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第三章

69. 抑えきれぬ熱 *

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 ぼんやりとした目で、レオンスは虚空に視線を彷徨わせていた。

 火照った体を、一人で慰める虚しさが引かない。
 ベータの軍医に診てもらってから、そろそろ二日は経つだろうか。発情期はどうにも生殖行為以外の認識が曖昧になってしまうので、レオンスは今が何日なのか判断がつかなかった。

 届けられたパイを食べたあと、本格的なヒートが始まったレオンスは、一人で熱と格闘していた。その後、一度は人知れぬうちに扉を少しだけ開けて、アメデかオーレリーが置いてくれた食事を部屋へと引き入れた。
 オメガ同士、発情期の食欲減退はわかっている。食堂で見かけるトレイに置かれていたのは、パンが二つと、たっぷりの水が入った大きめの水差し。それからチーズが三欠片だった。
 それを何回かは口にしたが、テーブル代わりのサイドチェストの上にはパンは二、三口齧ったものが一つと、丸々残ったものが一つ。チーズはそのまま三欠片。水差しの中の液体はほとんど無くなっていたが、固形物に関していえば、部屋に入れたときと、ほぼ変わらぬ状態で置かれている。それでも食欲よりもオメガの欲を満たせと、体は飢え続けていた。

「ふ、ぅ……はぁ……は、ぁ……」

 オメガに覚醒して十四年。
 恋人に慰めてもらえた時期もあったが、特定の相手がいない時期はいつも一人で発情期を乗り越えてきた。それができていたはずだった。なのに、この要塞に来てから何かがおかしい。

 新薬を服用していたときは問題ないはずだった。重篤な副作用はあったが、自慰のみで乗り越えられないということはなかった。
 狂い始めたのは、事故的にシモンを重ねてしまったときからだろうか。
 重篤な副作用の心配のない市販薬へと切り替えてから、レオンスは一度として、まともな発情期を迎えられていない。予定外にヒートを起こして緊急薬を打ったときは、涙で顔を汚しながら自慰で乗り越えた。あのときは、まだ何とかなっていたはずだ。

 しかし、あの予定外が起きて以降、周期は乱れ続けているし、先日の発情期にはシモンに強制的に抱かれた。一人で慰めることで発情期を乗り越えてきた日がもう遠い昔のようだった。

(……ああ、もう……くそ……っ)

 レオンスは力の入らぬ体を起こして、サイドチェストの一番下の引き出しに入れていた手巾を取り出した。そして、よろめきながらも部屋の扉に近づく。ほんの僅か扉を開けて、手巾を扉と壁の間に挟んでから、また扉を閉めた。
 それは、レオンスがアメデでもオーレリーでもなく——シモンに助けを求める合図であった。

 一人で慰めることが難しくなっているレオンスが、どうしようもなくなったら手巾を扉に挟んでおく。それをシモンが確認したら、都合をつけてレオンスの部屋を訪れる。
 それが先日——上官命令として抱かれた日から半月後、シモンが愛馬のテネブルと駆ける姿を再び見せてくれたあの日に、シモンとレオンスの間で交わされた約束だった。

 先の発情期、レオンスは上官命令を受けてシモンに抱かれた。強制的ではあったが、無理やりとは言い難く、ある種の合意のもとではあった。しかし、レオンスにとっては恋仲ではない相手との行為をするという苦しい時間でもあった。

 今回と同じように、予想していた周期とは関係なく発情した体。
 あの日はすぐさま自室に帰るはずだったのに、シモンと鉢合わせてしまったのが運の尽きであった。付き添ってくれていたベータの兵士が、アルファかつ隊長であるシモンから放たれた威圧に耐えられるはずもなく、発情したレオンスはシモンに絡めとられて、自分の部屋ではなくシモンの部屋へと放り込まれたのだ。
 森の匂いに抱かれながら一日中、監禁状態のままで自身を慰めることとなったレオンスが、シモンに抱かれたのは発情二日目のこと。上官命令と言われて、逆らえなかった。

 ——いや、そうではなく『命令』という形で合意させてもらえただけであり、レオンスの体は命じられる前から、シモンを求めて止まなかった。

 だからこそ、苦しかった。
 彼はレオンスの快楽を一つも余すところなく引きずり出し、丁寧に、時間をかけて、レオンスの体を慰めた。発情したオメガが快楽の海に溺れ、陥落することなど容易かった。それでも一番最初に起こした『事故』のときよりは理性が残り切っていた。そして、そのことがさらにレオンスを苦しめた。
 頭では「相愛ではない相手と交わっている」と理解しながら、体は「気持ちいい」と満ちていく。そのちぐはぐな状態で三日ほど過ごした。

