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第一章
09. 赤と青の双眸
しおりを挟む鈴を転がしたような笑い声が幾重にもなって耳に届き、私ははっと、眼下に意識を戻した。
庭園のお茶会では、ご令嬢方が笑い声を漏らしながらも、一人一人と席を立っている。どうやら私が〈一度目〉の人生を思い出しているうちに、〈今世〉のお茶会はお開きの時間となったらしい。
兄のレイナルドや、私がいまだに想いを寄せてしまうディオンも席を立ち、うら若い乙女たちに話しかけられながらエントランスへと足を向ける。
(どうか、今世の彼にたくさんの幸せが訪れますように——)
私の願いなんて、きっと届かないけれど。
それでも想い人の背中にささやかな思いを願わずにはいられなかった。
ディオンの姿を見るのは、もうこれで最後だ。
たとえ今世で永遠の死を迎えることが叶わなず、再び同じ人生が訪れようとも、今度こそもう二度と、彼の姿を見はしない。
また彼の姿を目に収めたら、直接会いたいという気持ちも、話をしてみたいという気持ちも、今度こそ最後まで私を気にかけてくれるのではないかという大それた期待を抱くことすらも、抑えられなくなってしまう。
今でさえ、この部屋を飛び出していってしまおうかとか、次に彼がこの屋敷を訪れるのはいつだったかと考えてしまう思考を止めるのに必死なのに。
会って、話をしたら、ますます好きになる。
そうなったら……もしうっかり彼に出会し、彼と交流をすることになり、その末に彼に冷たくあしらわれたとしたら。そのときに、よりつらく、惨めな気持ちになるのは私自身だ。
(あの気持ちは、もう二度と味わいたくない。味わうくらいなら、彼の姿を見ぬままに、思い出の中でだけ想い続けるほうが何倍もいい)
かつての人生で唯一、味方だと思えた相手。優しく接してくれた相手。
〈一度目〉の人生でたった一瞬のうちに目を奪われ、心をさらわれ、偶然ではあるが幸運にも彼と言葉を交わし、その後も何くれとなく気にかけてくれた彼。
だからこそ、〈一度目〉の人生で家族に嬲られ、咎められ、虐げられ、恥辱を受けたとき——その不名誉な事実が捻じ曲がった形で伝えられたのちに、彼が私に会いに来ることも、通わせていた文を寄越すこともなくなったことに、私がどれほど絶望したか。
兄と弟に腹を蹴られ、殴られた末に転がっていた冷たい床。あの場所はどこだったか……。全身の痛みが消えて暗転する世界の中で、何かを必死に叫ぶ彼の顔を見たときの気持ちを言葉にする術を、私はいまだに持ち合わせていない。
そうして、〈二度目〉の人生も似たような末路を辿り、〈三度目〉の人生において、ようやく気がついた。
——ディオンが私を知ることがなければ、私の身に何が起きようとも、ディオンが私に冷たい瞳を向けることはない。つれなくされることもない。
いくらディオンが優秀な人物であろうとも、知らぬ者へ心を砕くことはできないから。彼が知らなければ興味を失うこともないのだ。
それに気づいた〈三度目〉の人生からは、私はディオンに会わないように気を配って生きてきた。残念ながら〈三度目〉は上手くできずに数度だけ出会ってしまうことになったが、〈四度目〉以降は彼と直接顔を合わせたことはない。顔を合わせるどころか、見ることすらも避けて生きてきた。
だから今世でこうして彼の姿を見てしまったのは、まったくの予定外だった。
(大丈夫。私が一方的にお見かけしただけだ。きっと、これ以上は何も起こらない。起こりようがない)
〈一度目〉の人生で、彼と直接顔を合わせたのは、十四歳の秋のこと。
〈二度目〉も似たような流れを辿り、〈三度目〉は秋に近づくにつれて部屋を抜け出すことを止め、彼との接触を断つ努力をした。〈四度目〉以降は、姿すらも見ないようにした以外はほぼ同じだ。息をひそめて生きてきた。
これから、彼との『初の邂逅』になり得る秋までの約半年……そしてそのあとも、彼と出会わないように気をつけながら過ごせばいいのだ。会う機会を持たなければ、これ以上何か起きようもない。
「ディオン様……」
眼下の遠い庭園で、小さくなっていく想い人の背中を目で追いながら、名残り惜しむように彼の名を呟く。
窓は僅かに開いているが、口の中で響いた程度の掠れた声に、誰も気づくわけがない。そう思っての呟きだった。なにせ、ディオンがいるのは、私がいる監禁部屋から離れた庭園の先だ。聞こえるはずもない。
それなのに——不意に振り向いた彼のルビーのような瞳と、私の瑠璃色の双眸とがぶつかった気がした。
「……っ」
はっとして、慌てて背を向けた。
心臓がバクバクと鳴り、手足が震える。
(今……目が合った……?)
