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第三章
27. せっかく来たのだから
しおりを挟むだが、そんな日々は唐突に終わりを迎える。
季節が二巡ほどした晩夏の夜。
私の中に欲望の滾りをぶち撒け終わり、自らの寝室へと引き下げていこうとしているジード伯が珍しくチラリと私を振り返った日を境に、同衾を求められなくなったのだ。
「……飽きられた、のだろうか」
秋の風が吹き始めた頃に、ふとそう思った。
ジード伯の愛妾は早ければ数年で入れ替わると聞く。場合によっては一年もしないうちに寵愛を失う者もいるらしいし、娼妓になれば一夜限りというのもざらにあると聞いている。
そういう意味では、側妻で子供を幾人ももうけたリナ様は、今でこそ共寝をするのは年に数えるほどとはいえ、相当にジード伯に気に入られている。アルファ至上主義ゆえに、オメガのリナ様を一人の人間として尊んではいないが、自身の所有物としてはかなり入れ込んでいるのだろう。
同じ側妻とはいえ、私とリナ様は随分と違うのだ。
「所詮は卑しい男オメガ、か」
自身を蔑む発言は、冷たい空気に溶けていく。
この二年ほどだけで見ると、同衾した回数はリナ様よりも私のほうが遥かに多い。だがその分、飽きも早かったのかもしれないと悟った。
もとより、ジード伯は男性よりも女性が好きなお方だ。薄っぺらい胸よりは、たわわでなくとも柔らかな肉のついた胸を好むようだし、孕む性として肉体の内側は女性と似た部分はあるとしても、外に付いているものが違う私の体に興味を失うのは、言われてみれば当然とも言えた。いくら華奢とはいえ硬い男と、艶やかな女性とならば比べるまでもない。
男性オメガとは、かくも面倒な性だ。
女性でもなく、男性でもない。どっちつかずの愚かな性。そんな考えが自然と頭をよぎった。
別に、ジード伯に気に入られたいわけではない。むしろ中年男を相手にしなくていいのなら、願ったり叶ったりだ。子も要らないうえに、閨すらも不要……となれば、ただただ屋敷の片隅で息をしているだけでいいのだろう。この薄暗がりの監禁部屋で、命が尽きるときまで、ずっと。
「————そうか。もうここにいる意味はないのか」
秋の高い空が広がる昼下がり、群れになって飛んでいく渡り鳥たちを窓から眺めながら、ふと思った。
いてもいなくても同じなら、この部屋に留まる意味はあるのだろうか? いや、きっとない、と。
せっかく見知らぬ国へとやって来たのだ。どうせなら、屋敷の外へ出て暮らしてみるのもいいのではないか。かつて読んだ『少年ラルビの冒険』のように、身一つで世界を回ってみるのもいいかもしれない。
十三歳の少年がやってのけられるのだから、二十一歳の私ができないこともないのではないか。私だって十分、大人なのだから、きっとできる。
……このときの私は、たしかに壊れかけていたのだろう。
この年になるまで外の世界をろくに知らず、自由にできる金銭や貴金属など一つも持たない細身で非力な男性オメガが、誰の力も借りずに、当てもなく屋敷を飛び出したとして生きていけるわけがない。そんなことは冷静に考えれば、わかることだった。
でも、私は『枷がなくなった』と思い、目の前に広がる無謀な自由に囚われてしまったのだ。
私がこの屋敷からいなくなっても、誰も困らない。
リナ様は驚くかもしれないが、きっと私のことをわかってくださる。ジード伯は私がいなくなったとしても、愛妾や娼妓のように新しい代わりを用意するだけだろう。正妻のザビーネ様とは会話はおろか、顔を合わせたことも数えるほどしかないけれど、彼女はむしろ喜ぶのではないか。いや、これまでどおり無関心か。どちらにせよ彼女が困ることはただの一つもない。
ああ、もしかしたら。私を側妻に出したデシャルム家は困るかもしれないな。せっかく繋いだ縁が切れてしまうだろうし、場合によっては責任を取らされるかもしれない。
でも、興味のない側妻が一人いなくなったところで伯爵家は困らないのだから「責任」なんてあってないようなものだろう。父は口が上手いし、他国とはいえ侯爵家の力をもってすれば、私が同衾を求められなくなったことくらい調べがつく。そうすれば「切ったのはむしろジード伯爵側だ」と主張をすることもできる。
なによりも、嫁いだオメガの側妻が行方知れずとなった責任がどうかなど、私の気にすることではない。慰謝料問題に発展したとして金を払うのも払われるのも私ではないし、ここからいなくなってしまえば私には関係がないことだ。
もう誰も、私を引き止めない。縛りはしない。
「……行こう。外の世界へ」
決心をしてしまえば、それからはあっという間だった。
五日後の未明——。
私は、リナ様宛てに「今までありがとうございました」と書いた小さなメモを残してから、母の形見の手鏡をポケットに捩じ込み、青いペンダントを胸に下げて、身一つでジード伯の屋敷を逃げ出した。
異国の地に来て三年目の、二十一歳の秋のことだった。
◇◇◇
「イル、今日の衣装は念入りに洗っておいて! もう汗だく!」
「俺のも頼むー。めちゃくちゃ動いたから結構汚れてるかも」
「ごめんなさい、イル。膝のところに穴が開いてしまったの。明日までに繕っておいてもらえる?」
