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04. 彼方の眩しさ
しおりを挟む(ジェロッド……会いたいよ)
会えないとは言ったが、会いたい気持ちはずっとある。
顔を合わせるわけにはいかなくとも、彼に気づかれないところから、どこからかそっと覗き見て、今の姿を見てみたい。横顔や後ろ姿だけでもいい。きっと子供の頃から大柄だったから、今は立派な青年になっているに違いない。その姿を一目でいいから見てみたい。
けれど、エルナがそれを叶えるのは難しいだろう。
エルナ自身が「会えない」と思っているのはもとより、彼がどこにいるかエルナは知らないのだ。ジェロッドがエルナの住んでいた村に来ることはあっても、エルナは彼が住んでいる場所へ行ったことはなかった。名前も場所も、村から近いのか遠いのかすら知らなかった。
それに今のジェロッドが子供の頃に住んでいた場所にまだ住んでいるかもわからない。そもそもエルナは自分が住んでいた村だってあやふやだ。
だから、会おうと思っても、どうしたらいいかわからない。
エルナの両親ならジェロッドの居場所を知っているかもしれない。けれど、自分を売った両親とは娼館に売られてから一度も連絡をとっていない。今後も彼らから連絡が来ることはないだろうし、エルナから連絡をすることもないだろう。彼らとは完全に縁が切れている。
「エルナさんは、娼館から出たいって思わないんですか?」
シャイルが不意に訊ねた。しかしそれは至極当然の質問だった。
エルナは彼の前で一度も「娼館を出たい」と言ったことがない。そのうえ、諦めばかりを含んだ発言を先ほどのようにぽろぽろと零すのだから、シャイルとしては単純な疑問が湧いたのだろう。
(ここから出たい、か……)
娼館に売られて、はじめのうちはそういうことも考えた気がする。あれはエルナの『はじめて』を売る前までだろうか。それとも『はじめて』を売ったあとも考えていただろうか……。
今となっては思い出せないけれど、売られたばかりの頃は「ここを出たい。ジェロッドに会いたい」と思っていた気がする。
(あの気持ちは、どこへ行っちゃったのかな)
ジェロッドに会いたいという気持ちをどうすることもできないから、エルナは彼との思い出を夢に見るのかもしれない。絶対に叶わぬ夢を延々と、繰り返し見ることで、「早く諦めろ」と夢が語りかけてきているのかもしれない。
——もし今、ジェロッドが住んでいる場所がわかったら、そこへ訪れるだろうか。
そう考えて、エルナはそっと自嘲した。
住んでいる場所がわかったとして、エルナは男娼だ。彼の姿を遠目に見られるだけで……と思ってはいるが、いざそれができるとなると、きっと足が竦んでしまう。
——ジェロッドには、今の自分を見られたくない。
スープを一口飲み込んでから、エルナは困ったように笑った。
「出たい、かぁ……。昔はそう思ったときもあった気がするんだけど、もう今は思えなくなってしまったのかな」
「そう、なんですか……。でも、ここを出ていかないとして、エルナさんは今のお仕事をやめたら、どうするつもりなんです? 男娼だって、いつかはやめるときが来るでしょう?」
「お客がとれなくなったら、裏方に回してもらうつもりなんだ。支配人にもそう伝えてる」
そう、エルナは男娼をやめても、この娼館に残るつもりでいる。
男娼を続けられる年齢ではなくなるか、あるいは客がとれなくなったとしても、エルナは娼館を出るつもりがなかった。出るつもりがないというか、出ていったとしてどうしていいかわからないというか……そんな感じだ。
若くして——あるいは幼くして——娼館にやってきた男娼や娼婦は、いつか娼館を出ることを夢見ている。それはおそらく、両親や家族にもう一度会うためだったり、仲の良かった友人と会うためだったり、思い慕う相手と添い遂げるためだったり、真っ当な商売を新たに始めて生きていくためであったり。
どんなことにせよ、彼らには「やりたいこと」があるのだ。
エルナは何もない。
自分を売った両親を恨む気持ちがない代わりに、再会したいという気持ちもない。暮らしていた村に友人は一人もいなかったし、エルナにまた会いたいと思ってくれている人もいない。真っ当な商売をして成功したいという欲もないし、そもそも生きて何かを成し遂げたいという気持ちがこれっぽっちも湧かない。心がずっと止まっている。
唯一、ジェロッドに会いたいという気持ちが夢となって現れるが……穢れた体では、やっぱり会いたくない。会えない。
