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第三章
65. 与えられた選択肢
しおりを挟む「レオンスは、馬に乗ってみたいと思うことはないのか?」
「うーん、どうでしょう。興味がないといったら噓になりますけど、想像したこともなかったです」
話題を変えながら、シモンは立ち上がって大人しくしていたテネブルの首を撫でた。
ようやく自分のことに気づいたか、とテネブルはふんふんと鼻息を荒くする。せっかく馬術場に来たというのに、構ってくれない主への細やかな抗議だ。
「自分が馬に乗るよりは、シモン隊長がテネブルと一緒に駆けていく姿を見ていたいなって思います。自分が馬に乗って戦えるとも思えませんし」
「レオンスは器用そうだから、馬にもすぐ乗れそうだがな」
「だといいんですけど。でも……こうして、綺麗な光景を見ているほうが、俺には合っている気がします」
ならば……と、シモンは再び柵の内側へと向かった。またテネブルに乗るのだろう。
レオンスは、馬術場内へと戻ったシモンへ柵越しに牧草の入った袋を渡す。シモンはそこから牧草を取り出して、手のひらに乗せ、テネブルに与えていた。テネブルはシモンの手を傷つけないように、唇で器用に草を寄せて食んでいく。
「レオンス」
話に意識が向きすぎて、せっかく用意してくれていた飲み物を供するのを忘れたな……とレオンスが思っていると名前を呼ばれた。何か渡しそびれたものがあっただろうか、と首を傾げると、シモンは僅かに眉を寄せて述べた。
「聞きたくないことを言うが……先日のことだ」
シモンが言う『先日』のことをレオンスは違わずに理解した。——約半月ほど前の発情期のことだ。
テネブルの馬具の確認を確認しながら、シモンは訊ねた。
「あのとき、君は一人で熱を発散することはかなり難しかった。もし私が声をかけなければ、今頃は相応の不調をきたしていた。——違うか?」
「それは……」
レオンスは答えられずに黙りこんだ。
シモンの言うとおりだった。
(そうだけど……そのとおりだけど。だからって、なんで今、その話を?)
あの発情期は、一人で発散することが難しかった。丸一日、自分で自分を慰め続けても体の熱は収まらず、それどころか飢餓感に苦しんで体の不調も出始めていた。そうなったときに、シモンがなおも抗うレオンスを諫めて、彼と体を交えることを命じたのだ。
そんなことは改めて訊かずとも、シモンが一番よく知っているはずだ。
知っていて、それをわざわざ改めて明言して、何をしようというのか。
己の体調管理もままならないレオンスへの叱咤か。
それとも、呆れた上での処罰か。謹慎か。
厳格な彼が厭味を言うような男ではないことはわかっているが、もしかしたらその手のことを言われるのだろうか。
そう思って、レオンスは何か言い返そうとして……けれど何も言えずにいた。
紡がれる言葉がなんであっても、受け止めなければいけない気がしたのだ。
「これは言うまでもないことだが……アルファもそうだが、オメガもまた、そのすべてが解き明かされたわけではない。特殊なことや想定していないことはいくらでも起こりえる。このような戦時下であれば尚更だ。それこそ、君の想像を飛び越えてしまうことだってあるだろう。そして、それに揺さぶられるがままに翻弄されて、己を見失うのは決して褒められた対応ではない」
言葉を返さないレオンスをそのままに、シモン話を続けながら、さっと愛馬に跨った。もともと高い位置にあった男の視線は、さらに高い位置へと移動する。威厳のある深緑の瞳がレオンスを静かに見下ろしていた。
「だから——今度発情期が来たときに、再び一人での対処が難しくなったら、迷わず私を呼べ。他の者ではなく、私を」
「……え」
思いもよらない発言に、レオンスは目を丸くした。
見上げている先にいるシモンは冗談を言っているわけでも、レオンスを揶揄っているわけでもなく、ただただ、レオンスを見ていた。
「と……突然、何を言ってるんですか……。冗談、ですよね?」
やっとの思いでついて出たのは困惑の言葉。
シモンを呼べということはつまり、相手になる、という申し出だろう。男が言うところの内容は理解している。けれど、それを今、なぜここで話したのかがわからない。冗談でも揶揄いでもないことは、シモンの目を見ればわかったが、それでも「冗談であってほしい」という思いを言葉に宿して聞き返すほかなかった。
