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第三章
35. 知らない日記
しおりを挟むそれは、ディオンが十六歳になる年の出来事——。
春先迫る、まだ冬の気配が去りきらない季節。
学園の休日にあたるこの日、ディオンは王都にあるタウンハウスにいた。
授業のない休暇はだいたい友人に招かれたり、遠乗りに出掛けたり、自分のほうから茶会や狩りに誘ったりと社交に勤しむのが学園に通う者の通例だ。貴族に生まれついた子息子女の嗜みと言ってもいい。
とはいえ、時には社交を休んでのんびりしたいときもあるし、そうでなくとも社交ではない所用を済ませたいときもある。
この日のディオンもそんな理由で自分の部屋にいた。つまりは社交のあれこれでなく、済ませたい用があって朝から一人、自室に籠っていたのだ。
別に、大それた用があるわけではない。
春を前にして部屋の整理をしたいというシンプルな理由である。
日頃の片づけは自分付きの使用人がきちんと気を配って整えてくれているのだが、触ってほしくない箇所の整理や使い勝手を踏まえた微調整を自分で行いたいディオンは、半年に一度ほどはこうして誰に会う予定もいれず、一人で自室を整理整頓する時間を作っていた。
タウンハウスと言えども、自室はそれなりに広い。その広い自室に一人で向き合うことは、高位貴族の子息である自分の立場を甘んじて享受するだけではなく、それ以上になすべき義務を全うすることを家庭内外から求められている、ということを強く心に刻む儀式のようでもあった。
そんな自室でディオンは、常日頃から口を酸っぱくして言われる「貴族たるもの、決して驕り高ぶるな」という父と母の教えを胸に、黙々と作業を進めた。
「ここは、こんなものか。——残りは本棚くらいだな」
朝食を食べた直後から、まずは机の中を片づけて、それからキャビネットの片づけも終えたディオンは、次の作業に取り掛かろうと本棚の前で独り言ちた。
クラヴリーの人間は書を嗜む者が多いこともあり、この屋敷にはそれなりの蔵書量を誇る書庫がある。さらにそれとは別に、ディオンは自分の部屋にも本棚を設置して、特に気に入っているものや、読みかけで書庫に戻せないものを置いていた。
それほど手のかかる片づけが必要なわけではないけれど、ついでに整理しようと思ったのだ。
「読みかけのものは二冊か。……せっかくだから、今日明日のうちに読んでしまって、また新しいものを見繕っておくかな」
昨年から今年にかけては何かと予定が立て込んでしまい、冬の季節に読もうと思っていた本が残っていた。ディオンはそのうちの一つを手に取って、読書の計画を思案する。途中で戻すのは気が引けたし、何よりちゃんと読んでしまいたかった。
すると、その本に隠されているかのようにして、本棚の奥へ押し込まれている一冊の本を見つけた。
「——おや?」
見慣れぬ装丁が気になって、奥へと手を伸ばしてその本を手に取る。
埃を被っていて、古ぼけてもいるが、本棚の奥に置かれていたからかあまり日焼けはせずに保管されていたらしい。青い装丁の冊子のそれは、なぜだかディオンの手にしっくりと馴染んだ。
その表紙には『Diary』の文字が記されていた。
「誰かの、日記?」
はたして、こんな青い日記を書いたことがあっただろうか。
ディオンも幼い頃に興味が湧いて日記をつけていたことはあったけれど、青い装丁のものを使った記憶はない。
訝しみつつも、まずは中を開かずに背表紙や裏表紙を見てみた。だが、Diaryと綴られた白い文字のほかは何も見当たらない。外見を見る限り、何の変哲もない古い日記帳のようだ。
(姉上か、兄上のものが紛れ込んだかな)
ディオンは幾分か考えたのちに、その日記を開いてみることにした。他人の日記を読むのは憚られたが、開かないことには持ち主がわからないからだ。
