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08. 初恋の思い出

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「マティアスくんは、どんな方が好みなんですか?」

 その唐突な質問は、酒がほどよく回ってきたところで投げられた。

「突然ですね……」
「まあまあ、いいではありませんか。お酒の場というのは無礼講とも申しますし。せっかくマティアスくんとお近づきになれたんですから、為人ひととなりが知りたいと思うのは当然でしょう?」

 アルテュールは、にこにこと穏やかな笑みを浮かべていた。
 そんな人の良い笑みを向けられて、優しげな声でそう言われると、それもそうかと思ってしまう。アルテュールは不思議な男だ。言葉一つ一つがマティアスの心にぴたりと寄り添う気がする。

 けれど、彼の問いにマティアスは上手く答えられそうにはなかった。

「んー……そうですねぇ……思慮深くて優しい方、でしょうか」
「なんとも無難な答えですねぇ」
「あはは……」

 それというのも、マティアスは恋をしたことがない。
 あえて言うなら、幼い頃に仲の良かったお兄さんへの想いが一番恋に近い。

 けれど、そう思うのには当時のマティアスは幼すぎた。
 思い返してみると、きっとお兄さんに恋情に近い感情を抱いていたと、大人になった今のマティアスなら察することができるくらい。しかも、本当にそんな気持ちだったかは正直あまり自信はない。

 そのお兄さん以外で、恋と呼べるような想いを抱いた相手はいなかった。
 告白をされたことはあるのだけれど、その人へ、自分に向けられるものと同じだけの気持ちを向けられなかったので断ってしまった。

 ——人を好きになるというのは、難しい感情だ。

 幼い頃のように『仲が良いから好き』と言えるほど、マティアスはもう子供でもない。恋情や性欲というものが存在することはさすがに知っているけれど、それがどういうものかはまだ未知数だ。
 だから、マティアスはまだ恋を知らない。

(いつかは僕も、お兄さんへ向けたみたいな気持ちを持てるのかな……)

 マティアスは無意識のうちに、片耳についたピアスに触れた。
 と、それに気づいたようにアルテュールが訊ねる。

「そのピアス……」
「え……?」
「大切そうにされていますが、何か特別な思い出でも? ……もしかして、かつての恋人から贈られたものとか」

 ピアスに向けられたアルテュールの視線は、なんとも不思議なものだった。過去への憧憬、あるいは感傷——そんな色を帯びていた。
 それを不思議に思いつつも、マティアスは答えた。

「あーいえ、そういうんじゃなくて。でも……特別といえば特別、ですかね」

 もちろん、このピアスは、かつての恋人からの贈り物ではない。そもそも恋をしたことのないマティアスに、かつての恋人など存在しない。

「友人のような、初恋の相手のような……そんな方から貰ったものなんです」
「初恋の相手、ですか?」
「はい。僕が幼い頃、近所に住む仲の良い年上のお兄さんがいたんです。とても仲が良くて、僕は彼のことをすごく慕ってました。あーほら、アルテュール様が占星術を見せてくださったときに話した、真似ごとのようなもの——それを見せてくれたのも彼です」

 小さな星空を見せてくれた、優しいお兄さんのことを思い出す。

「……ある日、彼は突然引っ越すことになってしまって。これは、その彼がお別れの日に『また会えるように』と片方だけくれたものなんです」

 真鍮製のピアスは、星をモチーフとした小さなものだ。
 それはお兄さんの耳にいつもついていたもので、占星術を目指す彼の指標のようなものだったのだろう。マティアスはその小さな煌めきが大好きで、少しばかり羨ましくもあった。
 お兄さんはそんなマティアスに気づいていたのだろう。彼がその地を離れてしまう当日、耳にしていたピアスのうち片方を外して、マティアスに寄越したのだ。

 ——星の導きで、またきみに会えるように。

 たしかそんなことを言って。
 彼がこのピアスをくれたとき、マティアスはまだ九歳。耳にピアス穴も開いていなかった。だからその日の夜、仕事から帰ってきた父に無理を言って、ピアス穴を開けてもらったのだ。
 それ以来、このピアスはマティアスの道標のように耳で小さく輝いている。

「小さい頃から、母がずっと病で床に伏せていたのが悲しくて、寂しくて。でも、そのお兄さんといるときは、寂しさを忘れて楽しい気持ちになれたんです。きっと……僕は、彼のことが好きだったんでしょうね」

 だから、初恋。

「けれど、彼が引っ越した頃に母を亡くしたこともあってか記憶が朧げで……彼の名前も顔も、ほとんど憶えていないんです。でも、このピアスのことだけは憶えていて。——今では、お守りみたいなものです」

 名前も顔も忘れてしまった、優しい彼。

「そうでしたか。——その方に、また会えるといいですね」
「はい。でも、どうかな……僕もピアス以外は忘れているし、彼は僕のことなんか忘れているかも」
 
 アルテュールの優しい言葉掛けに、マティアスは心をあたたかくした。けれど一方で、そう簡単には叶いそうにないなとも思った。
 だって、自分だってお兄さんのことはほとんど憶えていない。記憶にあるのは、慕っていた気持ちと、このピアスだけ。相手だって、五つも年下の子どものことなど憶えていないとも思うのだ。

 けれど、アルテュールは春の木漏れ日のような声色で言った。

「きっと会えます。マティアスくんには星の導きがありますから」
「そうですかね。でも……そうだといいな。彼もアルテュール様のように占星術師になるって張り切ってましたから、いつか僕を見つけてくれるかもしれませんね」

 ふふっ、とマティアスが笑うと、アルテュールは柔らかく微笑んだ。

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