上 下
46 / 65
第四章

46. 古びた家と壊れぬ玩具

しおりを挟む


 その日の午後。
 私は急遽休みをもらって、街外れにある古びた一軒家の前に来ていた。

 いつも通りに、フードを目深に被って厚手の外套を身に纏い、マリオルの街を足早に歩く。発情期前に歩いたときと同じく、冬の風景が広がっている。
 その中を一人で歩くのも、こんな場所に来るのも、いつもはあり得ない。ノートルさんに会いに行くときも、食材や日用品の買い出しのときも、必ず誰かと一緒にしかしてこなかった。はじめて自分で希望した休日だって、ディオンと一緒だった。

 なのに、今は誰も伴わず、たった一人で天幕から離れた場所を歩いている。

(ここ、だよね……)

 見上げたのは、一軒の古びた家。誰かが住んでいる様子はない。
 ぼろ家と呼ぶほどに朽ちているわけではないけれど、小さな庭は手入れされず雑草が伸び放題で落ち葉で地面が埋まっている。窓こそ割れていないが、外壁や屋根には傷んだ箇所があって、人が住むには修繕が必要な様子だった。

(本当にこんなところに……?)

 家を見つめながら、ここにいるという人物を脳裏に描く。
 その人が私の記憶にあるままなら、煌びやかと言うには真逆の場所に足を運ぶことを好まないはずだ。己の身分を誇りに思い、生まれた性を至上のものだと振り翳す彼らが、このような萎びた場所を好むはずもない。

 でも、届けられた手紙の主が確かで、その内容に嘘がないのならば、彼らは必ずここにいる。私をこの場へ呼び出したのは、他ならぬ彼らなのだから——。
  
(嫌だな……)

 できることなら、今すぐ踵を返して帰りたい。
 暗い気持ちは私の体を硬くする。ここに来るまでの足取りも十分に重かったが、今はさらに重りを両足につけたかのように動かせない。

 そうしてしばらく立ち尽くしていたのだけれど、このままでいるわけにもいかず、私は震える指先で玄関の呼び鈴を鳴らした。

「…………」

 残念ながら中から反応はない。呼び鈴が壊れているのかもと扉をノックしてみても、反応はない。けれど、中に誰かがいる気配を薄らと感じた。
 意を決して扉に手をかけると、意外にもそれはすんなりと開く。恐る恐る足を踏み入れれば、やはり人のいる気配がした。

 足を進めたくない気持ちをどうにか押し込め、一歩ずつ前に進んでいく。
 室内も外と同じく荒れていた。ぼろぼろに剥がれた壁紙に、ホコリと蜘蛛の巣だらけの天井と床。今はまだ陽のある時間帯だが、手入れのされていない背の高い樹木が庭に植えてあったこともあってか、室内に陽の光は届かず薄暗い。

 こんな薄暗い家に、私を呼び出した相手がいるのだろうかと疑問はいっそう膨らむ。けれど、玄関を入って続く短い廊下の先、僅かに扉が開いているのが見えた。部屋からは灯りが漏れていて、誰かがいることを物語っている。

 嫌がる心を無理やり宥めながら、私は灯りの漏れる部屋の扉をゆっくりと開いた。

「ああ、やっと来たか。相変わらず愚鈍だな」

 忌々しげな舌打ちとともに、苛立った様子の声が耳に届く。

「イリエス兄上が愚鈍なのは、オメガなので致し方ないですよ。地図を片手に一人でここまで来られただけ、褒めて差し上げてもいいくらいですかね」

 不機嫌さを露わに眉を寄せながら古い木の椅子に座る青年の横では、それよりも体格の良い男が立っている。何がおかしいのか、ニタリと笑う姿に生理的な嫌悪がこみ上げた。

 扉を開いた向こう、いくつかのランタンに照らされた室内には私がよく知る——二度と会いたくなかった人物が二人、こちらを見ていた。
 蛇のような四つの瞳が舐めるように私を捉えて、自然と後ずさった私の足をその場に縫い留める。久々に投げられた侮蔑の視線にぞわりと背筋が凍るが、長年にわたって躾けられた体は考えるよりも早く口を開いていた。

「——ご無沙汰しております、レイナルド兄上。それからグェンも……」

 丁寧なお辞儀とともに挨拶を向けたのは、実兄のレイナルドと異母弟のグェンダル——『もう一通』の手紙の送り主は、兄と弟の二人からだった。

(あの封蝋は間違いではなかったんだな……)

