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第三章
30. 一対のペンダント
しおりを挟むディオンがイリエスに贈ったペンダントは、特別なものだ。
特別というのは「既製品ではなくディオンがクラヴリー家お抱えの宝飾職人に作らせた、この世に二つとない唯一のものである」ということだけではない。
そのペンダントにはディオン自ら、ある魔法を施している。
施したのは、生体反応を感知する魔法と、位置探知の魔法の二つ。
今後に起こり得る不測の事態に備えてのもので、その魔法のかかったペンダントをイリエスの家族に知られないように彼へと渡すことが、当時のディオンが己に課した使命であった。
イリエスに贈った青いペンダントは、イリエスが生きていれば対となるディオンの赤いペンダントにその生存を知らせる魔力を絶えず届ける魔法がかけられている。また、赤いペンダントに届く魔力の強さは、青いペンダントの持ち主であるイリエスの生命力に応じるようになっていた。
つまり、イリエスが元気でいれば高い魔力を、体が弱れば低い魔力を——そして、もしイリエスの命が尽きるようなことがあれば、青いペンダントから赤いペンダントへ送られる魔力は途絶える、というように。
これまで、ディオンの赤いペンダントには、時折弱い魔力しか届かないときもあった。それでも今なお、魔力は絶えず届けられている。
先にも述べたように、もしイリエスが本当に病死しているのならば、赤いペンダントへ魔力は届かない。しかし、今この瞬間でも、ディオンの胸にかかるペンダントには魔力が絶えず流れている。
それも——溢れるほどの、生き生きとした魔力が。
だから、イリエスは死んでいない。それがディオンの確信であった。
「位置探知の魔法が残っていさえいればな……」
悔しげに歯噛みをしつつ、ディオンは小さく声を漏らした。
イリエスのペンダントには二つの魔法を施したが、そのうちの片方——位置探知の魔法は現在機能していない。正確に言えば、何らかの理由で機能しなくなったようだった。
イリエスに渡したときには機能していたし、彼が異国へ嫁いでからも二年ほどは機能していたように思う。だが、ある日を境に機能しなくなったのだ。
位置探知の魔法は、ディオンが持つ赤いペンダントに探知の魔力を流し込むことで、対であるイリエスの青いペンダントがある位置を教えてくれるというものだ。
生体反応の感知魔法と異なり、こちらから確認しようと思わなければ発動しない魔法で、王侯貴族には馴染みのある魔法でもある。誘拐時に役立つので、子どもや要人に魔法が施された装飾品を持たせたり、身につけさせたりする。貴族間ではありふれたものだった。
ただし、位置が判るといっても、その精度と粒度はまちまち。
魔法をかけた者の技量によるのだが、ディオンがイリエスに贈ったものは半径一キロくらいの範囲で「この付近にいるな」というのが判る程度だ。なぜなら、それが当時のディオンの精いっぱいであった。
それでも『今後のこと』を考えると、無いよりはあったほうがいいかと思い、ディオンはありったけの技術を駆使して施したのだ。
ディオンは時折、この位置探知魔法を使っていた。イリエスが異国へ嫁ぐ前はデシャルムの屋敷や領都周辺での反応が、嫁いだ後は嫁ぎ先だというジード伯爵の領地での反応が返ってきていた。
イリエスを監視することが目的ではなかったので、魔法の作動確認をするために位置探知魔法を使っていたのだが、その反応が返ってこなくなったのが、おおよそ十ヶ月前。
イリエスの身に何かあったのではと、当時ディオンは学友であり、イリエスの兄であるレイナルドに話を聞きに行った。と言っても、ペンダントのことは秘密にしていたため、嫁いでしまったイリエスは元気にしているか、という世間話の体で探りを入れたのだ。
だが、レイナルドは「元気にやっているようだ」と答えるばかりで要領を得ない。
まあそれでも、生体反応感知のほうはずっと反応を示していたし、元気でいてくれるのならばと思っていた。
なのに、半年経たないうちに「イリエスは病で亡くなった」との話を耳にする。
そんなことは、あり得ない。
なぜなら、ペンダントは魔力を絶やしていない。
しかし、ディオンはそれをレイナルドはもちろんのこと、デシャルムに関係する者たちにも話しはしなかった。イリエスは生きているのに隠したい理由があって、病死扱いをしていることを察したからだ。
それがろくな理由からではないと判断したディオンは、それからはいっそうペンダントの反応に気を配った。——いつか彼と再び、逢い見える日のために。
(イリエス……)
ディオンは、心の中に残るイリエスの姿を思い浮かべていた。
実のところ、ディオンは、イリエスのことをずっと注視していた。
始まりは、あるものによるところが大きいのだけれど、実際に交流を重ねていくうちに彼自身に興味を惹かれた。それは友人としての感情、もしくはたった二つしか離れていないのに年齢よりも幼い容姿をした少年に対する慈愛のようなものだった。愛らしく、しかし体が弱いがゆえにか弱い印象の強い彼を見て、年長者としての庇護欲が湧いたのだ。
しかし、その感情は何度か交流をするうちに変化していった。
