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第一章
04. 今までとは違うこと
しおりを挟む甘き死を夢見ながら、私はケニーからの答えを期待もせずに運び込まれた荷物を一つ一つ確認していた。すると、背後から声がかかる。
「……イリエス様は、はじめて発情期を迎えるにあたり、不安はないのですか?」
「えっ……?」
ケニーからの不意の問いに、私は驚きのあまり、振り向きながら間抜けな声を上げた。
だって、そうだろう。ケニーは最低限のことしか私に話さない。
私を人間とも思っていない家族たちからの言伝や、どうしても確認が必要となる問い、あるいは言わねばならない連絡事項くらいしか、彼から話しかけられたことがない。疑問を呈されたことすらない。食事をどうするかなど訊かれないし、私の具合が良かろうが悪かろうが、ケニーは決められたとおりに仕事をこなすだけ。私に対して何ら関心がない。だから、今の質問のような……私個人に対する疑問や感想めいたことなど、今の今まで一度たりとも口にされたことはなかった。
彼からの最低限以上の言葉など〈十回目〉にして、初めてのことだった。
「あっ…………と……」
あまりの驚きに何も言えずに、よくわからない声だけが漏れる。
「……いえ。忘れてください」
私が何も答えずにいたからか、ケニーは退室すべく背を向けた。
——これは、まずい。直感的にそう思った。
「あ、いや! その……驚いてしまってすまない。不安か……。ないわけではないのだけれど、そうだね……」
私が慌てて言葉を紡いだからか、ケニーは私を無視して部屋を下がったりはせずに足を止めてくれた。そして、感情の読めぬ榛色の双眸を私に向けて、じっと私の言葉を待ってくれる。——私の言葉に、ケニーが反応を示したのだ。
こんなことは初めてで。
まだ戸惑う自分がいたけれど、この機会を逃してはならないと、私の中の何かが叫んでいた。だから、必死に言葉を探した。
「その……ケニーがこうして手助けしてくれたから、きっとどうにかなるだろうと思うことにしたんだ。それに、私はオメガだから……。この先も、発情期を避けることはできないだろう? ならばせめて、不安なままで挑むよりは、大丈夫だと思って挑もうと思ってね。……変だろうか?」
まさか、前世で何度も発情期を経験しているから『初めての不安』などないのだ、とは答えられない。嘘も方便であろうと、代わりに私はなるべくケニーとの親睦を深められそうな答えを述べた。まあ実際に、発情期のたびに不安がっていられないので、今話したことはまったくの嘘というわけでもない。
(ケニーが反応してくれたのは、気まぐれだろうか? それとも……)
榛色の双眸は、依然として感情の一切がのっていないように見える。
だが、明らかに今までとは異なる反応ではあった。それを私はどう捉えるべきだろう。
——今世では、かつての人生でやったことのないことをする。
そのために、私を長年世話をしてくれているケニーとの親睦を諦めずに、もう一度深めようと試みている。これは、生まれて初めてのことだ。
じつのところ、私はかつてケニーと仲良くなりたいと思ったことがある。何も知らなかった〈一度目〉の人生で、七歳から十歳になるくらいまでは必死に声をかけ、ケニーの興味を引こうと必死でいたのだ。
だってそうだろう? 家族を除いて私と関わってくれるのはケニーしかいなかった。まして暴力を振るわないのは彼だけだ。齢十にも満たない子供が人恋しさに、身近な相手の気を引こうとするのは何ら不思議なことではない。
だが、ケニーは私に反応しなかった。話しかけても「そうですか」「さあ……」「わかりかねます」という味気のない返答ばかり。そうして、どんなに足掻いたところで何も変わらない現実に打ちのめされた私は、〈一度目〉の人生で十四歳になる頃にはケニーとの交流をとうに諦めていた。
〈二度目〉は人生を繰り返してるなど思っていなく、一度目の人生はリアルな夢を見たものだと思っていたのだけれど、その夢で素気無くされたことが堪えてしまい、ケニーとどうなるつもりもなかった。〈三度目〉以降は、かつての記憶があったために無駄な労力だと、行動に起こす気力も湧かなかった。
だから、十四歳の今、ケニーと改めて親睦を深めようとする行為は、これまでの人生の中で初めてのことだ。
〈一度目〉のときですら経験していない、見たことのないケニーがいた。
「いえ。そうですか……」
無表情のままで返事をしたケニーが、私の答えに納得したのか、そうでないのかは、やはり私には読み取れない。でも、今までにはなかった彼とのやりとりは、僅かばかりに私の心を軽くしてくれた。
「薬をご用意できれば、良かったのですが……」