 封蝋にあったのは、カナリアの紋章。鉱山と縁のあるカナリアの印璽は、デシャルム家の者が使うものを意味していた。
 その紋章が捺された封蝋付きの手紙に、差出人の名はなかったが、カナリアの封蝋とくれば、その手紙が意味することはわかっていた。父はこんなまだるっこしいやり方は好まない。なので、兄か異母弟。あるいは、その両方。

 そうして封を切り、中に入っていた一枚の便箋。そこに綴られていたのは『久しぶりに会おう』という表面上は友好的な言葉と、リベルテの天幕からこの家までの地図だけ。
 兄の言葉をそのまま受け取るのならば、私は手紙の意図を正しく汲み取れたらしい。できれば、すべて私の勘違いであってほしかったのだけれど。

「待ちくたびれたぞ、イリエス」
「へぇ。随分と毛並みがよくなりましたね。切ってしまったのは少々もったいないとは思いますけど」

 ——長い髪、お似合いでしたのに。

 凍りつく私のことなど気にも留めず、ブーツを踏み鳴らしながら近づいてきたグェンダルは私の髪を一房掬い上げ、耳元で囁いた。

「…………っ」

 数年ぶりに聞く、薄汚い欲を纏った声に肌が粟立つ。
 殴りかかりたい気持ちでいっぱいだったが、実際には指一本動かせない。心とは裏腹に、積み重ねられたグェンダルへの恐怖と嫌悪で体は硬直しきっていた。

 すると私が何も反応しないのをいいことに、グェンダルは髪を遊び、肩を撫で始めた。前よりもさらに大きくなった手が背中を辿って、腰をなぞり、臀部へと到達する。張りや柔らかさを確認するような手つきに吐き気を催すも、その手を振り払うことができずにいた。否が応でも過去の記憶が蘇り、体が震える。

「伯爵に可愛がってもらいました? それとも逃げ出したあとですかね」
「グェン……」
「ねえ兄上、答えてくださいよ。僕たちよりも満足できました?」

 ひと頻り私の感触を確かめたグェンダルは、舌舐めずりをしながら臀部を撫で続ける。質問に答えを返せずにいると、椅子に腰掛けていた兄が小さくため息をついた。

「グェンダル、ひとまずその辺にしておけ」
「すみません、レイナルド兄上。お話があるんでしたよね」

 兄の制止は一見救いの言葉にも聞こえるが、実際のところは身を硬くした私を案じてではなく、目の前で弟の醜態を見るのが煩わしかっただけだろう。その証拠に、臀部を弄る手は止んでも腰に手を回すのは止めないグェンダルを、それ以上咎めはしなかった。

「イリエス、他に誰も連れて来てはいないだろうな?」
「はい……私一人で参りました」

 ここに来ることは、劇団の誰にも知らせていない。
 本音を言えば、一人で街へ出るのは怖くて心細かったので、できることなら誰かを連れて来たかった。いつもはルーや劇団のみんなとしか歩かない道を、それでも一人でやってきたのは、こいつらが待ち受けているとわかっていたからだ。

「ならいい。手早く用件を済まそう。——家に戻って来なさい、イリエス」
「え……」

 告げられた言葉に目を瞠る。

「……いま、なんとおっしゃいましたか……?」
「帰ってこいと言ったんだ。こんな簡単なことすら理解できないなんて、まったく……婚姻を結んで外に出ようとも、愚鈍は愚鈍なままだな」

 高圧的な口調にたじろぐも、続けられた言葉にようやく頭が回転し始める。

 家に帰る? 兄は今、そう言っただろうか。
 せっかくあの苦痛しかない家から逃げ出すことができたのだ。嫌に決まっている。

 けれど、今ここで「嫌だ」と拒否を示したところで兄の機嫌を余計に損なうことは目に見えていた。数年ぶりに顔を合わせたけれど、独裁的な態度も威丈高な物言いも何一つとして変わっていない。
 私はかつての記憶を辿りながら、なんとか口を開いた。

「……私は、すでに死した身だと聞き及んでいます。死人の私を今さら、栄えあるデシャルム家へと連れ戻す意味があるとは思えません。それに、私はオメガです。父上や兄上のお役にも立てない落ちこぼれは、もはや不要でしょう」

 明確な拒否の言葉の代わりに返したのは、兄の発言の意図を問うもの。
 私が愚鈍だと言うのなら、それこそ不要なはずだ。病を理由に亡き者とできたのだから、体良く処分できたと喜ぶならまだしも、連れ戻す道理がない。——そう言って、私への関心を逃がしたいと精いっぱい冷静ぶった。

