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05. 最後の最後
しおりを挟むようやく食事を終えたエルナは「ごちそうさま」と世話係のシャイルに声をかけた。それを合図に、店が開くまで身につける部屋着をシャイルは広げた。椅子から腰を上げて、エルナは窓から離れた位置でシャイルの手を借りながら寝間着を脱いでいく。
「ねえエルナさん」
「ん?」
「もし……もしですよ? その従弟の方が『お客』として来たら、エルナさんはどうしますか?」
紗を何枚か重ねた薄い生地の服に袖を通しているところで、シャイルが訊ねた。ちなみに男娼として客の前に出るときは、生地の量は心許ないほどに少なくなる。日中にしても夜にしても、娼館にいる以上は相手に劣情を抱かせるための猥りがわしい服を着るのだ。
「客として、か。まあ……それが来ないことを祈ってるかな。でも、そうだね……お互い大人になってしまったから『会ってもわからない』ってのが実際のところじゃないかな」
「顔を覚えていらっしゃらないんですか?」
「覚えているよ。少なくとも僕はね。でもジェロッドはどうかな……僕のことなんて、もうとっくに忘れてるかも。それに彼はきっと立派な大人になっているだろうから、僕だって会ったところでわからない気もするし。それに彼は——娼館になんて来ない人になっているかもしれないし」
ジェロッドの顔はよく覚えている。
両親の顔も、叔父の顔も曖昧で覚えていないエルナだが、ジェロッドのことは不思議と覚えているのだ。何度も何度も、夢に見るほどに、子供の頃の彼の顔は鮮明だ。
けれどエルナの中のジェロッドはたった八歳。エルナが十二歳になる直前に、叔父と共に少し早い誕生祝いをしに来てくれたのが、彼に会った最後。
(むしろ、娼館になんて来ないでほしいというか……。男も女も買わないで、ひたすらに真っすぐに生きてくれていたらいい)
彼は四歳年下だったから、ジェロッドは二十四歳になっているはずだ。二十四にもなれば立派な大人だ。娼館を利用することだって何ら問題はない。
けれど、エルナの中のジェロッドと夜の花街とはどうやっても混じり合わない。『大きくなったら旅をしよう』と目をきらきらさせながら話していた子供が、こんな場所に来るなんて考えられなかった。
特段、娼婦や男娼を買う客たちが真っ当でないわけではない。
一回ぽっきりの客も含めれば客層は幅広く、平民はもちろん貴族や大商会の主人などの地位も名誉もある人物も娼館を利用する。
娼館遊びは、謂わば娯楽の一つだ。
金があれば月に何度も遊びに来る客もいる。一度に何人もの商品を買う客だっている。さらに言えば、金を気にせずに娼館を利用できるというのは一種のステータスであり、金持ち特有の遊びの一つでもある。
だから『娼館で遊ぶ』ことは、恥じることではないのだ。
けれど、旅をしたいと語っていたジェロッドならば、花街に来るくらいなら見知らぬ街へと想いを馳せ、一歩一歩前へ進んでいるはずだ。……そう思っていたかった。
「……エルナさんは、その方のことが本当にお好きなんですね」
優しいシャイルの言葉に、エルナはただ無言で微笑んだ。
ジェロッドのことは好きだ。
会いたくて、会いたくて、でも会えないと思うほどに。
+ + +
その日の客は、シャイルが伝えてくれたとおり二人だった。
ちょうど一人目の客の相手が終わって、エルナは湯浴みのために浴室にいた。
一人目の客はエルナが十七歳くらいの頃から通い詰めてくれている常連の男性だった。
エルナを買ってくれるようになった当時、男性の年齢は三十代半ばであった。それから十年以上、エルナを指名してくれている。娼館に何度も通えるのは貴族や商売で大きく成功している者が多いが、その男性も貴族の端くれらしい。
この店では、客が商品の私情を探ることがご法度であり、商品側から客のことを探るのもご法度だ。本人が話さないのなら聞かない。だから、エルナはその客は金払いがよい三十代半ば——今はもう四十代半ば——で、妻と子供がいることしか知らない。
しかし、彼はエルナからすれば良い客だった。ここ最近のエルナは、傷さえつけなければ多少荒っぽく抱くことも許される男娼として、客をとらされているが、一人目の常連客はいつも変わらずエルナを優しく抱いてくれるからだ。
男に抱かれる行為はもう慣れてしまったが、選択できるのならば、無理なく優しく抱いてくれたほうが体に負担がかからなくてよいに決まってる。
