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第四章
53. 夢のつづき
しおりを挟むあたりにはまた、闇と静寂が訪れる。
「母上は、私を産んだことを後悔されているのかな……」
母がしきりに謝ったわけも、消える前に残した言葉の意味もわからない。
ただ、彼女の悲しみだけは伝わってきて、遣る瀬ない気持ちになる。
もしここが死後の世界なら、死した母にはまたいつか会えるかもしれない。だから、そのときにまた話ができたらいいなと思った。
彼女がまた私に会いたいと願ってくれるかは、わからないけれど——。
次に母に会えたら、どんな言葉をかけたらいいだろう。
そんな思考していたところで、不意に視線を感じた。こんな暗闇の中で私以外に誰かいるのだろうか? 訝しく思いながらも、背後へと振り向く。
すると、視線の先には先ほどの母と同じように、人の形をした光の塊がぼんやりと立っていた。彼——あるいは彼女——は、おそらく私のほうを見ている。
それに嫌な雰囲気は感じなくて、私はその光の人へと近づくことにした。
そろり、そろりと近づいていくと、光は薄くなっていき——背の高い、一人の男性へと姿を変えた。
「…………ディオン様?」
現れたのはディオン・クラヴリー、その人だった。
まさかディオンが現れるとは思っていなくて、目を丸くする。だが、煌めく金の髪に宝石のような赤い瞳。均整の取れた抜群の体格の主は、紛うことなくディオンに他ならない。
彼がここにいるとするなら、やはりここは死後の世界ではないのだろうか。それとも、私が命を落としたあとに、何らかの理由で彼もまた命を落としてしまったとでもいうのか。
たしかにディオンは近衛騎士の職に就く者だ。アルノルクとその周辺では今現在、大きな戦は起きていないはずだけれど、小さな小競り合いは起きることはあるし、王家の方の命を狙う事件はゼロではない。
けれど、武勇に優れたディオンが本当に死んだのだろうか。
真相を確かめたくて彼に声をかけてかけようとすると、ディオンは人差し指を自身の唇の前に立てた。——静かに、という仕草に出かけた言葉を飲みこむ。
にこりと微笑むディオンは、私へと手を差し出した。
なんだろうと思いつつも、手を出せと言われている気がして両手を前へと出せば、ディオンは私の手のひらに何かを置く。
手のひらに視線を落として、はっとした。
——いつも、私の胸元で光っていた青いペンダントだった。
「あ、あの……!」
思わず声を上げる。
けれど、ディオンは相変わらず微笑むだけで何も言ってくれない。ただ、ただ、優しげな顔をして私を見つめるばかりだ。
でも、なぜか不安は微塵もなく、むしろあたたかな感情が湧き上がってくる。
ここが死後の世界でなければ、私にとって都合のいい夢だ。あるいは幻。もしくはお伽話とそう変わりはない。でも、そのどれであっても、想い人が優しく微笑んでくれるのなら悪くない。
何も言わずに私を見つめるディオンを見つめ返していると、途端に真っ暗だったあたりに光が差し込む。驚いて、あたりを見回していると、ディオンはぎゅっと私の肩を抱き寄せた。不思議なことに母の幻影とは異なり、ディオンと触れ合ったところはあたたかい。
あたりに差し込む光はどんどんと増えて、闇を照らしていく。
隅々まで光が届いていくと、目が開けていられないほど眩しくなり、ディオンの胸にしがみつきながら、私は目を閉じた。
何分、何時間ほど、そうしていただろう。
私を抱き寄せていたディオンのぬくもりが消えて、彼の姿かたちも見失った頃——私はようやく目を開けた。
+ + +
そこは真っ暗な空間でも、光に満ちた場所でもなく、広い寝台の上だった。
肌触りの良いリネンに、寝台から見えるのは上質な壁紙と天井。キャビネットやテーブルも見たことのない調度品が並んでいる。
どう見えも、デシャルムの屋敷にある、粗末としか言いようのない部屋とはまったく違う部屋。ここは、私の自室ではない。
もしかしたら、本で読んだように新たな者へと生まれ変わったのかとも思ったが、だとしたら赤子の頃から始まるのではないだろうか。でも、私が認識する限り、体は赤子のそれではない。
それに、自分が「イリエスだ」とは思わない気がする。今の私は、私自身をイリエスだと自覚しているのだから、新たな者へ生まれ変わったにしては奇妙に思えた。
となれば、これは〈十一回目〉が始まったのだろうか。
いつもは十四歳の誕生日に目が覚めるのだけれど、自室でないから今までとは様相が異なるようだ。
なんにせよ、まずは自分と身の回りの状態を確認しようと、体を起こすべく身じろいだ。
けれど……不思議なことに、なかなか体が動かない。
いや、動かないわけではないのだけれど、体が鉛のように重く感じるほどに筋力がないのだ。首を僅かに動かすのがやっとというほどで、今の自分がどんな状態にあるのか心配になる。
どうしたものかと考えあぐねていると、扉が開く音がした。
首をゆっくりと動かしていくと、扉を開ける人物と目が合う。
「——イリエス! 目が覚めたんだね⁉︎」
途端、バタバタと寝台に駆け寄ってきたのはディオンだった。
ついさっき、真っ暗な中で出会ったディオンと同じ。いや、それよりもさらに眩い光を放っているかのようにきらきらしている。でも、よく見ると僅かに疲れた目をしていた。
「……でぃ……お……」
