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第四章
44. 切なく、甘く *
しおりを挟むディオンがマオリルの街を再び訪れ、二人で街を散策し、楽しく食事をした日からさらに数ヶ月が経った。
あの夜、私は彼とぽつぽつと小さな言葉を交わしながら、劇団リベルテの天幕までの道のりを昼間以上にゆっくりと歩いた。
交わした言葉はいくつもあれど、唇に触れたものは何だったのか……それを訊くことはできなかった。——いや、自分の中で「そんなまさか」と否定し続けてしまうだけで、本当は何をされたかくらいはわかっていた。わかっていたけれど、理解してはいけないような気がしてもいた。
だから、そこには触れずに、ただただ他愛もない話をしながら夜道を歩いた。
唇に触れた当の本人であるディオンも、特にその行為について話題に出すことはなく、それでいて上機嫌な様子が印象的で。自ら話題に触れないのは、おそらく意図的で……だからこそ、改めて訊くのが躊躇われたのもある。
結局、何も聞けないままに天幕までたどり着き、別れ際に「また来るよ。手紙もたくさん書くからね」と言ったディオンは、フード越しに私の頭をぽんと撫でると颯爽と立ち去ってしまった。
出掛け際にトレヴァー団長が言ったように、その日の夜は少し冷えていた。にもかかわらず、美しい背中が闇夜へ溶けていく様を見送っていた私の体は、内側から何か火を灯されたように熱が生まれ続けていた。
ぽかぽかとした春の木漏れ日にも似た優しい感情と、それよりも激しく、熱く、ふつふつと奥から湧き出てくる熱の塊のような形容しがたい感情が私の中で同居して、ぐるぐると出口を求めて渦巻く。
まるで夢のような一日を過ごした最後の一幕に、想像をしたことのない幻のような時間がやってきて……思考が追いつかないかった。
——ディオンは、なぜ私に口づけなどしたのだろう。
数ヶ月の間、その疑問は消えることなく私の頭の片隅で問い続けている。
流れる日々のなかで、それについて時折考えているとぼんやりしてしまうこともしばしば。劇団のみんなからは「何か悩み?」、「よかったら相談に乗るよ」と心配され、その度に曖昧に笑って返す。
彼らの親切心は有り難く思ったけれど、誰かに相談することはできなくて。
良き仲間であるリベルテの面々のことは、心の底から信頼している。何も知らずにいた私に手を差し伸べ、生きる術を教えてくれたのも彼らだ。でも、そんな彼らに持て余した感情をどうすれば……なんて相談は、どうにも恥ずかしく思えたのだ。
些細なことに感情を大きく揺さぶられているのは、私の本当の意味での人生経験が乏しいからだろう。私が知っているのは十度繰り返した生家の屋敷と、数年暮らしたジードの屋敷と、そしてこの劇団リベルテのことくらい。どんなに人生を繰り返していても、他の者よりも圧倒的に経験が足りなく、無知なのだと改めて痛感していた。
生家を出て、祖国を出て、こうして人気の劇団に世話になっていても、私が世間知らずなのは変わらない。そんなことを思い知らされながらも、月日は流れ、疑問は疑問のままだった。
——私の唇に触れた、彼の唇の感触を忘れられずにいる。
「トレヴァー団長、すみません。少しいいですか?」
それでも私の心情とは関係なく、毎日陽は昇り、暮れていく。
悩みながらも劇団での楽しい日々が過ぎていくなか、夕方までの仕事を終えたあと、私は団長の仕事場がある天幕を訪れた。
今夜は昼の公演だけで、夜の公演はないのでおそらくトレヴァー団長は書類仕事をしているはずだ。そう踏んでやって来たのだけれど、予想通り中からは「どうぞー」と返事が返ってきた。
「失礼します。お忙しいところ、すみません」
「イリエスか。今日も朝早くからありがとう。いつも助かるよ」
天幕に入ると、これまた予想通り机に向かって書類に向かっていた団長が顔を上げる。評判が評判を呼んで、今や劇団リベルテは押しも押されもせぬ人気の大衆演劇集団だ。
「いえ、私の仕事ですから。それよりも団長。ご相談がありまして」
「うん? どうした?」
「おそらく明日か明後日あたりから発情期がやってくるみたいです。お忙しい時期に申し訳ないのですが、一週間ほどご迷惑をおかけするかと思います」
今夜、私が団長のもとを訪れたのは、すぐそこに迫った発情期についての相談だった。
この劇団には、私ともう一人——売れっ子脚本家の女性だ——、計二人のオメガが所属している。そのため、専用の天幕が一つ設けられていて、私か彼女が発情期を迎えたときはそこで過ごすことにしていた。幸いにして、彼女の周期と私の周期が重なることはなく、代わる代わるその天幕を使っている。
「ああ、もうそんな時期か。悪かったね、イル。声をかけてやれなくて」
「お気になさらないでください。ここのところの劇団は大賑わいですし、団長もお忙しいでしょう? さすがに私も、みなさんに迷惑をかけないように、こうして自分で話をしに来られるようになりましたから」
はにかみ気味に答えれば、「そうか」と団長も柔らかく微笑んだ。