それは一つの言葉では言い表せない、複雑なものとなった。そして、その中には恋情というものも確かに存在した。いや、恋情というにはあまりにも欲望に塗れた感情も含まれてはいたのだが。
それゆえにと語るのは些か短絡的すぎだとは思うが、イリエスの成人を祝うために彼のもとへと訪れたあの日、突然起きたヒート事故のことをディオンはそれほど後悔していない。いや、後悔していないというのは少し語弊があるのだろうけれど……。とにかく肌を重ねたことをディオンは嫌だと思わなかった。
屑だと言われることは覚悟しているが、恋心を向ける相手と熱を交わせたのだから男としては欲望を満たせたと思ってしまうのは仕方がなかった。
それに、イリエスもまた自分に対して友人と呼ぶにしては複雑すぎる感情を抱いてくれているのではないかという傲りもあったのだ。物静かな青い瞳の奥に、しっとりとした熱を感じることがある気がしていた。
だからこそ、イリエスが何も言わずに他国へ嫁いでしまったときに、言いようのない無力感を覚え、寂寥が胸に吹きつけたのだ。彼に手を差し出す前に、別の男にかっ攫われた気さえした。
まあとにかく、ディオンはそういう意味も含めてイリエスに心を寄せていたし、できれば良い関係——もっと深い関係をも望もうとはしていたのだけれど、彼とより深く心を通わせるためにはやるべきことがあった。
そしてそれは、当時のディオン一人で片付けるのはあまりにも難しく、かつ個人的な感情だけで動いてはいけない事情もあった。
死に戻りを繰り返し、幾度となくまともな人生を諦め、ディオンを好きにならないでいようと必死になっていたイリエスは知る由もないが、今世においてディオンは、イリエスを地獄から救い出すために水面下でいくつかの策を動かしていたのだ。
端的に言えば、ディオンはイリエスがデシャルム家で虐待されていたことに薄らとではあるが気づいていた。その上で、イリエスを助けるために自分の両親をはじめとして、信頼のおける者たちに助力も求めていた。
(もっと早く動けていさえすれば、イリエスが他国へと嫁ぐこともなかったのだろうか……すべては『たられば』だが……)
今思い返しても、自分の行動の悪さに歯噛みする。
言い訳をするならば、なかなか思うように動けなかったのは、虐待の事実を掴むのは予想以上に大変だったからだ。
あまりにも準備無しに動いてしまうと「家のことなので」と拒否され、状況はさらに悪化する可能性もある。証拠を掴まぬうちに隠されるのも困る。なにより、イリエスを救おうとして、彼を傷つけてしまうのは本末転倒だ。
ゆえに慎重に、時期を見ながら、なんとかイリエスに累が及ばぬようにと策を練っていた。だがそのうちに、イリエスは嫁いでしまったのだ。
イリエスの儚げな顔を思い出し、自分の無力さを悔やんだ。
と、パタパタと小気味の良い足音が聞こえてきて、ディオンははっと顔を上げた。上げた視線の先、天幕の間を線の細い黒髪の青年が駆けていった。
「イリ——……!」
『イリエス』と、彼の名を大きく呼び上げそうになったのを、ディオンは寸止めで堪えた。ここで不審者扱いされると、下見のために街を訪れていたのに、主人である第三王子に迷惑をかけてしまうし、なによりイリエスと見られる青年に逃げられてしまう可能性が高い。
だが——今、目の前を走り過ぎていったのは、たしかにイリエスだった。
ディオンのいる位置からイリエスが一瞬だけ姿を現した場所までは距離があり、ディオンのように訓練された者でなければ、イリエスの姿を僅かな時間で捉えるのは難しい。まして、もう陽は落ちている。
イリエスからはディオンがいる一帯は暗がりに見えたので、なおのことイリエスがディオンに気づくことはなかった。けれど、ディオンの目はたしかにイリエスを捉えていた。
最後に見たときよりも髪は短くなっていたけれど、あの黒髪には覚えがある。零れ落ちそうな青い双眸も、白皙のような肌も。なによりも、あの精緻に作られた人形よりも美しい顔をディオンは覚えている。忘れるわけがない。
(たしか、ここの天幕では旅の劇団一座が今月いっぱいまで公演をしているんだったかな。なら、接触する機会はおそらく作れる)
すぐにでも、あの青年のもとへ駆けつけて確認したい。
そんな衝動を無理やりに押し込めて、ディオンは天幕に背を向けた。
少なくとも、今の彼が危機に直面していることはないはずだ。ペンダントには強い魔力が届けられているし、先ほど見た彼の横顔には笑みが浮かんでいた。
あんなに生き生きとしたイリエスの明るい笑顔を、ディオンは見たことがない。
イリエスがここにいるのは何か事情があるのだろう。でも、それはおそらく彼にとってはそう悪いことではない。
ならば、いきなり近づいて驚かせるような真似をして警戒されるよりも、もっと警戒されない形で再会する場を設けるべきだ。
その上で、明かせることを話したい。彼が望むことを聞きたい。そこに自分が力になれることがあるならば、それが何であっても手を差し伸べたい。——そして、今度こそ、彼の心に寄り添いたい。
ディオンは、街へと続く道へと足を踏み出し、天幕近くから音もなく立ち去るのだった。
◇◇◇
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