だから、エルナが娼館を出てやりたいことなど、何一つとしてないのだ。
「え、でも……」
「ふふふ、娼館に留まるなんて、おかしいでしょ。僕もそう思う。でも僕に行きたいところなんてないから。それに、そう多くはないけれど、そういう人もいるんだよ。ほら、下男のミスカさん。あの人も元はここの男娼だったんだ」
「ああ、そういえばそんな話を聞いたことがあります」
話題に挙げたミスカは、娼館で下男をしている三十代後半の男性だ。
彼は十五年ほど前に男娼を辞めて、下男として娼館で働いている。そのときエルナは男娼になって間もない頃で、ミスカはエルナのことをよく気にかけてくれた。彼と特別仲が良いわけではないが、何か困ったことがあれば手を差し伸べてくれるような優しい先輩だ。
ミスカが下男として働いている様子を見て、いつかはエルナも彼のように働くのだろうな、とぼんやりと思っていた。
「でも、その……エルナさんはお綺麗なので、ここを辞めても、どなたか貰い手がいらっしゃるのでは? 年季だってとっくに明けてますよね?」
「うーん? まあ、そうかもね。でも支配人がまだ体を売れっていうなら、そんなもんなのかなって」
「身請け話は一度も?」
「どうだろう? そういう話があったかは聞いてないなぁ」
シャイルの言うように、おそらくエルナの年季はとっくに払い終わっているはずだ。いや、年季なんてものがあるかエルナはあまり知らないのだが。
娼館で春をひさぐ者は、何かしら理由があってその身に落ちた者ばかりだ。
借金の形に売られた者、金欲しさに親や親戚に売られた者、みなしごや食うに困って自らその身を売っている者……だが、いずれの者も大抵は年季が明けることを夢見ている。あるいは身請けされることを。
年季が明ければ、晴れて自由の身となる。そうなれば僅かに貯めた資金で新たな仕事に就くも良し、想い人と添い遂げるも良し。
身請けならば時と場合、それから相手にもよるが、運が良ければそれなりに裕福な者の愛妾にはなれる。娼館にいるときとやることは大して変わらないかもしれないが、贅沢な暮らしができる可能性がある。
皆それぞれ、やりたい何かがあるのだ。そのために体を売るという苦しい日々にも耐え抜いている。
(どうしたら、そんなに強くいられるんだろう)
やりたいことが何もない、夢も希望も抱いていないエルナからすれば、年季が明けたり、身請け話に一喜一憂したりする男娼たちが眩しく見えた。
以前、エルナが二十三歳になったあたりで、「客が取れなくなったらどうする?」と支配人に問われたことがある。けれどエルナはその問いに答えられなかった。年季が明けたとしても、男娼をしなくていいと言われても、エルナにやりたいことなんて無かったからだ。
親に売られて男娼となってから、エルナの心にはぽっかりと穴が空いてしまって、どう生きていいのかわからなくなってしまった。実の親に売られたということも、見ず知らずの男に抱かれるということも、僅か十二歳だった少年の心を凍らせるのには十分だった。
問いに答えられなかったエルナに、支配人は「先が決まっていないなら裏方で働けばいい」と道を示してくれた。
支配人は躾に厳しい人ではあったが、行き場のない男娼を追い出すほど非道な人間ではなかった。エルナが日々を薄らぼんやりと生きていることも彼はお見通しだ。だから情けをかけてくれたのだろう。娼館という商いをしているのに、意外にも情のある人物だ。
その支配人から身請け話を聞いたことはない。
彼は、ある程度の情はあれど商売には厳しい人なので、もしエルナに身請け話があって、それが利になるならば、すぐにエルナを渡しているだろう。そうならずにこの年齢まで来ているということは、身請け話がないか、利にならない話しか来ていないかだ。あるいは、身請けさせずに娼館で働いてほしいのかもしれない。
シャイルや他の男娼、下男たちはエルナを「綺麗だ」という。けれど実際のところは、エルナは男娼としても、たいした価値はないのかもしれない。エルナはそう思っている。
「恩を返す、みたいなことですか?」
「あー…………まあ、そんな感じかな」
シャイルにはそう返事はしたが、別に恩を返すつもりでもない。
(恩を返すか。まあ、それでもいいや。僕がやりたいことなんて、なにもないもの)
エルナは、やりたいことも、やれることも無い。
日々を言われるがままに生きているだけ。死なないから生きているに過ぎない。
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