パタパタと足音を響かせながら、『イル』と呼ばれた私は劇団員たちの間を抜けていく。公演が終わった舞台裏は、まだ本番が続いているような熱気と、無事に終わってほっとしている安堵感に包まれながら、賑やかな空気に満ちていた。
衣装を脱ぎ捨てていく劇団員たちから、汗だくの衣装を引き取っていきつつ、舞台裏をあちらこちらに駆け回った。両手の上は瞬く間に、カラフルな服でいっぱいになる。
「イルー、ちょっとこっちに来てくれー」
「はーい。今行きますーっ」
ここは、パラウィット王国ジード領から南に何十キロも下った、マオリルという中規模の街だ。その街の一角に設営されたいくつもの天幕のうち、一番大きな天幕の裏手へと駆けていく。
私がジード伯爵の屋敷を逃げ出してから、あと数ヶ月で一年が経とうとしていた。
(洗濯物をいったん置いたら、団長のところへ急ごう)
伯爵の屋敷から逃げ出したあと、私は何週間か森を彷徨った末に、行き倒れた。食糧の一つも持たず、ナイフも持たず、着の身着のまま飛び出したのだから、当然の結果だった。
屋敷を逃げ出したときは夏が終わり、実りの季節がやってきていた。木の実や薬草を口にしながら、あてもなく森を進んだ。街道を進めば知らない町に行けるとは思ったけれど、追っ手が怖くて、人のいる場所へ行くことは躊躇われた。
そのため、しばらくは森や山などで身を潜め、ほとぼりが冷めた頃を見計らってから街へ向かおうと考えていた。
けれど、私の足と体力で森で暮らすのは現実的ではなかった。
空腹にはもともと慣れていたとはいえ、何日も水すら口にしなければ、人間はあっという間に弱る。火を熾す道具はもちろん、サバイバル術など持ち合わせていなかった私は、大した食糧も安全な水も得られなかった。毒のある実を口にして意識を落としたことも、腐った水を飲んで動けなくなったこともあった。あれほど本を読んだのに、一人で行き抜く力も知恵も、私はたったの一つも持っていなかった。
やがて動けなくなって、行き倒れた。
そんな死にかけで、素性のわからぬ私を拾ってくれたのが、『劇団リベルテ』の団長、トレヴァー氏だった。
劇団リベルテは、街々を巡って興行する演劇の一座だ。今は、このマオリルという街で数ヶ月前から大きな天幕を張って演劇を披露している。
私はその劇団リベルテで、主には雑用をこなしながら、多少の魔法の才を認められ、『舞台演出術師』の見習いをしている。
死にかけていた私を親切にも医者に診せ、働く術を与えてくれたトレヴァー団長とこの劇団は私の命の恩人であり、大切な人たちだ。
「失礼します、団長。お待たせしました」
「忙しいところ悪いな、イル」
「いえ。急ぎのご用ですか?」
「使いを頼まれてくれないかい。この手紙をノートル商会に届けてほしくてね」
劇団員から回収した衣装を洗濯場へ置いてから、私は団長のもとへとやって来た。
トレヴァー団長は、恰幅の良い四十がらみの男性で、綺麗に整えた口元と顎の髭がトレードマーク。天幕近くの家に住む子どもたちからは「お髭の団長」なんて呼ばれたりする、気立てのいい人物だ。
「はい。お渡しする相手はノートルさんでいいですか?」
「ああ。もうすぐ陽が落ちそうだから、ルーを連れて行くといい。夜道は危ないからな」
「危ないって……団長。お言葉ですが、私は二十二歳ですよ? 十分、大人です。そろそろ子ども扱いしなくてもいいと思いませんか」
団長は心根の優しい紳士だけれど、それゆえに私を幾分心配しすぎる傾向にあった。それは嬉しい心遣いでもあるのだけれど、時折「成人していないように見えるな」と揶揄ってくるので、その点についてはいただけない。
胡乱な目を向けた私に、トレヴァー団長は「すまんすまん」と目尻の皺を深くした。
「まあ、なんだ。子どもじゃなくてもイルは美人さんだからな。綺麗どころを狙ってる不届者はどこだっているって教えただろう?」
「私が美人かどうかはさておき、ルーを連れていったほうがいいのはわかりました。手紙を届けたら、すぐに戻ってきますね」
「助かるよ。気をつけてなー」
私はすぐさま自分の寝床のある居住用の天幕に行き、準備をする。
受け取った手紙をトレヴァー団長に貰った革の鞄に入れて、同じく彼から貰った大きなフードがついた薄手の外套を被る。夏場でも、外出時にこの外套は外せない。
首から下がっている青い宝石のペンダントが服の下の胸元にしっかりあるのを確認してから、天幕が立ち並ぶエリアの入り口で見張りをしていたルーに声をかけ、私はノートル商会へと向かった。
死にかけ、ボロ雑巾のように行き倒れていた私を救ってくれたトレヴァー団長には本当に感謝してもしきれない。
永遠に死ぬことをずっと夢見ていたのに、命を救ってもらったことに感謝するなんて、なんとまあ滑稽なことだろう。
けれど、彼らは命だけではなく仕事を与えてくれ、居場所を与えてくれた。だから、私はいまだに生きている。そして——生きていることが苦しくない。
私ははじめて「生きていることは、つらいことばかりではない」と思えるようになったのだ。
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