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第五章
60. 小さな願い
しおりを挟むやがて日記を読み終わる頃、ディオンは目を瞠りながら呟いた。
「……魔法?」
「やはりディオン様も気になりますか。その——『魔法』のいう言葉が」
「そうだね。『日記』に『魔法』だからなぁ。ふむ……」
私も気になったのは、その点だった。
ディオンが見つけた母の日記を受け取ってから、どうにも気になって仕方がない。ただ単に「母が遺したものだから」というにしては胸がざわめいている。まあそれも、私が勝手に『日記』というものに不思議な因果を感じているからだけかもしれないのだけれど。
「最後の一文。それは、ただの言葉遊びか、比喩だと思いますか?」
「さあ、どうだろう。これだけだと、まだ何とも言えないな……。ただ、何か感じるものがあるのは事実だし、たとえこの日記が何であってもきみの母君の日記なのだから、形見として持って帰ってみるのはどうかな?」
先ほどと同じ丁寧な仕草で日記を手渡される。
手元に戻ってきた日記は、くすんだ青色ながらも不思議ときらきらと見えた。
+ + +
屋敷の片づけも早々に、私たちはステラの日記を持ち帰り、クラヴリーの屋敷へと戻ってきた。ここのところ、ディオンは再び拠点を王都へと戻し、月の三分の一をクラヴリー領、残りを王都や任務先で過ごしている。
今日は、元デシャルム邸の片づけを手伝うために、わざわざ王都から出向いてくれていたのだ。
出迎えてくれたクラヴリー家の家令にお茶の用意を申しつけてから、ディオンは私を連れてサロンへとやってきた。ケニーは家令についていったので、お茶の用意を手伝っているのだろう。すっかり従者然とした姿に、ほっこりと心が和らぐ。
私が眠っている間も、目を覚ましてからも、よく尽くしてくれている彼は、今ではすっかりクラヴリー家に馴染んでいるようだった。
「少し待ってて。あれを持ってくるよ」
そう言って、一度サロンを離れたディオンが再びサロンへ姿を現したとき、彼の右手には青い日記帳が収まっていた。先ほどデシャルムの屋敷で見つけた母ステラの日記ではなく、以前見せてくれた『いつかのディオン』が書いたと思われる不思議な日記だ。
「イリエスが気になっていたのは、これだろう?」
ちょうどお茶の準備も終わったらしく、ケニーが長椅子前に置かれたティーテーブルにスコーンや紅茶をセットしていく。そういえば、今日は朝から屋敷の片づけに赴いていて、昼食も食べずに屋敷じゅうを見て回っていたから、少しばかり小腹が空いていた。
お茶の時間に合わせて焼いたらしい、焼きたてのスコーンの匂いに頬を綻ばせながら、私はディオンの問いに頷いた。
「ええ。その……まさか、母の日記も時を超えてやってきたのではないかな、と。そんな不思議なこと、二つ三つとあるはずない……とは思うのですが……」
「何か気になることがあるんだね?」
話の続きを促してくれたディオンに、私は躊躇いつつも口を開いた。
「はい。私は学園にも通っていませんし、魔法のことを学んだのもリベルテに拾われてからです。なので、気のせいかもしれないのですが……母の日記から、僅かに魔力を感じた気がして」
「ああ、なるほど。——うん、そうだね。俺も、その日記からは微量の魔力を感じ取っているよ。それにしても、魔法か……。専門家に見えもらえば、もっと何か判るとは思うんだけど」
ディオンも魔法の扱いにはそれなりに長けているらしいのだけど、戦闘や護衛に特化した魔法の扱いには慣れているものの、呪いの類いは詳しくないのだと以前話してくれた。だから、彼も日記から感じるものが具体的に何かはわからないという。
ただ私と同じように、ステラの日記からも『何か魔法のようなもの』を感じ取っていた。
「専門家、ですか……」
その言葉に、私は僅かに眉を寄せた。
