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第三章
58. 匂いに浮かされる *
しおりを挟むレオンスは、狭いベッドの上にいた。着衣のままではあるが顔は上気しており、吐く息が熱い。
薄暗がりの中、本来ならば一人で自身を慰めるはずだった。しかし今、その体を組み敷いている男がいる。細い両腕は、逞しい腕に——それもたったの片腕だけでまとめて拘束され、頭上に縫い留められている。辛うじて両足は自由だが、それも馬乗りになる男が器用に腰を挟み込んでいるので動かしにくい。バタバタと足を動かしてはいるが、そのたびに下半身に集まる熱が疼くので、思うように動かせなかった。
「シモン、隊長……! 部屋に……っ。俺の部屋に、返してくださいっ」
レオンスが連れてこられたのは、二階にあるレオンスの自室ではなく要塞の最上階にあるシモンの執務室だ。
隊長の座にいる者は、多くの兵士と異なり個室を与えられていた。それはそれぞれの執務室から横続きになっており、緊急時にはすぐに作戦確認や指示を出すことができるようになっている。そのシモンの自室にある一人用のベッドの上に、レオンスとシモンは二人で沈んでいた。
目の前の男に抱きつきたくなる衝動に、レオンスは必死に堪えていた。
抗えない本能に無理やりに抵抗するように、指をぎゅっと握り締めて手のひらに爪を立てる。小さな痛みがレオンスに理性を僅かに戻してくれていた。そうでもしないと、はしたない要求を発してしまいそうだった。
ギラリと鋭い光を宿してレオンスを見下ろすシモンの瞳が怖い。
「お願いしますっ、シモン隊長! きっと今、隊長は冷静じゃないです……! 俺の発情をきっかけに、暴走しかけてますっ。だから……!」
シモンから発せされる威圧感に、レオンスは震えながらも声を上げる。弱いオメガがアルファに抵抗するのは容易ではない。まして威圧をしてくるアルファ相手ならば、指一本すらまともに動かせないのが普通であった。
威圧をするアルファは恐ろしい。レオンスも、今のシモンは恐ろしかった。
だが「自分のため」と「相手のため」にも、ここで屈するわけにはいかないと、歯の根が合わなくとも必死に声を出した。
この前のような事故が起きる前に、早く離れたい。
早くしなければ、理性が焼き切れてしまいそうだ。
けれど、シモンは無情にも言葉を返した。
「ラットは起こしていない。私は冷静だ」
「それじゃ……なぜ……」
このようにレオンスを組み敷いている意味は——。
戸惑いの目を向けるレオンスに、シモンは熱に浮かされているわけではないとわかる厳しい声色で言った。
「こんな状態の君を自室には帰せない。前みたいな事故があっては困る」
「なっ……! きちんと鍵をかけます……! なんなら、外側から部屋を閉じてもらっても構いませんっ」
「ダメだ。それは許可できない」
「っ……」
威圧的な声を上げられ、レオンスは身を竦めた。
シモンからは決して逃すまい、否を言わすまいという空気が発せられ、ビリビリとレオンスの肌を刺した。
「私の部屋にいろ。それが理解できなければ、この手は離せない」
「で、でも……」
シモンの言うように、たしかにまたヒート事故が起きるのは困る。レオンスとしても部隊としても、望まぬ者同士で情を交わすのは何かと都合が悪い。
でもだからといって、シモンの部屋に匿われる意味はわからない。
レオンスは返事しあぐねていた。掴まれている手首が熱い。細い体に負担をかけまいと配慮をしながらも、体を動かせぬように跨る男の太腿が密着していた。そこから他者の体温が伝わってくる。このままだと、兆し始めている自身がシモンに伝わってしまいそうだ。
「レオンス」
「わか、り、ました……。わかったから、早く一人にしてください……お願い、します……」
「……わかった。つらくなったら呼んでくれ。私は隣の執務室にいる」
名前を呼ぶ声が、威圧的なものではなく懇願するような色をのせていた。
なぜ? という疑問が浮かぶが、それよりも切羽詰まっている自分の状況を何とかしなければという思いが勝った。
