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10. ヴィヒトリの番
しおりを挟む「あ、あれ? おかしいな……」
震える手といい、突然溢れる涙といい、どうやら俺は思っていた以上に怖かったらしい。一度自分の状態に気づいてしまってからは、もうダメだった。
ボロボロと涙は溢れるわ、今さらながら手だけじゃなくて体も震えるわで、自分でもどうしようもない。みっともないけど、止まらなかった。
「ご、ごめん。俺、なに泣いてんだろ……」
いい歳した大人なのに……と紡ごうとした言葉は、そっと空気に溶けた。
代わりに、ふわりと安心感のある何かに包まれる。
アンリに抱き寄せられていることに気がついたのは、しばらくしてからだった。
「強がらなくていい」
「アンリさん……」
その抱擁は、恋人とか恋慕のある者から向けられるものじゃなくて、たとえるなら子どもをあやすようなもの。慈愛のこもったあたたかさが、そこにはあった。
ぐずぐずと泣く俺を少し体温の高い体ですっぽりと覆って、ただただ、落ち着かせようと包んでくれている。思い出された恐怖にどくどくと早鳴っていた俺の鼓動は少しずつ落ち着いていく。背中に回った手はとん、とん、とゆっくりとした速度で優しく撫で叩いてくれていた。
+ + +
俺がようやく落ち着いた頃、夜は随分と更けていた。
大捕物になったところは街のはずれだったから、周囲に民家はほとんどなくて、あるのは人気のない物置小屋や、騎士団や警邏隊の詰所くらい。俺が騎士団に助けてもらった直後は、少し離れたところに住む人たちが野次馬に来ていたけれど、それもさすがに落ち着いている。
犯人たちもいつの間にか護送されていて、俺はヘルマンとアンリに連れられて帰路を辿っていた。
俺が揺られてるのは、アンリが手綱を握る馬の上。
騎士団が所有する箱馬車で送ろうかとも言われたんだけれど、馬車の揺れでさっきの一連の出来事を思い出してしまいそうで……。青い顔をして悩んでいたら、馬ならどうかと言われて頷いたのだった。
背中に触れる体温は、さっき抱き寄せられたときと同じ。
見知らぬ人間に襲われて、暴力とは言わずとも乱暴な扱いを受けたのは、自分が思っている以上に衝撃的だったらしく、安心感のある人の体温はさざめき立つ心を幾分か宥めてくれていた。
「怖かっただろう」
馬に乗っていると、すぐ耳元で労る声が聞こえた。
ゆっくりとした並足で馬を歩かせながら、アンリが訊ねた。
柔らかな声色に、ついまた涙腺が緩みそうになるのをなんとか堪えて「うん」と首を縦に振る。
「番持ちなのに、襲われるだなんて思わなかった……」
つい先日、アンリから行方不明事件の話をされたときは、まさか自分が被害者になるとは思ってもみなかった。今までの事件の犯人と、今回俺を襲った犯人が同一人物かはまだわからない。けれど、自分が危険な目に遭うとは、今の今まで露とも考えてなかったのだ。
危機意識が足りないと言われれば、それまでだけれど……。
でも、無作法者に襲われたとしても、うなじの噛み痕を見れば連れ去ったり、無体を働こうとは思わないだろうと高を括ってた。
だって、番持ちなんて、番以外から見れば何のメリットもない。
対象としてオメガなり女性なりを攫うという非道の目的は、だいたい想像がつく。となれば、番持ちはむしろデメリットばかりだって……そう思ってた。
「容姿がすべてではないが、きみは綺麗だからな。鑑賞するだけでもいい、という者は多いだろう。単純な労働力としてなら番持ちも何もないしな。まあ、どんな理由であっても誘拐など許されることではないが」
そういう考えがあるんだな、と俺は認識を改めた。
ほとんど市井に降りて暮らしているから、色々知った気でいた。でも、こういうときに、自分は貴族出の世間知らずな面があるんだなって思い知る。
ヴィヒトリが生きていた頃、一人で街を出歩くのは昼間だけだったし、それだってそうそうなかった。ヒルトネンの家の手伝いをしていたときは、家の馬車が送り迎えをしてくれたし、出掛けるときはヴィヒトリが一緒のときばかりだったから。
ヴィヒトリはあれでいて、独占欲の強い人だった。だから、俺が一人であちこち出歩くのはあんまり好きじゃなかった。
俺もヴィヒトリと一緒にいるのが好きだったし、束縛されてるって気持ちもなかったから、不思議に思わなかった。それが普通で、二人の日常。
今思えば、俺はずっとヴィヒトリに守られていたんだ。
「それに……何年か前に、番を解消できる魔法ができたからな」
「え?」
アンリが継いだ言葉に、俺は思わず振り返った。
と、すぐ後ろで体を支えてくれていたアンリと目が合う。その目は冗談を言っているようには見えなかった。
「俺、全然知らなかった」
「まだ研究段階で、広く知られているものではなかったから無理もない。副作用があって、まだ実用的ではないものだった。一部の貴族やそこから紹介された者が研究協力という名目で施したくらいで、過去の例もそう多くはないんだ」
危ないから前を向いて、と優しく言われて、慌てて首を前に向ける。
視線はまっすぐ、先へと続く夜道を見たまま、俺はアンリの話に耳を傾けた。
アンリ曰く、その副作用ってのは様々らしい。
短期間の目眩や頭痛、吐き気くらいで済むものもあれば、手足や指先に痺れが残ったり、慢性の食欲不振に陥ったりなんていう継続的な後遺症ともとれるものもあるという。死に至るものはないらしいけれど、たしかに施術を受けるかどうかは判断に迷うところだ。
自分の意思で番を解消できるアルファと違って、解消できないオメガは場合によっては「番でいること」自体が苦痛を伴うことだってある。俺みたいにパートナーを亡くしただけじゃなく、無理やり強いられたり、事件・事故的な理由で番になってしまうこともあるからだ。