もう何年も前に亡くなった人の日記を「気になるから」という理由で、詳しく調べてもいいものだろうか……。なんとなく気乗りしない気持ちで、私は薄水色の日記を見つめる。
不思議な思いのままに、私は二つの日記をテーブルに並べてみる。
ディオンの持ってきた彼の日記と比べると、やはり色褪せ具合は強い。分厚さも、装丁も、細かな色味も異なる二つの日記は、それでもどこか似通ったものを感じずにはいられなかった。
「こうして見ると、俺の日記のほうが多少新しく見えるな」
「そうですね」
とはいえ、どちらも古い日記には違いない。
ディオンの日記を『古い』と言っていいのかは難しいところだけれど、その古びた装丁こそが想像のつかない方法で長い年月を巡ってきたと、私たちに告げてくれているような気もした。
あらためて数奇な運命を辿っている日記と、母の愛情を感じる日記に触れたくなる。
それはディオンも同じだったようで、私はステラの日記へ、ディオンは自身の日記——正確に言えば同じようで異なる、別のディオンの日記——へと手を伸ばした……ちょうどそのとき。
「あっ」
二人の指先がそれぞれの日記の表紙に触れた瞬間、きらっと日記帳がきらめいた。
小さな虹色の粒子がぱらぱらとあたりに舞い散って、ふわふわと細かな光が宙に広がる。いつか読んだ物語に出てきたオーロラというものは、このような光景だろうか、なんて突然現れた幻想的な光景に驚いていると、虹色の小さな光たちはパッとひときわ強く輝いて、一瞬にして霧のように霧散した。
そして、驚くことにその霧が消えていくのと同時に、二冊の日記帳もしゅわりと消えてしまった。——あとに残されたのは、小さな紙片だけ。
「えっ、と……?」
たった今、目の前で起きたことに私は目を白黒させた。
きらきらと幻想的な光の粒は、私が劇団リベルテで世話になったときに習っていた舞台演出魔法にも似ていた。でも、それよりも強い祈りと哀しさを帯びた魔法のようにも感じた。綺麗だけれど、どこか切ない……そんな印象の、見たことのない魔法だ。
そして、その魔法よりも目を疑ったのは——二冊の日記が消えたという事実。
「……俺たち、変な夢でも見てる?」
「いえ……ああ、でも……よくわかりませんね……」
忽然と消えた日記に、ディオンもまた驚いているようだった。
「……先ほどのは、やはり魔法の類いでしょうか?」
「うーん……俺も魔力は感じたけれど、今まで見たことないのない魔法だな。物を消す魔法や、光がきらきらするような魔法はたしかにあるけれど……ほら、イリエスが劇団で学んでいたような演出魔法とかもそうだよね。でも、それとは似て非なるものにも見えたし」
顎に手を当てながら小首をかしげるディオンは「やっぱり、ああいった類いの魔法は知らないことが多いな」と申し訳なさそうに眉を寄せる。
「魔法に関してはディオン様以上に知らないことだらけですが、あの光の粒は演出魔法とは異なるものだと私も思います。その……」
そこまで話しつつも、言葉を続けるのに幾分か躊躇った。
今さら彼が私を馬鹿にすることも、冷たくすることもないとはわかっているから、これは恐れに対する躊躇いではない。どちらかと言えば、不勉強な自分が意見を述べてもいいのだろうかという、自信の無さからくるものだ。
けれど、そんな私の心の弱さを、ディオンは敏感に感じ取ってくれて、殊更優しい響きで私の言葉を促してくれた。
「なに? 言ってみて?」
何を言っても受け止めるよ、と伝えてくれる赤く煌めく瞳に、こくっと生唾を飲み込んでから私は小さく頷いた。
「その……何と申しますか、純粋な魔法とは少し違うような気もしたのです」
魔法はおろか、他のことに関しても私は大した知識を有していない。
本は飽きるほどに読んだし、特に今世ではディオンからもたくさんの書物を借りて、知識や娯楽の海に浸ることができた。けれど、どんなに本を読んだところで、私は世間を知らない。他国に嫁ぎ、嫌気がさして出奔してみても、人々の営みが何たるかに触れられた時間はごく僅かだ。劇団リベルテでの暮らしの中で多少はマシになっただけで、知識の足りなさや偏りはいまだ拭いようがない。
