、こんな弱音を吐くのは不誠実だよね……。
でも、俺が一番信頼を寄せていたのは紛れもなくヴィヒトリだから。
彼がもし生きていれば、アンリとの距離感に悩むこともなかった。だから、こんなことをヴィヒトリに相談することは本来ならば絶対にあり得ない。なのに、俺は心の中で縋ってしまう。それを不誠実と言わずして、なんと言えばいい?
ねぇ、ヴィヒトリ。
ヴィヒトリは今、はるか天高い穏やかな場所で何を考えて過ごしているの?
俺のことは忘れてない? 遠くから、見守ってくれている?
はるか遠くから見てくれているのなら……今の俺を見て、何を思っているの?
心の中のヴィヒトリに語りかけても、紺色と月色に染まる空の果てに語りかけても、現実での返事はない。
聞こえてくるのは、しんと冷えた冬の空気に溶けていく寒風の音と、その風に震える木の枝の音。それから、思い出の中の彼の声。
もしヴィヒトリの声がはっきりと、意思を持って聞こえくるとするのなら、それは俺の願望から生み出された幻の声には違いない。
そんなことがわかっていても、俺の中に居続けてくれるヴィヒトリに問いかける。
——ねえ、俺はヴィヒトリを裏切っているよね?
その問いに、記憶の中のヴィヒトリは穏やかに微笑むだけ。
あまり大きな感情表現をすることがなかったヴィヒトリだけれど、ささやかな反応を俺はよく理解していた。今は楽しいんだろうなとか、悩んでいることがあるのかなとか。
なのに、今は彼がどんな気持ちでいるのかが読めない。
『リスト』
甘くて低い声が、俺の名前を呼ぶ。
でも名前を呼ぶだけで、何も答えてはくれない。
「何か言ってよ、ヴィヒトリ」
震える声は宙に溶けていくだけで、愛しい番の耳朶を震わせはしない。
夜空の向こう、目蓋の裏に蘇る彼はあたたかな目をして微笑むだけ。けれど、たぶん、別の男に心を揺らす番を見て、喜ぶわけがない。
ただでさえ、アルファは独占欲が強いのだ。
ヴィヒトリは堅物そうな雰囲気と裏腹に、俺への愛情は情熱的だった。だから、たとえ彼がもう生きていなくても、俺を誰かに渡したくないって思うはず。……思ってくれているはず。昔も、今も、この先も。
それが嬉しくて、愛おしくて。
同じくらい苦しくて、寂しくて、たまらない。
『リスト、愛している』
何度も何度も聞いた愛の言葉を、何度も何度も思い出す。
二度と更新されることのない、愛の言葉を何度も何度も、何度だって。この先も、永遠にずっと、何度だって聞いていたい。
『ずっと愛している』
「俺だって……俺だって、愛してる……」
『ありがとう。リストだけ、俺の番はリストだけだ』
「俺だってそうだよ……っ」
記憶の中のヴィヒトリとの会話は、そう長くは続かない。
やがて霧散していくヴィヒトリに、涙が溢れる。
頬が濡れるのもそのままに、俺は残り一枚のクッキーを齧った。
昼間と変わらず、甘いクッキーは俺を慰め、切なくさせた。
◇◇◇
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