 しかし、レイナルドは、まるで頭の悪い人間を相手にするような表情を浮かべて、やれやれと大袈裟にため息をつく。

「そうだな、お前が病によって亡くなったとしているのは本当だ」
「……それならば、私のことはどうぞお捨て置きください」
「なにもお前に期待しているわけではないよ。社交に出すつもりも、再びジード伯へ嫁ぐ必要もない。ジード伯どころか、ほかのところへも嫁がなくていい。お前はただ、私たちのもとへ戻ってくるだけでいい。いくら頭の足りぬお前でも、家族への恩を忘れたわけではないだろう?」

 ああ、やはり。
 彼らの考えはなんとなく読めてはいた。だから、見つかりたくなかったのだ。

 ——結局、こいつらは自分たちに都合の良い玩具が欲しいだけなのだ。

 どう扱ってもいい、壊れることのない、文句を言わぬ玩具が欲しい。
 過去九度の人生で散々見てきた醜悪な瞳が、じとりと私を見据える。そうまでして求める玩具は、乱暴に扱えば実際には壊れることを、こいつらはまったくもって理解していない。仮に壊れたところでどうでもいいのか、それとも壊れる発想自体がないのか。頭が足りないのはいったいどちらだと叫びたくなるが、呆れて反論する気も失せていた。
 どちらにせよ『壊れるまでは自分たちのもの』という、彼らの気が狂った考えを私ごときが正すことなどできないのだから、何を言っても無意味だ。

 何度も繰り返して、散々理解していたはずなのに……。
 たった数年離れていただけで、呪わしい生を忘れていた自分が恨めしかった。





・--・--・--・

(2024.7.31 後書き)
いつもお読みいただき、ありがとうございます。

筆者は鬼か何かか⁉︎ってくらい、めちゃくちゃ不穏な展開になっていますが、最後はハッピーエンドなので…!
よろしければ引き続きお付き合いいただけると嬉しいです。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】王子の婚約者をやめて厄介者同士で婚約するんで、そっちはそっちでやってくれ

天冨七緒
BL
頭に強い衝撃を受けた瞬間、前世の記憶が甦ったのか転生したのか今現在異世界にいる。 俺が王子の婚約者? 隣に他の男の肩を抱きながら宣言されても、俺お前の事覚えてねぇし。 てか、俺よりデカイ男抱く気はねぇし抱かれるなんて考えたことねぇから。 婚約は解消の方向で。 あっ、好みの奴みぃっけた。 えっ?俺とは犬猿の仲? そんなもんは過去の話だろ? 俺と王子の仲の悪さに付け入って、王子の婚約者の座を狙ってた? あんな浮気野郎はほっといて俺にしろよ。 BL大賞に応募したく急いでしまった為に荒い部分がありますが、ちょこちょこ直しながら公開していきます。 そういうシーンも早い段階でありますのでご注意ください。 同時に「王子を追いかけていた人に転生?ごめんなさい僕は違う人が気になってます」も公開してます、そちらもよろしくお願いします。

アズラエル家の次男は半魔

伊達きよ
BL
魔力の強い子どもが生まれやすいアズラエル家。9人兄弟の長男も三男も四男もその魔力を活かし誉れ高い聖騎士となり、その下の弟達もおそらく優秀な聖騎士になると目されていた。しかし次男のリンダだけは魔力がないため聖騎士となる事が出来ず、職業は家事手伝い。それでもリンダは、いつか聖騎士になり国を守る事を目標に掃除洗濯育児に励んでいた。しかしある時、兄弟の中で自分だけが養子である事を知ってしまう。そして、実の母は人間ではないという、とんでもない事実も。しかもなんと、その魔物とはまさかの「淫魔」。 半端な淫魔の力に目覚めてしまった苦労性のリンダの運命やいかに。 【作品書籍化のため12月13日取下げ予定です】

【完結】薄幸文官志望は嘘をつく

七咲陸
BL
サシャ=ジルヴァールは伯爵家の長男として産まれるが、紫の瞳のせいで両親に疎まれ、弟からも蔑まれる日々を送っていた。 忌々しい紫眼と言う両親に幼い頃からサシャに魔道具の眼鏡を強要する。認識阻害がかかったメガネをかけている間は、サシャの顔や瞳、髪色までまるで別人だった。 学園に入学しても、サシャはあらぬ噂をされてどこにも居場所がない毎日。そんな中でもサシャのことを好きだと言ってくれたクラークと言う茶色の瞳を持つ騎士学生に惹かれ、お付き合いをする事に。 しかし、クラークにキスをせがまれ恥ずかしくて逃げ出したサシャは、アーヴィン=イブリックという翠眼を持つ騎士学生にぶつかってしまい、メガネが外れてしまったーーー… 認識阻害魔道具メガネのせいで2人の騎士の間で別人を演じることになった文官学生の恋の話。 全17話 2/28 番外編を更新しました

全ての悪評を押し付けられた僕は人が怖くなった。それなのに、僕を嫌っているはずの王子が迫ってくる。溺愛ってなんですか?! 僕には無理です!