だから、私の……言ってしまえば、ただの勘のようなものを伝えるのは、ひどく恥ずかしい気もした。けれど、不勉強な私をディオンは馬鹿にするでもなく、嗤うでもなく、「なるほど?」と首を捻ってみせた。
こういった細やかな彼の反応が、私の心を明るくしてくれる。
ディオンと何ヶ月かを親密に過ごすなかで気がついたのだけど、彼は私のことを真っ向から否定しないのだ。意見が食い違うときだって、まずは私の話をきちんと聞いてくれて、「そういう考えなんだね」と理解してくれようとする。
(いつだって、この人は優しいのだな)
そういえば……はじめて彼に心を奪われた〈一回目〉の人生でも、彼の穏やかで朗らかな気性に触れて、いっそう想いを募らせていたのだ。思い返せばあの頃も、ディオンはいつだって私を否定したりなんかしなかった。
なのに、あの瞳の冷たさに背筋を震わせてしまったのは、それだけ私の視野が狭く、心が豊かでなかった証拠なのだろう。〈一回目〉だろうが〈十回目〉だろうが、私は昔からあまりにも周りが見えていない。彼といると眩しくて、こういう自分にがっかりする。
ディオンに言わせれば「つらい日々を過ごしていたのだから、心が臆病になるのは当然のこと」で、自分を責める必要はないらしい。そうやって彼は私を諭してくれて、私の中で凝り固まって、膿となってしまった劣等感やしがらみ、もやもやした昏いものを少しずつ小さくしてくれる。
(はぁ……いけないな。自分を卑下しすぎてはダメだな……。ディオン様の真っ直ぐな想いを感じ取れるようになってきたのだから、私だって成長しているはず)
私は小さく嘆息し、沈みそうな気持ちを押しやった。いつかこうやって悩むこともなくなっていければと、今は自分の変化をゆっくりと受け止めて、少しは嬉しく思えるようにはなったのだ。その気持ちを大切にしていきたい。
とはいえ、何の知識も証もない『勘』だけの予想を話すのは、やっぱり勇気がいったのだけれど。
「確証はないのですが……」
「ふむ。純粋な魔法ではない、か。その発想はなかったけれど、悪くない考えかもしれないね。なるほど……魔法以外の線も考えてみるべきか……」
話しているうちに怖気づく心を叱咤していた私の考えに対して、どうやらディオンは肯定的な様子だった。
「となると、いよいよもって俺には手が負えないな。やっぱり誰か専門家に見てもらえば……いやでも、日記は無くなってしまったしな…………ん? ああ、そうか。これがあれば、もしかしたら————あ」
何やら思案を始めたディオンは、テーブルに残っていた紙片に手を伸ばし、目を大きく見開いた。同時に発せられた驚いたような声が彼らしくなくて、私もつられて驚く。
「イリエス、これを見てくれ」
ディオンが大切なものを扱うかのように差し出したのは、彼が手に取った、その小さな紙片だった。
先ほどの不思議な現象によって二冊の日記は消えてしまったけれど、そのどちらかの日記の一部が破れてしまったような、そんな紙切れ。
そんなに驚くようなものだろうかと不思議に思いながらも、私は丁重に渡された紙の切れ端に視線を落とした。
てっきりただの紙の端切れだと思っていたそれには、文字が書いてあった。
「これは——」
——幸せになってね、イリエス。
書かれていたのは、そんな一言だった。
・ーー・--・--・--・
(2024.8.9 後書き)
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
♡やお気に入り登録、しおりなどなど感謝感謝です。
完結まで残り3話となりました。
明日8/10(土)の15時頃に1話、19時頃にラストの2話を更新して完結予定です。
最後までお付き合いいただけると嬉しいです。
どうぞよろしくお願いします。
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