その発言の真意も読み取れないが、どうやら彼はそれなりに私の要望に応えようとしてくれたらしい。私が単に、そう思いたいだけかもしれないけれど。
「いいや、気にしないで。薬は高価だからね」
ケニーの言葉に内心で驚き、苦笑しながらも、気負わないでほしいと告げる。
草臥れた毛布やタオルならまだしも、薬の件は本当に、一縷の望みとすら思ってもいないのに所望してみただけなのだから。
もしかしたら、私の希望は、ケニーにとって私が予想していた以上に申し訳ない気持ちを与えさせてしまったのかもしれない。今さらながら、言わなければよかったなと少しばかり後悔する。
毛布もタオルも、質を問わねば私へ与えられるものはある。それで満足するならと、父も特に惜しみはしなかったのだろう。なにせ、父たちからすれば不用品でしかないのだから。処分する前に、ボロ切れになるまで使わせたところで困らない。ゴミを与えるのと同義だ。
それらに比べて、発情抑制剤は高価で価値のあるものだ。用意するにはそれ相応の金がいる。けれど、薬が無くとも死にはしないし、閉じ込めておけば対処はできるのだ。そして用意できなくとも、私の家族は困らない。価値あるものが私に用意されるなど、考えるまでもなくあり得なかった。
無論、我が家が金に困っているから入手できないわけではない。
デシャルムが治める領地には巨大な鉱山があるため、資産も金も十分にある。偏に、私に使う金など銅貨一枚すらないだけ。
父と継母は、オメガと判定を受けた私が疎ましくて仕方がないのだ。
彼らだけではなく、私と亡き生母を同じとする兄も、継母から生まれた異母弟と異母妹も。親族も。誰もが皆、私のことが疎ましい。
でも、それも仕方がない。彼らは全員アルファであり、オメガは私のみ。だから、私は疎まれて当然なのだ……。
(オメガでなければ、何かは違ったのだろうか)
時折、そんな無為な空想をする。
そのとき思い浮かぶのは、決まって教会での光景だ。
この国では、七歳になる年に教会へ行き、七の年まで生きられたことを祝い、神の祝福を賜る儀式を受ける。そして、その『七の祝福』と呼ばれる儀式の際に、神官のみが使える鑑定魔法にて第二の性を調べられることになっている。
私はそのとき、オメガとの判定を下された。——あのときが、過酷な運命の始まりだった。
私の生家であるデシャルム家は、何十代か前に宰相を排出したことにより侯爵の爵位を賜ることになった歴史ある家系だ。しかし今では、その栄光よりもアルファ至上主義の家系として有名な家である。
かつては名実ともに名家であり、アルファ至上主義のような考えを持つ家ではなかったらしい。だが、侯爵にまで押し上げた例の宰相だったご先祖様がアルファだったことと、その後もデシャルム侯爵家を盛り上げた先祖たちが軒並みアルファだったことから、徐々に『アルファは素晴らしい』との考えに傾倒していったそうだ。まあ、これは屋敷の書物庫の隅で埃を被っていた、何代か前のご先祖様が残していた日記から得た知識なのだけれど。
傾倒した末に祖先たちは、素晴らしいアルファを生むために、常にアルファの女性か、オメガだけを娶ることとした。なぜなら、アルファはベータの女からは生まれないからだ。
アルファ性を持つ者は、アルファから子種を受けたアルファの女性か、オメガからしか生まれない。だから、デシャルムの者は優秀なアルファを常に排出し続けるために、婚姻相手をアルファの女か、オメガのみに絞った。
そうすることで実際に、優秀なアルファがよく生まれるようになった——となれば、ますますアルファを求めるし、そのアルファが功績を上げれば『アルファは至高』という考えは強固となり……やがて、それは歪みを持ち始める。偏った考えは凝り固まり、時折生まれる偏執な家主によってさらに凝縮されていく。……そうしてできたのが、歴代でも特に過激な思想を持った私の祖父バルディウ・デシャルムであった。
そう。私の実父ジョスランも言うなれば、アルファ至上主義を苛烈に謳う祖父によって純粋培養され、教育された賜物であって、客観的に見れば彼もまた被害者なのだろう。
だが……だとしても、私としては、父やほかの家族から虐げられ続けることのすべてをこれからも甘んじて受け続けるのは勘弁願いたいし、できれば今世で終わりにしたい。もう、こんな人生を繰り返したくない。
「では、また食事の時間に伺います」
「ああ。ありがとう、ケニー」
いつもは退室時に挨拶などしないのに。
表情はまったく変わることがないケニーだったが、彼は一言告げて部屋を去っていった。
「……これで、何が変わるというわけではないのかもしれないけれど」
ぽつりと呟いた声は、私以外に誰もいなくなった部屋に溶けていった。
◇◇◇
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