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第四章
45. 届いた手紙
しおりを挟むその日は朝から澄んだ空だった。
「イルー、おつかれーっ。手紙が来たよ、いつもの人からー」
あと少しすれば春の足音が届くであろう晩冬の青空の下。洗濯物を干していた私の背に声をかけてくれたのは、同じ天幕で寝泊まりをしているコービーという名の青年だ。役者見習いだから劇団での役割は私と少し異なるけれど、年齢が比較的私と近く、人懐っこい性格なので気楽に話せる仲間の一人だった。
快活な彼からの呼び声に振り返ると、その手には見慣れた封筒が一通あった。
「お疲れ様、ありがとう。今日は手紙多かった?」
「それなりに。ほとんどファンレターだろうなぁ。兄さん姉さん方が喜ぶよ」
「そうだね。ファンの方々からの声援は何よりのご褒美だって、みんな言ってたし、きっと楽しみにしてる」
「うん。あーでも、きっとまたジュールさんとガレオさんが『どっちの手紙が多かったー』だの、『情熱的だったー』の、『便箋の枚数が凄かったー』だのって競い合うんだろうなぁ。羨ましいやら腹が立つやら」
どっちも凄いから競う必要なんてないのに、とコービーは唇を尖らせる。
話題にあがったジュールとガレオというのは、それぞれ看板役者の男性だ。ジュールのほうは三十代前半と甘いマスクの持ち主で、ガレオのほうはジュールより少し若いが同年代の、いかにも男性的な雰囲気が魅力の俳優だった。
目を惹く容姿もさることながら、二人の演技は素晴らしい。だからこそ熱心なファンがついている。それをわかっているからこそ、役者見習いのコービーは嫉妬と羨望、憧れといった感情で複雑な心境のようだった。
(私からすれば、端役とはいえ舞台に出ているコービーも素晴らしいと思うけれどね)
そう思いつつも、私はその言葉はそっと胸にしまった。これを言うと「お世辞はいいよ」とか「イリエスに言われると調子に乗りそうだから、あんまり言わないで」と返されるからだ。
幼い時分……まだオメガだと判明する前に、何度か父に連れられて観劇に行ったことはあった。リベルテのような大衆向けのものではなく、貴族向けの華やかながらも少々格式ばった堅苦しいものではあったけれど。
もう随分と前だから、あまり記憶にも残っていないが、あのときはただ楽しい、面白いという感想だけで演技や演出の機微はわからなかったように思う。その後、オメガと判定されてからはそんな機会を得ることはなかったから、この手の『家や部屋にいては触れることのできない芸術』については、知識も何もかもが知らないことだらけだった。
劇団に拾われてから、間近で素晴らしい公演を観るようになって、ようやくだけれど少しずつ感性や見る目が鍛えられてきたかな、なんて思う。
自分の変化に少しだけ嬉しくなって、私は小さく笑った。
「ふふっ。お二人とも、本気では競い合っていないみたいだけれどね。あれは二人なりのコミュニケーションと、若い役者に発破をかけているつもりなんだよ」
「まー、わかっちゃいるけどねぇ。実際、二人に届くファンレターに感化されて、みんなも前以上に頑張るようになったし。もちろん、俺も!」
「うん、コービーもすっごく頑張ってる。みんなも、それからジュールさんやガレオさんもね。きっと手紙を楽しみに待ってるよ」
「だな。そういうことなら、やっぱ早く届けてやらなきゃ」
にかっと笑って、コービーは足早に去っていった。
元気だなぁと眩しい背中を見送って、私は受け取った手紙にようやく視線を向けた。
「いつもの人、かぁ」
劇団内ではすっかり『いつもの人』と定着するほど、ディオンとの手紙のやりとりは続いている。もちろん、口づけをされたあの日以降も、ずっと。
以前、私がまだ表向きは貴族として扱われていた時代に送られてきた手紙は、クラヴリー公爵家の者だとわかる立派な封蝋で留められていたけれど、平民イルとして手紙をもらうようになってからは、大仰な紋章ではないシンプルな封蝋がついている。彼が好きだと話していたアナベルの花をモチーフにした印璽が捺されているだけの、品がありつつもどこか親しみやすさを感じる手紙だ。
いまだ理解に悩む口づけに悶々としながらも、彼から届く手紙はやはり嬉しい。
(これからも……こうして、続けてくれるのだろうか)
洗濯物を終えて、冬空を見上げる。
故郷の冬は曇りの日が多く、どんよりとした空が続くものだったけれど、マオリルの街は冬でも晴れの日が多く、今日も気持ちがいいほどの青が澄み渡っていた。
この後は昼食の支度を手伝って、小道具の整理整頓をする。それが終わったら午後には劇団員たちの居住用天幕を掃除して、夕食の支度の手伝いをする前に魔法の自主練習をする予定だ。いつだって、やることはたくさんある。
とはいえ、今日はいつもより少し早く目が覚めて、洗濯物を順調に片づけたこともあってか今しばらく時間があった。
(天気もいいし、早速読もうかな)
少し休憩をしてもいいかと、洗濯場の端に寄せられた木の椅子に腰掛けて、届いた手紙を読むことにした。——このまま、ずっと……いつまでも、こんな日が続けばいいのにと願いながら封を切る。
そこには『イリエスへ』から始まる、優しい文章があった。
手紙の内容は以前と変わらず、ごくごくありふれたものばかり。日々の出来事や、私に読ませたい本のこと、それから祖国は変わらず平穏であること。