オメガから切っても切り離すことのできない発情期だが、じつはリベルテに世話になるようになってから最初の頃は、自分に発情期が来ることをなかなか言い出せず、脚本家の女性や団長から「そろそろじゃないか?」と声をかけてもらっていたのだ。
発情期なんて煩わしいもので他人に迷惑をかけてしまう申し訳なさと、自分がオメガであることの劣等感で必要なことを申告すらできなかった当時の自分を思うと恥ずかしくなる。
けれど団長は「誰しも上手くいかない時期や苦手なことはある」と言って、何くれとなくイリエスに心を配ってくれた。そういう細やかな一つ一つのことが、私が自覚もろくにしないままに傷つき、疲れ果てていた心を癒してくれたのだ。
「ところで団長。ここ最近、団長が寝る時間を惜しむようにお仕事なさっているのも、知ってますからね? 私を心配してくださるのは嬉しいですが、団長もまた目の下に隈を作って団員から驚かれないでくださいよ?」
「まったく……イルも言うようになったなぁ」
感謝と尊敬の念を抱く団長に対しても、最近は少しずつお小言めいた冗談を返せるようにもなった。
ここは——この劇団リベルテは、やっぱり大好きで、大切で、手放したくないものだ。私の宝物のような場所だ。
改めてそう思いながら、団長に休みの許可を貰った私は、発情期を過ごす天幕へと向かったのだった。
+ + +
それから一日ほどして、発情期が始まった。
「はぁ……ん、ん……」
発情期を過ごす天幕は、大道具を作っている職人陣によって作られた代物で、もとはオメガの脚本家のプライバシーをしっかり守るためにと、防音効果の高い厚手の布を使っている。ゆえに、あられのない声をあげようと、情けない音が響こうとも外に漏れる心配はない。
それでも、こういうときの自分の声を聞くのは好きではなくて、私は用意されているタオルを噛み締め、毛布にぐるりと包まりながら自身の勃ち上がった性器を指であやしていた。
高まる熱とともに、先端からはとろりと蜜が漏れる。
その滑りを借りて、固くなった芯を上下に扱くと下腹部から腰にかけて快感が広がっていった。それと同時に、じゅわりと後孔も濡れていく。
「まだ……もう、ちょっと……ん、ぅっ」
今すぐにでも熱い猛りを突き入れてほしいと騒ぎ立てる本能をぎりぎり残る理性で宥めて、まずは男のそれでの快楽で体の熱を少しずつ発散していく。
「あぁっ。ん……はぁっ、ぁ」
そうやって、乱暴な手つきにはせずに、なるべく丁寧に高めた熱で何度か浅ましい欲望を吐き出した。オメガの虚しさや情けなさは完全には消しきれないけれど、リベルテで暮らすうちに随分とその気持ちも和らいだ。
この劇団にはオメガだからと蔑む者はいないし、同じオメガの女性が自分の性を受け入れながら第一線で活躍している。そんな環境が少しずつ、疎ましかった自分の性を受け入れて、どうにか折り合いをつけられるようにしてくれたのかもしれない。
始まったばかりの発情期は、精を何度吐き出せど熱はまだ下りていかない。
ついに陰茎と陰嚢のさらに奥で物欲しげに疼き続けていた後孔へと指を伸ばし、火照る内側を自分の指で慰める。オメガらしく、なかへの刺激はあっという間に私の体を高めていった。
ぐちゅり、と濡れた音を立てながら指を二本ほど入れたところで思考も溶け始めて、体が求めるがままに前と後ろを乱していく。そのうちに、溶けた頭は一人の男のことを自然と思い出し、恋しい気持ちで満ちていった。
まず思い出されるのは、口づけをしたあとのディオンの表情だ。
それから、いつかの昼間に事故的に重ねてしまった熱い肌も。
あの突発的なヒートによる事故のことは、あのあとしばらく私のことを苛みはしたけれど、ジード伯のもとに嫁いで半年ほど経った頃には思い出さなくなっていた。好きでもない夫との情事と、事故とはいえ心を寄せていた相手との行為を頭の中で並列に並べることが苦痛だったからだ。
それから出奔して、リベルテに世話になるようになってからは、あの昼の出来事を思い出すことはなかった。なのに——。
ディオンからの意味深な口づけが呼び水になったのか、発情期が始まってから頭の中にはずっと、彼の笑顔や優しい仕草が浮かぶ。
「ぁ……はぁ、っ……ディオン、さま……っ、はぁっ」
きっと昔なら、自慰行為の際にディオンのことを思い浮かべるなんて私の心と理性が許さなかった。高貴な彼を薄汚い私が穢してしまうみたいで、耐えられなかった。
けれど今は……多少の申し訳なさはあるけれど、彼への想いを胸で焦がしながら自分のことを宥めて、つらい発情期を過ごしてもいいような気がした。
あの口づけの意味はわからないけれど、長年かけて鎮めたはずの恋心に、再び火を灯してしまったのは確かだった。
そして、その恋心をもう無理やりに押し殺すことは、もうしない。
もちろん、彼とどうこうなりたいなんて大それたことは思わないけれど……。でも、手紙のやりとりを時々して、彼と交わした言葉を思い浮かべて、過ごした時間に思いを馳せる。その日々はまるで、これまで感じたことのない幸福の形を見つけられたような気がして、心はゆっくりと満ちていく。
それは、私が私に許した切なくも甘美なひと時であった。
◇◇◇
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