名前を呼ぼうとして、喉が張りついてまったく声が出ない。ギリギリ漏れ出た声もガサガサだ。あまりにも覇気のないものだったので、自分でも驚いた。
(おかしい……何かが、おかしい……)
そんな私の困惑を見抜いたようで、ディオンは寝台横のサイドチェストに置かれていた水差しから浅い木の椀に水を注ぐ。そこから大きな匙で水を掬って、寝たままの私の口元へと運んでくれた。
僅かでも水分を口にすると、少しだけ喉が潤う。
そのまま二度、三度と匙で運ばれた水を、私は時間をかけて少しずつ飲んだ。
身分もあり、将来もある貴人に使用人紛いのことをさせてしまっていることに申し訳なさを感じなかったわけではなかったけれど、まるで砂漠に雨が降り注ぐかのように体は水を欲していた。ゆえに、今は素直にディオンからの行為を受けることにした。
やがて喉もだいぶ潤いを帯び、先ほどよりは声を出しやすくなった頃。
まだ私の身体を起こすのには早いと判断したのか、ディオンは私を寝台に寝かせたままで話を始めた。
「イリエス、今日がいつかわかるかな?」
澄んでいて優しく、柔らかな声色を久しぶりに聴いた気がする。
つい先ほどまで私がいた闇と光の空間でもディオンと思しき人物と出会い、抱き寄せられたけれど、あのときの彼は声を発しなかった。だからかもしれないけれど、それにしても随分と懐かしい気持ちだ。
今がいつかも、ここがどこかも、自分がどうなっているかも皆目検討がつかなくて、私は小さく首を横に振った。そこで、髪が少し伸びていることにも気づく。
「……十一度目の人生が、始まったのでしょうか?」
そう言いながらも、本当に〈十一回目〉の人生が始まっているのなら目の前のディオンはまったく何も知らないディオンのはずで。となれば、私のことを知っているのはおかしいし、こんな訳のわからないことを言われたら顔を顰めるに違いない。
「ふふっ。もし本当に〈十一回目〉が始まってしまっていたら、その問いを俺にするのはあまり良くないかもしれないね」
重苦しい空気を一掃するかのように、茶目っ気を含んだ答え。
その答えが、私に小さな光をもたらす。
「きみの予想はハズレ。俺にとっては一度目だけれど、そうだな……イリエスにとっては〈十回目〉だと教えてくれたね。俺がきみに不思議な日記を見せたときのことだ。憶えているかい?」
これからディオンが何を語ろうとしているのか、期待と戸惑いが入り乱れる。首を縦にも横にも振るのを忘れて、まじまじとディオンの双眸を見るのがやっと。そして、彼の瞳の輝きが紛いものでも幻でもなく、今目の前にある現実なのだと気づく。
「十回目の……あの日、ですか……? それは——」
もちろん、憶えている。
とんだ嘘つきだと、妄想も甚だしいと一蹴される覚悟をもって話したあの日のことをもちろん、しっかりと憶えている。
無言で見つめる私の様子を肯定と受け取ったディオンは、下げていた目尻をキリッと戻し、真剣な眼差しで私を見つめ返した。それから、上掛けの端から手を忍ばせて、その下に隠されていた痩せ細った私の手を取る。
あの幻の空間で触れた手よりも、現実味のある感触にどきりとする。ディオンの大きな手が触れるだけで、ときめきと安らぎを与えてくれた。
「イリエス、よく聞いてほしい。きみが『命日』だと教えてくれた日から、もう五十日が経過しているんだ」
——命日から、五十日が経っている?
無意識のうちに、はっと息を呑んだ。
僅かな期待に胸がざわついていたのは確かだけれど、いざ真実を言葉にされると俄かに頭がぐるぐると回り始める。
手を握り締めてくれているディオンは、私が幾度となく人生を繰り返していることを知っていて、不思議な日記のことも話している。〈十一回目〉ではなく〈十回目〉の人生だとも笑って教えてくれた。
言葉の一つ一つを反芻して、咀嚼して、何度も何度も頭の中でディオンの言葉を繰り返す。ただただ混乱と驚愕で何も言えずにいる私を、ディオンはしばらくの間、じっと待ち続けてくれた。
「ほん、とうに……?」
ようやく出た言葉の、なんと間抜けなことか。
でも、それ以外の言葉が出てこなかった。
何か騙されているんじゃないかとか、やっぱり夢なんじゃないかとか、本当だとしたらどうすればいいのかなとか……。とにかく頭の中がぐちゃぐちゃで、この場に相応しい言葉が上手く出てこない。
けれど、そんな間抜けなことしか言えない私を笑うことなく、ディオンは深く頷きながら言ってくれた。
「ああ。本当に」
ぎゅっと握り締められた手があたたかい。
「きみの『運命』は変わった、と言っていいんじゃないかな」
いまだ信じられない気持ちのまま、目を丸くさせて「本当に?」以外の言葉を発せないでいると、ディオンは再び眦を下げた。
「まあ驚くのも無理はないよな。イリエスが気を失ってからこれまで、どんなことがあったのか、きちんと説明するから安心して。でも、まずは体力を戻さないと。起き上がれるようになったら、一つずつ話そう」
そう言って、ディオンは医者を呼んでくると部屋をあとにする。
大きな手が離れていったことを名残惜しく思いながらも、ふと窓の外へ視線を向けた。
命を落とすはずだった日から五十日が経ったという空は、青く澄んでいる。
それは、そろそろ葉も色づきそうな初秋のことだった。
◇◇◇
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