いや、そんなまさか。
気のせいであろうと、窓際の壁に身を寄せて、ちらりと外を覗く。
そこにはもう客人たちの姿はなく、庭園の花が風にそよいでいるだけだった。
◇◇◇
イリエス・デシャルムがどんなに望まぬことであっても、拒否してはいけないことは無限にある。
たとえば、父から鞭を振り下ろされても激痛に喚かないこと。
たとえば、兄に縄で手足を縛られても文句を言わずにいること。
たとえば、継母から与えられた毒入りのスープを残さず飲み干すこと。
たとえば、弟に殴られてついた傷の手当てをせずに放置されること。
私が望まなくとも、家族の皮を被った化け物たちは私を好きなように甚振り、好きなように弄び、好きなように虐げて、鬱憤を晴らしていく。
彼らから下される命令は絶対で、言われることを拒否してはいけない。
それらの大半が私の体を傷つけ、心を蝕むものだったが、ごくごく稀にそうではないことがあった。
たとえば、どうしても欠席の叶わぬ式典に礼儀正しく参加すること。
たとえば、領地の視察に訪れた王都からの文官へ滞りなく挨拶をすること。
たとえば、最低限の学びを身につけて、粗相なく立ち振る舞うこと。
そして今回のような、イレギュラーな面会の誘い——。
「クラヴリー公爵家のご来訪、ですか……?」
ある日の昼下がり。
父の執務室に呼び出された私は、椅子に深く腰掛けている父に思わず聞き返した。すると、隠そうともしなかった苛立ちをさらに露わにして父が答える。
「だから、そう言っただろう。そして来訪の際、クラヴリー公爵閣下のご次男が、我が家の子たちとの交流を強く望まれているそうだ」
「それは……グェンダルやエヴェリンも喜びますね」
「ああ。それだけであれば良かったのだがな。甚だ遺憾ではあるが、交流相手にはお前も指名を受けている。はぁ……どこでお前なんぞに興味を示したんだか。どこかで顔を合わせたわけじゃあるまいな?」
「いえ……私は言いつけどおり、家からも部屋からも出ておりません」
実際には今世でも部屋から出てはいるけれど、馬鹿正直に答えるつもりはない。二十三までどうにか時間を持て余さずに生きなければいけないのだ。僅かな暇つぶしを自ら奪う真似をすることは避けたかった。
「だろうな。まあお前の存在感くらいは世にも伝わってはいるから『単に子どもたちはまとめて』という理由だろうが。にしても劣等のお前を構いたいなど、まったく……クラヴリー公爵家も道楽が過ぎるというものだ。じつに嘆かわしい」
発情期が明けた翌日に、ディオンの姿を見てしまったあの日から一ヶ月が経ち、外はそろそろ初夏の陽気だ。その暑さすらも疎わしいと言うように、父の機嫌はすこぶる悪い。だが、そんな父の機嫌を伺うよりも、今の言葉に私は耳を疑い、思考がぐるぐると回り始めていた。
「あの……私も、ですか? 何かの間違いでは……」
「私もそう思いたいんだがな。残念だが間違いではない」
「ですが……私などが、公爵家の方々にお会いしてよいのでしょうか」
「いいわけあるか!」
ダンッと拳を机を叩く。盛大な舌打ちも聞こえた。
「お前なんぞを公爵家の方々に会わせると考えるだけでぞっとするが、相手の望みだ。熱心な誘いを無碍にもできまい。なんといってもクラヴリーは三大公爵家の一つだからな」
忌々しいと吐き捨てる父に、私は口を噤み、目を伏せる。
父とて、私を表に出したいとは爪の先ほども思っていないのだから、このお誘いがいかに父を苦悩させているかは推して知るべくもない。
「いいか、決して余計なことは言うな。話すな。粗相をするな。デシャルムの家名に泥を塗るなよ」
伝えたいことを一頻り伝えたのか、さっさと去れと言わんばかりに父は背を向けた。私の様子などもう見えてもいないだろうが、それでも深々と頭を下げてから、私は執務室をあとにする。
そして部屋に戻った私は寝台に腰かけて、天を仰いだ。
「……ディオン様と、交流?」
戸惑いを呟きながら、先ほどの父の言葉を反芻する。
父から告げられたのは、一週間後にクラヴリー公爵家の方々が来訪し、数日ほど滞在する旨と、そこで私も晩餐や茶会に同席せよという命令であった。一週間後はちょうど、兄が通う学園で二週間ほどの中休みがある時期だ。どうやら、その休暇を利用して交流を深めたい、ということらしい。
我がデシャルムの屋敷では、継母のオデットが頻繁に、昼夜問わずお茶会や宴を開いているし、兄のレイナルドにしても休日ともなれば学友を呼んでの交流に余念がない。
それゆえ、屋敷を訪れる者はそれなりにいるが、通常であれば出来損ないの私が呼ばれることはない。話にあがっても「次男は体が弱いゆえ……」と断りを入れるのが常である。それですべて上手くいく。同じような理由で社交の場に出られない者はデシャルムだけでなく他の家にもいるので、さして不審がられないからだ。体の弱い者への気遣いの言葉はあれど、無理やりに引き摺り出そうとする無作法者はそうそう上流社会にいない。そのはずだった。
今回のクラヴリー公爵家の来訪だって、おそらく最初のうちは「次男イリエスは病弱ゆえ、部屋から出られない」と申し出たはずだ。しかし、どういうわけか断りきれない状況となり、此度の結論に至ったのだろう。
「会いたくなど、なかったのに……」
もう二度と姿を見ることはないと誓った人。
だが、私が「会いたくない」と駄々をこねたところで、無論それが叶うわけがない。父が「同席をせよ」と言ったのならば、それは絶対である。それにそもそもがデシャルムよりも格上である公爵家たっての希望だ。侯爵家の次男でしかない私が、そのお誘いを断れるわけがない。
せめて、今以上に心が揺れ動くことのないようにと、私はため息混じりに目を閉じるのだった。
◇◇◇
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