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第二章

38. 本能 *

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 入ったときに感じた重みが、両腕にずしっと伸し掛かる。
 この部屋に入ったときにも感じた、オメガの情けなさを象徴するかのような分厚く冷たい鉄扉。その忌々しい扉を、レオンスは自らの手で開けてしまったのだ。

 ギィ……と、鉄扉が鳴る。
 重い扉が奏でる音は、その冷たさに反してまるで希望のようにも感じて、レオンスは息を荒くしながら廊下へ転げるように出た。と、レオンスの鼻孔に心地の良い匂いがふわりと届く。

 周囲には誰もいないはずなのに。その匂いだけは、やけにレオンスにしっかりと届いて体の疼きをいっそう高めていく。
 この半年あまりで何度も嗅いだ、あの深い森林にいるような落ち着く匂い。その匂いが、レオンスのオメガの性を暴こうとしていた。

「…………レオンス?」

 遠くから、誰かの声が聞こえた。
 溶け始めた頭ではよくわからないが、おそらくアメデだ。心配げな声が届く。しかしそれよりもなによりも、レオンスはをもっと近くで感じたくて。石壁に手をつき、欲に浮かされた体を支えながら、ふらりと足を進めた。まるで何かに囚われているかのように、自然と動いてしまっていた。 

「ちょっと、待って! レオンス、そこから動いちゃダメだ……!」

 焦る声。ダメだと制する言葉に、僅かな理性が警告を鳴らす。けれど足は止まらない。
 すでに何度も達した体は思うように力が入らなかった。だから一歩一歩はとても遅くて、のそりのそりと石壁を伝ってレオンスは歩いた。
 理性がほとんど溶けかけていて、自分でも何をしているかわからなかった。

(……やだ……誰か、止めて……。いや……止めないでくれ……。もう、つらい……体が、熱い……欲しい……)

 隔離部屋を出たレオンスは、上こそシャツを着ているものの、下には何も身につけていない。
 いつものレオンスであれば……発情期であっても抑制剤を飲んでさえいれば、こんなはしたない格好で人前に出ることなどありえない。けれど、今のレオンスはまったく正常ではなかった。

 太腿からは幾筋も粘液が伝い、一歩足を進めるたびに下へと垂れた。体中が叫んでいる。

 ——あの匂いの主を、喰らいたいと。

「……あ……はぁ、っ……はぁ、はぁ…………う、ぅ……」
「レオンス! ダメ、待って!」

 駆け寄る足音。
 それは、一つではなかった。

「——隊長、ダメですっ‼︎」

 そう叫んだ声が聞こえたと同時にレオンスは、森林に迷い込んだように安心する匂いに包まれた。





 ゴウンッ、と鉄扉が閉まる音が響く。
 と同時にレオンスはベッドに沈んだ。

「た…………ぃ、ちょ……んっ」

 部屋を出たはずのレオンスをベッドに押し倒していたのは、シモン・ブラッスールその人だった。

 どうやって引き摺り込まれたのかは、わからない。
 ただ、ベッド上で押し倒され、深い口づけをされている。

 熱い舌がレオンスの舌を追い回す。
 厳しそうな軍人のどこに、こんな情熱的な一面が隠されているかと思うほど、濃厚で、快感のすべてを引き出そうとする口づけにレオンスは戸惑った。それでも理性よりもオメガの性が勝っていって、レオンスもまた吸いつく舌を舐め返す。

 なんでシモンが? とか、どうしてこうなっているのか? とか、そういった疑問はどろりと溶けてしまった。

 息継ぎのために離れようとする唇を、レオンスは夢中で追った。
 自分の息が止まりそうなほどに吸いついて、口内を余すところなく犯してほしくて、シモンの首に両手を回す。

「だ、め……もっと……」
「レオンス……っ」

 シモンは、まだどこか抗う気持ちがあるようだった。
 レオンスの唇を丸ごと食らいつくしそうな唇も、その中から伸ばされて絡めてくる舌も、互いの舌から繋がる唾液さえも。もう目の前の相手が欲しいと動いているのにも関わらず、その深緑の瞳にはかすかな理性が宿っている。彼が呼ぶ名前も、熱に浮かされているだけではなく、まだ「止めなければ」という必死さが滲む。

 けれど発情し、情欲に溺れたレオンスにとっては、その抵抗の色が邪魔だった。
 今までで一番近くで感じる、森林のような澄んだ香り。それがレオンスのすべてを刺激してくる。同じように、シモンも今、レオンスが放つフェロモンの匂いにぐらぐらに酔わされているはずだ。

「レオンス、っ……ダメだ、これでは……君が……!」

 言葉では必死に抗っている。だが、シモンの口づけは止まることなく、手はシャツの釦にかかり、ぷちぷちと外していた。
 はだけた素肌に、シモンの指が触れる。レオンスはそれだけで全身がビリビリと痺れた。

「あっ、あっ……は、んんっ……」

 自分では得られない、他人から与えられる快楽をレオンスの体はいとも簡単に拾った。
 乳首に触れるでもなく、ただ腹を撫でただけなのに。ただ二の腕に指を滑らせただけなのに。それだけなのに、レオンスは甘い声を上げた。
 先ほどまで、あんなに必死に声を殺していたのに、そこへ考えが及ばない。

 ほぼ理性を失ったレオンスも、まだ辛うじて理性を本能に明け渡していないシモンも、これはヒート事故だと頭では理解していた。よくある事故だ。発情したオメガのフェロモンに、アルファないしベータがあてられて済し崩し的に体を交わらせてしまうだけの……そういう不幸な事故。
 止めるならば、今しかない。

 レオンスはもう一人では止めることができなかった。理性の箍はとっくに外れてしまっている。だが、ギリギリの理性を保っているシモンがこの場を退けば、まだ間に合う。間に合うはずだった——。
 わかっているはずなのに、離れがたいというように体が互いを求めていた。互いのフェロモンが引き合って離さない。

「……いいんだ、な? ……後悔しても、知らんぞ……」
「しな、い……! だから……っ」

 シモンの確認は、最後の良心だ。
 今この状態のレオンスの——発情していて冷静でいない彼の合意を得たところで、後悔が生まれることは理解していた。
 だからこれは、シモンのただの自己満でしかない。レオンスが、この瞬間だけでも自分を受け入れたという事実を確認したかっただけだ。

 きっと後悔すると思いながらも、シモンは抗う心を引き留めていた手綱を、自らの意思で放した——。

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