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第三章
57. 威圧
しおりを挟む「オメガはやっぱり大変だな」
大柄で長身のロワイエは、歩調をレオンスに合わせながら歩いていた。
以前、風邪からくる体調不良で倒れたレオンスを運んでくれたベータの兵士だ。彼は徴兵された一般市民ではなく、もともと軍人であり、主に通信と畜舎関係の任務にあたっている。班長のジャンや、物資管理の責任者であるバジルと並んで支援班では不可欠な人員だ。
支援班の面々は、三人のオメガと分け隔てない態度で接してくれる。
彼が「大変だな」と声をかけてきたのも、げんなりした様子ではなく、レオンスを気にかけてくれたものだった。
「あー……ははは、まぁね。でも本当に大変なのは、こういう俺たちに巻き込まれてるみんなだと思う。本当に役に立ててるのかって自分でも思うし。まったく……これじゃあ、な」
「まあ、そう言うなって。それに有事のときは、どこも手が足りないんだ。レオンスたちがいてくれて、俺はかなり助かってるよ」
慰めの言葉を向けられて、レオンスは眉を下げながらも笑顔を返した。
予定外のことが立て続けに起きていて、気持ちが不安定になっている。だから、気を遣わせるようなことを言ってしまったのだ。こういう態度はよくない。承認欲求を満たしたいだけだということに気づいて、レオンスは話題を変えた。
自室までは、まだ少しかかりそうだ。
「そういえばさ、明日か明後日の夕食、良いものが出るかもよ」
「お、もしかして良い肉が出るとかか? レオンスたち、物資管理してるから、そういうの目敏そうだよな」
「目敏いって……まあ、いいけど。そうそう、ロワイエの言うとおり、良い肉が入ったんだ。きっと早ければ明日あたりに厨房からいい匂いがすると思う」
「そりゃ楽しみだ」
要塞での娯楽は少ない。
誰かが持ち込んだカードゲームを飽くまでやるか、馬や家畜と触れ合うか、他愛のないおしゃべりを楽しむか、あるいは男同士で割り切って熱を発散するか。ただし、合意のない性行為は罰則が課されるが。
レオンスもここに来た当初はそういった誘いを受けたことがある。無論、その気がないレオンスは丁重に断ったし、誘ってきた兵も無理強いはしなかった。
それ以外で兵士たちの楽しみになっているのが食事だ。しかし時期によっては食糧事情が良くないため、毎日毎食で心躍る食事を提供できるわけではなかった。
レオンスが話題に挙げたのは、つい二日前に着いた物資の内容だ。
そこには珍しく上等な肉が入っていて、それを厨房に伝えに行くと「今週末はご馳走だな!」と張り切っていた。戦地に何も起きない、心休まる休暇となるような『週末らしい週末』はないのだが、日にち感覚を忘れないようにと一週間の終わりには少しだけ豪華な食事が用意される。今週の終わりとなる明日か明後日には、その上等な肉を使った食事が並ぶことだろう。
そんな他愛もない会話をしながら自室に向かっていたときだった。
「……レオンス?」
「……シモン隊長……?」
まずいと思った。
レオンスとロワイエはなんてことはない雑談に花を咲かせてしまっていたので、シモンが階段を上ってきていることにも、あの安堵するような匂いが近づいていることにも気づかなかったのだ。
よく考えれば、ここに来るまでの間、アルファに誰も出会わなかったのは奇跡に近い。
たまたま要塞の中から出払っている者が多かったことや、通り過ぎた作業部屋の扉が閉まっていたこともある。だが、用心するのであればロワイエがきちんと周囲を警戒して、慎重に歩みを進めなければならなかった。それを怠ってしまったのは、憂鬱な気分を晴らしたくてロワイエに話を振ってしまったレオンスの気鬱さと、そんなレオンスを励ましたかったロワイエの優しさによるものと言えよう。
今さら反省したところで、この事態を無かったことにはできない。
通信室がある三階からレオンスの部屋がある二階まで階段を下りているときに、シモンは反対に階段を上ってきていた。そして、踊り場を曲がろうとしたところで半階ほど下にいるシモンに声をかけられたのだ。
「シモン隊長……! すみません、離れてもらえますか……っ」
レオンスは咄嗟に叫んだ。
相手を視認したからか、唐突に近くに感じる彼の匂いに全身がざわめく。