 隊長という肩書を持つシモンだ。三日すべての時間をレオンスに費やしたわけではない。
 彼はレオンスを抱きつつも、合間合間で続き部屋となっている執務室へと足を運んで、部下へと指示を出していた。ベッドの上では壮絶な色気を振り撒いているアルファが、執務室へ行くときと、そこから戻って来るときには情交の欠片も見せなかった。まるで私室に、痴態を晒しながら煩悶しているレオンスなどいないような様相であった。
 そして、再びレオンスを組み敷くときにはレオンスを食い尽くす雄の顔となっていた。

 あれから、誰からもシモンとレオンスの関係について訊かれたことはない。
 当たり前だ。面と向かって「隊長に抱かれたんですよね?」なんて節度ない質問など誰もしてこない。ただ、レオンスのいないところで噂は立っているだろうとは思っていた。発情期中、レオンスがどこにいるかは、少なくとも支援班の班長であるジャンには伝わっていただろうし、よく行動を共にするアメデとオーレリーには共有くらいはされているはずだ。
 急なヒートを起こしたレオンスは、シモンの私室にいる、と。

 レオンスは、そのことを深く考えないようにした。
 考えてしまえばしまうほど、同僚と自然に接することが難しくなりそうだったし、事実がどうであれ「フリーのオメガが、フリーの者と情を交わす」ことはオメガに兵役が課された時点で軍のルールとして周知されている。そういうことなのだと思われたところで、規則的には何も問題はない。
 問題はないのだ。レオンスの心情以外は、何も——。

 そう、だから『納得して』三日を過ごした。
 その時にシモンと交わした約束が「一人で処理できないときは、自分を呼べ」ということだった。もう少し正しく言うのであれば「一人で処理することに固執するな」と言われた。それは、レオンスの頑固さを責め立てるものではなく、体調面での心配から来るものだとシモンは述べた。
 さらにレオンスの性格を鑑みてのことだろう。発情期を迎えたことは、ジャン伝手にシモンへと伝わるから、もしその間にどうしようもないと判断したときに手巾を扉に挟むようにと指示を受けた。

 手巾は、寒空の下、シモンから渡されたものだ。
 何の変哲もないただの手巾……ではなく、四方を濃い緑の線で縁取られていて、端には小さく鷲の紋章が描かれている。それがどのようなものかレオンスは訊ねなかったが、シモンにとってそれなりに価値のあるものであることは察していた。

 そしてレオンスは、あの日から僅か一ヶ月と少しのこの日、恥を忍んで手巾を扉に挟んだのだ。

(家族のためだ……。このくらい、なんてことない。これは上官命令だ。だから——)

 シモンのことを嫌いではない。
 互いに相性が良いのはわかっている。重ねた肌の熱さが物語っている。

 シモンにパートナーはいない。
 それは秋が始まった頃に起きたヒート事故のあと、温かな葡萄酒を味わった夜に確認したとおりだ。いくら事故とは言え、誰かの相手と寝たとなればレオンスはどう詫びたらいいかわからなかったので、それに関しては胸を撫で下ろした。

 一つの部隊を任された優秀な指揮官であり、誰もが羨む体躯と美貌を持ったシモン。彼が単身者であることにレオンスは驚いたが、もしかしたら硬質な軍人である彼はそのような道をとったのかもしれないな、とも思った。
 つまり、未練となるようなものを自ら作らない人生を選んだのではないかと。

(いや……シモン隊長のことは、あまり考えないようにしよう……。これは任務だ、任務。そう思わないと……)

 シモンと肌を重ねるのは、レオンスに課せられた任務だからだ。
 不安定な発情期と、熱を冷ます効果を失いつつある抑制剤。一人で自分の始末すらつけれぬ哀れなオメガが、兵としてこの地で与えられた仕事を全うできるために、しなければならない任務だ。それ以上の感情を生むわけにはいかない。

 レオンスは、持て余した熱を少しでも冷ましてしまおうと、息をひそめながら濡れた性器と後孔を再び慰めながら、時を待ち続けた。

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