レオンスは渋々ながらも男の部屋に留まることを了承した。
熱い手が離れていき、かけられていた重さが消える。執務室へと続く扉がパタリと閉められ、部屋にはレオンス一人きりとなった。
シモンの部屋は、彼の匂いに満ちていた。
その中で、レオンスは声を噛み殺しながら自身の性器を慰めていた。張り詰めた陰茎を扱き、先走りの蜜を指先を濡らしていく。
なぜ属する隊の指揮官の部屋で一人、こんな淫らな行為に耽っているのか。
その疑問がずっと頭の中でぐるぐると回っている。けれど本格的に発情期を迎えた体は、慰めるほかに熱を冷ます術がない。
思えば、シモンの行動は独占欲の強いアルファが自分の領域にオメガを囲い込む行動そのものであった。
レオンスとシモンは番どころか恋人ですらない。しかし不幸な事故とはいえ一度、肌を重ねた仲である。それによってシモンの箍が外れてしまっている可能性はあった。本能的に好ましいと思うオメガを、自分のもののしたいというアルファらしい支配欲と独占欲が、行動として現れたのだろう。
やろうと思えば無理やりに抱けるのに、彼はレオンスを自室に閉じ込めることだけに留めた。ラットを起こしてはいないと言ったシモンだが、十分にレオンスにあてられていたと思う。それでも、レオンスを一種の監禁状態にする程度で済ませてもらえたのは、御の字なのかもしれない。
そこまで考えて、そうなのであれば、もはやシモンを信じるしかないとレオンスは腹をくくった。それに閉じ込められた先……隣の部屋にアルファのシモンがいる今の状況で、扉を開けるのは自殺行為だ。
レオンスは本格的にヒートに突入した。もはや、発情期が落ち着くのをこの部屋で待ち続けるしかないだろう。
「…………ぅ、っ」
だからレオンスは、シモンの部屋で自慰を繰り返している。
彼の匂いに囲まれて。
彼がいた痕跡を感じて。
けれど——。
(……くっ! こんなの……まるで、生殺しだ)
シモンの匂いが染みついた部屋で、彼が今朝まで寝ていたであろうベッドで耽る行為はレオンスに苦しみを与えていた。
彼の匂いは、発情期を迎えたレオンスには毒にも等しいほどに、体の奥まで入り込んでくる。森にいるときのような安心感と同時に、その森の主がいないことに対する渇望感。
——ああ。このアルファが欲しい。
体がそう望んでいることをレオンスは感じ取っていた。
理性はまだ手放していない。体の奥はざわざわと煩いが、本能に流されるがままに他者に抱かれようという行動を起こすほどには至っていない。でも、体はひどく飢えていて、渇いていて、満たされないと叫び続けていた。
シモンの匂い……彼のフェロモンが、レオンスを狂わそうとしてくるのだ。そのフェロモンの匂いに満ちた彼の部屋で、一人で慰め続ける意味をシモンはわかっているのだろうか。
(くそ、あのアルファめ……)
心の中だけで悪態をつく。けれど、頭にあの男を浮かべれば、体はぴくんっと悦ぶように反応してしまう。それが嫌でどうしようもないのに、そうするしかなかった。せめて頭の中だけでもシモンを罵らなければ、淫乱極まりないオメガとして堕ちてしまいそうだった。
何時間も、自分で自身を慰めて、弄って、落ち着けと白濁を吐き出し続ける。
それでも本当に欲しいものはここにはない。いや、扉一枚を隔てた先に、望んでいるものがいる。だったら、その手を伸ばしてしまえ。
理性を本能が叩き壊そうとするのを、レオンスは唇を噛み締めて堪え続けていた。
陰茎から放った白濁は、見慣れぬベッドを汚している。いつしか手を伸ばした後孔からも淫液が溢れ、太腿を伝う。三本の指を飲み込んでもなお、はくはくと動いている淫猥で浅ましい孔。
自室でないため、ここに使い慣れた性具はない。だからレオンスが、その身一つでこの熱を発散しなければならなかった。それがどんなに惨めで苦しいことなのか………あのアルファは知らない。
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