表紙の埃を手で払い、分厚い表紙を開く。そこに現れた一枚目。
——ここに、俺の後悔と懺悔を綴る。
そう記された文字は、見慣れた字体だ。
じわりと違和感を覚えながらも、ディオンは日記のページをめくった。
『彼が亡くなったという話を耳にした。どうして。なぜ。そんな言葉がずっと頭をよぎっている。けれど、「なぜか」なんて想像がついた。きっと彼の家族がひどい乱暴を働いたのだろう。あるいは、それに等しいことを。
……でも、自分の中に渦巻く「なぜ」も「どうしても」も、彼の家族にあてたものではない。それは俺自身に対する怒り。嘆き。もう救えない命に対する後悔。
彼に出会ったあの日のうちに、何も考えずに、ただ彼の手を取ればよかったのに。なぜ俺は、すぐに手を差し出せなかったのか。悔いたところで彼は戻ってこないけれど……。
せめてもの償いと、これからも彼を想い続けていくために、この日記に彼との思い出を綴ることにする』
そこに綴られている言葉は、日記というよりは何かを嘆き、悔いている心の声のようだった。だが、中身はさることながら、ディオンはその見覚えのある筆跡に動揺を隠し切れずにいた。——それは、自分の筆跡にとてもよく似ていた。
「これは、なんだ……?」
日記のページには、自分と同じ筆跡で幾列もの文章が綴られている。
けれど、その内容にまったく覚えがない。
覚えていないだけと言われればそれまでだが、ディオンは記憶力が悪いほうではない。まして、こんな印象深そうな内容を忘れるはずもない。
『彼』とはいったい誰だ? 亡くなった? いったい誰が?
そこに綴られているのは、どうやら筆者——筆跡だけ見ると自分——が、心に想う大切な相手が亡くなったことに対する嘆きと後悔だ。だから、ディオンはなおのこと、その日記が奇妙に思えた。
(俺に想い人はいないんだが……)
どう見ても自分の筆跡だが、似たような書き癖のある他人としか思えない。
困惑を覚えながらも、ディオンはさらにページをめくる。
その後のページで綴られているのは、『彼』と記された想い人とのささやかな交流の思い出だった。
花の咲く庭園で茶を飲み、言葉を交わしたこと。遠乗りに誘ったけれど、彼の体調が思わしくなくて出掛けることが叶わなかったこと。代わりに書いた手紙と、その返事を貰えたことへの喜びと、気遣わしげに綴られる彼を心配する気持ち。
日記を書いた著者は、こんこんと湧き出る泉のように、優しく穏やかな想いを絶えず、『彼』へと向けていることが伝わってきた。
では、その『彼』とはいったい誰なのか。
疑問に思いながらも、ディオンは日記を読み進めていく。そしてやがて、その『彼』の名前が判明した。
「イリエス・デシャルム? ……もしかして、デシャルム侯爵家の次男か?」
その名は聞いたことがあった。
デシャルムとは、かのデシャルム侯爵家のことだろう。そこは四人の子供がいる。そして、そのうちの一人——次男は体が弱く、屋敷からほとんど出られないと聞いているが、その次男の名前がたしか、イリエスといったはずだ。
「この『イリエス』という名の者がデシャルム家の次男のことだとして、なぜその名が? 兄のレイナルドならさておき、彼との面識はないはずだが……」
デシャルム家の長男レイナルドとディオンとは同い年だ。学園では同学年ということもあってか、それなりに言葉を交わす間柄でもある。
公爵家の次男である自分と、侯爵家の長男であるレイナルドは高位貴族同士であるのと同時に、領地も隣り合わせのため、交流する相手としては互いに妥当な相手であった。それに、デシャルム家はクラヴリー家にとって、気になる相手でもあった。
だから、レイナルドの名前が出てくるのなら、まあわからないこともないのだ。
ディオンがレイナルドへ恋慕を向けているわけではないし、交流があると言っても親友というほどではないので、それはそれでおかしくはあるのだけれど。でも、繋がりはあるにはあるので、何かの拍子に名前が出てくることもあるかもしれないとは思える。