しかし、レオンスのその思いは脆くも打ち砕かれる。
「真面目に言っているんだ。無論、一人で熱を冷ませるのであれば、それでいい。誰かに頼る必要がなかったことを共に喜ぼう。だがもし万が一、一人では耐え難い状況になったとき、君はどうするんだ」
「そうだとしても、一人で……」
何とかする——そう紡ごうとした言葉は、シモンの一言によって打ち消された。
「固執するな、レオンス」
馬上の男は、なおもレオンスを見下ろしていた。
硬質な声色はレオンスが俯くことを許さない。ゆえに、多くの兵を束ねる男の姿を薄水色の目でしっかりと捉えていた。
「君の心情は理解できるが、どうにもならないことはある。先ほども言ったが、オメガの性に翻弄されて己の体を粗末にするのは賢い選択ではない。それとも君は無理やりにでも本能に抗い続けて、わざと心身を壊したいのか?」
「それは……。そうでは、ないですけど……」
シモンが言わんとしていることはわかる。
止めれぬ本能に理性と根性で抗い続ける危険性については、軍医のクロードにも説かれたばかりだ。第二の性についてはどの性であっても、まだすべてを解明できたとは言われていない。未知なこともあれば、過去の例に無いことが起きることも珍しくはない。そういった事象や症例は頻繁ではないとはいえ、必ず起きないとも言い切れない。
下手を打てば心身に支障をきたすし、それを回復することも難しい可能性すらあることは、レオンスも重々承知している。承知はしているが、まだ心がついていかない。だから曖昧な回答しかできなくなっている。
好き好んで自分を壊したくはない。心も、体も。
でも、だからといって想いを通わせていない相手とのセックスもしたくない。完全に八方塞がりなのだ。
「ならば、君の選択肢を一つ増やすだけだと思えばいい。いや、こう言ったほうが君には効き目があるか——選択肢を増やすことを君の上官として命じる。これは願いではなく命令だ。この意味はわかるな?」
言っている意味はわかる。
心身に影響があるほどに『こだわり』に固執するなということだ。
そして、固執することを禁じるということだ。
「……」
「レオンス?」
ぷつり、とレオンスの中で何かが千切れた。
——どちらであっても同じことだと思った。
一人で乗り越えることに固執して体を蝕む熱に耐えることも、想いを通わせない相手と情を交わして心を傷つけることも、どちらも同じだ。そのどちらの道を選んでも、レオンスが望む平穏が訪れることはない。
だが、それでも——ボロボロになってでも、選ぶしかない。
「わかりました」
これは強要されたことではない。自分で選び取った道である。
そう自分に納得させなければ、レオンスは自分という存在が足元から崩れていきそうだった。オメガという性にも、自分以外の他者にも、レオンス自身を定義されたくない。それであれば、自分から選んで掴み取るしかないのだ。
一人で過ごすことが厳しい夜、この要塞の中で相手を選ばなければいけないのであれば、一度肌を重ねた相手のほうがいい。恋仲ではなくとも、少なくとも「嫌いではない」相手であったほうがいい。
レオンスは、腹を括って……括ったと自分に言い聞かせて、シモンに承諾の意を示した。
深緑の色を宿した双眸から漏れる鋭い光と、薄い氷の色を宿した双眸から放たれる冷え冷えとした光がぶつかる。
視線は宙に溶けて、冬の空気へと溶けた。
シモンは、ふぅ……と小さく息を吐いた。
「また馬に乗る姿を見せよう。今日は……君に酷なことを命じてしまったからな。これで『願い』を一つ叶えたというのは、些か図々しいだろう。今度は、ただそれだけの時間を作ろう。そうだな……雪が解ける頃に」
「わかりました。……ありがとうございます、シモン隊長」
これで、この話は終わりだと言わんばかりに、シモンはテネブルの腹を軽く蹴った。一対の黒が空気を裂いて、駆けていく。
あれほどのやりとりの後でも、レオンスの瞳に映る彼らの姿は、凛々しく、雄大で、美しかった。
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