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番外編
二十四の冬にまた貴方を好きになる05
しおりを挟む翌日。遅い時間に目覚めた私を待っていたのは、柔らかなお茶の香りと、愛しい人のあたたかな温もりだった。
「ああ……ディオン様だ……」
よかった、と呟くと、頭上から小さな笑みが聞こえる。
「そうだよ。安心した?」
「ええ。……ケニーの淹れてくれたお茶の香りも嬉しい。帰ってきたのですね」
「ああ、帰ってきた。きみと俺の家だ」
まだ彼のぬくもりに甘えたくて、すりすりと厚い胸板に小さな頭を寄せる。ディオンはその頭を撫でながら、同じように「よかった」と言った。
「昨日、イリエスが眠っている間に医者にも診てはもらったんだが、体の具合はどう? どこか気持ちの悪いところなどはあるかい?」
「いえ、大丈夫そうです。喉が渇いているので、お茶は飲みたいかなと」
「わかった。少し待っていてくれ」
頭を寄せる私の頬に唇を落としてから、ディオンは寝台から降りる。なくなった温もりに名残惜しさを感じながらも寝台上で枕を背もたれに上体を起こすと、ディオンがテーブルに置かれていたお茶のセットを持ってきてくれた。
目覚めをより良いものにしてくれたお茶に、ほぅっと息をつく。
「医者の話によると、発情は一過性のもので、熱を発散したこともあってか落ち着いたようだ。おそらく体への影響も残らないだろうと言っていたよ」
「それはよかったです。毒物には慣れている身だとは思うのですが、やはり見知らぬものを摂取するのはあまり心地の良いものではありませんから……少し、不安でした」
なにより、悪影響が続くとしたら、それはディオンにも迷惑をかけてしまう。
「ディオン様も、お体は? 私のせいで何かあったら……」
「ん? ああ、俺も大丈夫だ。何か摂取したわけでもないしな」
「その……お怪我などもありませんか? あまり憶えていないのですが、騎士の方々といらしてくださったんですよね……?」
あのとき、姿を現したディオンにばかり気を取られていたけれど、足枷を外してくれた騎士もいたし、シェーファーを取り押さえていた人もいてくれたように思う。大捕物のような光景だったのは想像に難くない。
となれば、それなりに戦闘行為もあっただろうから、ディオンや他の人たちにもしものことがあれば……。私一人のために怪我などさせたら、どうお詫びをしたらいいかわからない。
けれど、ディオンは目尻を細めて答えてくれた。
「そっちも心配いらないよ。俺も、他の騎士のやつらも怪我一つない。身柄は警邏の者に預けたが、あの糞野郎には相応の思いをしてもらえるように伝えたけどね。きみを拐かしただけでなく、余罪もたくさんありそうだったしな」
「そうなのですか? でしたら、まあ……」
ディオンは『相応の思い』に関しては詳しく説明するつもりはないようだ。私としても、嫌なことは早く忘れたいから、それ以上深く訊ねようとは思わなかった。
今回の事件を引き起こしてしまったのは、偏に私の浅慮に他ならない。でも、だからと言ってシェーファーが私にした仕打ちを赦すつもりもない。
どんな理由があれど、誘拐は誘拐だ。まして余罪があるのなら、罪を償い、罰をきちんと受けてもらいたい。
「ディオン様たちに何もなかったのなら、良かったです。……そういえば、ディオン様。騎士のお勤めのほうはよいのですか?」
時計を見れば、いつもはすでに勤めに出ている時間。
近衛騎士という仕事柄、夜勤のときもあるけれど、たしか今日は昼間のお勤めだったはず。私の勘違いだったろうかと首を傾げていると、ディオンは優しげな表情をして答えた。
「しばらく様子見をしたほうがいいと思って。休暇を取った」
「そうでしたか。……ご迷惑をお掛けしてしまいましたね」
「いいや、きみのせいということはないよ。俺がイリエスとの時間を取りたくて、休みにしたんだ。それに王都に来たとき、寝込んでいたきみのそばにあまりいてあげられなかったからね」
罪滅ぼしかな、とディオンは眉を下げる。