しかし、レイナルド以上にイリエスの名前が綴られているのは、ひどく奇妙に感じた。次男と思われるイリエスとディオンは、ただの一度も会ったことがないからだ。
それに奇妙なことは、他にもあった。
「……日付が、おかしい」
日記に綴られていたのは始めのほうこそ、心のうちを吐露する悲痛で切ない言葉と、過去を懐かしむものばかり。
だが、それらを読み進めるうちにディオンはさらに不可思議なことに気がついた。
いつ、どこで、何をしたという過去の思い出は日付の記載がないものも多かったけれど、時折思い出すように綴られる日付はすべて、今より『未来』のものなのだ。
「日記ではなく、予言書か? あるいは、呪い師の戯言だろうか」
だとしても、それが自分の本棚に置いてあったことへの説明がつかない。
自分のものによく似た筆跡の理由もわからない。
ただ、その日記を読んだディオンはなぜだか、会ったこともないイリエスのことが気になっていた。
日記に綴られている「『躾』と称された家族やその知人からの虐待」が事実なのか、気になって仕方がなかった。そんな話は聞いたことがないが、やけに胸騒ぎがしたのだ。
未来の日記か、予言か、戯言か。
感じたことのない焦燥を抱きながら、不可思議な日記を最後まで読み進めていく。すると、最後のページにはこう綴られていた。
『もし神がいるのなら、彼との日々をもう一度やり直させてほしい。イリエスと出会ったあの頃から、もう一度……。それが叶うのならば、きっと今度こそ彼を守ってみせるのに。——ディオン・クラヴリー』
祈るような願いとともに、懺悔のごとく刻まれた『自分の名前』。
日記を読み終わる頃には「これは、いつかの自分が書いたものなのだ」という妙な確信があった。
確信と呼べるほどの証拠は何もないけれど、他人事に思えないということだけはディオンの中では事実となっていた。
「ディオン・クラヴリー、か……。まったく馬鹿馬鹿しい話だけれど……この日記はおそらく、俺が書いたものだ。それも——未来の俺が書いたものだ」
言葉にしてみると、そうに違いないといっそう強く感じた。
最後に記されている日付は、今から九年後。
自分が二十五歳になる年の、晩春から初夏になりつつある日のものだ。日記が書き記すにその日付は、二十三歳になったばかりのイリエスが亡くなってからひと月も経たない日のようだった。
今の自分は冷静かと問われれば、首を縦に振れるかはわからない。
だって、「未来の自分が書いた日記がある」なんて荒唐無稽な話、誰が信じるだろう。頭がおかしくなったのではと思われるか、タチの悪い自作自演だと言われる可能性のほうが高い。仮に信じてもらえたところで、ディオン自身どう対応するのが正しいかもわからない。
ただ、一つ。
ディオンは心に決めた。——イリエス・デシャルムに会おうと。
会って、直接顔を見て、話をして、この日記を書いた自分ではない自分が悔いている日々をやり直してみる。
会ったことのない少年へ恋情を向けるほどの心が、今の自分にあるわけではないけれど。でも、もし日記の内容が本物であったのなら、九年後に命の灯火が消えるという少年を放ってはおけない。
これは見えぬ恋慕ではなく、正義感に奮い立たされてのものだ。
だから、ディオンはイリエスに会いに行くことに決めたのだった。
+ + +
(2024.7.24 後書き)
いつもお読みいただき、ありがとうございます♡
ちょこちょこ誤字脱字があって、申し訳ないです。順次修正しております。
感想や♡などなど、たくさんいただけて、とても励みになっています。
暑い日が続きますが、少しでもみなさまのBLライフを楽しくできる一つになれますように。
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