「次のお客さんは……オーデン様か。なら念入りに体を洗っておかないと」
一人目に比べて、二人目に予約してくれている客は少し厄介だ。
オーデンと名乗る男——これが本名かもわからない——は、この半年くらいでエルナの客となった人物だが、なんというか……ねちっこい感じの客なのだ。執拗に自分の痕跡を残そうと様々な行為をしてくるし、男娼相手にもかかわらず、他の男の痕跡が僅かにでもあれば不機嫌を露わにする。
無論、娼館側も男娼側も他の客を匂わせないよう注意は払うのだが、どうしたって漏れはある。それをオーデンは目敏く見つけるので、彼を相手にするときはいっそうの注意が必要だった。
唯一の救いといえば、男娼を傷つける行為はご法度であることだ。つまり、オーデンから怪我を負うような行為をされることはない。禁止行為には接吻の痕をつけることも含まれるので、それもない。
ただそれゆえに、オーデンはエルナの中の奥の奥で何度も精を放ったり、深い口吻で唾液を交わすのを好んだりする。一つ一つは他の客もよくやるものだが、どうにもその仕草というか手つきというかがねちっこく、エルナはあまり好きではなかった。
そうは言ってもエルナが客を拒むことはできない。予約された時間までに湯浴みをして、中に放たれた前の客の精液をしっかりと掻き出し、髪と肌を手入れしなければならない。
エルナが身を清めている間に、男娼見習いや下男たちが部屋を掃除し、整えていく。そうして見た目上は綺麗になって、次の客を招き入れるのだ。
「エルナさん、檸檬水をもう少し飲んでください。声が少し枯れ気味なので、そちらの飴も一粒どうぞ」
「ありがとう」
今日は勤務四日目だ。明日になれば一日休みがもらえるのだが、それまで連日のように喘ぎ、啼き続けたので少し喉に響いていたらしい。
もしオーデンが来訪した瞬間から声が枯れていたら、きっと男は不機嫌になって、よりいっそうねちっこい行為を求めてくるだろう。シャイルはそれを心配して檸檬水と飴を差し出してくれたのだ。
細かいところによく気がつくシャイルに感心しつつ、礼を述べて飴を一粒口にした。その間、シャイルが髪を洗いあげ、体も石鹸の泡で綺麗に洗っていく。
それに身を任せていると、バタバタと慌ただしい足音が近づいてきた。
「エルナっ、シャイル! 逃げて! 火事だ!」
入室を窺う音もなく、突如入ってきた下男は真っ青な顔をしていた。
「え? なに? 火事?」
「そうだよ! ああっ、とりあえず服を着て! ほら急いで!」
下男は今日話題に挙げていたミスカだった。
湯浴みをしていたエルナは真っ裸だったため、ミスカは洗面室に置いてあった薄手のガウンをエルナに放り投げた。エルナとシャイルはまだ状況が飲み込めていないが、ミスカは嘘をつくような男ではない。
言われたとおりに濡れたままの状態でガウンを羽織ると、ミスカはエルナの手首を掴んだ。
「行くよっ! シャイルもついて来て!」
「あ、はい……!」
ミスカに引かれるがままにエルナは走った。声を上げた瞬間、舐めていた飴が床へと転がり落ちた。
しかしそれを気にする間もなく浴室を出る。エルナの支度部屋を出た瞬間、ゴウッと熱い風が頬を叩いた。
「うわっ、ほ、ほんとうに火事⁉︎」
「だからそう言ってるって! 口を塞いでてっ」
そう言われて、エルナは慌ててミスカに引かれていないほうの手で口を覆った。その間も決して立ち止まることはなく、エルナはミスカに引かれて燃え盛る炎よりも真逆へと走る。
たしか火事のときは、火はもちろんのこと煙も危ないのだと誰かから聞いたことを思い出していた。横を走るシャイルもしっかりと手で口を覆っていた。
裸足のまま懸命に足を動かして、エルナは階段を駆け下りる。ミスカは下男のためか娼館内をかなり熟知しているのもあって、火の手をきちんと避けるようにしてエルナとシャイルを導いてくれた。
そうしてようやく、娼館の裏口から三人は脱出した。
脱出したと同時に、さらに火の勢いが増す。どうやらエルナとシャイルは火事に気づくのが遅かったほうらしく、三人が脱出したあとには娼館の一部が炎に包まれて、焼け落ちていった。
周囲には同じように逃げ出した娼婦や男娼、下男……それに客がいた。
エルナたちの姿を見るなり「無事でよかった!」と何度も声をかけられた。
轟々と娼館が燃える様を、エルナは呆然と見上げていた。
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