「そんな。ディオン様はお勤めがあったのですから、何も気にしなくてよろしいのに……。それにあのときだって、早く帰ってきてくださっていたと、ケニーから聞きました」
私が王都に移り住んで早々、熱を出して寝込んでしまったとき、ディオンはタイミング悪く王族の護衛任務が重なっていた。近衛騎士として、忠誠を誓った臣下として、ディオンはその務めを果たさないわけにはいかない。
散々に迷いつつも、後ろ髪を引かれる思いでディオンは日々、勤めに行っていたらしい。そんなことを熱が下がったときにケニーが話していたのを思い出す。
彼がどんなに心を配ってくれていたかは知っている。
多忙な合間を縫って、少しでも長く私のそばにいてくれたこともわかっているから、私は何の不満もない。なのに、ディオンはこうして『埋め合わせ』をしてくれる。
「俺が不用心だったせいで、きみを危険な目に遭わせてしまった」
ぐっと、ディオンは拳を握り締めた。
私が我慢していたときと同じようにギリギリと握り締めかけた手。その手を私は、柔らかく包み込んだ。頼りない私の細い手では、ディオンを受け止めるだけの力はないかもしれない。それでも彼を受け止めたかった。
「あいつがきみを謀ったのだろう?」
「私が、勘違いしたのです。花に浮かれていて……愚かでした」
思い返せば、シェーファーは自身の名を名乗りはしたが、「花の商人か?」と訊ねたのは私のほうだ。あの男の話ぶりでは、もとから商人に扮するつもりではあったようだが、最初に隙を見せたのは私。容易に見せたその隙をつかれたとはいえ、見知らぬ男に無警戒に近づいた私が悪い。
けれど、ディオンはそうは思っていないようだ。
「だとしても、イリエスだけに非があるわけじゃない。いや、たしかにきみも不用心だったかな……。でも、招く商人の名や特徴を、俺がきみにきちんと事前に伝えておけばよかっただけだ。はじめから違うと知っていれば、イリエスが近づくことはなかった。傷つくことも、怖い思いをすることもなかったんだ」
俺の責任だ、とディオンは項垂れる。叫び出したいほどの彼の痛ましい心が聞こえたようで、胸が痛くなった。
「痛く、つらい思いをしただろう……」
「こんなもの、ただの擦り傷ですよ」
私の足首には包帯がきれいに巻かれている。こめかみにも湿布薬の染みたガーゼをあてられて、手のひらも傷だらけ。
「擦り傷なものか……。これは自分で?」
「はい」
手のひらの傷を優しくなぞられる。爪で傷つけてしまった、わずかな傷たちにディオンは痛ましく眉を顰める。
それほどに深い傷ではない。たかが爪を立てただけの、浅い傷だ。もうすでに塞がっているから痛くもない。むしろ、いたわるように触れてくれるディオンの指先が心地良いくらいだった。
「どうしても、あなた以外を求めたくなかったのです」
だから、歯を食いしばり、唇を噛み締め、自らに爪を立てた。理性だけでは難しく、痛みをもって耐える以外の術を思いつけなかった。
でも、すべては私が決めたこと。ディオンに落ち度なんてない。なのに彼は「ごめんね」と謝る。それが、ひどく切なくて。この人にこんな気持ちにしてしまった自分が情けなかった。
「ディオン様、お願いです。どうか私を心配しすぎないでください」
頼りない自分の手でも、ディオンの手をぎゅうっと握る。
「大切にしてくださっていることは、痛いほどに理解しています。私はいろいろなことを知らないから、多くの負担をおかけしていることも……」
「負担だなんて、思っていないよ」
そんなことはない、と言うディオンに私は首を振る。
「ディオン様がそう思ってくださっていることもわかっています。けれど、事実として、私はまだ、あなたに何も返せていない。それどころか、こうして足を引っ張るばかり。本当にごめんなさい。でも……どうか、私を真綿で包み込むだけにはしないでほしいのです」
「イリエス……」
このままではいけない。
私はもっと多くを知り、多くを学び、成長をしていかなければいけない。生きるということと真剣に向き合っていかなければ。
ディオンを愛していきたいのなら、今の私のままではいけないのだと。
強く、強く、そう思う。
