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06. 疲弊した心
しおりを挟む娼館の火事は、王都の警邏隊と自警団たちによって何時間後には消し止められた。
エルナが働いていた娼館に隣接するのは、娼館に関係する建物——従業員の支度部屋や支配人の家などだ——だけで他の建物はない。それゆえか、無関係の建物を延焼することもなく他の娼館や店に迷惑をかけずに済んだ。
娼館の建物は四分の一が焼けてしまったが、火が大きく回る前に自警団が駆けつけてくれたこともあって全焼を免れた。
また、死者が出なかったのも幸いだった。軽い火傷や切り傷擦り傷、転んで足を捻るなどの怪我をした者はいたが、大事に至る者もいなかった。エルナも、髪が焦げてしまったのと首筋に小さな火傷を負ったくらいで、大きな怪我はしてない。なにより命があってよかった、とシャイルとミスカに抱きつかれた。
けれど、エルナは生に対して執着がなかったので「そうだね……」と返事するのが精いっぱいであった。
(放火って見立てらしいけど、犯人はわからずじまいか)
火事のあと、エルナは何人かの馴染みの者と共に王都外れに一時的に天幕を張る許可を貰い、そこで避難生活をしていた。エルナが働く娼館は、花街でも比較的大きな娼館の一つであったため——花街には複数の娼館がある——関係者がまとめて暮らせるような場所はなかった。
そこで、一部の者たちは他の娼館に一時的に預かってもらい、そこで仕事をしている。花街の娼館は好敵手であると同時に、困ったときはお互い様といった関係性でもあるのだ。
働いていた者たちは支配人によって面倒を見てもらう先を振り分けられたのだが、エルナをはじめとする古参の者と稼ぎ頭の者、それから下男や男娼見習いの者は一時的に天幕に身を寄せている。
「ああ、キミの髪がなくなってしまったのは残念だね」
そう嘆いたのは支配人だ。
エルナは焦げた髪をバッサリと切った。腰まであった長い髪を、うなじが見えるほどまで切ってしまったのだ。
そして、そのうなじには火傷があった。もしかしたら痕になるかもしれない、と医者には言われた。
エルナの髪は評判だった。薄い金色の髪を腰まで伸ばしていたのも、商品価値を上げるためだ。世話係が毎日手入れをしてくれていたのも、価値を落とさぬためだ。エルナの好みではない。
だから、髪が短くなろうともエルナはさして落ち込まなかった。
「とはいえ、キミの美貌は変わらない。しばらく休んだら、また仕事に復帰してくれ」
商魂たくましい支配人は、ひと月もしないうちに娼館を再開する予定だという。
焼けた部分にはすでに改修の手が入っているし、火の手から逃れた部分も煤で汚れた部分をしっかり掃除すれば、また元通りに使えるだろう。だから天幕暮らしは、娼館再開までの一時的なものであった。
「あの、支配人……そのことなんですけど」
娼館再開にあたって、ああしたい、こうしたいと話し始めようとした支配人に、エルナはおずおずと声をかけた。
「僕、これを機に裏方へ回ろうと思うんですが、ダメでしょうか?」
「え?」
支配人は目を丸くして、驚きの声を上げる。けれどエルナはその反応が少し意外であった。
美しい長い髪を失い、さらにはいつ治るかもわからぬ火傷の痕を残した二十八歳のエルナに、男娼を続けることは難しいのではないか。エルナはそう思っていたのだ。だからエルナは、これを機に裏方への異動を願ってみたのだ。
支配人にとっても、この申し出は悪いものではないだろうと予想していたのだが、実際には少し違ったらしい。
「ダメというか、なぁ……。キミには、あと二年は……と思っていたんだが」
「でも僕、もう髪もこんなんですし、火傷だって綺麗に治るかわからないらしいですし。それに、もう二十八ですよ」
そう答えると、支配人は「うーん、そうは言ってもなぁ」と眉を寄せて、悩んでいる様子だった。
「その火傷だって、キミの美貌と天秤にかければ否を言う客はいまいよ。髪は残念ではあるが、また伸ばせばいいだろうし」
「いえ、遠くないうちに引く身でしたから。これがちょうど良い機会だと思うんです」
「そうか? むむ……でも、キミが辞めるとなると再建が……。いやでも、エルナはうちで相当尽くしてくれたからなぁ……」
年季が明けていなければ、男娼を辞めたいと言ったところで許可は貰えない。
ここで支配人が悩んでいるのは、エルナの年季はとっくに明けているのと、娼館で十分と言えるくらいにはエルナは稼いできたからだろう。それでいて渋っているのは、支配人から見ればエルナにはまだ男娼としての価値があると思っているからだ。
できればあと二年は、男娼としてしっかり稼いでほしいというのが支配人の考えに違いない。
「お願いします。前から言っていたとおり、表から去っても調教師として若い子たちにいろいろ教えて、立派な稼ぎ頭にしてみせますから」
エルナは頭を下げた。
男娼を辞められる良い機会だと思ったのだ。必死に男娼を辞めたいわけではないのだが、エルナはこうでもしないと自分の道を決められない。
(せっかくミスカさんが気にかけてくれたんだし。僕だって、もう十分働いたんだから、支配人も許してくれるはず……ってミスカさんも言ってた。ここで退いちゃいけないんだ)
この火事をきっかけにして男娼を辞めるのはどうか、と提案してくれたのはミスカだった。
日々を無為に過ごし、男に体をひらき続けているエルナのことを、ミスカはずっと気にしてくれていたらしい。
男娼業が好きなら止めないけれど、そうじゃないなら、そろそろいいんじゃない? というのはミスカの言葉だ。
それを言われて、エルナははじめて「もしかしたら、自分はもう男娼をすることに疲れているのではないか」と思い至った。心はもうずっとまともに動いていなくて、疲弊続けていて。だから「男娼を辞めます」と自分から言うことすら考えずにいたことに、ようやく気がついたのだった。
なので、先ほど支配人に言ったような理由で、裏方に回りたいという積極的な思いではない。ただ、ミスカの提案はエルナの心にずっしりと重く響いた。
そう——男娼はもう疲れてしまったのだ。
それならば、ミスカの言うように「辞める」と言ってみようと思った。
結局はエルナ一人で決めたことではなく、ミスカに促されたからそうしてみようか、という消極的な行動ではあるのだが。
「むむぅ……」
支配人は小さく唸る。
そうして、ひとしきり悩んだのち、小さくため息をついて口を開いた。
「わかった。そうしたら再開と共に、裏へと回ってくれ。ただし一部の馴染みの客のみ、要望があれば最後の挨拶をしてもらいたいんだが構わないか?」
「ええ。お手数おかけしますが、よろしくお願いします」
こうして、エルナが男娼を辞めるときは意外とあっさり訪れたのだった。
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