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プロローグ
01. そしてまた死に沈む #
しおりを挟むこれで何度目だったか——。
八回目? ……いや、おそらく九回目だったか。
「がふっ……ぐ、ぅ、ごはっ……」
口からは、止めどなく赤い液体が噴き出す。
数時間前に摂取させられた毒が、いよいよもって体じゅうを巡り、臓腑を蝕み始めたらしい。
「イリエス兄上、苦しそうですね?」
「はっ……ごほっ、ごほ……」
自分を「兄上」と呼ぶ声。
だが、そこに兄を慕うような様子は、ただの一欠片もない。
「ああ、イリエス。そんな穢らわしい格好をして……我が侯爵家には、じつに相応しくない。なあグェンダル、そうだろう?」
「ええ。まったくもってその通りですよ、レイナルド兄上」
イリエスというのは、私の名だ。
そして、その名を嘆かわしいとばかりに呼んだ不快な声も、その声に呼応する悍ましい声も、残念ながら私と血のつながった兄弟である。
レイナルドと呼ばれたほうが二十五歳になる二つ年上の兄。そして、その兄が「グェンダル」と呼び、私を「兄上」と言いながらも汚物を見るような目で私を見下ろしているのが二十歳の弟。二人とも私の兄弟だが、レイナルドと私は生母を同じくしているのに対して、グェンダルは異母弟だ。
私にはこの二人のほかに、十六歳になる妹のエヴェリン——彼女とグェンダルの生母は同じである——がいるが、彼女は今この場にはいない。まあ、いたところで彼女がつくのは兄弟側であって私ではないのだけれど。
「やっぱりオメガは穢らわしい!」
グェンダルは忌々しげに声を荒げた。
相応しくない、穢らわしい、だなんて。その台詞こそ、まったくもって笑える。そもそもお前らは一度だって、私を侯爵家の一員だと思ったことなどないくせに。
この格好だって、私自ら好き好んでこうしているわけじゃない。私がいま身に着けている服は侯爵家の者らしく、仕立ての良いブラウスにクラヴァット、それにあわせたトラウザーズ。嗜好に合うかはさておき、形式だけを見れば相応の格好ではある。——まあ、二人の言葉を借りるのなら、私は侯爵家の者ではないので『らしさ』なんて無意味だが。
つまりだ。服装に関して言えば、ごくごく一般的に見て不快な格好とは言い難く、侯爵家には見合っている。それでもなお、レイナルドとグェンダルが「穢らわしい」と吐き捨てるのは、私が先ほどから真紅の血を口から吐き続け、清潔だった衣服を真っ赤に染め上げているからに他ならない。
もうここ二日は食事をしていないので、口から出るのは血液ばかりというのが、せめてもの救いだろうか。これが血だけでなく吐瀉物にも塗れていれば、頭から冷水をかけられただろうから。
けれどまあ、一つ言えることは……冷水をかけられようと、かけられまいと、結果は同じということだ。私は今、死の淵に立っている。
「こいつのようなオメガが、私の実の弟であるというのも不快極まりないが、デシャルムの血を引いているということに怖気が立つな」
「ええ、本当に。不出来なオメガにもかかわらず、僕たちがこうして可愛がってあげていることを、イリエス兄上は感謝すべきですよ」
くすくすと、グェンダルは愉快そうに笑った。
彼の言っていることは、まったくもって理解できない。ニヤニヤと笑顔でいられる理由も私には理解し難い。
無論、言語としては理解できる。
けれど、どこをどう捉えたら、実の兄弟を屋敷の一室に閉じ込め、食事を断ち、毒を盛る行為が『可愛がる』ことになるのか、さっぱり理解できない。その頭は飾りで中身が空っぽか、あるいは蛆が湧いているのだろう。
そう考えるとつい、おかしな気持ちになった。
「はは、ッ……可愛が、る……? 甚振る、の、間違い……でしょう? ごほ、っ……ごほっ」
あまりにもおかしな言動をするものだから、つい言葉を返してしまった。歯向かうつもりなど毛頭なかったのだけれど、かと言って零れ落ちる言葉を止められなかった。
これ以上の苦痛を受けるような真似、わざわざしなくてもいいのに。やはり彼らの言うように、私は不出来なのだろう。
血液と浅い呼吸に混じりながら紡いだ私の言葉に、グェンダルは楽しげに弧を描いていた口と瞳を歪ませた。
「煩いですよ、イリエス兄上」
「いッ……!」
パンッと、乾いた音が響く。
グェンダルが持っていた乗馬鞭でこめかみ付近を打たれたらしい。打たれた側の瞳から見る景色は、真っ赤に染まっていった。
しかし、痛みはあるはずなのに、毒によって臓腑が千切れ、溶け、爛れていく痛みのほうが余程強く、鞭で裂けたこめかみの痛みなど些末なものだった。いよいよもって、私の体はイカれてきている。
「げほっ……げほ……」
その証拠に、咳と血が止まらない。
喘鳴がひゅーひゅーと鳴り、息が吸えているのかすら怪しい。
「……見苦しいな」
「解毒薬を飲ませて、後ほど様子を見に来ましょうか、レイナルド兄上」
「仕方ない、そうするか」
グェンダルの提案にレイナルドが頷いた。
今さら解毒薬か。ははは……残念ながら、もう意味をなさないだろうな。
今までの人生で、毒を喰らったことは何度もある。
だからこそ、わかる。もうこの状態で解毒薬を飲まされたとして、この体は死への道を逆らうことはしない。——まあ、ある意味では、私は『死』という概念から逆らい続けている存在なのだけれど。
なんにせよ、グェンダルがいま私にどうにかして飲ませている琥珀色の液体が解毒薬だとして、もうそれを飲み込むほどの力は私にはない。飲み干せと無理やりに嚥下させられても、すぐに血ごと吐き出してしまうのだから、その瓶の中身が空になったとして、どれほどの量が私の体へと吸収できたものか。
まあ、仮に吸収できたとして、先に述べたとおり今さらだ。解毒薬の効果が得られる前に、私の命は尽きるだろう。
「また来るよ、イリエス」
「ではまた、イリエス兄上」
二人は喜色を浮かべた表情で、部屋から去っていった。
まったく……。折檻に毒を使うのであれば、使用方法と効果についてはしっかりと覚えてから扱ってほしいものだ。
レイナルドとグェンダルは、私を好きなだけ甚振ることのできる玩具として、これからも可愛がるつもりだったろうに。決して褒められたりはしない趣味だが、本当に趣味なのならば限度は知っておいてほしい。壊し切ったら使えなくなるのを知らないのだろうか。
そんなこともわからない、足りない頭しか持たなかった今世の兄弟には、少しばかり落胆する。いや、これ以上に落胆することなどないのだけれど。
ともあれ、非常に残念ながら、彼らの目論見は崩れ去るだろう。毒の量を間違えたのか、はたまた毒の種類を間違えたのか。誰が何を間違えたのかは、私の知る由もないけれど。
兄と弟が、本気で私を殺すつもりなどなく、ただのいつもの遊びとして毒を盛ったのだとしても、私の命はもう終わる。自分の体は自分が一番わかっているとも言うし、実際にもう体は限界だ。
なによりも……今日は、私の〈九回目〉の命日である。
(光が、見えないな……)
視界はおろか、光すらも失った。
そして、ふと痛みが消える。
消失したのではなく、感じなくなったのだ。
今この瞬間、私の命は尽きたのだから。
運命は再び、戻り始める。
そして目が覚めたとき、〈十回目〉の私の運命が始まるのだろう——。
◇◇◇
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