「ごめんなさい。これは私の我が儘です」
見つめる赤い瞳を私は見つめ返した。
「ディオン様、どうか私を大切にしすぎないで。あなたの愛情や思いやり、与えてくださるあたたかな心のすべてが今の私のすべて。他には何も持っていません。ですから、足りないことばかりです。それを呑み込まずに指摘をして、叱ってください。どうか私を甘やかしすぎないで。私はディオン様のそばにいたい——居続けたいのです。そのための努力を、私にさせてください」
真っ直ぐな瞳を彼へ向けたのは、何度目だろう。
そこにあるのは、いつ見ても鮮烈な輝きを放つルビー。そこに映る私はまだ頼りないけれど。でも、弱さを、情けなさを、愚かさを理由に逃げたくはない。
私の好きな——大好きな瞳に、私をずっと映し続けてもらいたい。
「……そうか。うん……そうだな……」
ディオンは僅かに瞳を潤ませた。
「俺は知らないうちに、きみを閉じ込めようとしていたんだな。もっと外の世界を知ってほしいと願っていたはずなのに……憎らしくて堪らないやつらと同じことをしようとしていた」
悄然とするディオンに、違うのだと伝える。
「ディオン様、憶えておいてください。私を繰り返しの日々から連れ出してくださったのは、他の誰でもなくディオン様です。あなたのおかげで、私は忌まわしいデシャルムの地を離れ、クラヴリー家の方々に良くしていただき、今はこうして王都にいる。これまでなら、そんなことを考えることすらしなかったのに……夢のようなこの世界に、あなたが連れてきてくれました」
越えることのなかった二十三歳の季節たち。迎えることのなかった二十四という年齢。それすらをも過ぎて、もう幾月か経てば二十五歳にすらなる。
これを夢と言わずして、なんと言おう。
「あなたとともに生きていきたいから。この『生』をまっとうしたいから。その術を、機会を、私に与えてくださいませんか。生きる楽しさと難しさを、あなたと分かち合わせてください」
「ああ……そうだ。そうだった……。俺たちは、一緒に生きていくんだよな」
「ええ、そう。一緒に、です」
「これからは、きみにもたくさんのことを学んでもらうよ。そして、好きなことをもっとたくさんしてもらいたい。我が儘ももっと言ってくれ。叶えられることは何でもする。そして、難しいことは二人で考えていこう。きみと俺は生涯の伴侶となるのだから、力を合わせて生きていこう」
再び明るく灯る、二人の心の灯火。
彼の想いに応え続けていきたいから、私は力強く頷いた。
「これからが楽しみです」
「うん。俺も楽しみだよ」
ディオンと生きていくために、たくさん学ぼう。
知らない季節が巡るなかで、ゆっくりとでも一つでも多くを学んでいこう。彼の隣にずっとずっと並び立っていられるように。
そっと両手を広げれば、ディオンは腕を広げて胸元へと引き寄せてくれた。とくとくと、命の鼓動が聞こえる。そこに私の鼓動を溶けこませるようにして、あたたかな背中を、ありったけの想いをこめて抱き締め返した。
どうかこの冬も、次の冬も。
その先もずっと——あなたを好きでいさせて。
『二十四の冬にまた貴方を好きになる』 End.
・--・--・--・--・
(2024.11.10 後書き)
最後までお付き合いいただき、ありがとうございます♡
少しでもお楽しみいただけていたらと思っております。
久しぶりのイリエス&ディオン、楽しかったよー、いやいやイリエス不憫すぎるでしょ…作者非道だな…などなど、もしよろしければ♡や感想などいただけると泣いて喜びます。
不憫受け大好きなので、また新作も書けたらなぁと思っています。
また、どこかでお会いできることを願って。
秋良
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感想ありがとうございます♡
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感想ありがとうございます♡
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