少しだけ変化があるとすれば、ディオン個人の話題がいくらか増えたことだろうか。もともと自分の話をすることを厭わない彼だけれど、あの晩にもっとディオンの話を聞きたい、知りたいと伝えたからか、日々の話に混じって彼の嗜好や考えが綴られることが増えたように思う。
想い人から手紙が届くたび、あの日のことを思い出しては顔を赤くしたり思考の海に沈んだりしている私と違って、何もなかったかのように綴られているディオンの言葉には迷いがない。
私なんて、ペンを走らせては心が揺れて、以前よりも返事を書く時間がかかってしまっているというのに——。
変わらぬ手紙に安堵するような、それでいてディオンのことがもっとわからなくなるような心地でひと通り手紙に目を落とすと、胸があたたかくなった。その感情とともに便箋を丁寧にたたんで、大切に封筒へと戻す。そして、落とさぬようにとポケットへしっかりとしまいこんだ。
返事は、今夜にでも書き始めよう。
頭の中は手紙への返事と、数ヶ月前の口づけと、彼の笑顔や眩いばかりの風貌でいっぱいだ。けれど、そろそろ次の作業をする時間でもある。
仕事をしているうちも悩みが頭を離れることはないけれど、それでも手を動かしていたほうが変な思考にならなくて済むだろう。
さて、と腰を上げたところで、数十分ほど前に聞いた声が再び耳に届いた。
「おーい、イルー!」
ふと顔を上げると、先ほど手紙を届けてくれたコービーが眉を下げて小走りで駆け寄ってくるところだった。
目が合うと、パッと笑顔を見せて、ほっとした表情を浮かべた。
「どうしたの? 何か忘れ物でもした?」
「ごめんごめん! イル宛てにもう一通あるの忘れてた。差出人が書かれていないんだけどさ。ええーっと……これこれ!」
そう言って、目の前まで駆けてきた彼は封筒を差し出した。
「もう一通? 私に?」
その封筒を受け取りながら、私は首を傾げる。
私に手紙が届くようになったのは、ディオンと再会してからだ。
それまで、私はイリエス・デシャルムという名前を捨てて、平民イルとして生きてきた。そして、それは今も同じ。
イリエスが平民イルとして、劇団リベルテの一員として生きていることを知る者はほとんどいない。リュシオン殿下とディオン、それから彼らと私の話を聞いていた近衛騎士くらいだろう。もしかしたら、リュシオン殿下から他の者に話をしているかもしれないが……彼らの言葉を信じるのならば、私の意に反することはしないはずだ。
だから、彼らのいずれか——ディオンからの手紙は手元にあるので、おそらく別の人物——が私宛てに寄越したのかもしれないけれど、リュシオン殿下はともかく他の騎士たちが私に用があるとは思えない。
それなら、平民イルを知る者からではないか?
そう考えるのが筋だろうけれど、それもなかなかピンとは来ない。
トレヴァー団長に拾われて、劇団に世話になってから知り合った人もいるけれど、私個人に手紙を送ってくれた人は今の今まで一人もいないのだ。
劇団リベルテは各地を移動しながら公演を行ってきたため、役者陣や脚本家たちは各地にファンがいたりする。中には熱心に、移動先まで手紙を送ってくれる人もいるらしく、劇団に手紙が届くというのは日常だ。
個人宛てでなくとも『リベルテ宛て』に労いや声援を添えて手紙を送ってくれる人もいるので、読み書きができる私はその返事の代筆をすることもある。
そのため、手紙自体は馴染み深い。
でも『私宛て』というのは、やはり奇妙に思えた。
「なにかの間違いじゃ…………、ぇ……っ」
そう呟きながら、封筒を裏にひっくり返して——思わず上げそうになった声をなんとか堪える。しかし、背筋に悪寒を感じて、足元からは冷気が立ち上ってきたかのように全身が凍る思いがした。
——そんな、まさか……。
座っているのに、立ちくらみのように視界が一瞬ぶれて、白くなる。
急に黙り込んだ私をコービーは「イル、どうした?」と覗き込んだ。白く飛んだ視界が徐々に戻ってきて、明るい亜麻色の髪と大きな瞳が見えた。
詰めていた息を細く吐いて、どうにか動悸を落ち着ける。
「な……んでも、ない」
「そっかぁ? なんか無理してない? さっきよりも全然元気ないよ。……あ、体冷えた? 今日も天気はいいけど、まだ冬だから寒いしさ。そういやイルは発情期明けだっけか。具合悪いなら、部屋まで送ろっか?」
たしかにコービーの言うように、先週に発情期が訪れていた。
けれど、この悪寒も体がひどく冷えたように感じるのも、発情期明けのせいでも、冬の寒気のせいでもない。——すべては、いま手にしている『もう一通の手紙』のせいだ。
(嘘だ……。そんな、まさか……)
震える指先で手紙を強く摘む。
本当はこのままどこかへ捨ててしまいたい。けれど、それは余計にまずいこともわかっている。一刻も早く手紙の中身を確認しなければならないのに、封を開けたくない気持ちはそれ以上に膨れ上がる。
心配そうに私を見守る気配を感じながら、忌々しい手紙の上質な紙の感触がやけに肌に張りついて気持ち悪い。——指先にあたる封蝋には、カナリアの印璽が捺されていた。
「……ううん、大丈夫。心配かけてごめん。でも言われたとおり、次の作業まで少し部屋で休むことにするよ」
「わかった。無理しないようにな? イルが倒れたら、みんな悲しむよ」
心配してくれているコービーの声に返事はできただろうか。
覚束ない足取りで、私は自分の部屋としている居住用天幕へと戻った。
◇◇◇
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