しんと静まり返った森の奥にいるような、落ち着く匂い——シモンが持つフェロモンの香りだ。
そして、それに呼応するようにしてレオンスのうちに燻っていた熱が高まっていくのを感じた。同時に、レオンスから清々しい薄荷に似た匂いが漏れ出た。レオンスの隣にいたロワイエにはわからない、オメガがアルファを誘惑する匂いだ。
「レオンス? ……まさか、ヒートか?」
「っ、はい……。ぁ……ふぅ、っ……」
「あっ。おい……!」
ガクン、と体の力が抜ける。発情期間近の体はアルファのフェロモンに容易くあてられて、ヒートが加速していく。倦怠感と体の火照りが一気に増して、レオンスはその場に頽れてしまった。
突然床に膝をついたレオンスに、ロワイエも慌ててしゃがみ込む。しかし発情期間近と伝えている手前、ロワイエがレオンスに触れることはない。オメガと共にいる時間が多い支援班の面々には、発情期が近いオメガには許可がないうちには触れないでほしいと、レオンスたちが伝えていたのだ。その願いをロワイエはきっちりと守ってくれていた。
大柄な体躯に似つかわしくないおろおろとした態度で、ロワイエはレオンスを支えようか迷っていた。
コツ、コツと足音が近づいてくる。ロワイエがはっと顔を上げると、階下にいたはずのシモンが一歩、また一歩と階段を上ってきていた。
「シモン隊長、待ってください。レオンスに近づくのはまずいです!」
シモンはアルファだ。
ヒートを起こしかけているレオンスに、アルファの彼が近づくのはまずいと、ロワイエはレオンスを庇うように立ち上がった。蹲ってしまったレオンスも心配だが、それよりも彼の安全のためにも、まずやるべきはアルファを近づけないことだとロワイエはわかっていたのだ。
しかし——。
「……そこを退け」
「っ……」
真正面から向けられた威圧に、ロワイエは硬直した。
指一本動かすことが許されないという威圧感に、冷や汗が流れる。
でも……という言葉すら発することができず、ロワイエはただただ、近づいてくる美丈夫を見続けた。
「大丈夫だ、彼に無体は働かない。私が運ぶから、君は持ち場に戻って構わない」
「ですが……」
「戻れと言っている。いいな?」
ロワイエは、大きな体をビクリと震わせた。
案じるような目でレオンスを一瞥したが、シモンが放つ威圧感に耐えられなかったのだろう。「はい……っ!」と悲鳴混じりの返事をしたあとに、せっかく下りた階段を一段飛ばしで上っていってしまった。
二階と三階を繋ぐ階段の踊り場。
そこに残されたのは、アルファのシモンと、ヒートを起こしかけているレオンスの二人だけ。
「……ぁ、っ……」
レオンスもまた、シモンが放つ雰囲気に圧倒されている。指先は震え、足も立ちそうにない。
しかし圧倒されているだけではなく、心のうちでは小さな喜びを感じていた。
——このアルファは、自分を欲している。
だからこそ、まずいと思った。
今すぐここを離れなければ、このアルファに食い尽くされる。
そう理性では理解しているのに、体が彼に縫い留められたように動けない。本能が語りかけてくる。
動けずに蹲るレオンスに、シモンは躊躇なく触れた。
戦地で剣を振るうための腕を、レオンスの背中と膝下に回して、ひょいと細身の体をいとも簡単に持ち上げてしまう。横抱きにされたレオンスは一瞬何が起きたかわからなかった。
しかし顔を上へやれば、シモンの顔が近くて目を瞠る。威圧する瞳は、レオンスを逃すまいと捉えていた。
「シモン隊長っ……俺、一人で戻れます! だから、降ろして……っ」
「立てないのに、どう戻る? 強がりはいい」
なんとか言葉を紡ぐ。けれど、降ろしてほしいという言葉は飲み込まざるを得なかった。
動くことを許されない体は、そのままシモンの腕に体重を預けていた。本能がそうしたいと、レオンスに抗う術を与えてくれない。男らしい首元から香る森の匂い。抗えない圧倒的な空気に、オメガのレオンスができることなどない。
ただ、その腕に、胸に、体に触れたい。そして、この男に組み敷かれたいと、秘めた熱が迸っていく。
逃げなければ。——でも、どこへ?
逃げる必要なんてない。目の前の雄を喰らえ。
頭の中がぐちゃぐちゃになっていく……。
本格的な発情は、すぐそこに迫っていた。
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