迷路を跳ぶ狐
BL
 森の中の小さな領地の弱小貴族の僕は、領主の息子として生まれた。だけど両親は可愛い兄弟たちに夢中で、いつも邪魔者扱いされていた。  なんとか認められたくて、魔法や剣技、領地経営なんかも学んだけど、何が起これば全て僕が悪いと言われて、激しい折檻を受けた。  そんな家族は領地で好き放題に搾取して、領民を襲う魔物は放置。そんなことをしているうちに、悪事がバレそうになって、全ての悪評を僕に押し付けて逃げた。  それどころか、家族を逃す交換条件として領主の代わりになった男たちに、僕は毎日奴隷として働かされる日々……  暗い地下に閉じ込められては鞭で打たれ、拷問され、仕事を押し付けられる毎日を送っていたある日、僕の前に、竜が現れる。それはかつて僕が、悪事を働く竜と間違えて、背後から襲いかかった竜の王子だった。  あの時のことを思い出して、跪いて謝る僕の手を、王子は握って立たせる。そして、僕にずっと会いたかったと言い出した。え…………? なんで? 二話目まで胸糞注意。R18は保険です。

貧乏Ωの憧れの人

ゆあ
BL
妊娠・出産に特化したΩの男性である大学1年の幸太には耐えられないほどの発情期が周期的に訪れる。そんな彼を救ってくれたのは生物的にも社会的にも恵まれたαである拓也だった。定期的に体の関係をもつようになった2人だが、なんと幸太は妊娠してしまう。中絶するには番の同意書と10万円が必要だが、貧乏学生であり、拓也の番になる気がない彼にはどちらの選択もハードルが高すぎて……。すれ違い拗らせオメガバースBL。 エブリスタにて紹介して頂いた時に書いて貰ったもの

囮になった見習い騎士には、愛され生活が待っていた。

朝顔
BL
見習い騎士のリカルドは、ある時、無謀な作戦に巻き込まれて、囮になって死ぬように命令される。 これまでかと思ったが、そこに現れたのは、炎を纏った敵国の騎士だった。 捕虜として連れていかれることになったが、待っていたのは驚きの日々だった。 顔は厳ついが、動物に好かれる優しい性格の炎の騎士、セイブリアン。 窮地を助けられ、尊敬が恋心へと変わっていくが、セイブリアンには、忘れられない人がいるらしく…… ※※※ 炎の騎士様×不遇の騎士見習い R18は後半、完結済み。

【完結】消えた一族

華抹茶
BL
この世界は誰しもが魔法を使える世界。だがその中でただ一人、魔法が使えない役立たずの少年がいた。 魔法が使えないということがあり得ないと、少年は家族から虐げられ、とうとう父親に奴隷商へと売られることに。その道中、魔法騎士であるシモンが通りかかりその少年を助けることになった。 シモンは少年を養子として迎え、古代語で輝く星という意味を持つ『リューク』という名前を与えた。 なぜリュークは魔法が使えないのか。養父であるシモンと出会い、自らの運命に振り回されることになる。 ◎R18シーンはありません。 ◎長編なので気長に読んでください。 ◎安定のハッピーエンドです。 ◎伏線をいろいろと散りばめました。完結に向かって徐々に回収します。 ◎最終話まで執筆済み

側近候補を外されて覚醒したら旦那ができた話をしよう。

とうや
BL
【6/10最終話です】 「お前を側近候補から外す。良くない噂がたっているし、正直鬱陶しいんだ」 王太子殿下のために10年捧げてきた生活だった。側近候補から外され、公爵家を除籍された。死のうと思った時に思い出したのは、ふわっとした前世の記憶。 あれ?俺ってあいつに尽くして尽くして、自分のための努力ってした事あったっけ?! 自分のために努力して、自分のために生きていく。そう決めたら友達がいっぱいできた。親友もできた。すぐ旦那になったけど。 ***********************   ATTENTION *********************** ※オリジンシリーズ、魔王シリーズとは世界線が違います。単発の短い話です。『新居に旦那の幼馴染〜』と多分同じ世界線です。 ※朝6時くらいに更新です。

処理中です...