相手のアルファが解消しない。
でも番関係のままでは苦しい……。
そんなオメガが、背に腹はかえられないと苦渋の思いで決断をして、その魔法の研究に協力したんだろう。
「じゃあ、もし犯人たちがその魔法を使えちゃったら、俺は危なかったんだ」
「解消の魔法を使える者は限られるが……まあ、そうなるな」
どちらにしても、副作用を受けるのは施術を受ける人——つまり、番を解消したいオメガだから、そのオメガを攫おうとする犯人には何のデメリットもない。番解消の魔法が使えるのなら、悪人は躊躇わず使ってしまうと思う。
使える人が多くないから、俺はたまたま助かっただけなのかもしれない。
そう思うと、ぞっとした。けれど、告げられた衝撃には続きがあった。
「——じつは、最近になって副作用のない新しい魔法ができた」
躊躇いがちに伝えられた話に、俺は瞠目する。
前に向けていた顔を再び後ろへ向けてしまって、アンリからまた「危ないよ」と言われてしまう。
しっかりと体を支えてくれているから馬から落ちたりはしないだろうけど、俺が馬上であっちこっちに動いたら、手綱を持つアンリに迷惑になる。俺は、今度こそしっかり前を向きながら口を開いた。
「副作用がないってことは、誰でもその『番関係を解消する魔法』を受けやすくなった……ってことだよね?」
もしそうなのだとしたら、それはオメガにとって念願の魔法だ。
これまで番関係を解消できるのはアルファだけだったから、望んでいない関係を結ばれてしまったオメガは我慢し続けて、時にはアルファが解消してくれるのを頼み込み、祈り続けなければいけなかった。
でも、副作用もない形で解消できる方法があるなら、苦しんでいたオメガが救われる。画期的な発明は、今後のオメガに対する見方や、オメガ自身の生き方すらをも変えてしまうかもしれない。
「あー、でも……」
夢のような魔法なら……。
「そんなすごい魔法なんだし、やっぱり高価だろうな」
副作用があったという前の魔法も、使える人は少なく、研究段階なこともあってか貴族界隈しか知らなかった代物だ。きっと新しい魔法ってのも、使える人は少ないはずだし、高価なんだろう。
やっぱり、そう上手くはいかないのかな、なんてぼんやり考えていると、アンリは思いがけない言葉を紡いだ。
「……リストは……きみにとっては、あまり好まくない言い方かもしれないが、番関係を解消したいとは思わないのか?」
「え? 俺?」
また後ろに向きそうになるのをすんでのところで堪えて、代わりに問われたことを考えてみる。馬はまだ、夜の街をゆっくりとした歩調で進んでいた。
俺がすでに故人となった伴侶と番関係であることは、シニリントゥによく通っているお客さんなら誰もが知っていることだ。当然、アンリも知っている。
アンリがこの街に来たのはヴィヒトリが亡くなったあとだから、二人の面識はない。けれど、ヴィヒトリは騎士としても、名門貴族の次男としてもそれなりに名が通っていたから、アンリはヴィヒトリのことを知っている。騎士だったことも、俺の伴侶だったことも、仲が良かったことも。仲間を庇って命を落として、俺を置いて逝ってしまったことも——。
「うーん……そうだねぇ……」
馬に揺られながら、俺はヴィヒトリのことを想った。
ヴィヒトリも馬の扱いに長けていた。俺も貴族の端くれではあったから嗜みとして乗馬は習ったことがあるけど、あんまり得意じゃなかった。それでよくヴィヒトリに手解きしてもらったっけ。結局、あんまり上達はしなかったけど。
だから、遠乗りをするときはヴィヒトリの馬に二人で乗ったこともある。今みたいに俺は後ろに背中を預けて。……もうその相手はこの世にいない。
——ヴィヒトリの番をやめる。
それは、俺にとってまだ、途轍もなく大きなことだ。
いや、『まだ』なんて言ってるけれど、俺はヴィヒトリのことをずっとずっと思っていたい。ただ、それだけなんだ。だから……。
「俺は……ヴィヒトリのことが好きだから。もし他の人が『番を解消する』って言っても、薄情者だーなんて微塵も思わないけどさ。でも俺は……まだ、番のままでヴィヒトリを想っていたい。……それだけなんだよ」
そう答えれば、背中から「そうか」と、アンリの声が聞こえた。
その声にあまり感情はのっていないように聞こえて、俺はそっと息をつく。
(まあ、理解はしづらいよね……)
アンリに番がいるかは知らないし、恋人や大切な人がいるかも訊ねたことはないけれど。
でも、番のことも魔法のことも——妬みとかじゃなく事実として——『できない』苦労はそれほど多くないであろうアルファの彼からしたら、苦労をしてでも亡くなった番に操を立て続ける俺の状況は理解しづらいのかもしれない。
オメガが作れる番は、生涯に一人だけ。けれど、アルファは何人でも番を作ることができる。だから……言い方は悪いけれど、オメガほど『唯一』という気持ちが薄くても不思議じゃない。
まして、アンリは塔に勤める筆頭魔導師だ。便利な魔法を生み出し、より良い魔法を研究することを生業にしている彼としては、副作用もなくなった便利な魔法を使わないなんて選択肢は考えられないと思う。
(でもさ。俺は、ヴィヒトリが好きだから)
番のいない発情期がつらくても、俺はヴィヒトリの番でいたいんだ。
彼を忘れて生きていくより、ずっといい。
紡げない愛の言葉を心の中にそっと留めて、俺は引き続き、アンリと一緒に馬に揺られて帰路に着くのだった。
◇◇◇
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